2022 年 2022 巻 49 号 p. 34-45
私は自己自身と一致しないことに苦しむ
リクールの『過ちやすき人間』における葛藤の問題
小泉 圭徳1
1.問題設定
「感情は葛藤であり,そして人間を根源的な葛藤として開示する」(HF. 157).P.リクールはその前期の著作『過ちやすき人間』(1960)のなかでこのように述べている2.この印象的な一文から,哲学的人間学を構築しようとしたリクールにとって,〈葛藤〉conflitという概念が重要な位置を占めるはずだということが伺える.ここで,「はずである」と言わざるを得ないのは,この著作において葛藤という観念は細切れに現れるにすぎないという点にある.この点に注意すると,葛藤の概念はこの著作において,さして重要ではないとも思えてくる.とはいえ,この著作において,リクールが人間の根源的な構成に葛藤がかかわる旨を繰り返し述べているという点は注目に値する.それというのも,この『過ちやすき人間』という著作の眼目は,人間の〈過ちやすさ〉faillibilitéが人間の根源的な二元性のあいだの媒介の脆さにあることを示すことであり,葛藤は人間の根源的な構成という同書のまさに中軸をなす問題にかかわるからである3.
しかしながら,これまでのリクール研究においては,葛藤の概念に関してほとんど論じられてこなかった.おそらく葛藤への言及が限定的であるという制約に加えて,この著作のメインテーマである〈過ちやすさ〉の概念の陰に隠れてしまったこともまた要因の一つであろう.とはいえ,Ihde(1971)やGreisch(2001)はその例外である4.Ihde(1971)の主眼は『過ちやすき人間』の議論について現象学的アプローチと,リクールがカントから受けた影響との結合を明らかにすることにあった.そこでは,葛藤の概念は単に人間の根源的な不均衡の「個人化」であると表面的に述べられるにとどまった.また,リクール哲学の統合的解釈を試みたGreisch(2001)は,リクールの哲学が解釈学へと舵を切ることになった方法論的な決定がなされた著作として『過ちやすき人間』を位置づける.そのなかで,Greischは葛藤の概念についても踏み込み,葛藤と,感情の脆さを生じさせるエロスとエピテュミアとの二元性との関係を明らかにしたものの,リクールの感情の哲学の鍵概念である〈内面化〉と葛藤の概念との関係について考慮されていない.これらのことから,『過ちやすき人間』における葛藤の概念の内実について十分に明らかにされているとは言い難い.
そこで本稿ではリクールの『過ちやすき人間』のなかで論じられる〈葛藤〉の概念が意味するところについて明らかにしたい.本稿は以下の順番に従って進む.まずは数少ない葛藤へのリクールの言及を寄せ集めよう.そこで明らかになるのは,リクールの考えによれば,感情は人間の存在論的特性である不均衡を葛藤として内面化するという点である.これは人間の不均衡と感情による内面化に分けられるため,まず,人間の不均衡によって何が意味されているのか,ついで,感情による内面化がどのような事態なのかを明らかにする必要がある.そののちに,ようやく,リクールが「感情によって内面化された人間の不均衡」によって言い当てようとした葛藤がいかなるものであるのか現れてくることになるであろう.
2.感情に内面化された不一致としての葛藤
『過ちやすき人間』における葛藤に対する言及の少なさに比して,リクールが葛藤の概念に与える位置づけは重要なものである.哲学的人間学を主題とする同書において,「感情が明かすのはまさしくこの秘められたひび,自己と自己との不一致である.感情は葛藤であり,人間を根源的な葛藤として明らかにするのである」(HF. 157)と述べるリクールの言葉は葛藤が人間の根源的なあり方にかかわるものであることを示唆しており,葛藤の観念に対するリクールの位置付けを証言するものである.しかしながら,葛藤についてリクール自身が直接的な仕方で語る機会は少ない.そこで葛藤の概念を解釈するにあたって,同書での直接的な言及を寄せ集め,葛藤の観念を読み解くよりどころを見出すことにしたい.
感情のもろさについての議論の結びのなかで,葛藤についてリクールは言及する.リクールは,主観と対象との二分法の手前に位置づく感情が,理性と感性との二元性を,快楽と幸福という二つの目標の間で生じる不均衡として感じられるようにすると述べたうえで,次のように論じる.
感情のこの不均衡は新たな媒介,すなわちテュモス,心情の媒介を引き起こす.(中略)この媒介は人間存在の脆さが証明される無限定な感情の追求において自己自身の内で反省される.このとき葛藤は人間の最も根源的な構成にかかわるように思える.対象は綜合であり自我は葛藤である.人間的な二元性は(中略)主観性の葛藤の内で感情的に内面化される(HF. 148)
つまりリクールによれば,葛藤は人間の最も根源的な構成にかかわり,人間の二元性が葛藤において内面化されるのだという.本節の冒頭に引用した箇所を踏まえると,私たちは,葛藤とは感情によって明らかにされる人間のあり方に関わるものだと考える点に,リクールの一貫した姿勢を見出すことができるだろう.
さらに,別の箇所ではリクールは葛藤について認識における綜合と対比させながら語る.このとき,葛藤と人間の根源的なあり方との関係について,私たちはいくらかの示唆を得ることができる.
実際,感情のみが脆さを葛藤として明らかにするのである.感情の内面化の機能は,認識することの対象化の機能とは反対に以下のことを表現するのである.すなわち,対象の綜合のなかに投げかけられる人間の同じ二元性が葛藤において反映されるということである.(中略)私たちの人間性を生じさせる二元性を内面化することによって,感情はこの二元性を葛藤において劇化するのである.(HF. 122-123)
リクールは認識と感情がそれぞれ明らかにする人間のあり方とは人間の二元性であり,葛藤はこの二元性の反映なのであるという.言い換えれば,人間の二元性は葛藤という姿をとって現れる.そして,「感情が脆さを葛藤として明らかにする」という言葉と合わせて解釈すれば,先ほど私たちが確認した人間の自己自身との不一致と人間の二元性の脆さは同一のものであることがいえるだろう.これらのことが意味しているのは,葛藤とは内面化された人間の二元性という根源的なあり方の表現であるということである.
ここまでの議論をまとめるならば,リクールの考える葛藤とは感情によって内面化された人間の自己自身との不一致の表現であるという定式に落とし込むことができる.そこで,以降ではこの定式をもとに,構成要素を検討することによってリクールの葛藤の概念を明らかにしていく.
3.人間の根源的不均衡と媒介
前節で,私たちは葛藤についてのリクールの数少ない言及を寄せ集め再構成することに取り組んだ.そのなかで私たちが見出したのは『過ちやすき人間』における葛藤の観念を解き明かす定式である.そこで,本節ではこの定式の構成要素のうち同書の眼目にかかわる「人間の自己自身との不一致」に注目しよう5.
3.1.人間の二元性と媒介:「実存することは媒介することである」
この人間の自己自身との不一致を明らかにすることは,直ちに「不均衡」という言葉によって何が意味されているかを明らかにすることである.悪の可能性の問題を「過ちやすさ」という概念の解明により,理解可能なものにすることを課題とする同書のなかで提起される作業仮説によれば,人間の過ちやすさという存在論的な性質が刻まれているような人間の現実の「総体的な性格が人間の自己自身とのある不一致に存する」(HF. 21)という6.そして続けてリクールは次のように述べる.
この自己と自己の〈不均衡〉が過ちやすさの存在根拠ratioとなるであろう.もし,悪が世界のなかへと人間とともに入っていったのだとすると「驚くにあたらない」.なぜならば,人間は自己自身よりも大きくそして小さい不安定な存在論的な構成をあらわすただ一つの現実であるからである.(HF. 21-22)
つまり,人間の自己自身との不一致は「自己と自己との不均衡」であるとリクールはいうのである.したがって,「人間の自己自身との不一致」を明らかにすることは,「自己と自己との不均衡」を明らかにすることなのである.
ところが,この不均衡を探求するにあたってリクールは「私たちは人間のこの存在論的な特徴づけに直接に取り掛かることができる状態にはない.なぜならば,不均衡の観念に含まれる中間者の観念もまたきわめて奇妙なものであるからである」(HF.22)という.この中間者の観念が「奇妙なものである」のは,天使と獣とのあいだの中間者として人間を捉えるようにミスリードさせるものであるからである.しかしながら,リクールが「自己と自己との不均衡」と述べていたように,問題は人間の自己自身との関係において生じるものである.それゆえ,ここで論じられるべき中間者の観念もまた自己自身との関係におけるものでなければならないのである.そうであるからこそ,リクールは次のように述べるのである.
人間が中間的であるのは,人間が混合的であるからであり,人間が混合的であるのは,人間が媒介を行うからである.実存するという人間のはたらきは人間の外部にある現実,そして人間自身における現実のすべての様態とすべての水準の間で媒介を行うというはたらきそのものである.この点に,中間的存在という人間の存在論的特徴が存する.(中略)要するに,人間にとって中間的であるということは媒介を行うことである(HF. 23)
ここで述べられていることはとりわけ重要である.というのも「中間者」という観念に加えて,「媒介」「実存」というリクール哲学における鍵語が現れているからである.リクールによれば,媒介を行うことが人間の中間者性をもたらしており,実存することは媒介を行うことであるという.つまり,人間の存在論的な特徴づけは媒介を行うという働きにあるとリクールは主張するのである.
この「実存すること」も「媒介を行うこと」も,不均衡の観念を人間における有限なものと無限なものという二元性によって始めるという方法的決定と無関係なものではありえない.リクールはこの二元性について以下のように述べている.
問題はこの超越が単に有限なものの超越ではないかどうか,言い換えれば相互性もまた同じく重要なものではないのかである.(中略)私たちには,有限なものから出発する逆説の読解は逆の読解に対するいかなる優先権もないように思われる.この逆の読解によれば,人間とは無限なものであり,有限なものは,無限なものが有限なものの超越の指標であったのと同様に,この無限なものの制限の指標である.人間はパースペクティブに制限され,死に引き渡され,欲望に釘付けにされるのと同様に,限定されない合理性、全体性そして至福に宿命づけられているのである.(HF. 23)
つまり,リクールは一方でパースペクティブ,死,欲望に縛られる人間の有限な側面,他方で合理性,全体性,至福へと突き動かされる人間の無限な側面が一つの人間を構成しているという事実を捉えようとしている.それゆえ,「実存すること」はヤスパースやサルトルのような特別な意味を持たないとはいえ,世界のなかで対象とかかわる人間がこのような二元性を持つこと含意している.そして「媒介を行うこと」は対象つまり外的世界と自己との媒介だけでなく,自己自身との関係において生じる,人間の二元性を構成する有限なものと無限なものとのあいだでなす媒介をも意味するのである.
この「媒介を行うこと」が外的世界と自己との間だけではなく,自己自身との関係においても生じるので,「媒介を行うこと」において「自己と自己との不均衡」の観念が問題となるのである.
3.2.人間の脆さとしての不均衡
人間の二元性を構成する有限なものと無限なものとのあいだでの媒介において「自己と自己との不均衡」が生じるのであるとすれば,リクールはそれによってどのようなことを捉えようとしていたのであろうか.どうして「自己と自己との不均衡」が生じるのであろうか.この点について明らかにするために,私たちはリクールが何を不均衡であると論じたのかを明らかにしよう.不均衡は媒介されているもの同士の関係についていわれるので,不均衡とは何か,どうして不均衡が生じざるを得ないのかを明らかにすることは同時にどのように媒介がなされるのかを明らかにすることである.
ところで,媒介される項を問題にするのではなく,媒介そのものを分析することはリクールの議論の進め方に適っている.というのも,有限なものと無限なもののいずれかを特権化することを避けるため,リクールは,「人間全体から出発しなければならない.すなわちそれは人間の自己自身との不一致,人間の不均衡,人間が実存することにおいて行う媒介という総体的性格のことを意味している」(HF. 24)と述べて,媒介,不均衡という人間の総体的な性格から議論に取り掛かるからである.そこで私たちは,認識する,行為する,感じるという人間が対象を目掛けて行うはたらきのそれぞれの領域のなかで,リクールがどのような媒介の契機を見出しているのか,を明らかにしよう.
認識における超越論的構想力による媒介は,リクール自身によって実践と感情の領域における媒介のモデルとして位置づけられる.「超越論的構想力の媒介のモデルに基づいてのみ,私たちは実践的領野,情動的領野において,中間的あるいは媒介的な機能が持つ新たな諸形式を理解することができるのである」(HF. 26).対象を認識することが可能になるのは,超越論的構想力が悟性の概念と感性的直観を綜合するからである.しかしながら,リクールによればこの超越論的構想力そのものを理解することが難しいという.
超越論的構想力は謎のままである.それというのも,私たちが受容すること,つまり触発されることが何を意味するか理解しているからであり,知性的に規定することが何を意味するか理解しているからである.私たちはこれらの能力が互いの機能を交換しえないことを理解しているのである.(中略)明るい視覚の中心にこのような盲点のようなものが存在している.この盲点は魂の機能であるのだが,カントはまさしくその魂の機能について,それが〈盲目ではあるが不可欠〉と語るのである.要するに,この媒介項に固有の知解可能性はないということである.(HF. 59)
超越論的構想力は対象の綜合において悟性の働きと感性の働きを近づけ接合させようとする.しかしながら,実際には「これらの能力が互いの機能を交換しえない」ものであるがゆえに,超越論的構想力自身を反省することはできず,盲点のようなものとなってしまうのである.悟性と感性とのあいだの埋めることのできない隔たりが認識における不均衡なのである.
この超越論的構想力の媒介のモデルは実践的領野において尊敬の感情にあてはめられる.理性は実践的領域において人間が道徳的であるために欲求能力に影響を及すことができなければならない.さもなければ,理性は単に原則でしかなく,人間を行動へと規定することができず実践的でありえないからである.このことは,アプリオリな動機としての尊敬の感情において生じる.それゆえ,リクールは「(前略)尊敬もまた〈中間的な〉逆説的なものである.それは常に感性,つまりここでは欲求能力にも,理性,つまりここでは実践理性から生じる義務の能力にも属すのである」(HF. 90)と述べ,尊敬が超越論的構想力にもまして逆説的なものであることを指摘する.
〈尊敬〉の逆説的な構成は,超越論的構想力の逆説的な構成がそうであったように,実践的綜合に基づくこの感情が砕かれることなく反省されえないことを証明している.尊敬において,私は服従する臣下であると同時に命令する君主である.しかしながら,以下の仕方を除いては,私はこの状況を表象することができない.すなわち,二重の帰属のように,つまり〈感性界に属すものとしての人格が,同時に自らが叡智界にも属す限りにおいて,自らの固有の人格性に従うように〉である.この二重の帰属において,不一致の可能性が刻み込まれており,それは人間の脆さをなす実存的な〈断層〉failleとしてなのである.(HF. 91-92)
人間は理性的存在者として叡智界と,感性的存在者として感性界に二重に帰属しているが,理性が感性を排除するがゆえに,両者のあいだは越えられない壁によって画されている.リクールによればまさしくこの点に「不一致の可能性」「実存的な断層」が存在するのである.
認識の領野,実践的領野においてそれぞれ見てきたように,結局のところ,媒介される項同士が互いに適合しないことがその媒介を脆く不完全なものにする.超越論的構想力と尊敬の感情はそれぞれが媒介する項同士の不適合を乗越えてしまう一方で,媒介される項同士の不適合,不一致は打ち消されることがなく残り続けるのである.このような逆説,「実存的な〈断層〉」をかかえた媒介をリクールは〈自己と自己との不均衡〉というのである.
4.感情の不均衡—不安定な自我
さて,ここでいま一度,進捗を確認するために,本稿の冒頭で示したリクールによる葛藤の定式に立ち戻ろう.それによれば,「葛藤とは感情によって内面化された人間の自己自身との不一致の表現である」.前節では,この定式のうち,「感情によって内面化された」を括弧に入れ,「不均衡」(不一致)に焦点を当てた.リクールのいう「不均衡」が媒介される項同士の不適合を抱えた媒介であることが明らかになった.そこで,本節では,前節で論じられなかった「感情によって内面化される」とはいかなることかを捉えることにしよう.
4.1.「真の感情は深い」—感情の内面化
リクールのいう「感情による内面化」とはいかなるものかを明らかにすることは,感情の意味は認識することと感じ取ることの相互性のなかでのみ現れるものであるというリクールの主張を読み解くことである.なぜならば,リクールの立論は認識することと感じ取ることとの弁証法において示される感情の特異な二重の志向性を,認識における対象化と対比する仕方で感情における内面化によって説明しようとするからである.
この感情の特異な志向性とは,リクールによって「感情の逆説」とも呼ばれるもので,感情の本質的な性格とみなされている.「ここに感情の逆説が存在する.いかにして同じ体験が事物の相を指し示し,その事物の相を介して自我の内密性を表現し,説明しそして明るみにすることができるのか」(HF. 101).感情とは何かについて抱かれるものであり,その「何か」の相を表示するとともに,当の感情を抱く人間の心的状態をも同時に表示する.したがって,私の抱く感情は外的な対象へ,そして私の内面へという正反対の方向に向かうことになる.そこにリクールは感情のアポリア的性格を認めるのである.感情がひとたび主観的なものでしかないとみなされるや,この感情が持つ正反対の方向づけのうち,外的世界への方向が見失われてしまう.感情にとってこの外的な世界への方向付けは不可欠の契機となっている.「いうなれば,感じ取られた質を世界へと方向づけることviséeにより,感情は触発された自我moiを表現するのである」(HF. 100).外的世界への方向付けによって,感情は人間の心的状態を示すのである.
このように外的世界への方向付けは感情と外的対象に向かう認識との近しさを示すものの,感情はこの点に関して認識とは異なっているところがある.それは「感情の対象」とはいわず,「感じ取られた質」,さらには「情動的相関項」というリクールの迂遠な言い回しに表現されている.リクールは,感情として抱かれるものは,世界に実在するためには事物という外在性の契機を必要とするので,そのものとしてはあくまでも感じ取られた質,情動的相関項として語るにとどめるのである.しかしながら,このように対象を措定するものではないからこそ,他方で,感じ取られた質は,既に述べられたように,私が外的世界から私の触発されるあり方を表現するのである.このことが意味するのは私たちが世界に内属していること,つまり,主観と対象へと分割される以前に私たちと世界とが結びついていることである.リクールは以下のように述べてこの点を指摘している.
対象としての実体のうえに感情は感じ取られた質(情動的相関項)を投影する限りで,対象に機制されているように見える.しかし,感情の質は主観に対峙する対象ではなく,世界との不分割のつながりの志向的な表現であるので,同時に感情は,魂の色合いとして,情動として現れる.朗笑するのはこの情景であり,陽気であるのは私である.感情はこの情景に対する私の帰属を表現するのであり,情景は反対に私の内密性の記号であり暗号となるのである(HF. 105)
つまり,リクールの考えによれば,朗らかに上機嫌であるという私の感情は風景に投影されるや,まさしく小説の情景描写がそうであるように,私の内面を映し出す記号となる.その一方で,私はその情景を離れたどこかから眺めているのではなく,私はその一隅をしめている.このような私の世界に対する帰属こそ,感情において中心的なものである.この点をリクールは「感情が全体としてそれ自身であるのは,「すでに……のなかにいる」という意識によって,根源的な内在性によってのみである.」(HF. 119)と述べて指摘するのである.
この世界への内属関係はたんに上述のような情景,言い換えれば認識対象との情緒豊かな関係に限定されない点が重要である.実際,リクールは次のように述べて,この関係が行動において人間が世界と結ぶ関係でもあることを指摘する.
事物へと指向された情動のアクセントによって感情が表示するものは傾向の志向性そのものである.愛おしいもの,厭わしいもの,容易なもの,困難なもの,こうしたものは私たちの欲望が〈それに向かって〉近づいていき,〈そこから遠くへと〉離れていき,〈それに対抗して〉戦うものなのである(HF. 102)
つまり,感情はもちろん事物の感じ取られた質を表示するのと同時に,その質は行動を方向づけ,生じさせるような情動を意味しているのである.このことは,感情における根源的な不均衡を見出そうとするリクールの試みにとって,重要な意味を持つ.なぜならば,リクールは人間をして行動に駆り立てる情動,さらにいえば欲望の領野のなかで,人間の感情における根源的な不均衡を探し求めるからである.
したがって,感情による内面化とは,単に主観的なものとして捉えることではないという点が明らかである.むしろ,世界と私との不分割な関係において成就する事態なのである.認識主観が対象から距離をとって眺めるのに対して,世界とのこの情緒的な関係は私の内面の「深み」にまで達する.「真の対象には距離があり,真の感情は深い.大きな喪の内面的傷のように,真の感情は私たちに達し,ときに私たちを刺しぬく」(HF. 105).この深みに達し,わたしたちを刺しぬくまでに感じられることこそ,内面化が意味することなのである.さらに,この「深み」において感じるという事態が生じるのは情景だけではなく,人間を行為へと差し向ける情動についても同様なのである.
4.2.不安なテュモスと自己の終わりなき探求
感情の内面化の働きとは,自らの深みにおいて感じられることであるならば,自己自身との不一致(不均衡)として,脆さとして感じられるのはいかなるものであろうか.これまでの分析から明らかになったのは以下の点である.すなわち,リクールにとって人間の現実の「総体的な性格」,媒介が重要であること,そして人間の自己自身との関係における媒介が主に問題になっていること,さらに,媒介される項同士の不適合を抱えた媒介という逆説的な性格が脆さ,〈自己と自己との不均衡〉によって言い表されていることである.そうであるならば,リクールは情動的領野における脆い媒介を人間のいかなる点に見出そうとしているのかが問題となる.
これまでリクールが認識の領野と実践的領野において見出してきた不適合は,それぞれ悟性と感性,義務の能力としての理性と欲望の能力として感性との間に生じたものであった.人間を行動に駆り立てる情動において,問題となるのはその行動を終わらせるもの,つまり「欲求・愛・欲望の運動を終わらせる感情」である.一方で,空腹が食事という行動を促し,食事によって空腹が満たされるように,快楽は不足-行動-充足の有限なサイクルの運動を完成させるものである.これに対して幸福は一つの行動ではなく,人生全体についていわれるものである.幸福は人間の全体的な仕事,宿命,使命の結末である.快楽と幸福という「欲求・愛・欲望の運動を終わらせる感情」を指摘したうえで,リクールは次のように述べる.
したがって,エピテュミアとエロスとの両極性を最もよく表示するのは,これら二つの結末,これら二つの完成,これら二つの成就の内的な不一致なのである.なぜならば,この「終わり」の二元性こそ,〈運動〉〈欲望〉の二元性を突き動かし統制するものであって,そして人間の欲望を内面から分裂させるからである.(HF. 109)
つまり,リクールによれば,快楽を目指すエピテュミアと幸福を目指すエロスが人間の欲望の二元性(両極性)を形成しており,両者のあいだに不適合が存在するという.「テュモスはビオスとロゴスとのあいだの生きた過渡的領域をなしている.テュモスは生命的情動性,言い換えれば,欲望(エピテュミア)と,『饗宴』においてエロスとよばれる精神的情動性を分離すると同時に統一する」(HF. 98)とリクールは述べるように,エピテュミアとエロスを媒介するものこそテュモスである.
このテュモスの脆さとはいかなる点に存するのであろうか.ここで私たちが注目したいのは,リクールがテュモスを不安によって特徴づけるという点である.以下に引用するテュモスが不安であると述べられる一節は,リクールのテュモスの脆さについての考えが凝縮しているのでとりわけ重要である.
自己が決して確信しないことは注目すべきことである.自己が探求される三重の追求はそれ自身決して達成されはしない.アリストテレスが非常に強力に論証したように,快楽がある種の仮初めの安息であり、幸福がとりわけ持続する安息であるのだとしたら,テュモスは不安である.〈心情〉がテュモスである限りで,心情は本質的に自我において不安なものである.私はいつ充分に所有するのか.私の権威はいつ充分に安定したものとなるのだろうか.私はいつ充分に評価され承認されるのであろうか.このようなすべてにおいてどこに〈充分〉があるのだろうか(HF. 142).
ここで重要なのは以下の二つの点である.後述するが,リクールは,自己を社会的、文化的な関係において,とりわけ,自己の所有,権力,評価をめぐって他者と切り結ぶ紐帯のなかで確立されるものとして論じている.それにもかかわらず,リクールによれば,自己が自己を探求するこの三重の追求において,自己は決して確信しないのである.この点が重要な点の一つである.そして,自我において心情,テュモスは不安であり,テュモスの不安は「どこに〈充分〉があるのだろうか」という反語に行きつくことが指摘されている.つまり, リクールにおいて,このテュモスの不安の問題は自己の問題と不可分なものである.なぜならば,テュモスはまさしく自己が構成される場であるからである.この点について,リクールは以下のように述べている.
両義的かつ脆いテュモスの星のもとに,生命的な情動と精神的な情動とのあいだの情動的生との一切の中間地帯,つまり,生きることと思考すること,ビオスとロゴスとの間の推移をなす一切の情動性を位置づけることができる.注目すべきことは自然的存在とも他者とも異なる自己が構成されるのはこの中間地帯においてであるということである.エピテュミアとエロスの星のもとに,私たちは生きることそして思考することの特別な情念を探求してきた.生きることと思考することはそれぞれ自我の手前ないし彼方にある.欲望を〈自己〉にする差異と主体性の性格を欲望がまとうのは,テュモスによってである.反対に自己は共同体ないし理念への帰属の感情のなかで乗り越えられるのである.(HF. 123)
つまり,リクールによれば,エロスの手前,エピテュミアの彼方,すなわちテュモスの領域において,自然的存在者,他者との差異を通じて,自己が構成されるのだという.言い換えれば,自己はエロスとエピテュミアの「内的な不一致」の場のなかで構成されることになる.この「内的な不一致」こそ,「どこに〈充分〉があるのだろうか」という事態を引き起こすものなのである.
この点を明らかにするために,幾ばくか自己の三重の追求としてリクールが論じるものに立ち入りたい.なぜ心情が不安となるのが自我においてであるのか解釈を試みよう.私たちの考えでは,自己の追求が「他者との差異を通じて」行われること,つまり他者性を経由しなければならない点にテュモスの不安があるように思われる.それというのも,リクールは「しかしながら他者との出会いこそ,感覚的欲求の周期的かつ有限な相を打ち破るものである」(HF. 127)と述べて,他者との出会いという契機によって自己の追求はエピテュミアの領域を超え出ることを指摘するからである.この「三重の追求」とよばれるものは,所有,権力,評価における自己の追求であるが,いずれの領域においても自己の追求は他者性を介すことが不可欠なものとして考えられている.
自己は「私のもの」によりかかることによって追求される.この意味で所有は自己を構成する契機である.私が所有する限りで所有物は私の所有するものであるので,他者とも,自然の事物とも異なる自我を構成し続けるためには,自我は所有し続けなければならないのである.「私のものの他者性は私と私のものとのあいだの断層である.この他者性は,私が所有し、私がそれを保持する限りにおいて私が所有するものを喪失する恐れによって生じる.所有はかくして喪失に対して抵抗する諸力の全体なのである」(HF. 130-31)この意味で,所有において自己は自らの構成を他者性に負っているのである.
そして,自己は自らが負う社会的役割によって規定される.社会的役割は社会的な支配-服従関係のなかにあり,それは「最終的な審級において政治的である権威に認可される諸制度によって,認知され保証されるという理由によってのみ維持される」(HF. 134)のである.つまり,自己は自らの社会的役割を果たすために,制度から権力を与えられ,保証されねばならないのである.それゆえに,自己は権力において制度という他者性に負わざるを得ないのである.
最後に,他者からの評価・承認は自己の構成にとって忘れてはならない契機である.「私自身にとっての私の実存は,他者の意見におけるこの構成に依存している.あえて言うのであれば,私の〈自己〉を私は私の自己を是認する他者の意見から受け取るのである」(HF. 137).自己は他者のまなざしを介して構成されるのであり,この意味で自己の構成は他者からの評価,承認に負うのである.
このように,テュモスは自己を追求し構成するのに他者性を常に経由しなければならないということがわかる.この点が端的にリクール自身の言葉で語られているのは,評価において自己が探求されるときである.「生に対する執着,つまり〈生命的な〉エゴイズムは私と私自身との短絡的,直接的関係である.自己評価,つまり〈テュモス的〉エゴイズムは私の私に対する間接的,媒介的な関係であり,他者の評価する視線を経由するのである」(HF. 140).このように自己の〈テュモス的〉な探求は他者性を経由するがゆえに,自己は自らの所有,権力,評価を維持し続けなければならず、つねに自己は不安定なものにならざるを得ないのである.
このテュモスの不安が原因となって,「自己は決して確信しない」,つまり,自己が自らの所有,権力,評価を維持する努力は飽和されることがない.そうだからこそ,「私はいつ充分に所有するのか.私の権威はいつ充分に安定したものとなるのだろうか.私はいつ充分に評価され承認されるのであろうか.このようなすべてにおいてどこに〈充分〉があるのだろうか」(HF. 142)という事態へと行きつくのである.
このような〈充分〉が見いだされない事態へと到達するのは,テュモスがエロスとエピテュミアとの過渡的領域であるという位置づけによってである.リクールによれば,「よく限定された行為を終わらせ、その行為を安息によって封じ込める快楽の有限なものと幸福の無限なものとのあいだに,テュモスは無限定なものと、それとともに終わりなき遂行に結びつく脅威とを滑り込ませる」(HF. 142)のだという.それゆえ,「どんな行為ももはや終わりのあるものではない.すべての行為は奇妙に中間的になってしまった」(HF. 143)のである.つまり,自己の三重の追求が常に継続されなければならないのは,テュモスがエロスとエピテュミアとの混合であるという点にも起因するものである.この点をリクールは情熱passionについて述べるなかで明らかにしている.
したがって情熱は幸福の欲望にこそ結び付けなければならないものであって,生の欲望にではない.情熱のなかに実際,人間は自らのすべてのエネルギーをすべての心情を注ぐ.それは欲望の主題とするものが人間にとってすべてのものになったからである.この〈すべて〉とは幸福の欲望のしるしである.生はすべてを望みはしない.〈すべて〉という語は生にとっては意味を持たないものであるけれども,精神にとってはそうではない.精神こそ〈すべて〉を欲し,〈すべて〉を思考し,〈すべて〉のうちにのみ安らぐのである(HF. 146)
テュモスが精神的な欲望であるエロスと「交換可能」であるがゆえに,〈すべて〉を賭けて〈すべて〉を欲望する情熱的なしるしを帯びるのだという.このことはまさしく上段で引用した〈充分〉のしるしと対応している.半ばエロスであるテュモスは〈すべて〉を望むがゆえに〈充分〉となることがないのである.
とはいえ,テュモスが混合的ではなく,エロスそのものであるならば,〈すべて〉を捧げて〈すべて〉を望むことに苦しむことはなかったであろう.なぜならば,根源的な感情としてのエロスは理想へ,そして友愛への自らの身を顧みない献身へと私たちを駆り立てるものであり,その意味で自己,自己自身を超越しているからである.しかしながら,テュモスはあくまでも自己,自己自身に定位し続け,そして半ばエピテュミア的であるので,運動の終わりを待ち望む.この点にテュモスの安らぐことのない,脆く不安定な状態が明らかになるのである.
したがって,次のようにまとめることができるであろう.感情は世界と自己との間の不分割の関係を自己の深さにおいて露わにする,言い換えれば感じられるようにするのである.そして人間を行動に駆り立てるエロス,エピテュミアという情動的二元性は「内的な不一致」を抱えたまま,両者の過渡的領域である,テュモスによって媒介される.このテュモスにおいて,自己が構成され探求されることになる.この点にテュモスが不安として規定される理由がある.私たちの分析によれば,それは自己の追求が他者性を経由しなければならないという点にあった.そしてその不安によって「自己が決して確信しない」という事態へと至ってしまうのである.それはテュモスがエロスとエピテュミアとの混合,両者の中間者であるがゆえに,「もう充分」という飽和点を欠いた無限定さをテュモスが持ち込んでしまうからである.この点にテュモスの脆さが存するのである.
4.3.根源的な自己自身との不一致の苦しみとしての葛藤
私たちはここまで「葛藤とは感情によって内面化された人間の自己自身との不一致の表現である」という定式に導かれてきた.自己自身との不一致としての人間の不均衡は,人間が実存することによってなす媒介が内部に断層を抱えていることを意味していた.この不均衡は感情において感じられるものとなり,テュモスの脆さとして自覚されるのである.ここまでの分析から「葛藤」の概念の内実を解釈していこう.
葛藤とは感情における人間の不均衡の表現なのだとすると,葛藤が表現するものは,媒介される項同士の不適合,「実存的な〈断層〉」をかかえた媒介,脆い媒介であるはずである.ここで私たちは,情動的領野における不均衡の契機であるテュモスの脆さが,3節で分析した媒介の二つの用法に対応する二点にかかっていたことを思い出そう.
一つは自己と自己とのあいだでなされる媒介であり,葛藤の概念の解釈を試みる私たちにとってとりわけ重要であるのがこの意味における媒介である.情動的領野において,私たちはエロスとエピテュミアの内的な不一致を見てきた.「感情は二つの根本的な情動的指向の間で自我を膨張させる.すなわち,快楽の切迫した完成のなかで実現されるような有機的な生の指向と,全体性,幸福の完成を渇望する精神的な生の指向である」(HF. 148)とリクールが述べるように,このエロスとエピテュミアの内的な不一致は,両者によって自己を膨張させ,自己の内に断層を走らせるのである.リクールが「葛藤」の概念によってとらえようとしたのはまさしく情動的二元性がもたらすこの不均衡である.実際,リクールは「快楽の原理と幸福の原理のあいだの不均衡が,葛藤の人間に固有の意味を出現させる.(中略)私たちの人間性を生じさせる二元性を内面化することによって,感情はこの二元性を葛藤において劇化するのである」(HF. 123)と述べるのである.
ここで私たちは,断層failleと「膨張させる」distendreとのあいだに地質学的な連想があることを指摘することで,リクールが言い表そうとしたニュアンスを捉えることができるであろう.distendreの名詞形distentionは正断層の原因である引張応力を含意する.この点を踏まえると,リクールが「感情が根本的な情動的な二つの指向の間で自我を膨張させる」と述べるとき,地面に亀裂が走って断層面が露出するように,人間の根源的な分裂,裂け目が感じられることが意味されているように思われる.
実際,distendreが暗示的に含意する奥に隠れていたものが表に現れ出てくるイメージは,まさしく葛藤について言及する箇所でリクールが主張していたことと合致する.「感情が明かすのはまさしくこの秘められたひび,自己と自己との不一致である.感情は葛藤であり,人間を根源的な葛藤として明かすのである」(HF. 157).つまり,リクールが論じるところによれば,感情が人間の根源にある「秘められたひび」,言い換えれば不均衡を明かすというのである.さらに,そのとき,私たちにとって,その根源的な不均衡は葛藤として感じられるのである.そうであるならば,葛藤によって私たちは苦しむとき,その苦しみにおいて,私たちは自己自身が人間として脆いこと,そして根源に抱える断層が体験されるはずである.この意味で葛藤は感情における人間の根源的な不一致の表現なのである.
もう一つの媒介とは自己と外的世界とのあいだでなされる媒介である.これはテュモスが不安とならざるを得なかった自己の構成にかかわる.自己と他者の所有の相互排除,制度が保証する自己と他者との支配服従関係,自己を評価する他者のまなざしという対象性を介して,自己が構成され,維持される.このとき,「自己は決して確信」せず,この三重の追求が終わりなきものとなってしまうのである.テュモスにとって,自己とは自らが探し求める当のものであるので,エロスのように自己を捨て自己を超越することができない.しかしながら,他方で,テュモスが追求する自己は,生への執着という自己自身との直接的な関係ではなく,他者性を経由して構成されるような自己なのである.それゆえ,幸福という持続する安息どころか,快楽という仮初めの安息にすらテュモスは与ることができないのである.それにもかかわらず,テュモスは半ばエロス的であるがゆえに,この終わりなき探求に〈すべて〉を賭けるのである.リクールが「情熱の人の不安な献身」と形容する,自己を追求し続けなければならないテュモスの窮状は,裏を返せば,自己は自己自身になろうとする生成の運動によって特徴づけられることになる.そうであるならば,結局のところ,自己はつねに自己自身と一致しないことを意味するのである.
感情が「根源的な葛藤として明かす」のものがうちに断層を抱えた媒介であるとするならば,この自己と自己自身とが一致しない事態もまた葛藤によって表現されるものであるはずである.というのも,エロスとエピテュミアという情動的二元性が抱える断層ゆえに,テュモスにおける終わりなき探求が生じるからである.
したがって,エロスとエピテュミアが自己を膨張させることによって生じる断層,そして自己を探求するテュモスが自己自身と一致しないこと,これらが感じられるという意味で,葛藤とは感情によって内面化された人間の自己自身との不一致の表現なのである.私たちは葛藤に苦しむとき,その苦しみは私たちの内奥に潜む断層を表示する感情なのであり,自己自身と一致しないことの苦しみなのである.
5.結論
ここまでの議論をまとめよう.私たちは2節でリクールの葛藤に関する言及のなかから抽出した「葛藤とは感情によって内面化された人間の自己自身との不一致の表現である」という定式に導かれてきた.この定式のうち,人間の自己自身との不一致であるという点を扱った3節において,私たちは不均衡と媒介について分析を行った.そこで明らかになったのは,リクールが人間の総体的な性格として不均衡,媒介を捉えており,不均衡は内部に断層を抱えた媒介を意味していたことであった.そして,4節において,私たちは感情,情動性の領域に足を踏み入れ,感情が内面化すること,テュモスの脆さについて明らかにしたうえで,葛藤によってリクールが何を意味していたのかの解釈を試みた.そこで明らかになったのは,感情による内面化とは「深み」において感じることであること,そしてエロスとエピテュミアという情動的二元性のあいだの内的不一致によってテュモスの不安定さがもたらされることである.ときに理性に与し,ときに欲望とともに理性に抵抗するテュモスに人間性を見て取るリクールは,半ばエロス的であり半ばエピテュミア的であるテュモスの性格付けによって,自己の探求が終わりのないものになり,自己が決して確信されない次第を見てとるのである.そして最後に,葛藤とはこのエロスとエピテュミアとの内的な不一致によってもたらされる人間の根源における断層の苦しみ,決して確信されないがゆえに常に自己自身と不一致であることの苦しみとして感じられるものであることを私たちは論じてきた.
これまで,リクールの葛藤の概念についてほとんど論じられてこなかったがゆえに,本稿での『過ちやすき人間』における葛藤の概念の解釈によって,リクールの哲学的人間学の一端を明らかにすることができたように思われる.しかしながら,リクールの採用する,対象を経由して思考を進める反省というアプローチが,私たちに直接的に体験されるように思われる感情,葛藤という論題に対して果たして適切なものであるのかという点についての検討や葛藤の哲学におけるリクールの葛藤の意義の解明について本稿では論じることができなかった.こうした点については今後の課題としたい.
註
参考文献
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