2022 年 2022 巻 49 号 p. 24-33
抽象法と人格
――ヘーゲル的自由の一例
久保篤史
はじめに
本稿はG. W. F. ヘーゲル『法哲学 Grundlinien der Philosophie des Rechts』「第一部 抽象法」に対する注釈である.意志が自由を実現する道筋を描いていると言ってよい『法哲学』という書物は三部構成ををとっており,その第一部において意志は「人格」と呼ばれる.人格は当然何らかの仕方で自由を実現しようとしている.そして,その人格が自由を実現する権利ないし場が「抽象法」である.この人格、そして抽象法が『法哲学』の出発点である。本稿は,「第三部 人倫」の市民社会論・国家論ばかりが取り上げられがちな『法哲学』の土台部分に注目し,人格という意志が自由を実現する抽象法なるものがどのようなものかを明らかにする.
その際,問題になるのはヘーゲルの術語である.すでに前段落で使われている「法」「自由」「意志」「人格」は私たちの日常生活でも見かける言葉と一見すると同じであるが,その内実はいずれも極めてヘーゲル的な色彩に染め抜かれている.こうした一つ一つの術語に対して充分な説明を施すことなしには,本稿の目的は達成されず,逆にこうした術語が十全な形で示されたときには本稿の目的は達成されていると言ってよい.ここで挙げた術語に限らず,「絶対者」「理念」「主体」「差別(区別)」「同一性」などもまたヘーゲル的な意味合いを帯びるが,普通のヘーゲル解説書ではしばしばこうした術語を充分に言い換えることなく使用する傾向が見られる.例えば,生松敬三『社会思想の歴史』では,哲学の対象である「生きた主体としての絶対者」は「みずから差別へと分裂し,そして差別から同一性に還帰し,反対を通じて発展する「主体」である」1とされている.果たしてこれはヘーゲルの言葉を充分に咀嚼したうえでの表現であろうか.端的に言えば,この説明は「わかりやすい日本語」なのか.本稿はこのような問題意識のもと,言い換えになっていない言い換えを可能な限り排除してヘーゲル哲学を解説することを目指す.したがって,本稿はヘーゲルの一著作のうちの一部分のみを対象とするにもかかわらず,ヘーゲルの基本的な思考枠組みを示すことに多くの分量を割かざるを得ない.特に問題になるのは「自由」概念であり,それとほとんど同義の「無限性」概念である.
ヘーゲルにとって,何かに拘束されることなく好きなように振舞えることは自由ではない.それはただの「恣意」に過ぎない.ヘーゲルの自由とは、おのれを外化しておのれではないものとしたうえで,その外化したものを再びおのれのものに取り戻す過程である.ヘーゲル自身が挙げているわけではないが,チーム・スポーツはその一例であろう.選手はおのれの一部を押し殺して明け渡すことによってチームの一員として振る舞い,逆にチームの一員としてチーム全体に貢献することにより充実感を得る.これが自由である.ところで「チーム一丸」という言葉もあるように,このとき選手とチーム(あるいは他の選手)との間には境界Endeが無くなっているかのようである.すなわち,無限unendlichな状態が現出している.大略,ヘーゲルの「自由」,そして「無限性」とはこのようなものである.本稿では,こうした自由概念を軸としつつ,人格という意志がどのような形で自由を実現していくのか,そしてどのような意味で自由は実現されないのか,を示していく.
議論は以下のように進行する.第一節では『法哲学』という著作の全体像を提示する.『法哲学』はまず「緒論」で全体を概括したうえで、抽象法、道徳、人倫の各部に続く構成をとっている.第二節では主としてこの「緒論」に基づいて意志の自由の内実を示す.意志は自由の発展段階に応じて三段階に分かれ,その各段階にある意志のあり方が簡潔に描写される.第三節では本稿の主題である抽象法に議論を限定し,人格が自らの意志を外化して「物件」に置き入れることで自由を実現していくことを明らかにする.第四節では今後の展望を記す.
第一節 法哲学の流れ
ヘーゲルは1817/1818年冬学期から1831年の死去に至るまで断続的に「自然法と国家学」という題目で法哲学の講義を行った.その教科書として1820年に出版されたのが『法哲学』である.現在では各学期の講義録が全集で刊行されており,邦訳も多い.各章は本文と注解と補遺から成るが,この補遺はへーゲルの死後に編集者の手で付け加えられたものなので参照しない.2
さて,『法哲学』の目次は以下のようになっている.
緒論 (§§1-33)
第一部 抽象法 (§§34-104)
第一章「所有」第二章「契約」第三章「不法」
第二部 道徳 (§§105-141)
第一章「企図と責任」第二章「意図と福祉」第三章「善と良心」
第三部 人倫 (§§142-360)
第一章「家族」第二章「市民社会」第三章「国家」
構成としては,緒論で法哲学の出発点となる意志の概念を明らかにしたうえで,第一部から議論は本格化する.第一部から第二部,第二部から第三部に進む際には,前段階で不足しているものを獲得していくために必然的に後ろの段階へと移行するという体裁が採られている.
目次にある言葉はどれも特殊なヘーゲルの術語であるため,補足説明が必要である.「抽象法」は個人の権利を,「道徳」は個人の内面を,「人倫」は共同体をおおよそ意味する.しかしこのことは,個人の権利が基礎にあり,個人が集まって共同体が立ち上げられるという単純な構成を意味するのではない.加藤尚武はヘーゲル法哲学の構造を次のように要約している.
国家だけが本当の実在で,個人はその実在の抽象的な要素「観念的な契機」にすぎない.だから抽象的な要素である個体から出発して,本当の実在である国家に到達するという叙述の順番は,存在の順序の逆になっている.全体的なものが具体的であり,個体的なものは抽象的である.個体から国家への展開は,抽象から現実への叙述展開である,この叙述の最後の段階になって,出発点になる個人の権利が,結局は国家の一部であり,国家によって支えられていることが分かるという仕組みである.3
「抽象的」「具体的」という語は通常の語感とはかなり異なる.ヘーゲルにおいては,それだけで孤立して他との関係を絶った存在が「抽象的」と呼ばれ,逆に,一つ一つが個として存立しつつも他との有機的な関係のうちにある存在が「具体的」だと言われる4.つまり、大まかな理解として,他者や国家とのつながりを欠いた個人の状態は抽象的であり,逆に,様々な個人や組織を包含しつつそれらが相互に関係しあう国家の状態は具体的だということになる.以下,本稿で「抽象的」「具体的」という場合,つねにヘーゲル的な意味で使用する.
ここで法哲学の全体の流れをまとめると以下のようになる.
抽象法das abstrakte Rechtはバラバラな個人(人格)の権利Rechtがあるだけの抽象的な状態である.道徳では,個人の内面が外に対して行為として現れ,人倫に至って様々な集団や組織が相互に絡み合い,具体的なあり方へと変貌を遂げる.そして,この人倫においてこそ,抽象法や道徳はその十全な力を発揮できるのである.
議論の出発点は「意志」である.第二節 では主として「緒論」の記述をもとに、意志がヘーゲル哲学でどのようなものであるかを説明する.
第二節 自由たるべき意志
次の文章はヘーゲル法哲学の骨格をよく表している.
法[=権利]の地盤は総じて精神的なものである.それのもっと正確な場所と開始点は意志であって,その意志は[本性として]自由である.したがって自由が法の実体と規定をなす.そして法の体系は,実現された自由の王国であり,精神自身から生み出された,第二の自然としての,精神の世界である.(§4)
「精神」は,思考や意志に代表される人間能力に関わるものとひとまずは捉えてよい.「法」は,先に述べた抽象法・道徳・人倫のすべてを含み,この三つのどれもが法の一形態である.この意味での法が人間自ら作り出した固有の領域を成し,第二の自然のように私たちに対して現れているとヘーゲルは言う.ここで問題になるのは,「意志」と「自由」という語のヘーゲル独特の含意である.この含意を明らかにするため,『法哲学』以外の著作を参照しつつ,ヘーゲルが人間と動物をどのように区別していたのかを先に見ておきたい.
人間と動物が共通するのは「欲求」を持つ点である.空腹になれば何かを食べ,危険が近づけば身を守ろうとし,休息が必要になればどこかで休もうとする.ヘーゲルにとって,人間が動物と違うのは、本能によってではなく,思考を媒介にして欲求充足の方法を見出そうとするからである.このことをヘーゲルは『世界史の哲学講義』で次のように述べている.
人間はどんなに実在的であろうとも,理念的でなければならない.人間は実在的なものについて理念的なものとして知り,また自らを理念的なものとして知ることによって,単なる自然的なものであること,また単に直接的な直観のうちで欲求を充足させたり生み出したりすることをやめるのである.人間がこのことを内的に知っているということは,人間が欲求を抑止すること,人間が表象や思想といった理念的なものを欲求の渇望とその充足の間に差し挟むということ,人間が自ら抱く表象とその実現を分離するということである.5
ここでの「理念的」は普遍的とほぼ同義である.ヘーゲルにおいては、所謂「認識(思考・知性)」と「実践(意志)」の間に対立はなく,意志という精神形態は,知性という精神形態を包括したものとされる6.思考は例えば,栄養豊富な実をなしている樹木を眼前にして,この実在的なものを「おいしい実を成す木」という普遍的なものとして認識し,同種の樹木を自分で栽培できないかと考え,実行に移す.しかし,栽培を始めてもすぐにはブドウは食べられない.このとき,人間は自らの欲求を抑止し,内的な意図と外的な振る舞いの間に亀裂が生じている.ヘーゲルによれば,動物ではこのような亀裂は生じない7.ブドウを食べたければ目の前のブドウを食べるだけである.
動物が外的なものを内的なものに対立させることはない.動物が自らを分裂させることはないが,しかし人間は自らを分裂させることをなす.すなわち,人間は考えて,そして欲求を抑止する.人間は欲求を抑止したり駆り立てたりすることによって,欲求を目指して行動したり,何か普遍的なものに則って自らを決定したりもする.人間はこのような決定を目の前にして,その決定を実行に移すに先立って熟考する.8
人間は思考によって欲求の抑止が可能となった.今や,人間はより良い欲求充足手段を見出し,質量ともに幅広い欲求を満たせる.だが,その代償として自己分裂が起きてしまう.自分が直接に従事している外的な事柄と,自分が最終的に満たしたい内的な欲求との連関が見失われてしまうのである.一度社会常識を捨てれば,単調なコンビニのレジ打ちと愉快なラーメン屋巡りの間には何の連関も見出せないだろう.しかし,私たちは些細な日常にも見られるこうした連関を何とか取り持っているのではないか.つまり,人間はつねに外的な事柄と内的な欲求を媒介して連関を取り戻そうとする存在者であり,ヘーゲルはかような存在者たる人間を特にこの媒介作用に注目して「精神」と呼ぶ.
我々の主要な規定は,精神としての人間は直接的なもの[=思考による媒介を欠いた実在的なもの]ではなく,本質的に自分に還帰したものだということである.(…)人間の活動性とは,直接性を超え出ていくことであり,直接性を否定することであり,そのことによって自分に還帰することである.したがって,精神は自らの活動性によって,ただ自らをそこへと形作る当のものである.(…)精神はただ自ら結果としてのみあるのであって,単に最初のもの、直接的なものとしてあるのではない,ということである.9
「精神」という語で,個人に宿っているだけの何か心的なものをイメージしてはいけない.先程は導入的な理解として精神を「思考や意志に代表される人間能力に関わるもの」としたが,これまでの説明を踏まえて言い直せば,精神とは「思考し意志をもって行為する人間が,そのままに存在する自然とではなく,歴史的にあるいは集団として自ら作り出した社会的事柄(第二の自然)と関わり合って,相互に影響を及ぼし合う有様を総体として捉えたもの」とでもなろう.どれか一つの要素が精神なのではなく,全体として自らを作り自らが作られつつある構造そのものが精神であり,それゆえ精神は単にそのまま直接に存在するものではなくて進行形の産物であり「結果としてのみある」とヘーゲルは言うのである10.
以上でヘーゲルの基本的な発想が素描された.ここまで来てようやく,ヘーゲル法哲学で問題になる「意志」と「自由」を論じることができる.
「自由」とは,ここで述べた第二の自然が,何か疎遠なものではなく自分のものになっているということであり,「意志」はこの意味での自由を実現する活動的な能力のことである.意志は自由に向けて第二の自然を自分の本質を反映するものとして作り出していく.本稿の範囲では,ヘーゲルの自由は自己実現や自己現実化と呼んでもいいような概念であり11、本稿冒頭でも述べたように,ヘーゲルの「自由」は通常私たちが想像するような自由概念とは著しく異なる.
ヘーゲルは自由を様々な表現で言い換える.意志の活動とは「主観性と客観性の矛盾を廃棄して自分の目的を主観性の規定から客観性の規定の中へ移し込み,[しかし]同時にその客観性の中で自分のもとにbei sichあり続ける」(§28)ことだと言うときの「自分のもとにbei sich」は,自由が実現した状態を指す.同じ状態をヘーゲルは「無限」とも表現する.
即自かつ対自的にある意志[=自由を実現した意志]は,真に無限である.なぜなら,この意志の対象[=第二の自然]がこの意志自身だからである.またこのことによって,対象は意志にとって他のものでもなければ制限でもなくて,意志はむしろ対象においてまさしく自己の中へ還帰しているからである.(§22)
ヘーゲルにとって無限は,彼方へと延びる数直線ではなく,円環としてイメージされる.ドイツ語のunendlichは,自己に終わりEndeがないということ,つまり,自己と他のものとの間に固定的な障壁がないという状態を指す.内的なものが外的なものに移り,再び外的なものが内的なものへと戻っていく.意志が自分で作り出した環境は外的なものに一度はなるけれども,しかしそれは自分のものであり続けている.これが無限である.12
さて,自由と呼ぶにせよ,無限と呼ぶにせよ,意志は国家の外では対象としての第二の自然を自分のものにできない.ヘーゲルはこのような不完全な意志を「恣意」と呼ぶ.意志は本来自由であるはずなのだから,恣意であるような意志は自らの本性に反しているという意味で「矛盾」(§14 注解,§15)である.この矛盾が解消され,最終的に国家において自由な意志が実現されるまでを辿っていくのがヘーゲル法哲学である.見方によっては目的論的な議論構成だとも言えるだろう.ヘーゲルは「緒論」の中で意志を三段階に分けて,どのように意志が変様していくかを説明している.第一段階は法哲学以前の段階であり,第二段階が法哲学のほとんどを占め,第三段階は国家でのみ実現している.前二者の意志が恣意であり,後一者の意志が自由な意志である.したがって,本稿の主題である人格は,たしかに自由を実現しようとしているが,結局は恣意と呼ぶほかない意志形態である.
第一段階の意志は,捨象作用そのものである.意志を持った人間は,突き付けられた銃口も,空腹を訴える食欲も,自らの来歴も,自分を抑圧する社会機構も,すべてが無きものかの如く観念的には突っぱねることができる.それゆえ,自分自身や周囲の事物に纏わり付いてくるあらゆる規定ないし制限Bestimmungを拒絶しているという意味で,この意志は「純粋な無規定性Unbestimmtheit」そのものであり,このように空虚でしかない自分とだけ関わりを持つという意味で「自我の自己への還帰[作用]」でしかない(§5).何者かであるということを拒み続けるこの意志は,「私がどんな規定のうちに自分を見出そうと,あるいは私が自分のうちにどんな規定を定立していようと,その規定を捨象し得るという,この絶対的な可能性,いいかえれば,どんな内容もなにか制限であるとする,一切の内容からの逃避」(§5 注解)だとも言えるだろう.思考によってあらゆる規定を捨象する能力自体は人間に固有のものだとヘーゲルは考え,この能力は以降の段階のための必要条件とされるが,これだけでは彼が理想とする自由は達成されない.意志は現実の世界との肯定的な関わりを持たねばならない.
第二段階の意志は,様々な規定ないし制限に関係しながらも,不完全でこそあれ,おのれを見失うことなく「自分のもとにbei sich」あり続けようとはしている意志である.落ちている木の実を自己の所有物としたり,食欲を満たそうとしたり,どこかの団体に入ったりする.このようにして意志(自我)が他の何かと関わっていくことをヘーゲルは「自我の特殊化」と呼ぶ.
自我は区別なき無規定性から区別立てへの移行であり,規定することへの,そして,ある規定されたあり方を内容と対象として定立することへの移行である.――なおこの内容は,自然によって与えられたもの[=木の実や食欲13など]だろうと,精神の概念から生み出されたもの[=団体など]だろうと,かまわない.自我はこのように自己自身をある規定されたものとして定立することによって,定在一般のなかへ踏み入る.――これが自我の有限性14ないし特殊化という絶対的契機である.(§6)
何者でもなかった意志は,何者かにはなる.これが特殊化である.しかし,特殊化によって意志は,自己と異質で疎遠なものとの関わりを持つことになってしまう.木の実は自分の所有物にはなっても,自然物であって自分の本質を反映したものではない.食欲も否応なく襲い掛かるものであり,どの団体も完全に自分のものと言えはしない.ヘーゲル法哲学の「抽象法→道徳→人倫」という流れは,この状況が徐々に改善されていく様子を描いたものである。
第三段階の意志は,完全に自由な意志である.無限と言っても同じであるが,このとき,自分が関わる何かは,そのまま自分のものでないにもかかわらず自分の本質を映したものとして現れている.ヘーゲルの言葉で言えば,この意志は「自我が自分を(…)規定され制限されたものとして定立しながら,同時に,[依然として〕自分のもとにbei sich(…)あり続け,したがって規定のなかで自分をただ自分自身とのみつなぎ合わせるという,自我による自己規定[作用]」である(§7).実際にこれが実現するのは人倫の最後に来る国家においてであり,国家の中の個人はあくまで自身の特殊性を保ちながらも,国家の中でこそ自由を実現することができるとされる15.
以上が意志の三段階である.先程述べたように,法哲学の多くの部分は第二段階に費やされている。第二段階に差し掛かったところで現れるのが抽象法である.抽象法での意志は「人格」と呼ばれ,その人格は「所有」という形でこの第二段階に足を踏み入れる.
第三節 人格の自由と所有――抽象法
本稿冒頭で掲げた問いは,人格という意志はどのようにして自由を実現するのか,というものであった.これまでの二節はこの問いに答えるための助走であり,本節ようやくこの問いに答えることができる.
まず,抽象法das abstrakte Recht 16という語には注釈が必要だろう.ドイツ語のRechtは「法」だけでなく「権利」や「正義」といった意味を併せ持つ.特に「第一部 抽象法」では「権利」の意味合いが強い.また,抽象的abstraktとは,ヘーゲルにおいては他との有機的な連関を欠いて孤立した状態のことを指すことはすでに触れた.したがって,「抽象法」は差し当たりの理解として「紐帯を欠いたバラバラな個人が持っている権利」と解してよい.
さて,先の第一段階にある意志は,あらゆる規定を捨象していく作用そのものであった.この意志は規定を脱ぎ捨てて何物でもない空虚な自分に還帰していくという意味で,自分とだけ関わりを持っている.他者や共同体との関わりは一切捨象されている.「紐帯を欠いたバラバラな個人」とも表現できるこのような存在者あるいはそのような存在様式が「人格」である.次の一節は人格概念を最も的確に要約している.
人格性17の要は次の点にある.すなわち,この者としての私は,あらゆる面からいって(内的な恣意,衝動,欲望の点でも,また直接的な外的定在18からいっても)完全に規定されて有限な,[その一方で]しかもまったくただ純粋な,自分への関係であり,そして,そのようにして有限性の中で,無限で普遍で自由なものとして自らを知る,ということに.(§35)
人格は相反する二つの性質を抱えた矛盾する存在である。「あらゆる面で完全に規定されて有限な、自分への関係」すなわち「有限性」であると同時に,「まったくただ純粋な、自分への関係」すなわち「無限で普遍で自由なもの」である.ヘーゲルの言葉を言い換えよう.
太郎という人物を考える.甘い物好きの太郎は身長170㎝の会社員である.この太郎はあらゆる面で完全に規定され尽くしている.太郎は,自分の身体はもちろん,名前や身長,職業といった社会的属性も持ち,甘い物への欲望にも纏わりつかれている.こうした諸々の規定が(社会的には太郎と呼ばれる)まさに「この者」(「これ」)に関係することで,他と区別される境界Endeを持った有限なendlichな存在者が出来上がっている.一方,太郎は思考する存在者として,自らの規定を捨象する能力(可能性)ないし自由を具えている.太郎は,現にある自分の身体,名前,身長,職業を無いかの如く思い做すことできるし,禁欲生活を送ることもできる.そのような可能性としての自己を太郎は思い描き,それに関わることができる.その意味で,太郎は「形式的な普遍性」あるいは「自己意識的である以外の内容を欠いた単純な,自己への関係」(Ibid.)である.あらゆる規定を捨象するがゆえに,他と区別される境界Endeを持ち得ず,したがって自己と区別される他がないがゆえに他からの影響がそもそもあり得ない無限なunendlich存在様式をしているとも言えよう.ここでの「無限性」は先に述べた「自由」や「自分のもとに」と言い換えられる「無限性」には未だ到達していない水準の「無限性」である.この「無限性」だけでは純粋な自己関係の可能性に過ぎず,空虚なままである.太郎を花子から人格として区別することはおろか,複数の人格という観念さえあり得ず19,太郎と呼ばれるところの人格は先に述べたような意味で抽象的である.
人格にはこうした有限と無限の二面性がある.ヘーゲルが「人格」と言うときに後者の面だけを指すことがしばしばある20ように,ヘーゲルは後者の面を人格の本質的な核だと考える.しかしこの後者の面しかない場合,人格はただ自分としか関係していないからヘーゲル的な意味で自由ではない.人格は十全な意味での無限性を達成して自由であるため,つまり,自己実現・自己現実化するため,適切な形で前者の有限な面を取り込んでいく必要がある.先程の言い方をすれば,無規定な自我はいかにして特殊化していかねばらないのか.人格が最初に持つ規定や内容はどのようなものでなければならないのか.ヘーゲルは次のように言う.
人格は,即自かつ対自的に存在する無限な意志がこの第一のまだまったく抽象的な規定においてあるあり方[=純粋な自己関係構造でしかない意志]であるから,この意志とは区別されたところの,この意志の自由の圏をなしうるものもまた,この意志とは直接的に相違した,分離されうるものとして規定されている.(§41)
人格は抽象的である.人格は自分だけで孤立して他と関わることなく存在している.それゆえ,人格が自由を実現しようとして最初に行き着き得る対象もまた,人格と同様の構造を持つものでなければならない.では,そのような「この意志とは直接的に相違した,分離されうるもの」とは何を指すのか.それが,人格にとって外的に存在する事物,すなわち「物件」である.
自由な精神[=自由を目指す人格としての意志]と直接に相違しているものは,この精神にとっても即自的にも,外的なもの一般である.すなわち,ひとつの物件eine Sache21である.(§42)
外的なものには生命や身体も含まれ,人格はこのような外的な事物を始めの対象とする.「対象とする」とは,人格が,自然物を物理的に占有して自分の意志を置き入れるということである22.物件を我が物とすることで,人格は自分の外へと繰り出す.これが「所有Eigentum23」である(§45).ヘーゲルは,最初の所有物が人格自らの身体と生命であると考えている24.ヘーゲルは次のように述べている.
私は人格として自分自身,直接的な個別者25である.このことをもっと進んだ規定で言えば,第一に,私はこの有機的な肉体において生きており,そして,この有機的な肉体は,内容上は普遍的な,分かたれぬ,外的な,私の現存在であり,さらにもっと規定されたすべての定在の実在的可能性である,ということである.だが,人格として私は同時に,私の生命と肉体をも,他の諸々の物件をも,ただそうすることが私の意志である限りにおいてのみ,持つのである26.(§47)
身体と生命が所有物となれば,新たなる物件を取得するための手足や衝動などが随伴するため,さらに所有物を獲得していくことができる.無論,その際,自分の身体と生命といえども,予め人格に付属しているのではなく,人格の意志によって取得されてはじめて自分の所有物となる.
繰り返しになるが,抽象法の段階では特殊性は考慮されない.そのため,所有を考える際にも,誰が何をどれだけ所有しているのかという点は埒外に置かれ,ただ「人格が物件を所有する」という一般的な事態だけがここでは考えられていることに注意せねばならない(§49).換言すれば,抽象法で扱われているのは,ある人格の所有物の内実や諸人格の相互関係などではなく,そもそも人格は何かを所有してよいのだという権利上の問題だけである.ヘーゲルは,人格が「権利能力」を持つと言い(§36),抽象法はその権利能力が毀損されないように保証するだけで,それ以上の働きもそれ以下の働きもしないとしている.ヘーゲルはこのことを以下のように説明している.
抽象的な権利[=法]は,具体的な行為と道徳的および人倫的な諸関係と比べれば,それらがもっと進んだ内容を持つのに対して,ただ可能性でしかない.したがって,法的規定[=抽象法における規定]はただ許可ないし権能でしかないのだ.この権利[=法]の必然性は,この権利の抽象性という同じ根拠からして,人格性とそこから生じるものを損なわないことという否定的なものに限られる.したがって,[抽象法では]ただ法による禁止が存在するだけであって,法の命令が持つ肯定的な形式[=肯定文による表現]は,その究極的な内容から言えば,禁止を根底に置いているのである.(§38)
これを踏まえて要約すれば,抽象法das abstrakte Rechtは,権利の面からいうと,所有に臨む人格の権利能力を意味し,法の面からいうと,そうした権利能力の侵害に対する禁令を意味しているということになる.物件をめぐる法的事柄を扱うのだから抽象法とは一般に言うところの民法の内容に相当し,それが根底では禁令であるというのは,物権法にせよ債権法にせよ何にせよ,(家族法以外の)民法の細かい規定も煎じ詰めれば,自分や他者の権利能力が侵害されてはならないという否定的な目的を達成するためのものだということである.
ところで,ここまで述べてきて,容易に見て取れる矛盾が生じている.このようにして所有物を持つに至った人格は,無限性を保っていられるのだろうか.外的事物を我が物とすることが実際にできるのであれば,たしかに人格は十全な意味で無限であり自由である.だが,物件はまさに外的事物であるがゆえに,おのれの本質を映すものではなく,さらには所有物をもって他の人格との区別が始まる.私の人格が他人の人格に対する特殊な存在となってしまう.また,抽象法の文脈ではいったん捨象されてはいるが,意志の持つ特殊な欲望は無くなったわけではない.とすれば,人格の有限と無限の二面性は,端的に言って矛盾でしかなく,結局人格は特殊性のもとにあるということになる.
まとめると以下のようになる.
人格という意志が人格であるのは,自らの捨象能力によっておのれのあらゆる規定から脱け出し,純粋な自己関係を保つ限りであった.しかし、純粋な関係に固執するばかりではヘーゲル的な意味で自由たり得ない.それゆえ人格は所有に至る.人格は,物件という異物を我が物にするという形で,おのれを外化し,そして外化したおのれを再び自分のものとして取り戻す.そのような場,あるいはその所有権能が抽象法と呼ばれる.だが,これで自由は実現されたと思いきや,物件は外的なものでしかなくおのれを反映するものではあり得ないことに人格は気付く.おのれにとって疎遠な規定を身に着けた人格は特殊な存在に逆戻りする.この意味で,人格は矛盾した存在である.純粋な自己関係であることは,身体を含めた所有物を持つことと相容れない.人格という在り方に,あるいは抽象法という場に,自由は見出せなくなった.
第四節 結語
ヘーゲルの『法哲学』はすでに述べたように,「抽象法→道徳→人倫」と進む.「第一部 抽象法」で人格という意志が物件を我が物とすることで自由を実現しようとしたが,続く「第二部 道徳」において主体という意志が自らの行為を我が物にしようとし,「第三部 人倫」では主体が人倫という共同体との関係のなかで具体的な自由を実現していく.物件よりも行為が、行為より共同体が,意志の本質を反映するにふさわしいとヘーゲルは考えている.これは『法哲学』の話であるが,『精神現象学』や『大論理学』といったヘーゲルの他の著作においても,形を変えて自由ないし無限性を実現するというモチーフが見られるだろう27.本稿はヘーゲル哲学を貫くひとつのモチーフの一例を示したに過ぎない.
註
1. 生松(2002),52頁.
2. 法哲学の著作と講義に関する詳細は岡崎(2016)を参照.補遺などテキスト上の問題に関しては,権左(2010)第六章が有益である.
3. 加藤(1998),28頁.
4. 「抽象的」「具体的」という語の理解に関しては以下を参照した.加藤前掲書 29-31頁,三浦(1991), 86-88頁.
5. G. W. F. ヘーゲル『世界史の哲学講義(上)』52頁.
6. §4注解,§13注解,§21注解を参照.
7. もっとも,ヘーゲルのこの見解は誤りである.カラスがドングリを道路に置いて車に轢かせて殻を割って中の実を食べる例を考えれば,人間以外の動物も欲求の抑止をしていることは明らかだ.たしかにホモ・サピエンスが他の動物とどこか違う存在者であることは,現代文明を一目見ればある程度の妥当性を持つように思われる.人間と動物を区別するためにおそらく必要なことは「欲求の抑止」や「思考」をもう少し別の言葉で定義し直すことだろう.しかし,ここでは差し当たりヘーゲルの区別を受け入れる.
8. 前掲書, 52-53頁.
9. 前掲書, 54頁.
10. ロバート・ピピンは精神を「社会的-歴史的に達成されたもの(特定の実践や制度という達成事)」と言い換えている.また,彼は本稿で引用したものとは異なるテキストをもとに同様の「成果」の解釈を提示している.ピピン(2013), 64頁及び85-86頁を参照.
11. 実際、ヘーゲルの刑法論についてのモノグラフを著わしたMark Tunickは次のように述べている。「ヘーゲルの自由概念は、――私たちは何者であり、いかなるコミットメントが私たちを私たちたらしめるのかといった――アイデンティティの概念と密接に絡み合っている」。Tunick(1992), p. 59を参照。
12. ミヒャエル・クヴァンテは「[ヘーゲル研究者の間で]周知のように,ヘーゲルの「無限性」は,ある物が他のものとの関係のなかで自己自身と関係すること,主体(主観)が客体(客観)との関係のなかで自己自身と関係することを意味する.主体と客体との差異の廃棄はヘーゲルの無限性概念の論理的徴表である」(クヴァンテ(2011), 125頁)と述べており無限性についての適切な要約である.しかし,このようなものを「無限性」という名で呼ばねばならい理由の説明にはなっていない.
13. ヘーゲルにおいて,食欲をはじめとする欲望や衝動はそれだけではまだ思考を媒介していないために,単に直接的で自然的なものでしかないという扱いを受ける.
14. 「無限unendlich」の反義語「有限endlich」は,自己に終わりEndeがあること,つまり,自己と他のものとの間に敷居を設けられ,何らかのものとして規定ないし限定されている状態を指す.これは自己が何らかの規定を帯びているという意味の「特殊」と同じ事態である.
15. 別の著作では次のようにも言われる。「国家の中で自由が肯定的に実現される」「人間は人間がそこにおいて理性的である立脚地をただ国家のうちにのみ有している」(『世界史の哲学講義(上)』110頁)。なお、ここでの「理性的」とは、すでに述べたような意味での自由や無限を実現していることと解してよい。
16. ヘーゲルは「法」という語を広義にも狭義にも使う.広義には2.第二節冒頭で触れたように,意志が作り出す精神的なものであり第二の自然を指す.これが抽象法,道徳,人倫の三つに分けられる.狭義には,この広義の法のひとつである抽象法のみを意味する.本稿では広義の法を単に「法」とし,狭義の法を「抽象法」と呼び分ける.
17. 「人格Person」と「人格性Persönlichkeit」の違いをヘーゲルは明示していないが,人格性という際には特に人格の概念構造を念頭に置いていると思われる.主観と主観性,客観と客観性についてのクヴァンテの解釈を参照.クヴァンテ前掲書, 65頁.
18. 「定在Dasein」は「現存在」と訳されることもある。ヘーゲルは『法哲学』では定在の定義は下してないが、§29, 32などの用法を見ると「意志の現実化した形態」のこと(例えば物件)を意味しているようである。クヴァンテが言うように、「ある普遍的なものの例示」、「他者に対する特殊性」、「他の人格にとっても把握可能ななんらかの内容」(順に前掲書, 52, 61, 42頁)と言うこともできるだろう。なお、英訳ではexistenceとなっている。
19. 「人格性においては、複数の人格――ここでは[抽象法では]まだそのような区別はなんら生じていないのに,複数ということを言いたいのなら――は同等gleichである.」(§49 注解).
20. 例えば§41冒頭の「人格」.
21. Sacheは法学においては一般に「物件」の訳語が与えられるが,日常の用法では「物」「事柄」「事件」なども意味する。英訳ではthingとなっている.
22. 「人格は、どの物件の中へも自分の意志を置き入れる――このことによってその物件は私のものdas meinigeである――という権利を,自分の実体的な[本来的な]目的としている」(§44).
23. Eigentumは通常「所有」「所有物」「所有権」を意味するが,ここではそれ以上の含意がある.eigenという形容詞は「自分の」「固有の」を意味し,したがって,Eigentumとは「我が物」「自分にだけ属するもの」といった事態をも同時に表している,ヘーゲル的な意味での自由を表すのに好都合な言葉であると言えよう.なお,同種の関係は英語のpropertyとproperとの間にも見出せる.
24. この点に関しては解釈が難しい.ヘーゲル自身は別の著作『エンチクロペディー』のいくつかの箇所を参照するように要求しているが(§47 注解),ここでは検討できない.『法哲学』に即した一つの合理的な解釈としては,自分の肉体と生命は,他の人によって先取される可能性がないため,必然的かつ確実に,最初の所有物件になるとは考えられる(cf. §50).
25. 原語はunmittelbar Einzelner,英訳だとan immediate individualとなっている.
26. それゆえ,人間は自殺できるが,動物は自殺できないとされる(§47 注解).
27. 両著作のどこでもいいが,例えば『精神現象学』「序文」と『大論理学』「第二部」「概念一般について」でこのことは看取されるだろう.邦訳では特に『ヘーゲル全集4 精神の現象学 上巻』51-53頁及び『ヘーゲル 大論理学3』16-18頁を参照.
参考文献
引用の際、()は原文中の括弧を、[]は引用者による補足を表している。また、ヘーゲルが頻用する強調は引用文では外した。
<一次文献>
*『法哲学』について
本稿では引用の際に§だけを記した。
G. W. F. Hegel, Grundlinien der Philosohpie des Rechts, in: Werke in zwanzig Bänden, Bd. 7, Suhrkamp Verlag, 1970.
訳出に際しては下記の邦訳を参考にしたが、適宜変更を加えてある。
「法の哲学」『世界の名著35 ヘーゲル』、藤野ほか訳、中央公論社、1967年、149-604頁.
英訳は以下を参照した。
G. W. F. Hegel, Elements of the Philosophy of Right, tans. by H. B. Nisbet, Cambridge University Press, 1991.
*ヘーゲルの他の著作について
G. W. F. ヘーゲル『世界史の哲学講義(上) ベルリン 1822/23年』伊坂青司訳,講談社,2018年.
『ヘーゲル全集4 精神の現象学 上巻』金子武蔵訳,岩波書店,1971年.
『ヘーゲル 大論理学3』寺沢恒信訳,以文社,1999年.
<二次文献>
生松敬三(2002)『社会思想の歴史』岩波書店.
岡崎龍 (2016)「国家学講義」寄川条路編『ヘーゲル講義録入門』所収,法政大学出版局,119-133頁.
加藤尚武 (1999)『ヘーゲルの「法」哲学(増補新版)』青土社.
クヴァンテ,ミヒャエル (2011)『ヘーゲルの行為概念』高田純ほか訳,リベルタス出版.
権左武志(2010)『ヘーゲルにおける理性・国家・歴史』岩波書店.
ピピン,ロバート・B (2013)『ヘーゲルの実践哲学』星野勉監訳,法政大学出版局.
三浦和男 (1991)「重要専門用語の解説」G. W. F. ヘーゲル『法権利の哲学』所収,未知谷,70-89頁.
Tunick, Mark. (1992), Hegel’s Political Philosophy, Princeton University Press.