2022 年 2022 巻 49 号 p. 57-69
ジル・ドゥルーズの「アナログ的ダイアグラム」
霜山 博也
1.はじめに
ジル・ドゥルーズは後期の著作のなかで,何度も「ダイアグラム[diagramme (diagram)]」という概念を用いており,それは『千のプラトー』『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』『フーコー』などに見出すことができる.問題なのは,「ダイアグラム」がどのようなものかということである.ドゥルーズは「ダイアグラム論,すなわち純粋な力関係の表出,あるいは純粋な特異性の放射は,それゆえ,カントの図式論と同類なのである.つまり,ダイアグラム論こそが,自発性と受容性という二つの還元不可能な形態のあいだの関係を成立させるものなのだ1」と説明している.おそらく,ここにヒントがあるだろう.そこで,まずは「図式」を自発的な悟性と受容的な感性的を繋ぐものと考えていた,カントの超越論的図式論をみてみる.さらに,ダイアグラムをその記号学の一部として展開させた,パースの考えを参照することで,記号としてのダイアグラムを確認する.そこから,『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』のなかの「アナログ的ダイアグラム[diagramme analogique2]」という概念に注目することで,それがデジタル的なもの,あるいは,コードを含むものやアナロジーによるものとどう異なるのかを考察する.ダイアグラムが必要とされるのは,視覚的なものと触覚的なものの関係を変えるためであり,それによって新たな身体のありかたが引きだされる.最後には「アナログ的ダイアグラム」を情報化社会の問題や,情報概念そのもの,そして,現代アート作品と関連づけて考察するのが,本研究の目的である.
2.図式について
ダイアグラムにはさまざまな意味があり,線図,図表,図解,略図,図形,図式,一覧図,グラフなどと訳される.あるいは,「ダイヤ」とも言われ,列車などの交通機関の運行状況を一枚の図に表示したものを指すこともある.定義としては,「多数の要素や値などで構成される情報を視覚的に分かりやすく表すため,幾何学的な図形などを組み合わせて作成した抽象的,模式的な図3」のことである.「ダイアグラム」という概念を明確に用いたパースやドゥルーズが,それぞれどのような意味で捉えていたのかは後述することにして,この章では,ダイアグラムの意味の一つである「図式」を取りあげることにする.この「図式[Schema]」を哲学的に思考していたのがカントである.ドゥルーズは,「諸能力についての理論は,超越論的方法を構成する,一つの真のネットワークを形成する4」として,カント哲学においては感性,構想力,悟性,理性などの諸能力が関心に応じてさまざまな関係に入ることを指摘する.
一能力は,自らに固有の能力行使の法則を,それ自身の内に見いだしたとき,高次の形態をもつと言われる(たとえ,この法則から,他の諸能力の一つとの必然的な関係が生じようとも構わない.ゆえに,その高次の形態において,一能力は自律的である.)純粋理性批判は次のように問うことから始まる.高次の認識能力は存在するのか? 実践理性批判は次のように.高次の欲求能力は存在するのか? そして判断力批判は次のように.快と不快の高次の形態は存在するか5?
たとえば,「悟性は判断し,理性は推論する6」のだが,理性はその思弁的関心によって現象のみならず,物自体を認識することにも関心を持ってしまう.人間は感性によって条件づけられており,理性の関心にしたがってそれを超えたものを認識しようとすることは誤謬を招くだけである(霊魂,世界,神など7).そこで,『純粋理性批判』は,現象にのみ適用される概念で判断する悟性に立法機能を委ねることで,純粋理性の思弁的関心のありかたや,経験の可能性を超え出ることを〈批判〉するのだ.
それに対して,『実践理性批判』においては,道徳法則のために,理性の実践的関心に従うことがいわれる.なぜならば,理性的な表象とは,いかなる感情や感覚からも独立しているものだからだ.自分自身が作り出した意志ではないことによって左右され,行われてしまう行為は道徳的とはいえないからである.他の能力に立法行為をまかせると,道徳的な行為だったはずが気づかれていない別の目的や意図によって行われてしまうだろう.自分を振り回すような欲求を〈批判〉し,そこから自由になり,感性的な条件から独立した道徳法則への欲求が要請されるのだ8.『判断力批判』においては,まずは高次の快が問題となるだが,そこでは「無関心性[Interesselosigkeit]」ということがいわれる.たとえば,私たちは作品そのものを純粋に楽しんでいるつもりでも,ただ自分にとって快適なだけの感性的魅力や,理論や道徳などの知的傾向性を満たせたから「よい」と判断している場合がある.それは,作品そのものではなく,自分の関心を満たせたから「よい」のであって,作品自体の美的なよさとは無関係である.そして,こうした判断は多くの場合,作品の内容を判断することから生じるのであり,無関心性によって形式に対して判断をする9ならば,悟性概念による規定的判断力が〈批判〉され,悟性への従属から離れた自由な構想力とともにある反省的判断力が問われるようになる.つまり,「自由なものとしての構想力と,無規定的なものとしての悟性の一致である.これが,諸能力間の,それ自身で自由で無規定な一致10」となり,より高次の快をもたらす.また,あまりに広大で威力のあるものを前にするならば,それは構想力の能力を超えてしまうであろう.それはそのままでは表象へと至らないのだが,「感性界の広大さをひとつの全体にまとめ上げることをわれわれに強いるのは,理性以外の何ものでもない11.」そのとき理性と構想力のあいだで矛盾が生じるが,その不快は構想力がみずからの能力の限界を超えることで快となるのだ.崇高は,構想力の能力が限界を超えさせられてしまうことで生じる,不快の快である.
このように諸能力は関心に応じて, さまざまな関係をかたちづくっている.とくに,『判断力批判』において,反省的判断力によって構想力は悟性の規定から自由になったり,感性界の広大さを前にして理性の強制によってその能力が限界を超えたりする.ところで,美的判断ではなく,認識の関心において構想力の働きはどのようになっているのだろうか.そこでは,「構想力とはまさしく媒介作用を体現するものであり,認識という関心において立法を行うただ一つの能力としての悟性へと,諸現象を関係づける総合を行う12.」したがって,構想力は悟性の概念のために,感性的なものをそこへと結びつけているのだ.しかしながら,構想力の働きはそれだけではない.
カントの有名な答えによれば,構想力は図式化する.ゆえに,構想力において総合と図式を混同してはならない.図式は総合を予想する.総合はある種の空間とある種の時間の規定であり,その規定によって多様がカテゴリーに従う形で対象一般に関係づけられる.しかし,図式は,あらゆる時とあらゆる場所においてそれ自身でカテゴリーに対応するような空間—時間的規定である13.
カントはこれを「超越論的図式[transzendentales Schema]」と呼ぶ.それは,悟性的なものと感性的なものをつねにすでにあらかじめ結びつける「第三のもの」である(「図式は総合を予想する」).これについてハイデガーは,カントが『純粋理性批判』の第一版では,この「あらゆる時とあらゆる場所」における悟性と感性の総合を構想力に割り振り,第二版では,むしろ悟性の自発的活動へとこの総合の役割を近づけたことに注目する.そして,『カントと形而上学の問題』においては,第一版の解釈に注目し,イメージと時間のありかたについて考察する.それに対して,ドゥルーズは「図式機能は構想力の最も深い作用であるとか,この上なく自発的な巧みさであると考えるわけにはいかない14」と述べる.その理由は,「構想力が図式化を行うのは,悟性が取り仕切るとき,あるいは立法的権限をもつときだけ15」だからである.ハイデガーは『判断力批判』をあまり評価しないが,ドゥルーズはむしろそこに,超越論的方法論としての,関心におうじた諸能力の自由で自律的な関係のありかたを見出す.「図式」は、一方ではカテゴリー、他方では現象、あるいは、一方では悟性的なもの、他方では感性的なものである。それは、悟性のように自発的でありつつ、感性のように受容的なものでもあるのだ。
3.パースとフランシス・ベーコンのダイアグラム
それでは,「図式」に対して,ダイアグラムはどのような機能を持っているのだろうか.この章では,哲学者のチャールズ・サンダース・パースと,芸術家のフランシス・ベーコンのダイアグラムを確認し,その違いをみてみよう.パースの多様な仕事の中で,ダイアグラムが登場するのはその記号学においてである.
記号あるいは表意体とは,ある人にとって,ある観点,もしくはある能力において何かの代わりをするものである.記号はだれかに話しかける,つまりその人の心の中に,等値な記号,あるいはさらに発展した記号を作り出す.もとの記号が作り出すその記号のことを私は始めの記号の解釈項と呼ぶことにする.記号はあるものつまり対象の代わりをする16.
ここで言われていることは,彼の記号学は対象,記号,解釈項という三項関係からなっているということである.対象と記号を解釈項が結びつけ,記号の意味を担っている解釈項はそれ自体新しい記号となって,さらなる解釈項を生みだし,それも新しい記号となりまた解釈項を生みだしていく.この三項関係は無限に増殖していくのであり,多様で複雑な記号が生まれていくことになる17.まず,記号は対象との関係に応じて,「イコン[icon]」「インデックス[index]」「シンボル[symbol]」に分類されることになる.「イコン」は,その性質が対象と似ているので,その対象の記号となるもの.それは,あるものとその写真のように類似的な関係である.「インデックス」は,風見鶏が風の方向をあらわすように,物理的な因果関係や近接的な関係を示すものである.「シンボル」は,音声と文字のように一定の社会の約定によるもの(一般的約定的関係),あるいは,それを使用する心の働きによってのみ記号となるものである.その意味では,人間が用いている言語も約定にしたがっているシンボルであろう18.
そのなかで,ダイアグラムはイメージやメタファーとともに「イコン」に含まれる.パースによれば,ダイアグラムは「自分自身の諸部分における類比的な諸関係によって表意しているもの19」である.それは,「地図のように,対象内の要素間の関係が記号の構造に似ている20」のであり,他にも,人口の変化とそのグラフの関係のように,対象の部分と部分の間の関係の類似性をもつ21.この定義によって他にもあげられる例としては,分解組立図や地下鉄路線図などがある.ダイアグラムは,地図,人口変化のグラフ,分解組立図,地下鉄路線図などであり,それぞれの記号は地域,国や自治体における人口の増減,機械,地下鉄というそれぞれの対象が持っている諸要素の関係と似ているのである.解釈項には,情緒的解釈項や努力的解釈項などもあるが,この場合はなにより記号の論理的な帰結(論理的解釈項)として,そこからたとえばそれぞれ,目的地への行き方,何が人口の増減に影響しているか,これからの人口推移,部品の組立方法,そして,目的の駅へのルートなどを推論することができるものである.しかしながら,ダイアグラムの機能はそれだけなのだろうか,ただ眼で見えただけの諸要素の「関係の類似に還元22」してしまってよいのだろうか.その効果は,その場で少しだけ便利なものなのだろうか.
パースは独自の偉大な記号学理論において,まず類似によってイコンを,約定的な規則によってシンボルを定義する.しかし約定的なシンボルも(同型性の現象のせいで)イコンを含むこと,純粋なイコンは,大幅に質的類似を越え,もろもろのダイアグラムを含むことを彼は認めている23.
たとえば,まったく異なった物理的実体であったとしても,「ばね系の振動と電気系としての電気回路の挙動が同じであるのは,それらを記述する方程式が数学的にまったく同じ形式をしているからである24.」別の分野であり,別の約定にしたがっているはずなのだが,それでも同じようなシステムとして類似的な関係を持ってしまうのが「同型性」である.そこには,「イコン」が含まれているのだ.あるいは,宗教的な聖画像(イコン)であったとしても,(それを描く者は世俗から完全に切り離され,肉体の欲と情念からは解放されなければいけないのだが)描かれたものは世俗の他のものとの諸要素の類似があるであろう.純粋にコード化された約定もどこかで他のものに似ており,正確に対象と同じはずである画像も別のものと似ている.つまり,コードもアナロジーもあらゆるところに潜んでいるのだ.そして,問題なのはまったく同じものを描いているつもりでも,どこかにダイアグラムが潜んでいることである.それならば,逆に,別のありかたをしているダイアグラムを用いて,まったく同じものを描くことはできるだろうか.
フランシス・ベーコンは,みずからの制作の目標を「ある状況についての自分の感覚を,できるだけ自分の神経組織が受け取った通りに記録すること25」と述べていた.まず,問題なのはなぜ神経組織なのかということである.あたかも,肉体やそこにある器官では,とくに眼ではこの目標は達成されないかのようである.それから,画家はあまり使わないような「状況」や「記録する」といった言葉からも,ベーコンがただ何かを絵画に描いていたのではないこと,むしろ,そこで起こっていることを正確に絵画として残すことを目指していたのが分かるだろう.ベーコンは抽象画ではなく,具象画を描いていたとされるが,その絵画は具象的とはとても言えない人体の歪形やさまざまな構造などもみることができる.それは,具象的なものでありつつも,その絵によって説明したり,物語を語ったりすることを慎重に排除しているようである.
具象的な前提は,はじめに思ったよりもずっと複雑なのだ.おそらくそれは見るための手段なのだ.その意味で,これは説明的,説話的再現であり表象である(写真,新聞).それにしても,私たちはすでに,これらが相似によるか約定によるか,アナロジーによるかコードによるかという二つの仕方で作動することに気づくのである.そしてこれらがどんな仕方で作動しようとも,これら自体が何かであり,これら自体として存在するのである.つまりこれらは単に見るための手段ではなく,人はこれらを見るのであって,ついにはそれらしか見ないのである26.
私たちはそのままのもの,見たいものを見ているのではなくて,どこかでアナロジーによって何かに似ているものを見ていたり,社会のコード化された規約にしたがっていたりするものを見ている.あるいは,新聞,雑誌,映画,テレビがばら撒くイメージにすでに包囲されており,「心理的かつ身体的な紋切り型,型にはまった知覚,追憶や幻想がどこにでもある27」のだ.
それは画家も同じであり,画家は真っ白なキャンバスに向かい合っているわけではなく,ありふれたイメージや紋切型から物事を見ており,画家は描く前にある意味ではすでにキャンバスを染め上げてしまっている.「画家は具象的な前提と表象の光学的組織にがんじがらめになってしまう28」のであり,気づかないうちに見てしまっているもののために手を動かして,それを描いてしまっているのだ.手は,そして,触覚は,自分の意志で見ていない(あるいは,アナロジーやコードに従う意志で見る)眼や視覚に従属したままで,そして,その関係のもとでしか描くことができない.「ダイアグラム」は,「無意味で非表象的な線や帯域,軌跡や染みなどの操作の総体である29」のだが,こうした問題点を解決するために必要とされる.画家たちが抱える問題は,描くきっかけをいかに見つけてキャンバスに入りこんでいくのかということではなく,むしろ,描く前からありふれたイメージや紋切型を自分ですでに描いてしまっているキャンバスの中にいることである.そこから逃れるためには,成功するかは分からないが30,見ていない眼や視覚から離れて盲目的に手を動かしていき,それによって新たな絵画のありかたを探求していくしかない.
フランシス・ベーコンにとって「ダイアグラム」とは,「偶然の痕跡を残すこと(軌跡—線),場所や帯域を洗浄し,一掃し,あるいは拭うこと(染み—色彩),いろんな角度,速度で絵具を投げつけること31」であり,それは,別の「感覚可能なものを切り開く32」とされる.彼は「ダイアグラム」をもたらすために,布きれ,刷毛,ブラシ,スポンジなどの道具を用い,そして,ただの手づかみで絵具をぶちまける.それは,安定していて,秩序があり,一定のリズムを持っていたアナロジーやコードの世界に対する従属をやめて,手を自律的に動かすことである.この「意味を無にする軌跡33」には法則やコード化された規約や約定もなく,何かに似ているわけでもないのでアナロジーも存在しない.ただ断片的な線や色があるだけである.ありふれたイメージや紋切型から見てしまう眼に従うと,ただそこにある対象や,ただそこで起こっていること[fait]さえ描くことができなくなってしまう.「ダイアグラム」はそうした起こっていることを捉えられるようになる可能性を導入するのであり,眼と手,視覚と触覚を切り離し,そして,手が自律的に動くようになるならば,眼には出来事を捉える「別の力能34」が与えられるであろう.ただし,ここではまだそのような可能性があるというだけであり,ただこの方法を用いればそこで起こっていることを描けるようになるかというとそうではない.「ダイアグラム」は具象的な前提から離れてカオスへと作家を巻き込んでしまうのだが,それによってこそ来るべき絵画の秩序を見だすきっかけになり得るのだ.多くの画家が,「ダイアグラム」を利用するが,問題なのはどのように用いるか35であり,それは,この秩序とカオスの関係をどう評価するかということにつながっていく36.ドゥルーズは秩序とカオスの関係を三つの方向に分類するのだが,ベーコンの「ダイアグラム」は,他の画家たちとは技法も目的もじつはまったく異なっている.それは,あくまでそこで起こっていること,出来事をそのままで思考して,そのままで記録することを目指している.
4.アナログ的ダイアグラム
三つのうちの最初の二つの方向性はまさに正反対であり,眼と手,視覚と触覚,そして,秩序とカオスのどちらを選ぶかという方向性になっている.まず,第一の方向性は,カンディンスキーやモンドリアンに代表される抽象絵画である.具象的な前提や,カオスから逃れるために抽象的な形態へと,その抽象をもたらす精神の努力へとあらゆるものを還元し,そこにあるのはただ見られるしかない幾何学的形態とさまざまな色彩である.たとえば,モンドリアンであれば,(曲がることなどない)水平と垂直の直線によるさまざまな四角形と,そして赤青黄の純粋な(色むらがないように細心の注意のもとで塗られた)三原色しか用いないストイックさがそこにはある.したがって,それらは肉体の眼という器官で見たのではなく,純粋な精神によって観られたかのような理想的な形態と色彩であり,そこでは手や触覚的な要素は極力排除されようとしているのだ37.見ることは別の方向へと向かい,この世界で起こっていることや出来事は,すべて人の内面へと回収されていってしまう.
抽象的光学的空間は,もはや古典的表象がまだ組織していた触覚的含意を必要としない.そうなると抽象絵画はダイアグラムを洗練するのではなく,形態上の大きい対立にしたがって象徴的コードを洗練するだけである.抽象絵画は,ダイアグラムをコードによって置き換えた.このコードは,手動的という意味ではなく,数を数える指という意味で「デジタル」である.「デジ」(digits)とはまさに対立を通じて視覚的に諸項をグループ化する単位である.こうしてカンディンスキーによれば,垂直的—白—活動,水平的—黒—不動,等々といったグループができる.偶然的選択とは対立する二項的選択の発想がここから生じる.抽象絵画は,このまさに絵画的なコードを洗練することにおいて,大きな一歩を踏み出した38.
抽象絵画は,眼,視覚,そして,秩序の方向へと進んでいった.あらゆるものは形態と色彩へと還元されて,その形態と色彩のグループに分類されてコード化される.そして,あれか/これかの選択においてその制作はたとえば「コンポジション[composition]」という名の下に,さまざまな仕方でただ割り振られていくだろう.それは,「手をもたない人間に,精神的状態を切り開くこと.内的な純粋な光学的空間をこの人間にとりもどしてやること39」であり,手は「デジタル」のように0か1かにして切り捨て,選ばれるべき形態かどうか,その色彩かどうかを機械的に選択する指の動きだけになったかのようである.
次に,第二の方向として,抽象表現主義やアンフォルメル芸術があるだろう.「ダイアグラム」は「無意味で非表象的な線や帯域,軌跡や染みなどの操作の総体」であったが,この方向性の作家たちはこれを絵の全体へと拡張してしまうのである.そこで重要となるのが,あるタイプの線や染みである.なぜならば,それは文字通りのただの線や染みであり,何か区切ったり,内と外を限定したりすることもなく,形態を生みだすこともない.ただ絵の全体へと広がっていくだけであり,とくに,「ポロックとともに,あの染み—線と染み—色彩は,それらの機能の限界に到達する.もはや形態の変形ではなく,物質の解体によって,物質の曲線や顆粒が与えられる40」.つまり,何かを見てそれを描くのではなく,手を徹底的に優先させることによって,動いていく手から生じた染みによる線と色彩が絵を覆うのだ.それが生みだすのは動きと色の光学的なカオスであり,カオスが視覚的に制御されることはないであろう.たしかに,ここにあるのは別の見ることであり,カオスは「絶対的に異質な力能として眼に強制され」,「眼に対する暴力41」となる.それは起こっていることや出来事を描くのではなく,自由になった手によって眼と視覚に対して,暴力的な出来事を起こそうとするのだ(「ダイアグラムの増殖がまったく絵を『でたらめ』にしてしまう42」).二つの方向性に共通しているのは,眼か手か,視覚か触覚かのどちらかを優位にさせて,絵における別の見ることを創りだしたことである.それは,精神で観られた理想的形態と色彩,眼に動きと色のカオスを強制することであった.しかしながら,これらの方向性は,ありふれたイメージや紋切型から完全に逃れることができているだろうか.結局のところ,「真の姿を心の眼で観て描いてみた」,「芸術作品で鑑賞者にショックをあたえる」などの,紋切型にすぎないのではないだろうか.
最後に,第三の方向性であるが,これも前の二つのように別の見ることを創造することを目指している.これが,ベーコンの方法論であるのだが,それは誰もが相似によってしか描くことができなかった,世界で起こっている事態そのものを描くことである.多くの画家がありのままにそこにある対象,そこで起こっていることを絵画に描こうとするが,それはただ似ているだけにすぎないであろう.あるいは,そこにある対象との相似から,絵画の新たな表現が別のリアリティとして生まれてくるのだ.それに対して,ベーコンの試みは,絵によってそこで起こっていることを,描いている自分自身とその絵の鑑賞者に感覚可能にさせることである.つまり,出来事をそのままで感覚可能にすることであり,絵自体をさらに別の出来事にしてしまうこと,作家と観賞者の両方に新たな身体性をもたらすものにすることである.相似によって似ているものが描けるだろうという可能性から,「ダイアグラム」をつうじて起こっていることそのもの(事実)を表現していくことであり,その絵画は出来事そのもの(それ自体)にしか似ていないであろう.
それは事実の可能性から,事実へと移行するという問題である.なぜならダイアグラムは事実の可能性にすぎなかったが,絵はまったく特別な,ある事実を現前させることによって実在するからである.それを絵画的事実と呼ぶことにしよう.[…]あらゆるつながりは「ありのまま」を,絵画に(彫刻に)固有の結びつきを優先させて消滅する.この結びつきは,もはやどんな物語も語ることなく,もはやみずからの運動以外の何ものも表象することなく,ひとつの連続的噴射において,恣意的な外観の要素を凝固させてしまう.確かにまだ有機的な表象は存在するが,もっと深いところで,私たちは有機体の背後の身体の表出に立ち会っており,それが有機体とその諸要素を破裂させ膨張させ,それらを痙攣させ,諸力と関係させる.諸力とは,有機体とその諸要素を隆起させる内的な力,それらを貫通する外的な力,変わることのないある時間の永遠の力,流れる時間の可変的な力などである43.
抽象絵画は眼と視覚,抽象表現主義やアンフォルメル芸術は手と触覚を優位にさせたが,ベーコンは「ダイアグラム」を上手く用いることによって(失敗することもあるが),眼と手,視覚と触覚を切り離して自律させ,盲目的な手の動きから線と色を少しずつキャンバスに定着させていき,それが力動的な形態と色彩になっていくことを狙う.「しかしまさにそれによって(つまりダイアグラムが操作的であるならば)事実の可能性を定義し,骨組みのための線と,変調のための色彩を解放するのである44」.そして,その力動的な形態と色彩の変化が,描こうとしている事態を構成する諸力のありかたと一致するならば,それは起こっていること自体をまさに表現しているのだ45.
ベーコンが「ダイアグラム」によって目指すのは,視覚に触感と質感を与えることであり,それを可能にするのが触感と質感の変調をもたらす色彩である.この色彩のありかたは,ニュートンの光学的色彩(科学的色彩論)よりも,ゲーテの生理学的色彩によっている.ニュートンは色彩を白色光にふくまれた七種の光(赤,橙,黄,緑,青,藍,紫)と考え,それらは屈折の差をもっているとした(色価の関係).それに対して,ゲーテはすべての色彩は光と闇,白と黒の混合であるという古代からの原理にもとづき,プラスとマイナスのものが反発と調和の運動を繰り返し,多様で無限な色調を生み出していると考えた.それは「色調の関係であって,これは光のスペクトルに,そして黄と青あるいは緑と赤の対立に基づき,暖色と寒色のように,何らかの調子を定義する46」.色彩は暖寒・軽重・硬軟・膨張—収縮という色の触感的な度合いをふくみ,さらに,逆のニュアンスの色と関係していくことで新たな色調を得てつぎつぎと変調していく47.
色彩が,色彩の関係が,暖色と寒色,拡張と収縮に応じて,視触覚的な世界と感覚を成立させる.確かに,図像を造りあげ単色面に広がる色彩はダイアグラムに依存するのではなく,色彩はダイアグラムを経由し,そこから出るのである.ダイアグラムは変調装置として,暖色と寒色,拡張と収縮に共通の場[lieu commun]として作動する48.
このとき,眼は「別の力能」を持つようになり,眼であるにもかかわらずそこにあるものに触れる,そこで起こっていることを構成する諸力を把捉できる触覚を持つようになるのだ.ドゥルーズはこれを「視触覚的なもの[le haptique]」と呼ぶのだが,この「ダイアグラム」によって可能になった感覚から,画家はそこで起こっていることを力動的な形態と色彩に一致させていく(「画家は自分の眼で描くのだが,しかも自分の眼で触れることによって描く49」).その「視触覚的なもの」によって感覚できるようになった出来事は,描かれた絵画にそのままで定着している.その感覚は,眼と手,視覚と触覚という器官によってイメージ化された身体ではなく,そこで起こっている出来事を感覚し,思考できるようにさせる「器官なき身体[corps-sans-organes]」をもたらすだろう.それは,描いている画家だけではなく,その絵画を観賞している鑑賞者にとってもそうなのである.その絵は出来事そのものにしか似ておらず,他のものに還元して表現したり,コード化されたりしているわけでもない.
ドゥルーズはアナログ的なもの,あるいは,アナログ言語を「関係の言語であり,表現的運動,準言語的記号,息や叫びなどをともなう」としつつも,「デジタルを約定による記号として,アナログを類似や相似によって定義することは,明らかに根拠に乏しい50」とする.なぜならば,そもそもアナログ(相似)とデジタル(約定)は対立するものではなく,コードによって相似やアナロジーは生産されるからである.そのプロセスを順序立てて述べるならば,⑴要素を何らかの記号によって抽象化させさまざまな組み合わせを生み出す,⑵ここから,それを「メッセージ」や「物語」を持ったものとして組み合わせることもでき,⑶外部の要素をコード化して,その外部の要素を内部の要素から自立的に生み出すようにさせる,となる51.たとえば,物語をパターンに分類し,さまざまな小説を分析したり,AIに自動で小説を生成させたりする試みがある.あるいは,あるアーティストの楽曲を分析し,そこから作家性を特徴づけるものを抽出し,外部から持ってきた素材をそのアーティストの楽曲のようにアレンジすることもできる.さらには,人間の顔を分析していき,それを自在に組み合わせていくことで,外部から提示されるお題に沿って,存在しない架空の「~の顔」をAIに自動で生成させることも行われている.「こうしてデジタル・コードは,類似やアナロジーのある種の形態も包括する」のであり,「同型性によるアナロジー,生産されたアナロジーがある52」のだ.例のように,類似やアナロジーはコードに依存しており,「ひとつの物の要素のあいだの関係が,直接別の物の関係に移行するとき53」,コードがさまざまな分野での相似を生産していく.それに対して,ベーコンの「ダイアグラム」による技法にはコードはなく,抽象化されたある関係を別のものに置き換えることもなされていない.
ところがいま,すべてのコードは不在で,再現すべき関係は,まったく異なる関係によって直接生産される.つまり相似的でない手段によって相似的になる.この最後のタイプのアナロジーにおいては感覚可能な相似が生産されるが,これは象徴的に生産されるのではなく,つまりコードの迂回によるのではなく,感覚によって「官能的に」生産されるのだ.この最後の目覚ましいタイプには,素朴な相似も,既成のコードもないので,美学的〈アナロジー〉という名を与えるべきである.これは具象的ではなく,コード化されたものでもない.[…]しかしデジタル的な,あるいは象徴的なコードに対して,アナログ的ダイアグラムが何であるのかを説明するのはやはり難しい.[…]おそらく普遍化した変調という概念(それは類似ではない)こそが,適切にアナログ言語あるいはダイアグラムの特性を理解させてくれる54.
パースにとってダイアグラムは「諸部分における類比的な諸関係によって表意しているもの」であったが,それはある人から見たにすぎない関係性を相似によってさらに抽象的な記号にして置き換えたにすぎない.そこからは,たしかに推論によって少しだけ便利なことを引きだすことはできる.それに対して,ベーコンの「アナログ的ダイアグラム」は,線と色をそこで起こっていること(事実)をそのままで捉えるために,力動的な形態と色彩にしていき,その出来事を構成する諸力のありかたに一致させていくものである.それは線と色,形態と色彩が変調によって部分と部分の間での関係が永続的に変化し続けるものだ.それは,作家と鑑賞者に感覚不可能だったものを感覚させる「視触覚的なもの」を新たな身体性としてもたらす.その効果は,絵画が残るかぎりは永遠であり,時間と場所を越えてあらゆる鑑賞者にとっての「器官なき身体」となるだろう.それもまた出来事であり,「アナログ的ダイアグラム」の相似性は,出来事そのものにしか似ていない.「アナログ的ダイアグラム」は,外部にあった出来事を作家と観賞者の内部へともたらすのであり,出来事を自発的に思考していくことで,その出来事を受容できる別の身体へと変換させるのだ.
5.情報の起源と情報に対抗するもの
「アナログ的ダイアグラム」は眼の手に対する,そして,視覚の触覚に対する優位性に対抗することで,「視触覚的なもの」という新たな身体性をもたらす.これがフランシス・ベーコンに独特な「ダイアグラム」なのだが,他にもこのような力能を持つ「ダイアグラム」で作品を創造しているアーティストはいるのだろうか.このような力能というのは、「図式」と「ダイアグラム」の共通する点についていえば,上下関係にあったものの優位性が無効となり,それらが自律して自由にその能力を発揮するようになることである.たとえば、認識の場面において構想力は悟性の法則のために下働きをするのだが,超越論的「図式」はそれを予想して感性と悟性を総合しているし,あるいは,反省的判断力によって構想力は悟性概念から離れて自由に働く(崇高においては,さらにその能力が拡張される).ダイアグラムを思考し、現代アート作品を分析する論者にアレクサンダー・ギャロウェイがいるが、彼はダイアグラムをネットワークに還元し、まさに「デジタル的ダイアグラム」として解釈してしまう.
『プロトコル』はまず,ネットワークというものを一連なりになった結節点と縁,点と線からなるひとつの集合として考察する.その点とは,コンピュータ(サーバやクライアント,またはその両方),人間のユーザー,共同体,LAN(ローカルエリアネットワーク)や企業,さらには国であるかもしれない.そして線の方は,それらの点によって実行されたなんらかの実践や行動,出来事であるだろう(ダウンロードする,電子メールを送る,接続する,暗号化する,購買する,ポートスキャンするなど).この基本的な「ダイアグラム」をもってして,ひとは数多くのことを行うことができる.…ダイアグラムとしてのネットワークは,組織化や統制,マネジメントのためのあらゆる類の可能性を提供するのである55.
彼は情報化社会における分散型ネットワークを「リゾーム」の概念によって分析し,それがもたらしている管理=制御社会において,「プロトコルの論理にもとづく管理=制御はそれでもなお,社会を管理=制御する他の様態に対するひとつの改良の方向56」であるとする.そのために「ダイアグラムとしてのネットワーク」がさまざまな側面から分析,考察されるのである.こうした情報メディア論も「ダイアグラム」のあり得る方向ではあるが,本研究ではさらに哲学的に,とくに「情報」という概念を批判的に考察することによって,「ダイアグラム」がどのような身体を情報化社会においてもたらすのかを考察する.なぜならば,ドゥルーズは「情報」という概念をつねに批判していたからである.
情報を越えるということは同時に二つの側面において,二つの問いにむけて実現される.発信源は何か,そして宛先はどこか.[…]情報科学はこれらの問いのどれにも答えない.なぜなら情報の発信源は情報ではないし,情報を受け取るもの自身も情報ではないからだ.情報の劣化などありえないとすれば,それは情報そのものが劣化だからである57.
情報科学,あるいは,その父とされるクロード・シャノンには「価値ある情報を高速に正確に送りたい58」という信念がある.そこで情報科学の技術では,理想的な最大の情報を提起して,それがノイズによって損なわれないように情報の繰り返しの部分をつくることで,「送るべき『情報そのもの』と冗長部分によって誤りを小さくできる59」のだ.たしかに,これによって情報そのものは発信源から宛先へと,その内容がノイズによって損なわれることなく通信することができるだろう.ところで,価値ある情報を正確に送ることと,その情報がどのように機能するのかは異なった問題ではないだろうか.つまり,情報の価値そのものは,その価値のありかたは,社会における別の諸要素によって変わるのではないだろうか.情報の起源は送り手である発信者の内面にあり,それが受信者のもとで再生されるのだろうか.コミュニケーションがあったとして,その情報の起源はそれぞれの人の内面なのだろうか.たとえば,情報機器をつうじて送信される「君のこと好きだよ」という言表[énoncé]は,送り手はただ友達として好きなだけなのに,受け手のもとでは「愛の告白」の言表として機能するかもしれない.そして,この言表は受信者に「告白を受け入れるか,入れないか」という(勘違いの)権利を付与し,二人のあいだに(勘違いの)上下関係を生みだしてしまうだろう60.「もし,言表する権利を与える変数が実現されなければ,それは子供じみた,あるいは狂気じみた行動にすぎず,言表行為とはならない」のであり,「《私》は神ではなく人間である」と発話しても,日本ではほんの一部の宗教関係者か,天皇の身体が別の扱いだった時代においてしか効果を持たないのである.「《私》は誓います」と言っても,言われた場所が,教会か,法廷か,国会かなどによってその機能は異なるだろう61.カトリックであればこの誓いはかなり重い意味を持ち,破れば教会におけるその身体への見方と扱い方は厳しいものとなる.さらに,法廷や国会でのこの言表行為は,偽証罪となる可能性をもたらし,嘘が発覚したならば,その人の身体に対する扱い方は,権利を制限された容疑者や被告人へと一気に変わってしまうだろう.「言語活動の基本的統一性,つまり言表とは指令語[le mot d’ordre]」であり,言語は,そのつどの場所や状況における言表の機能の仕方に従うため,従わせるために作られている62」のだ.
私たちは情報機器によって送られてくるメッセージではなく,送られてきた言表がいかに機能するかの条件にすでに服従しており,それこそが「情報の起源[l’origine de l’information]」なのだ.レイモン・リュイエは『サイバネティックスと情報の起源』において,サイバネティックスのような機械は自動制御されているのではなく,そのように働くようにあらかじめ人間によって「フレーミングされている[encadré]」のであり,枠づけられたものから逆に生命や人間を考えることを批判している.そこから言えば,情報の価値や効果は,そのつどの社会的な条件によってフレーミングされているのだ.それにも関わらず,「情報の起源」を人間の内面にしてしまうのは誤りである.
情報科学の最も一般的なシェーマは,原則として最大の理想的情報を提起し,冗長性は理論的最大値がノイズにおおわれてしまわないように,ノイズを減少させる限定的条件と見なされる.われわれは逆に,何よりもまず指令語の冗長性があり,情報は指令語の伝達にとって最小条件にすぎないと考える(だからノイズを情報と対立させる余地はなく,むしろ言語に働きかけるあらゆる不規則を,規則または「文法性」としての指令語に対立させる).冗長性は,二つの形態をもつ.頻度と共振である.前者は,情報の意味性にかかわり,後者(私=私)は,伝達の主体性にかかわるのである.しかし,まさに,この見かたから明らかになるのは,情報や伝達,さらに意味性や主体化さえも冗長性に従属することだ.[…]支配的な意味と無関係な意味性はなく,確立された服従の秩序と無関係な主体化はない.二つとも与えられた社会的領野における指令語の性格と伝播にもとづいているのだ63.
「指令語」の冗長部分である「頻度」と「共振」であるが,これを考えるために安倍晋三氏がかつて行った「こんな人たちに,みなさん,私たちは負けるわけにはいかない」という言表行為を考えてみよう.重要なのは,《私たち》という一人称複数であり,そこにはさまざまな一人称単数の《私》が含まれていることである.似たような言表行為としてフランスのサルコジ元大統領の“Ce sont des voyous, des racailles, je persiste et je signe[やつらはクズ,ゴロツキ,そのことに《私》は固執する.]”というものがあり,これは移民や自身に批判的な若者に対して「社会のくずを一掃する」と言ったことについて,インタビューで問われたことへの返答である.
マウリツィオ・ラッツァラートは,これを分析して,この「言表行為は,一定の社会政治的な状況において,その状況そのものを変えようとして発せられたものだ.『支持者』に訴えかけ,『反対者』を特定することで,このような言表行為は『反対者』を脅しつけ,『支持者』を再確認し,強化する.仲間を見つけだし,新しい協調関係を打ち立てるために64」としている.つまり,《クズ》や《ゴロツキ》は特定の誰かを指しているというよりも,この言表行為はマス・メディアをつうじてフランス全土の人に「お前はその《クズ》なのか?」と問いかけ,敵になるか味方になるのかを,あらゆる《私》に命令するのである.これが「頻度」と「共振」の一つの例であり,メディアをつうじて反復してこの言表行為がひろまり,サルコジ氏と同じ考えをもつ《私》へとその言葉は共鳴することになる.安倍氏の場合も同じであり,「《こんな人たち》」は特定の人を指しておらず,メディアで繰り返し報道されて,「お前の《私》は《こんな人たち》か《私たち》のどちらなのか」と迫って決めることを命令するのである.この言表行為によって,日本のあらゆる人の身体が《こんな人たち》か《私たち》かのどちらかに二分されてしまうのだ(「スピーチ・アクトと同じ意味で,マス・メディア・アクト65」).指令語,そして,言表はすべての《私》に作用するのではなく,その社会においてさまざまな要因から,ある人(《私》)に当てはまったり,通用しなかったりするのだ.たとえば,「《私》はあなたを愛しています」は時代や地域,文化などに応じて宗教的な機能(神),国家的な機能(君主,リーダー,国家の象徴),あるいは,恋人としての契約の機能などへと変化していくのだ.言表を機能させる要因が社会において多く長く存在する場合,指令語は支配的な意味を担うことになるだろう.
最後に,こうした「命令としての指図66」を送る情報に対抗する方法を考えてみよう.アーティストの富田菜摘は,「指令語」の冗長部分である「頻度」と「共振」が日本の社会において,人々の身体にどのように作用しているのかを,別の身体の創造によって探求している.彼女はとくに,近くにいるにも関わらず均等に距離をとる「他人の集団」,何かのために行列をつくる,あるいは,電車の座席に横並びに座る人々などを取り上げている.彼女によって創造された人間たちの身体は,紙粘土や発砲スチロールなどでできた型の表面上に,新聞や雑誌などの古紙を張り重ね,それらメディア上の言葉が読めるように制作されている.そして,興味深いのはそれぞれの人の思考と身振りを構成している言葉を,身体表面のさまざまな所に配置していることだ.たとえば,《さんざん待たせてごめんなさい》シリーズにおける,《メタボなおじさん,鈴木虎之介》の身体には「溜まった下腹脂肪減らせます」「メタボにならない脳のつくり方」などの言葉が現れ,読んでいる新聞でそのお腹を隠すような身振りをしている.《安い物好き主婦,田中俊子》の全身は安売りのチラシと安さをアピールする文句で埋めつくされており,ネギの入った買い物袋を持ったその身振りは安さに取り憑かれ羞恥心を失ったようでもある.《原発事故記事親子,渡辺陽子・渡辺陽菜》という親子の身体には,「年20ミリシーベルトは高い」「『何頼れば』福島困惑」「校庭の放射線基準に波」などの言葉が現れ,夏であるにもかかわらず長袖の上下,帽子,マスク姿と放射線を恐れる身振りをしている.
ここでの富田の試みは,人間たちを類型的に分けて,それぞれのタイプの人を風刺しているわけではない.私たちはこれらの人の誰でもあり得るのであり,どのような状況や環境にいるとき,人間の身体はどのような指令語に影響を受けて思考と身振りをするのか,その条件である「情報の起源」を彼女は実験的に把握しようとしているのだ.彼女は他人だけではなく,自分自身を含めて批評するのであり,自分の身体がどのような言表に左右されているのかを批判的に捉えようとしている.人間の思考と身体のありかたは言表とそのつどの諸力によって規定されており,どのような状況・文化・環境・社会にいる人が,どのような言表に身体を曝されているのかが問題なのだ.そして,作者だけではなく,鑑賞者もまたこれらの作品を自分自身の身体を批判的に捉える契機にできる.結局のところ,それは自分の思考と身体の身振りがどのような言表と,状況をとりまく社会的な諸力から構成されているのかを,作者と鑑賞者がともに把握できる「ダイアグラム」である.その「ダイアグラム」は,社会におけるそのつどの「情報の起源」を教えてくれるものであり,その起源自体にしか似ていない.それは,私たちが気づくことができない思考と行動の条件(「情報の起源」)そのものを,別の身体の創造によって思考と感覚へと変換することである.彼女の創造行為はそれぞれの作品の身体を創造するだけではなく,作者と鑑賞者が自分をとりまく指令語の作用に対抗する身体の身振りをも同じように創造するのだ.身体にできることは,何かを感覚する,何らかの情動を持つ,何かのために行動し身振りをするだけではない,自分を取り巻く社会的な諸力を把握して自由になるために,別の身体による対抗的な身振りをすることもできるのだ.ここにあるのは芸術作品を用いた抵抗行為であり,言葉を用いて自由に考え行動していると錯覚すること,指令語に左右されたままでいることではなく,逆にそのことを見抜いて対抗していく思考と身体の身振りの創造なのだ.富田の創造行為は,ベーコンと同じように,「アナログ的ダイアグラム」によって,作家と観賞者に思考できなかったものを思考可能にさせ,感覚できなかったものを感覚可能にさせてくれる.それは,新たな身体性の創造によって,そのつどの「情報の起源」を見抜いていく「情報に対抗するもの[contre-information67]」である.
註
参考文献
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ドゥルーズの著作については,略号を用いることで引用・参照箇所を示す.
La Philosophie critique de Kant(『カントの批判哲学』)=K
Francis Bacon : logique de la sensation(『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』)=B
L'image-temps. Cinéma 2(『シネマ2 時間イメージ』)=C
Foucault(『フーコー』)=F
Mille Plateaux – Capitalisme et schizophrénie 2(『千のプラトー 資本主義と分裂症』)=M