哲学の探求
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テーマレクチャー「現代認識論」
認識的不正義
飯塚 理恵
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2022 年 2022 巻 49 号 p. 2-11

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認識的不正義

飯塚理恵

序文

本稿では,認識的不正義をテーマに論じていく.ミランダ・フリッカーの『認識的不正義』は2007年に出版されて以来,認識論研究に大きな影響を与え続けてきた.今や,欧米の大学の哲学専攻の学生で,認識的不正義について見聞きしたことがない者を探すのは難しいほどである.本稿ではまず,フリッカー(2007)の提唱する二つの認識的不正義がどのようなものなのかについて紹介し,次に,認識的不正義の議論を,認識論・倫理学・フェミニスト哲学研究の流れの中に位置づけて理解する.最後に,『認識的不正義』出版後の議論の発展について述べよう.

1節:認識的不正義とはどのようなものか

本節では二種類の認識的不正義がどういった不正なのかを理解することを目指す.認識的不正義には,証言的不正義と解釈的不正義の二種類があるとされる.この節では,各不正義の実例,定義,害の本性,そして解決法について整理していこう.

まず,証言的不正義から考えていこう.認識論において,話し手が語ることで聞き手に信念が伝わる広範な営みを証言と呼ぶ.証言は,私たちが知識を得る際のもっともよくある方法である.例えば,家族から「親戚のAさんが引っ越すんだって」と言われるとき,私たちは証言を通じて「Aさんは引っ越す」という知識を得ている.しかし,証言のやりとりを行う際に,偏見が入り込んでしまうことがある.聞き手が,話し手のアイデンティティについて偏見的なステレオタイプを抱いてしまうせいで,話し手の証言の信用性が不当に割り引かれてしまうことを,フリッカーは「証言的不正義」と呼ぶ.

証言的不正義の代表例として,フリッカー(2007)が挙げるのは,映画『リプリー』の一場面である.婚約者のハーバート・グリーンリーフが失踪してしまったのは友人リプリーのせいではないかと(正しくも)疑っているマージに対して,グリーンリーフの父が「マージ.女の勘とは別に,事実というものが存在するのだよ」という一言を浴びせかけるのだ.ここでのグリーンリーフ氏の発言には,女性に対する性差別的な偏見が含まれており,そうした偏見のせいで,婚約者の事を正しく理解しているマージの疑いは棄却されてしまうのだ.また,若い黒人のドライバーが職務質問される際に,警官が持つ人種差別的偏見のせいで,自分が車の所有者であるというドライバーの証言の信用が低められてしまうというケースが,フリッカーの後の論文(2013)でも取り上げられている.

私たちは自分の証言の信用性が超過すると大抵利益を得るし,信用性が不足すると不利益を被る.しかし,フリッカーは信用性を有限な財とは考えず(それゆえ,一般的な財の分配モデルを通じては理解できない),その相手が真理を述べていることを示す証拠があり,信念がそうした証拠に支持されている度合いに照らし合わせて,適切な信用性の度合いが決まると考えている.それゆえ,フリッカーの議論で重要視されるのは,受け取るに値するものを受け取ることができず害を被る,信用性の不足の方である.私たちは,社会集団(例えば,女性や外国人)とある特性を結びつけ,それをイメージとして持っている(これは「ステレオタイプ」と呼ばれる).証言のやりとりでは,相手の発言が信用できるかを即座に判断しなければならないので,話し手が属する社会的タイプの人々の信頼にかんする特性,すなわち,真理を伝えることのできる能力と誠実さにかかわるような特性のステレオタイプをヒューリスティックスとして用い,知覚という仕方で判断せざるを得ない2.しかし,こうしたステレオタイプには間違っているものもあり,特に,当該のグループの人を貶めるような,倫理的に悪いタイプの偏見が含まれることがある3.聞き手が持つ話し手についてのアイデンティティに対する偏見のせいで,話し手の信用性にかんする知覚が歪められてしまい,話し手が不十分な仕方でしか信用してもらえないとき,証言的不正義が生じているのである.先のリプリーの例では,グリーンリーフ氏は,女性についてのネガティブな偏見的ステレオタイプに影響を受ける仕方で,マージのことを知覚してしまったのだ.フリッカーは,女性や,老人,黒人といった,私たちのアイデンティティのうち,社会的タイプにかかわるものに注目する.なぜなら,そういった偏見は経済や教育,職といった社会活動の様々な次元を通じて主体につきまとって作用するもので,認識的不正義以外の別種の不正義とも分かち難く結びついているからである4

こうした証言的不正義が生じると,聞き手は特定の仕方で害を被る.まず,証言の信用性が,偏見がなければ信用された程度よりも低いものになるとき,そこでは伝達されるはずの知識が失われるばかりではなく,私たちが知識を与える者として持つ能力に対して不正がなされる.この種の不正は,他者への認識的な侮辱である.また,私たちは他者との信頼し合う対話を通じて,確かな信念を抱いたり,「自分自身」つまりアイデンティティを作り上げたりしていく.証言的不正義によって信頼を寄せ合う対話から排除されてしまうせいで,聞き手はアイデンティティの形成に必要なプロセスから阻害されてしまうという害も受けるのだ.そして,深刻なケースでは,ステレオタイプ的な人間として他者に認知され社会的に構成されたり,ステレオタイプ脅威によって,話し手はステレオタイプが表現するような人間にある程度本当にさせられてしまうことさえある.つまり,個人はステレオタイプ的な存在に因果的にも構築されてしまう.こうして,証言的不正義の害には認識的なものと倫理的なものが混在する.証言的不正義は,認識的不正・道徳的不正の両方の特徴を持つハイブリッドな不正である.

では,証言的不正義を克服するためには私たちはどうしたら良いだろうか.フリッカーは偏見が,話し手に対する知覚を歪めてしまうリスクを減らすために,聞き手はある種の徳を涵養すべきだと考えている.この徳とは,自分の聞き手に対する信用性判断に影響を与える偏見の影響を信頼できる仕方で中和するという傾向性である.証言的不正義を克服するためには,そのような偏見に抵抗する徳(anti-prejudicial virtue) を獲得することが必要で,個人がそれぞれこうした証言的正義の徳を涵養することで,証言的不正義に対抗すべきというわけだ.こうした徳は,認識的な良さである知識と道徳的な正義の達成を目標に持つ,ハイブリッドな徳である.

次に,もう一つの認識的不正義,「解釈的不正義」を見ていこう.まずは,やや耳慣れない解釈という語について見ていく.ここで解釈とは,社会的経験を意味づけること・理解することを指す.私たちは日夜,無意識に解釈活動に従事している.例えば,日本において頭を前に下げる所作は,挨拶だったり,お礼だったり,謝罪の意味を持つだろう.そうした習慣のない社会で育ち日本を訪問する人は最初,「なぜみんな頭を下げているのだろう」と不思議に思うかもしれない.社会の中に十分な解釈のための資源があれば,自分の社会的経験を理解する際に支障は生じないので,解釈活動が行われていることが特段私たちの意識に上ることもないだろう.しかし,社会の中である時点で存在する解釈のための資源が,すべてのメンバーにとって最適な状態にあるわけではない.解釈活動にも,権力が不公正な影響を及ぼすことがある.

例えばフリッカーは,セクシャルハラスメントという概念が発見される以前に,職場の大学で上司の教授から望まぬ性的な嫌がらせを繰り返し受け,追い詰められて退職せざるを得なかったカーミタ・ウッズの例をあげる.ウッズは自分の経験をうまく理解できず,また他者に伝えることもできずに苦しみ,失業保険の申請でもなぜ職を辞めたのかと聞かれた際にうまく答えられず,ウッズの申し立ては却下されてしまった.ウッズに必要だった概念は,当時の社会に存在しなかった.そうした「解釈上のギャップ」のせいで彼女は苦しんだのだが,この解釈資源の欠落は偶然ではなく,社会的経験の重要な領域の解釈実践から女性という社会集団が排除されてきたせいで起きたのである.このように,社会集団の解釈資源の中に,アイデンティティに対する構造的偏見があることが原因で,ある人の社会的経験の重要な領域において集団の理解から排除されてしまうことを,フリッカーは解釈的不正義と呼ぶ.解釈的ギャップは内容だけでなく,解釈のスタイルにもかかわる.例えば,ある社会では女性が直感的・感情的だとされ,そうしたコミュニケーションスタイルが合理的なものとされにくい現状がある.ある社会的グループに特有の表現スタイルが合理性に欠けると判断されてしまうようなとき,その人達は解釈実践から排除されてしまうので,解釈的不正義を被る.

解釈的不正義において個人が被る害とは,本人にとって理解することが重要な利益を持つ事柄にかんして,解釈資源が乏しいがゆえにそうした経験が集団の中で理解できないものとなっていることだ.また,証言的不正義と同様に,聞き手はアイデンティティの構築に必要な解釈資源がないせいで自己の発達から阻害されてしまうという害も受ける.しかし,フリッカーによれば,証言的不正義と異なり,解釈的不正義を犯す個人(主体)は存在しない.解釈的不正義は純粋に社会構造上の不正義なのである.

それでは,解釈的不正義を克服するためには私たちはどうすれば良いか.フリッカーは,解釈的不正義に対しても,個人が「解釈的正義の徳」を持つことが必要だと考えている.この徳を有することは,アイデンティティに対する構造的偏見が,私たちが話し手に対して行う信用性判断に及ぼす影響を少しでも中和することを目指すことに他ならない.より詳しく言えば,ある話し手が自分の経験を理解できずに苦しんでいるとき,その苦しみはその人自身のせいではなく,解釈資源の側に問題があるという可能性を,聞き手が真剣に検討すること,また,話し手と自分の社会的アイデンティティの関係性が相手の理解可能性に与える影響に,聞き手が配慮すること,そして,話し手がアイデンティティに対する構造的偏見のない,より友好的な状況下で自分の経験を解釈したならば,どの程度理解できるものとなるかを聞き手が検討し,そうした検討を通じて,聞き手が信用性判断を修正したり保留したりするという傾向性である.こうした解釈的正義の徳も,理解という認識的な目標と道徳的な正義の達成を目標に持つ,ハイブリッドな徳である.

今見てきた二つの認識的不正義のモデルには,いくつかの共通点があることがわかる.例えば,フリッカーは,個人や社会構造の中に存在する,社会的タイプへの偏見が二つの認識的不正義の原因だと信じている.また,いずれの不正義も倫理的な害と認識的な害を生じさせる.そして,いずれの不正義に対しても克服のためには徳を涵養する必要性を論じている.こうした特徴のいくつかについては,3節で戻ってこよう.本節では,フリッカー(2007)の2章と7章で中心的に描かれている,証言的不正義と解釈的不正義について,その定義,例,害の本性,そして解決法の観点からまとめてきた.次節では,こうしたフリッカーの主張の源泉について確認していこう.

2節:認識的不正義はどこから来たのか

本節では,認識的不正義の概念が提唱される以前,または同時期に,フェミニスト哲学・倫理学・認識論で起きた変化に言及することで,どのような哲学的議論に影響を受けて認識的不正義の概念が生まれたのか,認識的不正義をより広い哲学の歴史的文脈の中に位置づけて理解したい.

哲学の中で歴史的に抑圧や差別,偏見に,中心的問題として取り組んできたのは,フェミニスト哲学者達だろう.フリッカーも本文中でたくさんのフェミニスト哲学の知見を引用している.例えば6章では,女性が男性の性的欲望を満たすための単なるモノと表象されてしまう「性的モノ化」 (Nussbaum 1999)の考え方を敷衍して,認識的不正義の害は認識的モノ化なのだという考えに至っている.7章では,女性特有の声が合理的なものとして認められてこなかった点を説得的に論じたギリガン(1982)の主張に影響され,解釈資源だけでなく表現スタイルが解釈ギャップとなる点を指摘している

倫理学においては,不正義へのまなざしが重要な契機であった.フリッカーは認識的不正義において繰り返しシュクラーを引用し彼女の影響力を認めている.シュクラー(1990)は哲学史上,正義にかんする標準的なモデルは,不正義を正義という常態からの逸脱だと想定してきた点を批判する.彼女によれば,むしろ不正義こそが常態なのである.一方,フリッカーが言及していないような,不正義へのまなざしも認識的不正義と同時期に存在する.テスマン(2005)は,社会的抑圧の被害者が,道徳的ダメージを負った存在であると指摘し,抑圧下で徳を獲得しようとする者たちには,支配者とは異なる困難が待ち受けていることを説得的に論じている.

認識論においても大きな変化があった.ゲティア問題(Gettier 1963)に触発され発展した現代認識論は,個人が知覚を通じて得ることができるような命題的知識を中心的に扱ってきた.そこでは,知識を得る主体は均質なものと想定され,どんな人でも同じような内容の知識を同じような仕方で得ることができると前提されていた.しかし,ゴールドマンらの活躍により実際の社会の中で生じる知識に目を向ける機運が高まった(これは社会認識論と呼ばれる)(Goldman and Whitcomb 2010).例えば,他者から伝聞を通じてもたらされる知識についての議論,「証言の認識論」が盛んになった(Coady 1994).そこでは,私たちは他者の証言を無批判に受け入れているか,あるいは,何らかの推論を行うことで証言を評価しているのかが問題となる.フリッカーも3章の多くを,証言の認識論の議論に割いている.

このように,認識的不正義が生じた背景を理解する上で重要となる哲学的議論はたくさんある.紙面の都合上,本論文では,スタンドポイント理論と,徳認識論の二つに焦点を絞って見ていこう.この二つの理論は,次節で認識的不正義の発展を考察する際にも重要になってくるからだ.

フリッカーと同様に権力が認識に及ぼす影響に関心を抱いたフェミニスト哲学者たちは,スタンドポイント理論を発展させた.フリッカーも7章の冒頭でスタンドポイント理論に触れ,意味づけ活動と権力の関係を分析しはじめている.論争を巻き起こしたスタンドポイント理論の歴史や全容を把握することは本稿の射程を超えるため,ここでは近年のタネシニ(2019)によるサーベイを参考にしよう.彼女によれば,スタンドポイント理論は,以下の三つの主張を含む立場である.それらの主張とは,知識は社会的に位置づけられたものであること(私たちが社会的にどんな存在かによって,私たちが何を知りうるかが広範な影響を受けること),社会的に位置づけられたパースペクティブ(社会的に位置づけられた知識の集合を持つ主体)達の中には,他のパースペクティブと比べて,認識的な特権を持つものがあること(そうした特権を持つパースペクティブがスタンドポイントと呼ばれる),そして,周縁化された人々のスタンドポイントは社会的に支配的な人々のものよりも認識的に特権的な位置にいることがある,ということだ(Tanesini 2019, 335–36).

社会的位置づけは,私たちが何を知るのかについて,体系的に規定したり制限したりする.しかし,ある周縁的な社会的位置づけに置かれることは,すなわちスタンドポイントを有することを意味しない.ワイリーによれば,スタンドポイントとは,「知識がその下で生み出され,権威を認められることになる諸々の条件に対して,批判的な意識を向ける認識主体が努力して求めた結果,到達するもののこと」(Wylie 2003, 31)であり,単に周縁化された社会的位置づけに置かれるだけでは達成されないからだ.つまり,女性に生まれ落ちたからといって女性のスタンドポイントが自動的に付与されるのではないことに気をつけねばならない(社会的位置づけの影響は受けるにせよ).ワイリーはコリンズ(1991)を引用しながら,スタンドポイントの持つ認識的利点について以下のように述べている.

[認識的利点が生じうるスタンドポイントとは]人種,階級,ジェンダーの点で不利な位置に置かれた「内部の部外者(insider-outsider)」のスタンドポイントである.内部の部外者というのは,その社会的位置づけのために,特権的な人々の世界をうまく切り抜けることを余儀なくされており,そのために,規範となっている支配的な世界観を構成する暗黙の知識を正確かつ詳細に理解しなければならない一方で,同時にまた,当人が根差しているコミュニティは,その周縁的な身分のために,世の中の仕組みについて[特権的コミュニティとは]根本的に異なった理解を生み出している,という状況に置かれた知識主体のことである.(Wylie 2003, 34–35, 括弧内引用者)

 

例えば,白人家庭で使用人として働く黒人女性のような内部の部外者は,雇い主の白人の考え方も理解した上で,女性差別的・黒人差別的な社会の抑圧についての直接的な知識も持つ(そして,生き延びるためにそうした知識を持たざるを得ない).そして,内部の部外者は支配者側の権威的な知識を社会の中に維持することに興味がないので,それゆえ,権威側が当然と見なす物事に対して批判的な視点を持つことができる.こうした豊かなスタンドポイント理論の発展の歴史が,フリッカーの解釈的不正義が誕生した背後にはあるのである.

次に,徳認識論について見ていこう.フリッカーは認識的不正義の克服として徳の涵養アプローチを提唱しているのだった.このアプローチは90年代の終わり頃から認識論内で盛んになった「認識的な徳」の研究に呼応するものである.これは端的に言えば,善く生きるためには,善い探求者となる必要があるという考えである.そこでは,個人が認識領域で善い性格特性を涵養すること,すなわち認識的な徳の獲得が,善い探求者となることに他ならないとされる.これはアリストテレス的な道徳的な徳の理論を認識の領域に適用しようとする試みであった.とは言え,徳認識論に何を期待するかは各論者によって異なる.認識的な徳が知識の分析にも利用できると考えたザグゼブスキーのような例(Zagzebski 1996)もあれば,伝統的な認識論的問題とは距離を置く論者も多い.徳認識論とは認識的な徳という概念が,認識論上の様々な問いに取り組む際に重要な役割を持つと考える様々な取り組みの集合体であったと言える.

徳認識論者が行ってきた研究の一つに,具体的に認識的な徳や悪徳とはどんなものかを明らかにするというプロジェクトがある.例えばその代表として,認識的な謙遜の徳についての研究がある.知識に動機づけられ(知識をそれ自体価値あるものだと考えて),自らの認識的な限界を知り,そうした限界を受け入れた生き方をすることを認識的謙虚さの本質であるとする者もいれば(Whitcomb et al. 2017),そうした内向きの自己反省・自己評価ではなく,他者を認識的行為者として尊敬し,その尊敬ゆえに他者の意見に耳を傾けることが認識的謙虚さの本質であると考えるものもいる(Priest 2017).また,傲慢さという認識的悪徳についての研究では,抑圧する者たちの傲慢な態度が,抑圧される側の認識的な自尊心を傷つけ,認識的奴隷性という更なる悪徳を生んでしまうという,抑圧環境下の認識的悪徳の負の連鎖が指摘された(Tanesini 2016).同様に,認識的不正義を克服するためにフリッカーが提唱した,「証言的正義の徳」や「解釈的正義の徳」は,個別の認識的徳の本性にかんする議論なのだと理解することができる.社会が抱える認識上の課題を解決するために「どのような性格を涵養すれば良いのか」と考え出すのが,ここで紹介した様々な研究が共有する,徳認識論的なフレームワークである.

こうして,フェミニスト哲学・倫理学・認識論の各分野で,認識的不正義が生じる土壌が出来上がり,準備が整ったのが,2000年代であったのだろう.認識的不正義は,決して,突然単独で生じた考えではなく,哲学の様々な分野の発展の流れが交差した先で,生じるべくして生じたことを感じ取ることができるだろう.では,なぜフリッカーの認識的不正義の概念が,その発展に寄与した様々な他の概念と比べても,これほどまでに大きな注目を浴びたのだろうか.

それは,ラングトン(2010)も指摘しているように,二つの認識的不正義という概念,すなわち,この解釈資源自体が,哲学アカデミア,人文学,そして社会全体に欠けていた解釈的ギャップを埋める強力な一手だったからだろう.認識的不正義概念の明確さもさることながら,この概念が見つかったおかげで,私たちの認識や倫理にかかわる重要な領域において,私たちの解釈を妨げていた靄が晴れた.そして,認識的不正義という道具立てのおかげで,それまで表現することが困難だった領域で,私たちは適切な経験の意味づけをすることができるようになったのである.

 

3節:認識的不正義はどこへ行くのか

本節では,認識的不正義の理論的発展を概観する.フリッカーの著作の出版以来,認識的不正義を巡る議論が様々な仕方で発展してきた.その発展を物語る証拠として,2017年には,“The Routledge Handbook of Epistemic Injustice”(Kidd, Medina, and Pohlhaus 2017) が出版された.本節では,こうした認識的不正義を巡る哲学的議論の発展を見ていこう.

認識的不正義を巡る議論の発展にはいくつかの方向性がある.まず,フリッカーの二種類の認識的不正義の具体的な特徴づけに対して疑問を投げかけるものがあるだろう.例えば,フリッカーのオリジナルな見解は,証言の信用性の超過を証言的不正義のケースではないとして退けるが,これに反対するメディーナの立場が挙げられる.彼は,対話は相互に影響し合うものなので,ある人を信用するという判断は,避けられない仕方で,他の誰かと比べて,より信頼できる・同じくらい信頼できる・信頼できないという比較を含意し,それゆえ,信用性の超過も認識的不正義として捉えるべきだと指摘している(Medina 2011).次に,認識的不正義の適用範囲をオリジナルのものより拡張するような議論の発展もある.フリッカーは認識的不正義の中心的なケースとして,性別や人種のような社会的タイプを基礎とするアイデンティティに対する(認識以外の不正とも相互作用する仕方で働く)ネガティブな偏見が問題だとしていた.これに対して,例えば,キッド達は病気に苦しむ人々(ill persons)も,フリッカーの枠組み内で「認識的不正義の被害者」であると言える点を指摘している.病気へのネガティブなステレオタイプのせいで,病気に苦しむ人々の個人の声が,「主観的な意見」に過ぎないとして,医療従事者達によって容易に棄却されてしまうのだ(Kidd and Carel 2017).更に,認識的不正義では掴みきれない別の種類の認識上の不正を明らかにしたりする試みもある.例えば,ドットソンの認識的暴力概念の分析が挙げられる.証言のやりとりの際に,聞き手が有害な仕方で無能なせいで,ある集団のメンバーに対して,コミュニケーション上の双務性(相手の話を聞くこと)が拒絶されることがある.これをドットソンは「認識的暴力」と呼ぶ.認識的暴力の被害者は,聞き手の能力のなさのせいで自分の証言が理解されず誤解を生むリスクの高い文脈では,そもそも証言を抑える(証言の飲み込み)に至るのだが,これはフリッカーの分析には見出せない認識的な不正の一面だろう(Dotson 2011).

認識的不正義を巡る議論はこうした三つのプロジェクトに尽きるものではないし,二つ以上のプロジェクトが同時に取り組まれることもある.本節ではそうして展開されている多様な議論の変遷を一つずつ追うことはできないので,以下ではそのうちの代表的な議論を二つ紹介する.まず,認識的不正義では掴みきれない別の種類の認識上の不正を明らかにする試みの代表として,メイソンとポールハウスの解釈的不正義に対する批判を取り上げよう.

フリッカーのモデルでは,解釈的不正義において,集団の解釈資源にギャップがあるせいで,認識的に周縁化されている人々は自分の重要な経験を意味づけることができないのであった.こうした解釈的不正義の特徴づけが不十分であるとして批判するのがメイソンである.メイソンによれば,フリッカーが「集団の解釈資源」と呼ぶとき,それは支配者側の解釈資源のことを指していると言う.しかし,メイソンは支配者集団の資源にギャップがあったとしても,被支配者集団の資源にもギャップがあるとは限らないと指摘する(Mason 2011, 300).

フリッカーの挙げるセクハラの例においても,セクハラという語は当時確かに存在しなかったのだが,ウッドはフェミニストたちの集まりに参加し,自分と似たような辛い経験をした者たちと問題意識を共有するに至っている.ここでは,主体が認識的な周縁化のせいで「自分の経験も理解できない」というフリッカーの記述よりも,(セクハラという概念がなくても)ウッドは自分の経験がどんな不正なものかある程度わかっていたはずだというメイソンの説明はもっともらしい.

つまり,メイソンによれば,解釈的ギャップには以下の二つの場合がある.支配集団と被支配集団の解釈のあり方に共にギャップがあり,そのせいで周縁化されている人々が自分の重要な経験を意味づけることができない場合(フリッカーのケース)と,支配者集団の資源にギャップがあっても,被支配者集団の資源にはギャップがないために,周縁化されている人々は自分たちの集団内においては,自分の重要な経験をきちんと意味づけることができる場合である.そしてフリッカーは後者のケースに十分配慮していないせいで,実際には周縁化されている人々は自分の重要な経験を意味づけることができているにもかかわらず,彼らが声をあげても,支配者側はそうした声を棄却したり,歪めたりしてしまうために無知なままであるせいで,支配する側の解釈資源は変わらないという,問題含みなケースを適切に扱うことができないというのである.

ポールハウス(2012)はメイソンと少し異なる角度から解釈的不正義の問題を指摘している.彼女は,今見てきたメイソンの提案したタイプの解釈ギャップを,「故意の解釈的無知」(willful hermeneutical ignorance)と呼び,故意の解釈的無知こそが解釈資源を巡る問題の本質だと論じている.周縁化された人々によって努力して見つけ出された認識的資源が,支配側に諸手を挙げて受け入れられるとは限らない.むしろ,支配側は,そうした資源を拒否したり退けたりすることさえあるだろう.すると,故意の解釈的無知では,周縁化されている社会的タイプの人々の経験の理解可能性が認められるだけでなく,そういった解釈上の不正は構造上の問題でもあるのだが,「個人が犯す不正でもある」という点でも,フリッカーの主張との相違点がある.

こうしたメイソンやポールハウスの批判は,2節で見てきたスタンドポイント理論を介することでより見通しが良くなるように思う(実際に三者は全員,多かれ少なかれスタンドポイント理論について触れている).つまり,二者が問題視しているのは,フリッカーが解釈的不正義で注目しているのがもっぱら社会的位置づけと知識の関係性のほうであり,スタンドポイントと知識の関係ではないという点である.フリッカーが7章の冒頭でスタンドポイント理論について触れる際の強調点は,知識が社会的に位置づけられているという点の方であり,その証拠に,認識的特権テーゼには触れられていない.それゆえ,解釈的不正義の記述も,抑圧的な社会構造がいかに周縁化された人々に認識的な「不利益」をもたらすかという点に終始しているのである.よって,フリッカーは,周縁化されている者たちが苦労して達成するスタンドポイントの持つ,認識的特権のあり方を,解釈的不正義の理論に十分反映させることができていないように思う.

また,抑圧構造が意味づけ活動に与える影響は,フリッカーが想定するよりも強い可能性が高い.なぜなら支配側の社会的グループは,既存の権力構造を維持することに関心があるので(そうではないと考えるためには,支配側の人間に顕著に道徳的に優れた特性をデフォルトで帰属させなければならなくなってしまう),例え周縁化されている社会的グループの者たちの弛まぬ努力によって解釈的ギャップが埋められたとしても,支配者側はそうした解釈に強い抵抗を示すかもしれない.むしろそうした抵抗や意図的な無視があることを踏まえて,どのように意味づけ活動上の不正を解消できるのかと問う方が建設的なのかもしれない.このように,メイソンやポールハウスの批判の要点は,フリッカーの解釈的不正義がフェミニスト哲学の知見を不十分な仕方でしか取り込めていない,というものであろう.

次に,フリッカーの認識的不正義のモデルに対して提案されてきた改善案について述べよう.1節で見てきたように,フリッカーの認識的不正義への対処法は主に,個人による徳の涵養をベースとしていたが,この点について早いうちから複数の論者が疑問を投げかけている(Langton 2010; Alcoff 2010).ここでは,アンダーソン(2012)の議論を例にとって考えていこう.

アンダーソンは,フリッカーの偏見モデルを批判し,諸個人の持つ偏見が原因ではないような認識的不正義も可能ではないかと問う.彼女は,個別の認識的取引(証言のトークン)には全く不正が見出せなかったとしても,こうした取引の累積的な影響が不正なものになることがあると指摘する.例えば,私たちの社会は学歴を専門性と信用性にかんする正当な指標であるとする(それゆえ,有資格者や大卒に限定して求人をかけること自体には問題がないとされる).しかし,周縁化されている社会グループが,教育へのアクセスをも奪われていたら,そうした構造的な不平等が,認識的な不正も引き起こしていると言える余地があるだろう.そして,アンダーソンは,こうした認識システムの全体的な悪い影響を修正するために,フリッカーのように個人の認識的正義の実践を頼りにすることの危うさを指摘する.

例え偏見モデルに限って考えたとしても,フリッカーも認めるように,偏見は信念レベルで保持されるとは限らず,その多くは私たちの知覚に直接(時には信念に反して)影響を与えるのだった.これは,信念レベルでは真摯に差別を拒絶する人も偏見を抱いてしまうということを意味する.果たして,個人がいつ偏見の影響を受けているかわからないならば,徳を十全に発揮できるのだろうか.こういった指摘に対して,信念と知覚の認知的不協和があるところでは,批判的反省や徳の実践を行う機会があり,また,徳は習慣化されれば自動化されるというフリッカー(2010)の反論はもっともらしい.しかし,アンダーソンは更に,いつも認知的不協和が生じる保証はないし,徳の自動化のためにはまず徳を意識的に実践しなければならないはずで,やはり,自分がどこで間違っているかそもそもわかりにくい偏見について,徳を発揮することの難しさを改めて指摘する.

それゆえ,アンダーソンは(偏見が原因でもそうでなくても)認識的不正義に対しては,徳よりも,構造的な対策を中心的に推すべきだと考えている10.社会構造を変えることは,例えば,雇用差別を防止するために,雇用にかかわる意思決定を主観的な判断ではなく,明示的で客観的な尺度に基づくものにするといった,制度を変えることに他ならない.そして,アンダーソンはこうした認識的不正義に抗する構造的な特徴は,「制度や集団が徳を発揮している」と言えるようなあり方をしているという.フリッカー自身も近年,制度や集団が犯す悪徳について積極的に言及している(2020). 例えば,ロンドンの警察が組織内の個人の態度や特性には還元できないような仕方で,組織全体として人種差別的である様を挙げている.

こうした論点は,2節で見てきた徳認識論のフレームワークを間接的に批判・修正するものである.私たちの認識上の不正を克服する際に徳を持ち出してきても効果がないならば,規範理論としての徳認識論の正当性があやぶまれてしまうだろう.よりやっかいな問題として,しばしば他者に悪徳を帰することは,現実には複雑な要因が絡み合って生じる行動を単純化しすぎてしまうので,それ自体が悪徳であるという指摘もある(Cassam 2021).悪徳がない所や,悪徳があっても別の要因の方がより重要な仕方で問題に絡んでいるところで,人の行動を悪徳を用いて説明すると,本当の意味での他者理解が阻害されてしまうかもしれない.しかし,他方で,個人の意思決定の外側で働いてしまう偏見の影響を,更に,個人の意思決定の外側で弱めておくという構造的な解決法は,パターナリスティックな響きを持つように思われる.私たちが個人としてどのように認識的不正義に向き合うことができるかを考えるとき,徳ベースのアプローチに置き換わる,より魅力的なオルタナティブを挙げることは果たして可能だろうか.認識的な不正に対して,構造的な解決法と徳ベースの解決法がそれぞれどれくらいの重み付けをされるべきかという問いは現在も活発に議論されている.そして,その際に,集団の徳という概念がどれくらい有益な実践的な帰結を持つのかに注目が集まっている.

本節では,認識的不正義の発展を外観し,その中でも,解釈的不正義の批判と,認識的不正義に対する徳ベースの克服案への懐疑という二つの代表的な論点を中心に見てきた.認識的不正義を巡る議論は今後も盛り上がっていくことが期待される.特に,日本において認識的不正義の考えが適用されたときに,どのような認識上の不正が明らかになるのかが楽しみである.しかし,このプロジェクトに従事することは本稿の射程を超えてしまうため,別の機会に譲りたい.

結論

本稿では,証言的不正義・解釈的不正義の中心ケースの概念整理(1節),認識的不正義に影響を与えた背景理論のまとめ(2節),そして,認識的不正義周辺の近年の重要な理論的発展への言及(3節)をそれぞれ行ってきた.読者が本稿を読み,認識的不正義研究の奥行きを少しでも感じることができることを祈っている.認識的不正義の研究のさらなる飛躍・発展のために,日本の認識的不正義研究の第一歩に本稿が貢献できれば幸いである.

謝辞

本研究は日本学術振興会特別研究員奨励費20J00293の助成を受けたものです.

  1.    本稿では,本文の訳にかんして,勁草書房より2022年に刊行予定のミランダ・フリッカー『認識的不正義』(佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳)を参考にしている.
  2.    聞き手は「自分のような聞き手との関係性が成り立っている場合,いま話題にしている事柄にかんして,いま目の前で話している人はどの程度信頼できるだろうか」(Fricker 2007, 34)といった想定のもとで知覚している.
  3.    フリッカーは偏見を「主体の感情的傾倒(affective investment)のせいで,反例となる証拠へのいくらかの(通常,認識的に非難されるべき)抵抗を示し,かつ,ポジティブな感情価を持つこともあれば,ネガティブな感情価を持つこともあるような判断のことである」(Fricker 2007, 35)としている.端的に言えば,これは動機づけられた認知バイアス(Anderson 2012)だろう.偏見それ自体には倫理的に悪くないものも存在するのだが,証言的不正義の中心的ケースにかかわるのは,あくまでも,アイデンティティに対するネガティブな偏見であり,これは倫理的に悪い感情的傾倒を含むものである.
  4.    本稿では紙面の都合上,フリッカーが重要視する「証言的不正義の中心的ケース」(Fricker 2007, 28)と呼ぶものを取り扱うが,社会的アイデンティティにかかわる偏見を含まないような,別の種類の偏見から生じる「局所的な証言的不正義」もある.また,本稿で取り上げる二種類の認識的不正義の中心的なケースとは別に,ある社会的タイプの人々が偏見のせいで信用性を示す特定の指標を持たないとされてしまい,そうした主体がそもそも証言の機会さえも奪われてしまう「先制的な証言的不正義」についても,フリッカー(2007)は6章で紙面を割いていることに留意したい.
  5.    こうした一次的害に付随して生じる様々な不利益をフリッカーは二次的害と呼ぶ.二次的害には実用的な害と認識的な害があり,前者は例えば,証言的不正義のせいで昇進が妨げられること,後者の例には自分の信念に対する自信を失うことが挙げられている.こうした二次的害と一次的害は,話し手の人生の広範囲に渡りネガティブな影響を与え,人々を抑圧することがわかる.
  6.    証言的不正義と同様に,解釈的不正義も二次的な害を伴う.ウッズは自分の経験が理解されなかったために,失業保険を却下されてしまった.これは明らかに,実践的な害である.また,自分にとって重要な経験が理解できないことが続くと,自分自身が世界を理解する能力への自信も失われてしまう.それゆえ,解釈的不正義には認識的な二次的不利益も生じる.
  7.    この点は,佐藤(2019)の8-3で,より詳細な議論が紹介されている.
  8.    ワイリーはこういった従属的なスタンドポイントの認識的利点は偶然的な仕方で生じる点を強調しつつ,従属的なスタンドポイントから探求がなされるとき,客観性のある側面(例えば,正確性.彼女は抽象的な客観性概念は否定している)が高まりうることを認めるのである.他方,社会的な抑圧は認識的な形式を取ることも予想されるので(Narayan 1988),ある内部の部外者がスタンドポイントを獲得しても,重要な認識的リソースにアクセスできないままであるかもしれない(例えば,そういった主体は高度な教育を十分に受けられないかもしれない).スタンドポイントの認識的特権を認めることと,抑圧の原因について明確な知識をもたないことは両立するのである.
  9.    メディーナは,信頼性の超過を不正であると主張しつつも,フリッカーのもう一つの主張,すなわち,信用性は有限ではないので認識的不正義は財の分配的正義のモデルでは捉えられないという主張にかんして,フリッカーと同様の立場を取っていることに注意しよう.一方で,今後も,認識的不正義が本当に分配的正義のモデルでは把握できないものなのか引き続き真剣に検討する必要はあるだろう.
  10.    アンダーソン(2012)は個人の証言的正義や解釈的正義の実践を推奨するのはもちろん間違ったことではないことを指摘し,フリッカー(2007)も解釈的周縁化を生みだす原因となる不平等な権力関係は有徳な個人がいかなる振る舞いをしても,それだけで変更できるものではないと述べている.それゆえ,二者は本当に対立しているのだろうかと疑問に思う者もいるだろう.実際には,一方のみの不正義の解消法を推奨するということはないので,両者とも,いずれかを排除するような主張にはなっていない.しかし有限な財・資源・時間を用いていかに認識的不正義に立ち向かうのかを考える際の,優先順位の対立としてこの議論は理解できる.

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佐藤邦政『善い学びとはなにか―<問いほぐし>と<知の正義>の教育哲学』新曜社,2019年

 
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