哲学の探求
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個人研究発表
精神に境界線を引くこと,その不可能性を超えて
「精神科医の当事者研究」という試み
山田 悠至
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2022 年 2022 巻 49 号 p. 134-147

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精神に境界線を引くこと,その不可能性を超えて

―「精神科医の当事者研究」という試み―

山田悠至

研究目的

精神に境界線を引くことは如何なる意味において可能か,そして精神科医は何を拠り所として境界線を引くのか.この問いを社会,医学,科学の相互関係に着目し,探求することが本稿の目的である.そこで本稿では,「診断」という行為に着目する.どのようなマニュアルが精神科医の目の前にあったとしても,目の前の患者との直接的なコミュニケーションのもと,その患者自身に語ってもらい,その語りのなかの「現実」に近づこうとしなければ「診断」はできない.そして,そこではマニュアルのアルゴリズムでは掴み切れない重層的で流動的な「現実」が立ち上がるのであり,「診断」という営みを理解するには社会,医学,科学の交差点に身を置く精神科医自身が当事者として自らのあり方を研究(当事者研究)する必要がある.

そして,「診断」という営みが社会,医学,科学のどの立場からも単眼的,固定的に行うことができないこと,社会,医学,科学という異なる立場の間を行き来しつつ複眼的,流動的に営まれざるを得ないことを示す.さらに,精神科医がこうした複数の概念枠組みの間を行き来する「診断」の風景を「当事者研究」として描写することで,社会,医学,科学の周縁から各々の世界の構造を逆照射することが,本稿のもう一つの狙いである.

研究背景

診断は医業の本質である[55,3].患者を前にして,正常/異常,異常/精神障害,さらに精神障害の分類へと境界線を引くことで,混沌とした臨床症状を秩序体系へと組み込んで行く.また診断は治療の開始にも不可欠である.疾患過程の理解に根差した診断は,治療方針を定める基礎となる.そして診断は,患者個人,医療者,社会の間をつなぐ社会的行為であると同時に,その知見と経験が蓄積され,資源として機能する場でもある.しかし精神医学においてほとんどの精神障害は,その病的機序が解明されておらず,生物学的指標による診断が出来ないのが現状である.そのため,境界線を引く手掛かりも患者の身体的変化(徴候)に加えて,患者の主観的訴え(症状)が多くの部分を占める.そして,こうした症状は患者と精神科医の関係性や,精神科医の解釈により流動し得る不確実性を常に内包している.

アメリカ精神医学会が定めるDSM-Ⅲから現在のDSM-5に至る診断基準は,病因に関する理論的考察を棚上げにして,記述による分類を整備した上で病因研究を進めていく手続きを採用した[48,217]1.そのため,DSM-Ⅲ以降は精神障害に関する生物学的研究が急増した.しかし,その研究結果は分類の境界線が生物学的実態を全く捕捉できていないことを明らかにしただけでなく,方法論的な矛盾も露呈した.

まずDSM-Ⅲによる病因を無視した分類の破綻を見てみよう.当初DSM-Ⅲの開発者たちは,無理論的な体系とはいえ,概ね特定の分類カテゴリーには特定の薬物が反応するであろうと考えていた.しかし,実際には特定の分類カテゴリーと特定の薬物反応性の関連はほとんど証明されなかった[16,130-132].その結果,薬物反応性により精神障害のカテゴリーを確定し,その薬物の作用機序から逆算的に精神障害の生物学的基盤を探ろうとする試みは頓挫した.また疫学研究でも,精神障害の有病率が従来の想定より高いことが示され,診断がある時点での横断的症状のみに基づき,患者の背景や経過といった文脈を無視した結果,診断の偽陽性が多いことが指摘された[79].さらに分類カテゴリーと遺伝学的基盤も一致せず,むしろ異なる分類の精神障害が共通の遺伝学的基盤を持っていることが明らかになった[26,8].そして臨床現場では全く異なるカテゴリーの診断名が同時につく併存診断の問題も指摘された[78].DSM-Ⅲ以降の診断は,診断基準に横断的で表面的な症状項目しか含まず,患者の背景を時間経過に沿って縦断的に深く聴取することを放棄したため,妥当性が乏しいと批判された[74].

最新のDSM-5では[59],各精神障害は正常との間で連続体をなし,その連続性の中で境界値を設定することにより定義されるという立場への転換を試みている.現状の科学的証拠では各精神障害が,症状,遺伝的および環境的危険因子や神経基盤を共有しており,互いに関連する連続体上に配置されるのである.そのためDSM-5には人生のトラブルを引き起こすほとんど全ての問題が記載され,不品行に振舞えば素行障害,恥ずかしがり屋は社交不安障害で,ネット依存すら精神障害として扱われ,人口の約20%が1年間に1つ以上の精神障害の診断を受け,生涯では人口の50%以上が精神障害と診断される[76].これは大部分の精神障害に関する生物学的基盤が解明されていないことの証左であり,さらに大部分の精神障害に関する生物学的基盤自体が存在し得るかどうかも解明されていないことを物語っている.

こうした事態の背景には,DSM-Ⅲ以降の診断に関する方法論的脆弱性がある.つまり表面的な症状のみから精神障害Aを措定して,統計学的に精神障害Aと関連する病態Bを発見しても,その関連性はAと措定した障害にはBの特徴があり,Bの特徴があるものを障害Aと呼ぶという循環論法に陥っており,障害Aの病因解明には至らないのである.しかし障害Aという分類カテゴリーを対象として無数の生物学的研究が行われていると,まるでそこに「Aという疾患」が存在するかのような錯覚に陥る.「〇〇という症状が揃った時にAと呼ぶ」という診断上の約束事に過ぎない障害Aが想像上の実体を獲得する現象が起きているのであり,こうした事態を回避するには再度,精神科診断がどのような基盤の上に成立しているかを認識する必要がある.つまり現状の精神障害とは,その大部分が生物学的基盤を持たず,患者の主観的な訴えと患者に対する社会的評価の狭間で立ち上がる極めて脆弱で危うい基盤しか有しない現象なのである.

研究方法

精神科医は日々の臨床現場で,常に悩み,時に躊躇しつつも診断という営みを通して精神に境界線を引いていく.そこで,本稿では精神科医が科学的基準に加え,診断の妥当性を担保するために,非公式に用いる「了解概念」に着目し,その可能性とリスクについて考察する.そのため,診断時に精神科医が「了解概念」を用いて,何を考え,何を分析するかを明らかにするため,精神科医の「当事者研究」の手法を採用する.

哲学者の石原孝二によれば[4,66-67],当事者研究は,2001年に北海道の浦河べてるの家で始まった.浦河の地で行われていた当事者研究は,精神障害を持つ当事者自身が,自分たちが抱える問題を「研究」するというものだった.そして苦悩を自らのものとして引き受ける限りにおいて,人は誰もが当事者であり,当事者研究の可能性は誰に対しても開かれている.また当事者研究は専門知と対立するものではなく,専門知の成果を受け入れつつも,その意味を当事者の視点から捉え直し,ずらしていく手法を採る.当事者が自身の問題に言葉を与え,自己を再定義していく実践である.

精神障害とは何か

精神もその障害も,ともに実態は未知である.そして精神医学の標準的な教科書である『標準精神医学 第4版』(2009)によれば,精神医学の分野では正常か,異常か,に関する判断は社会的な事例性が生じる一部の場合を除いて,多くの場合は曖昧なまま判断が保留されている.そして病気の概念に関しても,①疾病(illness):本来の生理的機能の低下により,生存に不利な状態であり,「苦しんでいる」という事態に焦点を当てるため価値規範に基づく.②疾患(disease):特定の身体的・生物学的原因を有する状態,③症候群(syndrome):特定の身体的・生物学的原因が不明,または存在しない状態に加え,④障害(disorder)の用語が明確に区別されないまま混在し,使用されているのが現状である[50,6-9].こうした状況を踏まえ,ここではまず、その境界について,正常/異常/精神障害という分類をもとに考える.

正常とは何か

正常なものとは,与えられた条件内での規範的なものであり,たとえそれ自体が同一のままでも,条件が変われば,異常なものとなる可能性がある[15,160].その意味で,それ自体が正常な事実や,それ自体が異常な事実は存在せず,正常は環境との関係概念であって,存在概念ではない.そのため,正常はある種の表象不可能性を持ち[73,26],全体から異常を差し引いた残余としてしか定義できない[8,104].そこで強いて正常の識別基準を挙げるとすれば,それは常識性を有することであり,ここでの常識とは「人々の相互了解の場における実践的感覚がある種の規範化を被ったものであり,共通感覚が相互了解的に規範化されたもの」である[19, 39-49].そして規範化された共通感覚としては,平均規範と価値規範が挙げられる[40,24-26].平均規範は多数の人々の平均的なあり方に価値を見出す立場であり,価値規範は時代や社会ごとに人間のあり方の理想型を想定し,そのあり方に価値を見出す立場である.そして平均規範と価値規範という2つの規範概念は互いにもつれ合って正常を構成する[39,5].

こうした前提の下で,平均規範において平均的なものからの偏倚が異常であり,価値規範においては人間のあり方の理想型に背くものが異常となる[40,24-26].しかし規範化された共通感覚自体に普遍的な実体が存在しないことから,そこからの偏倚や不一致により規定される異常にも精神に関する限り普遍的な実体は存在しない.そして共に実体が存在しない正常と異常の境界線は流動的で状況依存的になるのである.

異常とは何か

異常は規則性からの逸脱として規定される有標記号であり,正常は全体から異常を差し引いて規定される特性のない無標記号である[8,104-105].しかし,精神に関する限り、その科学的規則性は未解明である.また,人間の精神を対象とした規則性を考察する場合,人間の精神に実体があるのかどうか,そして精神にそもそも規則性があるのかどうかという問題も生じる.そこで現状では,異常は「多数者正常の原則」に基づいて[19,24],常識性からの逸脱として状況依存的に規定される.ここで,常識性からの逸脱は一般的な社会通念における正の方向にも負の方向にも偏ったあり方として起こりうるため,「この基準に照らしてみれば聖者や大詩人も,異常という点では,情緒欠如型の犯罪者と全く同じ」なのである[40,24-26].このことから,異常であることは必ずしも精神障害を意味しないが、精神障害であることは異常を意味することが分かる[15,114].上記の例で言えば「聖者や大詩人」は異常ではあるものの必ずしも精神障害ではないのであり,「情緒欠如型の犯罪者」は精神障害であると同時に異常でもある.

精神障害とは何か

では精神障害の定義とは何か.それは,異常者の中で「自己の異常のために自ら苦しむか,あるいはその異常のために社会が煩わされる者」のことである[40,24-26].ここで異常と精神障害の境界確定には社会的評価が用いられる.そもそも精神障害とは「患者がもつ精神的苦悩であり,当人の自我と世界の関連の変化であり,対人関係の障害であり,行動の異常」である.そして「生活領域の出来事であるため,他の人々との係わり合いを離れては存在しない」のであり[10,4],必然的に社会的要因を含む概念と言える.では,こうした社会的評価を含む精神障害は生物学的基盤を持たず,社会的レッテルに過ぎないのであろうか.この問いへの回答は「精神障害は「本当に存在している」(real)し,かつ「社会によって構成されている」(a construct)」ということである[16,51-52].WHOによる2つの大規模な国際調査,IPSS(international pilot study of schizophrenia)(1979)とDOSMD(determinants of outcome of severe mental disorders)(1992)による統合失調症などの重度精神障害の「発症率はどの文化でもほぼ一定である」ことから[75][77],精神障害の指示対象は実在である一方で,その異常と精神障害の境界設定は社会によって構成される要素があると考えられる.生物学的側面と社会的側面が相互に影響を与えつつ,精神障害を形成しているのである.

精神障害の外延構造

正常と異常の境界線は平均規範と価値規範,つまりその時代や社会毎の常識性からの逸脱として確定されるため,正常と異常の間に客観的に示し得る量的な臨界点は存在しない.さらに異常と精神障害の境界線も,その異常者が自らの異常に苦しむ,または異常のために社会が煩わされる臨界点を客観的に確定することは不可能である.そして正常と異常の間も,異常と精神障害の間も連続的な関係性が保たれていると考えれば,正常と異常,そして異常と精神障害の間に明確な境界線が引けないことは連鎖式パラドクス(the sorites paradox)からも明らかである[43,117-118]2.

こうした正常,異常,精神障害の間の境界確定の限界についてはDSM-5でも認識されており,「正常と病理との境界は文化によって異なる.特定の症状または行動に対する許容度の閾値は,文化,社会的環境,家族によって異なる.従って,ある体験が問題のある,または病的とみなされる水準は異なり,文化的規範に依存する」と記されている[59,14].

精神障害の内包構造

精神の境界線には,正常,異常,精神障害を分ける境界線と,精神障害の内部を分類する境界線が存在する.ここでは,精神障害の内部を分類する境界線について考察する.

現代の国際的診断基準であるWHO(世界保健機関)のICD-11(国際疾病分類の第11回改訂版)もアメリカ精神医学会のDSM-5も「種」と「類型」の区別をせず,「種」と「類型」を包含する精神障害(mental disorder)の水準で分類体系をまとめている.そのため,明らかな疾患である「種」と疾患ではない「類型」が同じ水準で並ぶことになり,後者の「類型」があたかも独立した疾患(「種」)であるかのような錯覚を与えている[5,7][30].「種」は身体的原因が明らかな疾患であり,「類型」は身体的原因が不明で複数の症状が同時出現するという経験的事実から措定された症候群である.そして,この症候群は「一定の△△という症状が揃ったものを○○症候群とする」という人為的で暫定的な約束事(規約)であり,症候群が身体的原因を有する疾患(「種」)である保証は全くない.その意味で「類型」である症候群は一種の理念型であり,複雑な現実を整理し認識するために人為的に構成された観念的虚構である[31][33].そのため精神障害の身体的原因を明らかにすることが「診断」だとすれば,厳密な意味で「診断」が可能なのは「種」のみである.「類型」は,ある症例が理念型とどの程度近似しているかを症例毎に吟味するのであり,一定の基準や条件を項目として挙げ,これらの項目の一定程度を満たしたら理念型に類似していると判定する操作的「診断」がなされる.

そして「種」と「類型」を含む精神障害はA群,B群,C群の3群に分類できる[30].A群は「心の性質の偏り」であり,身体的原因が存在しないと考えられる「類型(症候群)」である.そのため正常心理と連続的に移行し得る領域であり,正常との差異は文化や時代などの社会的要因の影響を強く受け,相対的である.具体的には,人格障害,神経症性障害,適応障害などが含まれる.B群は「内因性精神病」であり,現時点で身体的原因が不明で「類型(症候群)」に留まるが,将来的には身体的原因が発見され「種(疾患)」になると想定されている.そのため正常心理の延長線上には生じ得ない領域と考えられる.しかし,現時点ではあくまで「類型(症候群)」であり,観念的虚構である.具体的には大うつ病性障害,双極性障害,統合失調症などが含まれる.C群は「身体的原因が明らかな精神病」であり,「種(疾患)」である.具体的には脳炎や脳外傷後遺症などの脳器質性・症候性・中毒性精神病が含まれる[48,79-81].ここで将来にわたって身体的原因の存在が想定されないA群を神経症圏,将来的には身体的原因の存在が想定されるB群と既に身体的原因が明らかなC群を精神病圏と分類する.

以上の分類に基づく診断についての重みづけは,「身体的原因が明らかな精神病」が最も重く,「内因性精神病」が次に重く,「心の性質の偏り」が最も軽いとされ,一つの症例について,到達した最も重い診断名を診断とする.これを階層原則という[32].

臨床現場における操作的診断基準、その必要性と限界

臨床現場で用いられるICD-11やDSM-5はこうした「種」と「類型」,そしてA群,B群,C群という区別をせず,全ての精神障害を共通の操作的診断基準で分類する.つまり各々の精神障害の操作的診断基準として,①必要な症状の数,②規定された持続時間,③他の精神障害からの除外規定が備えられている.例として大うつ病性障害の診断を挙げると,9つの症状項目(抑うつ気分,興味または喜びの減退,食欲減退か増加,不眠か過眠,精神運動焦燥や制止,易疲労感や意欲低下,自己の無価値観や罪責感,思考力や集中力低下,希死念慮)のうち5つ以上が存在し,それが2週間以上持続していなければならない,という症状基準と持続期間基準がある[59].また除外基準として,その状態が身体疾患で説明され得ないことも求められる.こうした基準により,9個の症状項目のうち4個しか症状が該当しない症例は大うつ病性障害と診断されない.また5個以上の症状項目に該当すれば,その項目数の多寡や,各症状項目の重症度によらず同一の診断名が与えられる.こうした症状項目に対して,4個と5個の間に境界を設定することの科学的根拠の乏しさが指摘されている[18,10-11].また症状の持続時間に関しても抑うつ状態が発生して13日しか経過しなければ大うつ病でなく,その翌日には大うつ病と診断することへの違和感がある.一方でこうした診断基準が必要な背景には,受診した患者を前にして処置を開始するか経過観察をするか,外来で治療するか入院で治療するか,入院の場合は任意入院か強制入院かという判断を精神科医は常に迫られる.こうした臨床現場における「あり」か「なし」という判断の明確な根拠として,症状項目や症状の持続期間で機械的に診断をする必要性が生じた[18,10-11].しかし,こうした操作的診断基準だけでは,妥当性を欠いた診断に陥ることがあるのも事実である.そこで,精神科医は診断基準には記載されていないが,非公式に「了解概念」を診断の補助的概念として用いることで診断の妥当性を担保している.

診断における妥当性と「了解概念」

妥当性のある診断とは,患者毎の特殊な文脈における「概念」や「カテゴリー」と「経験」との相互作用による帰結である[16,58].そのため,妥当性のある診断に至るには,患者に特有の文化的文脈を把握し,その文脈における患者の言動を分析する必要がある.そこでは患者に「感情移入」を行いながら[63,166-172],「何が患者の中で現実に起こっているのかを,ありありと思い描く」ことをする[63,167].こうした「了解」の営みは二段階から成る.まず,「静的了解」は患者の主観的症状,すなわち患者の心的現象の性質や状態をある時点で横断的に把握する営みであり,患者の自己描写などを手掛かりとして自分の心の中で患者の心的現象をありありと再現することになる.そして次の段階では「静的了解」で把握した患者の個々の心的現象間の連関を「感情移入」を通じて縦断的に吟味する「発生的了解」に移行する.ここでは「静的了解」で捉えた個々の心的要素が無理なく繋ぎ合わせることが可能かを吟味する[63,166-207].

「感情移入」という営みの背景として精神医学者のカール・ヤスパースは,患者の「主観的症状は,感覚器官によって観察することができるものではなく,他者の心の中に自分の心を移し入れる働きによってのみ,すなわち,感情移入によってのみ捉えることができる」と考えた[63,167-168].そして患者の個々の心的現象を繋ぎ合わせた「了解的連関の全体」が患者の人格を形成するのである.ここで個々の心的現象を連続的に無理なく繋ぎ合わせることができる場合は「了解可能」であり,たとえ精神障害を認める場合でも神経症圏に分類される.他方で「静的了解」で得た個々の心的現象を時間軸に沿って吟味し,どこかでその人の人格や体験とは結び付かない決定的な変化が生じ,連続性が切断されている場合は,ヤスパースの(発生的)「了解不可能」や精神医学者であるクルト・シュナイダーの「生活発展の意味連続性の切断」に該当する.この場合は,ある時点からその患者の人格にとっては全く異質で新たな(精神病性の)変化が生じており,この変化は正常,異常,神経症圏(A群)と続く連続的な変化の延長としては「了解不可能」であり,身体的変化を伴う精神病圏(B群,C群)の領域に至っていると考えられる.そして,こうした病的過程は「了解」では捉えられず,身体的・生物学的変化により「説明」されるべきと考えられた.ここで,C群は既に身体的原因が明らかな精神病であるが,B群の内因性精神病も現時点では未解明なだけで身体的原因を有するとの仮定に基づいている[46][56][69].

精神科医の豊嶋良一によれば[47],「了解」という手法の背景には以下の前提がある.つまり,「体験」が人間存在に直接与えられている根源的現実であり,この各自の「体験」における「意味連続性」は各自が直観的に「自己了解」している.この自身の体験の「自己了解」が他者の「体験」を「了解」する営みの根底にある.そのため他者の「体験」は「自己了解」に準じて「了解」され,患者の「体験」をあたかも自分が「体験」したかのように「追体験」して,「感情移入」的に相手の「心の動き全体」の「意味連関」を理解出来るのである.この指摘は,そのまま「了解」という手法の限界を提示している.それは第一に,「了解」という手法は了解を試みる精神科医の了解能力により制限を受ける.精神科医が患者に「感情移入」を試みても,精神科医が直接的あるいは間接的に体験したことのある意識過程からの類推によってしか患者の心的体験を捉えることはできない.精神科医自身が体験したことのない心的事象をありありと思い浮かべることは極めて困難なのである.そして第二に,精神科医が捉えた了解内容と患者の心的体験が完全に一致することは現実的にはあり得ない[63,176].こうした方法論的脆弱性を認識していたヤスパースは,精神科医は「医師である自分自身の心理を意識的反省の対象としておかなければならない」のであり,「哲学者たることを避けることはできない」と述べたが[67,20],客観的根拠を重視する現代の精神医学からは「了解概念」は積極的に排除されてきた[30].そのため今日の精神医学は「感情移入」することを表面的には避け,徹底した症状の観察に基づき診断を試みる操作的診断基準を採用している.こうした現状を文学者でもあり精神医学者でもあるアンドレアセンは,DSMが臨床精神医学から人間性を奪ったと嘆き,「現象学の死」と呼んだ[74].

了解可能な自己物語

「了解可能」な症状とは,「患者の認識であり,経験であり,表現であり,症状に対処するパターン」を指す,そして「精神医学的な診断とは,ある個人の経験に対する一つの「解釈」」であり[28,13-14],「患者が経験している症状をある特定の精神障害の徴候として再解釈する記号論的行為」なのである[28,14-15].ここでは精神症状だけを減弱しても精神障害の原因に対する解決にはならない.臨床現場で陥りがちな誤りは,そうした精神症状が精神障害の本態だと考え,表面的な症状の減弱を治療と考えることである[18,94].ここでの精神症状は「不都合な事態に対して,生体が示す自己防衛的で合理的な反応」なのである.そのため,「症状の背後にどんな病的な心の動きがあるのかを突き止める必要がある.それは患者が周囲の世界に対してどういう生き方をしてきたか,しているか,そして今後していくつもりかを見て取ること」なのである[21,4-83].こうした「患者の生の背後に隠れている様々な物語」[24,140]に立ち入る時,患者の自己は以下の①~③の特徴を有する[9,77-78].

  1.    自己はそれ自体で存在する客観的な実体ではなく,現在の時点から自分の人生を振り返り,そこに見出される様々な出来事を時間軸上にプロット化した物語である.
  2.    このプロット化は,他者に向けて物語るという形をとる.
  3.    自己物語は,過去の自分を現在の自分からいったんは区別しつつ,最終的には結末において一致させるような構成を持つ.

ここで①から自己物語は自己の可変性を有するのであり,それは現時点に立って遡及的に構成されるものであるから,別の時点においては異なった自己が成立し得る.そのため状況に応じて異なった複数の自己が存在し,③を実現するには,②により,そうした複数の自己を並べて筋(プロット)を作る自己物語の構築が必要になる[64,84].ここで自己は他者との関係を通して形成され,その意味で自己の在り方は常に関係の在り方に支えられているのであり[9,81],他者とは自身を取り巻く総体としての世界である[14,88-89].そして,この不分明な世界に対峙し,自身の立脚点を見出そうとする試みこそが自己物語なのである.この物語化の過程で「世界についての認識・思考は,言葉に支配されている」のであれば,言語は世界認識のためのフィルターであり[44,244],言語により複数の自己を選択し,配列する際のバイアス(ある種の歪みや偏り)自体が自己そのものの正体である[2,6].そのため患者の自己物語を把握し,どこに患者が自身の自己物語に組み込めない箇所が存在するのか,その箇所を組み込むにはどのようなプロットを描いていくことができるかを探ることが治療過程における基調となる.

さらに,「了解不可能」な精神障害を全て身体的・生物学的基盤のある「疾患」=「種」に還元することができない理由は,精神障害に社会的要因が大きく関与しているからである[5,10].つまり精神障害とは精神の不調のために通常の社会的役割を果たせないことによって社会的な問題として現れる[6,44-45][60,8].そして,「精神障害が脳障害の基準を与えるのであってその逆ではない」.つまり,社会的要因が影響して設定された「精神障害Xの因果的基盤を脳神経科学的に探求し,原因である脳障害Yが特定され,かくしてXとYの間の法則性が見出されるのである.この過程において,我々は精神のある状態を障害と見なしているが故に,その原因となる脳状態が障害として検出される.つまり,脳障害が精神障害を引き起こす場合,その脳状態が障害であるかどうかを決める基準は常に精神障害の基準に依拠している」のである[49,137].精神障害とはその原初において既に社会的要因が混入した状態で規定されるため,精神障害の完全な生物学的基盤への還元は原理的に不可能なのである.そして,精神障害に対する医療とは,あくまでも「個体をある「望ましい」状態に復帰させることを目的とした行為」であり,精神医学は純粋「科学のように真理自体を探求することを究極目的とするものではない」のである[10,37-69].

了解可能な「現実」とは誰にとっての現実か

精神科救急の病棟で勤務をしていると,幻覚妄想状態で救急搬送され,強制入院になる患者に遭遇する.行政への入院届出文書には,精神保健指定医により「統合失調症による幻聴,妄想を認め,入院加療が必要な状況である.入院の必要性を説明するも,本人は病識が乏しく,現実検討能力がないため,入院の同意を得られない.よって,父同意の医療保護入院が妥当と判断した.」と書かれることがある.ここで言う「病識」とは自己の「体験」の変化を認知し,その変化が客観的にはどのような精神障害として評価されるかに関する認識のことである.そして,その認識が出来ない,もしくは患者の自己に対する認識と精神科医の患者に対する評価が大きく乖離する場合は,その患者は「病識が乏しい」または「病識欠如」と判定され,「現実検討能力がない」との前提により,親などの同意を得て強制入院が可能となる.「医師-患者関係では,医師は多数派の代表として振舞い,患者は少数派として劣勢に立たされる.そして医師は患者が自身の代表する多数派の文化に同化しているのか,離脱しているのかを判定する」のである[16,254].そして,この判定こそが精神に境界線を引く営みそのものであり,「現実検討能力がない」と宣告する時の「現実」とは社会の多数派にとっての「現実」であり,治療は患者を社会の多数派にとっての「現実」に組み込む側面を有する.

社会システムとしての了解概念

精神医学の実践を社会の側面から眺める時、そこには社会システムとしての営みが立ち現れる.社会システムはシステム自体の自己保存を目的として[57,31-32][36,49-79],知を駆使しつつ,自らのシステムを再生産するために,社会的諸関係の「再認/否認」をする.そこでは「システムを現在と同じように再生産し得るような仕方で個々人に社会的諸関係を再認させ,その再生産を阻む要素を否認させるように,個々人の認識を構成しようとする」のである[3] [41,12] [54].こうして精神医学における診断の営みは,「了解概念」を通じて「了解可能=再認」と「了解不可能=否認」という不断の線引きにより精神の境界線だけでなく,社会システムの境界線を反復的に再生産し続ける.こうした社会システムが有するカテゴリーや関係への服従化を通して[54,30],社会的規範は主体の基礎を形成する[53,266].こうした社会の中で,精神に境界線を引く者も,引かれる者も,共に組み込まれている「暗黙のシステム」を[58,84],「了解概念」の構造的特性を糸口として考察する.

了解概念という方法論的自覚

精神科医のナシア・ガミーによれば,「現実はいつもなんらかの理論の色眼鏡を通して見られる」[13,84-85].精神に境界線を引く営みにおける「了解概念」は,「内集団のメンバーが外集団のメンバーを排除する理論と一緒」であり,「発言内容がにわかには理解できない時に,その発言者を外集団に属させることで理解努力を放棄する」ことである[18,160-161].こうして社会は精神の境界線を「不断に創出することにより,文化体系と,それを共有する人々の同質性や統合維持を図っている」[8,105-106].そこで前提とされるのは「人々が暗黙の裡に通念として共有する「普通の」イメージを起点としつつ,同時にそこに収斂されないものを排除していく姿勢」,そして「それらの問いを問いとして自覚せずに,曖昧に留保する態度」である[1,57-58].この「普通の」イメージこそが,「時代ごとの自明の理とされる当為規範」であり,この規範は「漠然とした時代の気分や雰囲気の中に孕まれた暗黙の共有物」である[11,2-4][65,71].

精神に境界線を引く営みは常に「外部/他者」と向き合い,システムの周縁において「それまで自明のものとされていた世界観を揺るがす体験」をもたらす.そこでは常に規範や常識性の喪失が問題となり,そうした問いはそのまま自己や社会のあり方そのものを問い直す営みでもある[42,15].外なる「他者」の発見は,翻って内なる自己の確認を要求するのである[17,120].

了解概念と〈中心‐周縁〉理論

人間は社会的存在であり,社会的世界を離れては存在し得ない[38,27-28].そして,その社会とは,意味の網の目が張り巡らされた世界であり,そこに取り込まれることで自己の輪郭が与えられる[37,78-82].普段,人間は社会を信じて社会の存在を忘れているが[43,7-8],こうした社会的世界の中に生きて「この存在を疑わない人間の世界像は,多かれ少なかれ,己を中心とした同心円を形成し,境界を円周としてもつ.中心は円心と重なる「私」であり,この「私」は「彼」,「我々」に対する「彼ら」,「この世界」に対する「彼方の世界」という外部として意識化される円周およびその彼方の部分に対置する形で世界像を構築する」のであり,「この円周部分に現れる「彼ら」は他者の原像」なのである[70,72].ここでは原理的に無数の円を描くことができ,円域を囲い込むことは,円外域を分離し排斥することと同義であるが[34,142],主体化=服従化を通して主体の基礎に社会的規範が組み込まれた人間の円心の多くは近似し,その同心円は社会的世界の円周を形成する[7,175].この文化人類学者・山口昌男の〈中心‐周縁〉理論は,社会や文化の〈中心〉に「秩序」を,〈周縁〉に「混沌」を配置し,「境界」は〈周縁〉に重ね合わされる.そして〈周縁〉は,〈中心〉から排除された様々な価値が集積する「混沌」の領域であるとされる[35,348-349].

私たちは自分たちの生きている世界が「分かっているもの」から成り立っているかのように感じているが,その可知の領域を一歩踏み出せば,あるいはその可知の領域のすぐ足元にも「分からない」ことから成る広大な不可知の世界が広がっている[45,1].それは精神の世界にも該当し,精神障害の内の精神病圏に布置される患者は,「私」や「我々」にとっての不可知なものという関係性を指しているにすぎず,精神科医は患者と言う他者の原像を通して,自明性の喪失に繰り返し直面する.それは,多くの人々が暗黙の裡に通念として共有する「普通の」イメージが脆くも崩れ去り,「普通」は普通ではなく,ある特殊な視点の一つであり,社会は空気のように存在し,存在し続けるものではなく,不断に境界線を引き続けることで不連続の連続として儚く存在しているに過ぎないことを認識させられるのである.こうした自己の脆弱な基盤を突き付けられる時,精神科医は「内」と「外」も〈中心〉と〈周縁〉も互いにとっての関係概念であり,一方が変われば他方も変わる流動性を有している[27,43],そして〈周縁〉とは主観的・相対的概念であり,特定の集団メンバーが共有する共同主観に過ぎないことを感得する[35,436-437].そして,共同主観に現実感を与えているのは,「私」や「我々」自身に対する不可知性であり[27,21],最終的に発見するのは,〈周縁〉がなくなった状態ではなく,みなが〈周縁〉なのだということである[68,63] .こうした精神の境界線を引く営みの中で,精神科医は常に自己の内面における可知と不可知の領域,そして社会の「内」と「外」,〈中心〉と〈周縁〉を行き来しつつ自身の周縁性に直面し,自己の〈周縁〉としての側面と,〈中心〉としての側面の間で引き裂かれつつ,時に自己の立ち位置を見失いながらも,社会の多数派にとっての「現実」と患者にとっての現実の間の妥協点を探り,境界線を引くのである.

科学の構造と〈中心‐周縁〉理論

科学哲学者のカール・ヘンペルは,科学的説明とは「演繹的議論であり,かつその結論は説明される命題Eであり,その前提を構成する命題の集合,すなわち説明するものは一般法則Lと,特定の事実について述べている他の命題Cによって構成される」と考えた.この種の説明は「被覆法則(covering law)」とも言われ,説明される命題Eは法則Lと特定の事実に関する命題Cによって演繹的に包容される[61,81-84].科学的説明の本質が,一般法則によってある事象を演繹的に包摂することであると考える時,一般法則で「被覆」できる領域は科学的説明が可能な領域であり,一般法則で「被覆」できない領域は科学的説明が不可能な領域として分類される.そして,この科学の構造は〈中心〉に一般法則である「秩序」を,〈周縁〉に一般法則で「被覆」できない「混沌」を配置する,山口昌男の〈中心‐周縁〉理論と構造的類似性を有するのである.

科学哲学者のカール・ポパーは科学的営みの過程として[62],観察から帰納的に仮説を措定する「発見の文脈」と,その仮説から演繹的に予測を立てて,結果を検証する「正当化の文脈」を考えた.そして,テストが可能である「正当化の文脈」が科学の要件であり,科学的真理は存在せず,科学的言明は常に反証され得る(反証可能性)と主張した.そして仮説(理論)によって説明できない観測事実である変則事例(anomaly)が出現した場合は,その仮説(理論)は破棄される.こうしたカール・ポパーの反証主義に対して,科学者・哲学者のトーマス・クーンは科学的営みとしてパラダイム論を提唱し[25],通常科学→科学革命(異常科学)→別の通常科学→別の科学革命(異常科学)というサイクルを想定した.そして,一つの通常科学内では変則事例(anomaly)が発生しても,可能な限り補助仮説を立てて,その通常科学のパラダイムを存続させる努力をするが,補助仮説では従来の通常科学を存続できなくなった場合に,科学革命が起きてパラダイムが変更される.こうして生まれた新たな通常科学の有するパラダイムと従来の通常科学が有したパラダイムは互いに共約不可能性を有している.そのため,一つの通常科学内では科学は累積的変化をするが,科学革命により生じた新旧の通常科学のパラダイム間には断絶が生じ,こうした通常科学→科学革命(異常科学)→別の通常科学→別の科学革命(異常科学)というサイクルを形成する科学的営みは非累積的なものになる.

科学的営みの基本的構造として,哲学者のウィラード・クワインは「知識や信念の総体は,周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である.科学全体は,その境界条件が経験である力の場のようなものである.周縁部での経験との衝突は,場の内部での再調整を引き起こす.場全体は,対立する経験がひとつでも生じた時に,どの言明を再評価すべきかについては広い選択の幅がある.特定の経験は,場全体の均衡についての考慮を介して,間接的な仕方でのみ,特定の言明と結び付くのである」と述べた[29,63-64].ここで想定されている科学的営みの構造は,中心的言明を取り囲むように周縁的言明が配置され,経験は周縁的言明に常に反証を試みる.そこで経験による反証が失敗すれば,その科学の周縁的言明は験証されたことになり存続する.そして,周縁的言明が経験により反証された場合も,中心的言明は変更されず,補助仮説や周縁的言明の変更で対処し,中心的言明を存続させようとする構造を有していると解釈できる.こうした科学的営みの構造も,山口昌男の〈中心‐周縁〉理論と構造的類似性を有している.つまり〈中心〉に「秩序」である中心的言明を,〈周縁〉に「混沌」である経験を配置する.そして「境界」は〈周縁〉に重ね合わされ,周縁的言明が配置される.この〈中心‐周縁〉構造では,「境界」において多義的な経験が「了解可能/不可能」と同様に「験証/反証」されるのである[62]3.

リサーチプログラムという可能性

「了解概念」にも,科学の構造にも内在する〈中心‐周縁〉理論は,人間には脱却できない認識論的枠組みなのであろうか.ここで,こうした構造的制約を超える可能性を数理哲学者・イムレ・ラカトシュのリサーチプログラム論に探ってみる[72].イムレ・ラカトシュは,総ての科学的なリサーチプログラムは「堅い核」により特徴付けられており,この核の周囲に防御帯を形成すべく「補助仮説」を配置している.そして,プログラムの否定的発見法においては,この「堅い核」に対して直に否定的推論を立てることはせず,変則事例(anomaly)に対しては防御帯での補助仮説で対処し,「堅い核」を変更しないという「規約」を定める.こうして,トーマス・クーンのパラダイム論のように単一のパラダイムが科学革命を経て共約不可能性を有する別のパラダイムに移行していくのではなく,複数のリサーチプログラムが同時並行的に進行し,互いに複数の理論が競合することで「発見推進能力」が向上すると考えた.

このリサーチプログラム論は,カール・ポパーの反証主義を踏まえつつも,カール・ポパーのような科学的言明の反証をせず,「堅い核」を変更しない「規約」を有する.また,ウィラード・クワインの科学に関する構図も取り込み,さらにトーマス・クーンのパラダイム論のように単一理論を前提とせずに,理論の複数主義を採用する.このイムレ・ラカトシュの立場は,人間の精神に境界線を引く営みにおいて,生物学的基盤を探究するリサーチプログラムと,「了解概念」による現象学的手法によるリサーチプログラムの併存を許容する.そして,人間の精神に関する知見が乏しい現状で,互いに〈中心‐周縁〉構造という構造的類似性を有する2つの理論を両輪として,互いに競合しつつ「発見推進能力」を発揮する方向性を示し得る立場である.

こうした複数のリサーチプログラムが共存するあり方は,科学的要因と社会的・文化的要因が不可避的に絡まる人間の精神を捉える際の柔らかい手段を提供する.そこではDSM-5のような操作的診断基準のセットを,生物学的指標のみで構成された別の診断基準のセットに置き換えることが人間の精神に関する「発見推進能力」にとって有効なのではない.操作的基準や生物学的指標,そして「了解概念」という複数のリサーチプログラムを併用しつつ,患者毎の特殊な文脈において,患者が抱える問題を解決するために,患者自身の人生の物語に組み込むプロットとして精神の境界線は引かれるのである.そして,こうして引かれた精神の境界線は〈周縁〉を「内」から「外」へ排除するあり方とは異なる診断の地平を拓く可能性がある.

概念枠組みの超え方

「了解概念」を用いる場合も,科学を用いる場合も,境界線により「内」と「外」が区切られる.そして,「外部」に位置づけられたものは,「了解概念」では「了解不可能」であり,科学においては非科学的な事象として説明不可能である.しかし,「了解概念」で「了解不可能」であっても,それは科学によって「説明」され得る.そして,科学によっては説明できないことも,「了解可能」な場合がある.ここでは,「唯一絶対の世界を写し取る理論などは存在せず,初めに現実世界が対象として在り,それを理論が分析するのでもない.事態はむしろ逆であり,分析するという作用によって,それと同時に世界が構成される」のである[71,16].このように「了解概念」や科学と言う概念体系は世界を構成する一つの「枠組み」として機能するが[52,87],唯一絶対の枠組みではない.

こうした相対主義的な主張に対しては,以下の反論が予想される.つまり,「立場αのもとでAは真」というが,「立場αのもとでAは真」という相対主義の主張自体は絶対的に真なのかという問題が生じる.これが,相対主義のパラドクスである.つまり,「すべての真理は相対的である」という相対主義の主張それ自体は絶対的ではないか,それゆえ相対主義は自己矛盾を抱えているというパラドクスである.それに対して哲学者の野矢茂樹は,このパラドクスを回避するため,相対主義の主張そのものは語りえないのでなければならないと結論する[52,124].つまり,「人は自分の概念枠組みを離れられない」という相対主義の立場を進めると,自分の概念枠組みの下に翻訳できないものは理解できない,すると,人は自分の概念枠組みをはみ出たもの,自分と異なる他の概念枠組みの存在を捉えることができない.かくして,相対主義を突き詰めると,「他の概念枠組み」という考えが却下され,他の概念枠組みがあり得ないのであれば,「自分の概念枠組み」という考えも却下され,「自分の概念枠組みによって捉えられた世界」は単に「この世界」となる.以上から,相対主義の考えを徹底すると,概念枠組みという概念は消失するのである[52,131-141].

では,唯一絶対の世界を写し取る理論は存在せず,「了解概念」も科学もその理論を採用することで世界が構成される一つの枠組みであるとして,そのこと自体が語り得ない場合に,そうした語り得ないことを語るにはどうしたらよいのか.つまり,異なる枠組みの間を行き来しつつ世界を構成する者にとって,自身の営みは語り得ないのであるが,その営みを語り得ないなりに捉え,実践することはどういうことを意味するのであろうか.この問いに対する答えの一つは,自分の概念枠組み自体を拡大し,変化させることではないか.ある一つの概念枠組みで捉えられない現象を理解するとは,その現象を自身の概念枠組みに取り込み,翻訳することではない.そうではなくて,自身の概念枠組み自体をその現象に向けて変化させることである.ただ,概念枠組みの変容自体を,その変化している概念枠組みで語ることは出来ないのである.「「分かる」ということは,私の既存の理解の基盤に相手を取り込んだということではなく,私の理解の基盤そのものが相手を理解することに向けて変化したことを意味する.そこにおいて他者理解とは,自分自身が他者に向けて変化することである.この他者理解と自己変化は相即的過程」なのである[51,178].こうして異なる概念枠組みを超えること,そして異なる概念枠組みを行き来することは常に自身の概念枠組みの変容を伴い,語り得ない形で他者理解を試みることであることが示された.ここに,了解概念や自然科学を行き来しつつ精神の境界線を引く者のあり様を,その者自身が語り得ない理由が存在するのである.しかし,精神に境界線を引く者のあり様を語り得なくても,境界線を引くことは出来るのであり,現に境界線は日々引かれているのである.

科学と社会の狭間で自己変容する

精神に境界線を引く営みは,患者の科学的・生物学的解析と,社会的・文化的分析の境界領域で行われる.この科学と社会の狭間には,「科学に問うことはできるが科学だけでは答えることができない」問題群が存在し,こうした問題は「科学のみでは答えられないが,「今,現在」社会的対応が必要」という特徴を有する[12,150-152].こうした領域において科学的根拠も「了解概念」も提供できるものは,判断の材料であって,判断そのものではない.そのため,臨床現場では科学的根拠が提供した材料と,「了解概念」が提供した社会的・文化的材料を携えて,患者が「今,現在」何を問題として抱えているのかに焦点を当て,その問題の解決には科学的対応と社会的・文化的対応がどのような効力を発揮し得るかを考慮し,実行する.その目的のために,精神の境界線を引くことになる.ここでは,精神科医は常に悩み,迷い,複数の立ち位置の狭間で引き裂かれつつ,患者が「今,現在」抱える問題の解決に向けて境界線を引こうとする.しかし,この時,精神科医という立ち位置は大きな制約に直面する.それは精神科医自身も患者と同様に社会的・文化的な文脈に組み込まれて存在し得るのであり,その文脈が複雑に絡み合うからである.自然科学者として科学的根拠が提供する材料により精神に境界線を引くことを期待される文脈,社会システムを維持するために境界線を引くことを期待される文脈,そして患者が自身の困難な心情を解決するために境界線を引くことを期待される文脈が相互に絡み合った文脈の中で,精神科医という営みは存在し得るのである.そして,患者が「今,現在」抱える問題はこれら複数の文脈が絡み合った中で生じており,しかも各々の文脈は時として異なる方向性の境界線を要求する.こうした中で常に適応できる境界線の確定基準は存在せず,その時々で出会った患者毎の社会的・文化的な文脈を読み込み,患者毎の科学的根拠が提供する材料を加味しつつ,その患者にとっての「今,現在」抱える問題の解決策の均衡点を探る.「精神医学がどれだけ標準的で身体的な医学に近づいたとしても,生物医学的な「疾患」と病者が社会的に経験する「病気」との二面性は決して消え去らない」のであり[6,56],自己とは他者との接触そのものであるのであれば[22,217],患者との関係の中で変容し続けつつ,その都度の患者の抱える問題に応じて精神に境界線を引くことが精神科医に求められる営みなのである.

おわりに

精神医学は医学の中でも最も周縁的である[66,265].その境界上に立って世界を眺めると,明/暗の逆転した陰画にも似た光景に出会う.精神医学は「科学であるが,同時に自明性が破れた時に,その自明性を問い直さざるを得ない.そのため,科学であって科学ではなく,哲学であって哲学ではない,そういう二重性を孕む」のであり[23,28],そうした臨床現場で葛藤し続け,疑い続け,迷い続ける,その状態であることが,精神医学の生命線なのではないか.その葛藤が消えるとき,精神科医の自己変容は止まり,精神医学は科学の皮を被った社会システムの維持装置となり,または物質としての脳疾患に固執して,人間としての病いを診られない,妥当性の欠如した営みに堕するのではないか.臨床現場における精神医学の真の課題は,現在の患者の病態を彼の全人生の文脈の中で正しく捉えて行くという縦断面的な営みである[20,はじめに].そして,現在の病態が患者の人生にとってどのような意味を持ち,何を問題として抱えているかを見極め,問題を解決していくのが精神医学の目的である.その意味で,精神医学は科学と社会の境界線上の営みなのである.

  1.    DSM-Ⅰ~Ⅳまではローマ数字表記だったが,DSM-5がアラビア数字表記になったのはDSM-5.1のようにDSM-5の中でも新たな知見に応じて内容を更新する意図がある.
  2.    連鎖式パラドクス(the sorites paradox)は小さな量的変化が積み重なって質的変化をもたらす場合に,その間に明確な境界線を引くことができないことを示している.例として,大きな砂山を考える.ここから1粒の砂を取り除いてゆく作業をする.砂の量を,仮にXとする.ここから1粒取った時,砂山に残っている砂粒の量は(X-1)となる.ここでは砂山の形は変わらない.もう1粒取り除くと(X-2)になるが,これはまだ大きな砂山のままである.そこでn回取り除くと,この砂山は山と見なせなくなるとすれば,(n-1)回の時はまだ砂山と言えるのであろうか.この1粒の差で,質的な変化が訪れたのであろうか.そうとは言えない.そのため,境界線は論理的に引くことは不可能なのである.
  3.    K.ポパー『科学的発見の論理』(恒星社厚生閣,1971-1972)によれば,仮説から演繹的に予測を立てて,結果を検証する「正当化の文脈」において,科学的言明は常にテストされる.このテストをいくら重ねても科学的言明は検証(verification)不可能であり,ただ「験証(corroboration)」されるだけである.そして,科学的真理は存在せず,科学的言明は常に反証され得るとの立場に立つ.

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