哲学の探求
Online ISSN : 2759-6303
Print ISSN : 0916-2208
テーマレクチャー「社会存在論」
集団行為者と方法論的個人主義
フィリップ・ペティットの理論に関する批判的考察
倉田 剛
著者情報
研究報告書・技術報告書 フリー HTML

2023 年 2023 巻 50 号 p. 2-15

詳細

集団行為者と方法論的個人主義

フィリップ・ペティットの理論に関する批判的考察

倉田剛

1.はじめに

人びとの集まり(集団)は,それ自体として行為者(agent)となりうるのか.すなわち,それは個人と同様に,行為の主体となりうるのか.もし人びとの集まりそのものが行為者でありうるとすれば,それはどんな仕方で正当化されるのか.また,あらゆる集まりが行為者性(agency)をもつわけではないとすれば,行為者である集まりとそうでない集まりをいかにして区別できるのか.行為の主体でありうるのは個人だけであり,集団は行為者ではありえないとすれば,集団を行為者として扱っているように見える私たちの実践はどのように説明されるのか.社会存在論の代表的トピックスのひとつである「集団行為者」(group agent)の主要な問いは,たいていこのような仕方で表現される.

この論考は,集団行為者に関する近年の議論にもっとも大きな影響を与えたフィリップ・ペティット(と彼の共著者としてのクリスチャン・リスト)の理論をとりあげ,その社会存在論への貢献とその難点を論じる1.私の主張は次の通りである.行為者に関する機能主義に依拠したペティットの理論は,集団行為者に関する実在論にたえず向けられてきた疑念を払拭することに大きく寄与した一方で,「方法論的個人主義」(methodological individualism)についての不整合な見解を含んでおり,このことがペティットによる集団行為者の理解にある「歪み」を与えてしまっている.

以下,私たちは第2節において,集団そのものを行為者として捉える社会実践を確認することから議論をはじめ,行為者となりうる集団の条件(制約)についても基本的な考察を行う.第3節では,集団行為者に対する典型的な懐疑から話をはじめ,ペティットによる「行為者」の機能主義的定義を検討し,その集団への適用が十分に説得的であることを論じる.第4節では,集団の態度と個人の態度との「非連続性」を示すためにペティットが用いた「態度集約のジレンマ」を再構成する.第5節において,私たちは「方法論的個人主義」に関するペティットの立場を検討し,その不整合が,個人主義に対する彼独自の意味づけとスーパーヴィーニエンス・テーゼに関する「混乱」に起因することを示す.第6節において私たちは,集団行為者の「自律性」は,ペティットとは異なる仕方で,すなわち集団の構造・ルールの「超個人的」な性格に訴える仕方で正当化できることを論じる.その議論の中で,ペティットの整合性を欠いた「方法論的個人主義」が,集団行為者にとって本質的な構成要素である構造・ルールに関する誤った説明を導いてしまうことも示すつもりである.最後の第7節では,それまでの議論をまとめると同時に,集団行為者に関する実在論と方法論的個人主義は両立不可能であることをあらためて主張する.

2.集団行為者に関する社会実践と制約

私たちの社会実践を確認することから話をはじめよう.次の文はいずれも集団を行為ないし意思決定の主体として捉えているように見える.

(1) グーグルは2010年に中国から撤退した.

(2) 米最高裁はその州法は憲法違反ではないという判断を下した.

(3) 文学部教授会はその学生に奨励金を授与する決定を行った.

文(1)において「撤退」という行為の主体は,グーグルで働く個人(たち)ではなく,グーグルという会社そのものであろう.それは,この文脈における「撤退」という語が,個人ではなく,集団による「集合的行為」を表すという理由によるものではない.むしろ,仮に中国のグーグルで働く従業員たち全員が2010年以降,中国に残っていた(あるいは「撤退」しなかった)としても,(1)は真であったと考えられるからである.文(2)についてはどうであろう.むろん最高裁判所が,それを構成する9人の判事たちによる個々の判断なしに,判断を下すことはありえない.だが最終的に下された「その州法は憲法違反ではない」という判断は,裁判官個人の判断ではなく,裁判所の判断であると理解される.文(3)についても同様である.その学生に奨学金を授与するという意思決定を行ったのは,個々の教員ではなく,むしろ教授会そのものだと捉えられる.これらの例が示すように,集団自体が行為や意思決定の主体(集団行為者)になりうるという考えは,私たちにとって決して奇妙なものではない.

しかしながら,このことは人のどんな集まりでも集団行為者になりうることを意味しない.集団行為者の存在を主張する論者たちでさえも,集団行為者の候補となる人の集まりについて何らかの制約を設けるのがふつうである.典型的な制約としては「行為者になりうる人の集まりは,その構成員たちに依存しない同一性をもたなければならない」という制約が挙げられよう.たとえば大学は毎年そのメンバー(学生や教職員)を入れ換えているが,そのことによって同じ大学でなくなるわけではない.これに対し,ある列車に乗り合わせた乗客たちの集まりはそうした同一性をもたない.それまで車内にいた乗客が列車を降りるか,または新たな乗客が列車に乗り込むと,それは「別の集まり」になる.リストとペティットは前者のような集まりだけを「集団」(group)と呼び,後者のような集まりを「たんなる集まり」(mere collection)と呼んだ(List & Pettit 2011: 31).

むろんメンバーの同一性に依存しない同一性をもつという条件を満たすだけで,人の集まりがただちに行為者になるわけではない.とはいえ,少なくともその条件は,「集団行為者」という主題が,社会存在論の中で盛んに議論されてきた「集合的志向性」(collective intentionality)という主題の一部ではないことを明確にしてくれる.このことを示すために次の文を考察してみよう.

(4) 私たち(あなたと私)は一緒にピアノを階下に降ろした.

(5) 海岸にいたサーファーたちは互いに協力し合って溺れていた少年を救助した.

文(4)や(5)が記述するような事態においては,複数の人々による共同行為(joint action)が問題となっている.こうした共同行為の分析は社会存在論の出発点のひとつであり,いまなお主要な課題でありつづけている(Tuomela and Miller 1988; Searle 1990; Bratmann 1999; Tollefsen 2014).共同行為の分析には様々なアプローチがあるとはいえ,そこでは個人の意図のたんなる総和ではない,何らかの集合的意図(collective intention)――それをどう分析するにせよ――が働いていると見なすコンセンサスが存在する.数あるアプローチの中でも,集合的意図の担い手を「複数的主体」(plural subject)だと捉えるマーガレット・ギルバートのアプローチ(Gilbert 2014)は,しばしば集団行為者についての議論と結びつけられる.文(4)に即して言えば,あなたと私からなる〈私たち〉という複数的主体は集団行為者であり,同様に文(5)における,たまたま〈その場に居合わせたサーファーたち〉は複数的主体であり,同時に集団行為者でもあるというわけである.しかしながら,こうした議論の「接続」には慎重でなければならない.というのも,ギルバートが例に挙げるような複数的主体は,先ほど述べた意味での「集団」の同一性をもたないからである.また,典型的な複数的主体は――そのいくつかの例が示すように――共同行為がはじまると同時に存在しはじめ,共同行為が終わるとともに消滅するような(つかの間の)存在者である.

これらの違いをふまえてペティットは次のように明言する.

〔・・〕持続する同一性をもつ集団(group)だけでなく,人々のどんな集まり(collection)でも共同行為を遂行することができる.たとえば,人々がともにピアノを階下に運ぶときや,窮地にある見知らぬ人を助けることに自発的に参加したりするときがそうである.かくして,たんなる集まりも共同行為者性(joint agency)をもちうる.これに対し,集団のみが,私たちが念頭に置いている強い意味で集団行為者性(group agency)をもちうるのである(List & Pettit 2011: 215-216).

ふたたび上記の例に言及すると,文(4)における〈私たち〉(複数的主体)は,ピアノを階下に降ろすという共同行為を遂行できるが,あなたか私が別の誰かに取って代わられると,別の〈私たち〉になる.また,そこでの〈私たち〉は,当該の共同行為がはじまる際に生成し,それが終わると消滅するような存在者である.同様のことが文(5)における〈海岸にいたサーファーたち〉についても当てはまる.

まとめると,(4)における〈私たち〉も,(5)における〈サーファーたち〉も,複数的主体ではあるが集団行為者ではない.ギルバートの言う複数的主体を集団行為者として捉えることは,ペティットの言葉を借りると「行為者性の過剰帰属」(over-ascription of agency)なのである(List & Pettit 2011: 216).

それではペティットにとって「行為者性」とは何であるのか.「あるものが行為者である」とはいかなることなのか.次節において私たちはこの問いに対するペティットの解答を見ていくことにしたい.

3.行為者についての機能主義的理論

前節ではいくつかの具体例を通じて,集団そのものが行為する(あるいは意思決定する)ということが,私たちの社会実践の中でごく自然に受け入れられていることを確認した.しかしながら,生物ではない(身体をもたない,脳をもたない)もの――会社,裁判所,教授会など――がいったいどのようにして行為しうるというのか.集団行為者に関する議論にはつねにこうした疑問がつきまとう.この種の疑問は次のような論証として表すことができる(cf., Copp 2006).

集団行為者に反対する論証

① 行為者はある心的状態(態度)をもつ.

② 心的状態(態度)をもつものは生物である.

③ 集団は生物ではない.

④ 集団は心的状態(態度)をもたない.(②と③)

∴⑤ 集団は行為者ではない.(①と④)

この論証は形式的には妥当である.ゆえに,この論証を反駁したいのであれば,前提のいずれかを否定する必要があろう.①を否定するのは難しい.なぜなら「行為」の概念は心的概念(欲求や信念あるいは意図)を含むからである.また,③を否定して,集団に文字通りの(比喩的な意味を超えた)「身体」ないし「生命」を認めることはナンセンスである.それでは②についてはどうであろう.「生物でないものは心的状態(心的態度)をもたない」という前提ははたして真だろうか.非生物であっても,心がもつとされる機能(function)を果たすことはできるのではないか.この「機能」という考え方は,以下で見るペティットの行為者論において重要な役割を果たす.

ペティットによれば,行為者は次の三つの条件を満たし,かつ最小限の合理性を要求されるものとして理解される(List & Pettit 2011: 20).

(a) 表象状態(representational states)

(b) 動機状態(motivational states)

(c) 処理・介入の能力(a capacity to process (a) and (b) and to act on their basis)

(a)の表象状態とは,環境の中で事物がどのようにあるのかを捉えている状態である.これはいわゆる「信念」に相当すると考えてよい.他方,(b)の動機状態とは,環境の中で事物がどうあって欲しいのかを特定する.これは「欲求」ないし「選好」に対応する.(c)の処理・介入の能力とは,環境が動機状態と一致していないときに,表象(信念)と動機(欲求)にもとづいて環境に介入し,何らかの変化を引き起こす能力である.ペティットは「行為者」をこれら三つの特徴を備えたシステムとして捉える.

この「行為者」の特徴づけ自体に何ら特筆すべき点はない.ようするに,行為者とは自らの志向的状態(信念と欲求)にもとづいて世界に変化を与えうる何かである.これに異議を唱える人はほとんどいないだろう.むしろ注意すべきは,ペティットは問題となる志向的状態の物理的本性について何も仮定していないという点である.このことは,志向的状態が生物学的(たとえば神経細胞の特定の布置)ではない基盤によっても実現されうることを示唆する.つまり,表象や動機の機能を果たしさえすれば,生物でなくとも志向的状態にあると捉えることが可能になるのである.たとえば,AI搭載のお掃除ロボットは,部屋の中での自分の位置やゴミの位置を把握(表象)することができ,かつ床の上のゴミをなくすという目標(欲求)をもつ.もしお掃除ロボットがそれらの志向的状態にもとづいて世界に何らかの変化をもたらすとすれば,たとえそれが生物でなくとも「行為者」あるというのがペティットの「機能主義」なのである.

あるシステムが行為者であるならば,先述の三つの条件を満たし,かつ最小限の合理性が要求される.ここでの合理性の基準は,(i)「表象は世界のあり方に合致しているか(attitude-to-fact)」,(ii)「表象(動機)は互いに矛盾していないか(attitude-to-attitude)」,(iii)「表象(信念)と動機(欲求)から適切に行為が導かれているか(attitude-to-action)」の三つに区分される.(i)にしたがえば,あるシステムの表象(信念)が世界のあり方(事実)と適合していないならば,そのシステムは合理的ではない.(ii)によれば,あるシステムが互いに矛盾した表象(信念)や動機(欲求)をもつとすれば,それは合理的なシステムではない.最後の(iii)は,通常の「道具的合理性」(instrumental rationality)を表現している.Aを実現したいという欲求をもち,Aの実現のためにはBをするのが最善だという信念をもつにもかかわらず,Bを遂行しないシステムは合理的ではない.

かくして,「集団行為者」とは上記の三つの条件を満たし,かつ最小限の合理性が要求される集団であると定義される(List & Pettit 2011: 32).さらにペティットは「合理性が要求される集団」(とそうでない集団)を見分けるためのあるテストにも言及している.そのテストは,集団に帰属させられた態度(信念や欲求)が先の合理性の基準を満たさないときに,そのことを私たちが非難するか否かを問うものである(List & Pettit 2011: 39).「イエス」(非難する)の場合には「行為者的集団」が,「ノー」(非難しない)の場合には「非行為者的集団」が問題になっていると判定される.

さて,これらの条件・基準を満たすような集団は実際に存在するのだろうか.ペティットは「存在する」と主張する.具体的には,政党,政府,国家といった政治的集団,株式会社や業界団体といった商業的集団,大学,労働組合,宗教団体,弁護士会,スポーツ団体といった市民的・文化的集団が挙げられる.これらの集団はすべて,何らかの目標(動機)をもち,世界の状況を何らかの仕方で把握(表象)したうえで,そこに介入して変化をもたらすことができる.たとえば,ある政党は次の衆議院選挙で単独過半数の議席を確保するという目標を達成するために,各選挙区の状況を把握し,それにもとづいて候補者を擁立したり,業界団体への働きかけを行ったりする.この記述が正しければ,その政党は「行為者」の三つの条件(表象・動機・介入)を満たしている言えよう.しかしそれだけではない.もしある政党の国内経済に関する認識が,事実とかけ離れているとすれば,私たちはその政党を非難するだろう.また,ある政党が「国債の発行をこのままのペースで続ければ日本経済は破綻する」という信念と「国債の発行をこのままのペースで続けても日本経済は破綻しない」という信念を同時にもつとすれば,私たちはその政党を互いに両立しない二つの信念をもつ集団として非難するはずである.さらに,ある政党がデフレからの脱却を目標に掲げ,かつその最善の手段は最低賃金を大幅に上げ,企業にも一定の賃上げを義務づけることだと信じているにかかわらず,その実行を妨げるような圧力を政府にかけていたとすれば,私たちはその政党を非難するに違いない.これらが正しければ,私たちは政党を「合理性が要求される集団」として扱っていることになる.かくして政党はペティットによる集団行為者の定義を満たす.もし私たちがその定義を受け入れるのであれば,私たちは政党が集団行為者であることも認めなければならない.同様のことが,会社や大学等についても当てはまるだろう.

4.態度集約のジレンマと集団行為者

前節で見たように「あるタイプの集団は行為者である」という主張は――ペティット流の機能主義的定義を採用するという条件の下で――十分に説得的である.しかし,集団行為者に懐疑的な人であれば,なお次のように反論するだろう.「集団による意思決定や行為」は,結局のところ,その集団のメンバーたちの態度や行為の何らかの組み合わせによって記述することができる.したがって,「集団行為者」は日常的な言説では許容される便利な概念ではあっても,厳密な(社会)科学的言説においては最終的に消去されるべき運命にある,と.

こうした疑念に対して,集団行為者の擁護者はどのように応答できるだろうか.ペティット自身は,集団レベルでの意思決定・行為と個人レベルでの意思決定・行為が連続的であるとは限らないことを示すことによって集団行為者への懐疑に応えようとする.これを示すにあたって検討されるのは「志向的態度の集約」(the aggregation of intentional attitudes)の問題である(以下,「態度集約」と略記する).態度集約とは複数の個人がとる志向的態度(信念,欲求,判断,意図など)を,ひとつの集団がとる態度に集約(集計)することを指す.

この態度集約についてどのような「問題」があるというのだろうか.ペティットがここで検討するのは,法学者たちが論じた「法理のパラドクス」,およびそれを一般化した「推論に関するジレンマ」である.以下で解説する「ジレンマ」は,社会的選択理論における集合的意思決定の難題と似ているが,ここで強調すべきは,ペティットはそれを社会存在論の課題である集団行為者の存在を擁護するために用いる点である(もちろん通常の社会的選択理論はそうした形而上学には関心がない).以下,具体例を見ていくことにしたい.

法廷で三人の裁判官がある事案に関する判断を下す場面を想像してみよう(cf., Pettit 2003).そこでは被告に法的責任があるか否かが問われている.ここで仮定されているのは次の命題である.被告の過失が原告のケガの原因であり,かつ被告は原告への注意義務があったならば,被告には責任がある(L).

(L) (1)被告の過失は原告のケガの原因である & (2)被告は原告への注意義務があった ⇒ 被告には責任がある(liable)

この(L)は前提(1)と前提(2)および結論からなる推論として捉えることもできる.三人の裁判官が各前提と結論の真偽に関して判断を下し,それらを集約して裁判所の判断とする作業を図にしてみよう(図1).なお,ここでは単純多数決を仮定する.すなわち,裁判官の多数派の判断が裁判所の判断として採用されるものとする.

図1

前提(1):ケガの原因である 前提(2):注意義務があった 結論:責任がある
裁判官A
裁判官B
裁判官C
多数派 偽?真?

この態度集約(判断の集約)のどこに「ジレンマ」があるのだろうか.前提(1)を見てみよう.「被告の過失は原告のケガの原因である」という命題について,裁判官Aと裁判官Cは「真」と判断し,裁判官Bだけは「偽」と判断している.ゆえに,多数派(裁判所)は前提(1)を「真」と判断したことになる.前提(2)はどうだろうか.「被告に注意義務があった」という命題について,裁判官Aだけが「偽」と判断し,他の二人の裁判官は「真」と判断している.ゆえに,多数派(裁判所)は前提(2)を「真」と判断する.結論についても確認しておこう.「被告に責任がある」という命題に関して,二人の裁判官が「偽」と判断し,一人の裁判官だけが「真」と判断している.これより多数派は,結論について「偽」,すなわち「被告には責任がない」と判断したことになる(結論の列を見よ).ところが,多数派は二つの前提をともに「真」と判断しているのだから,前述した(L)の仮定により,結論も「真」でなければならない(多数派の行を見よ).言い換えれば,多数派は「被告には責任がある」と判断しなければならない.これが「ジレンマ」である.

どの裁判官も,個人としては,論理的な誤りを犯してはいないことに注意しよう.裁判官Aと裁判官Bは少なくとも前提のひとつを「偽」と判断しているので,結論も「偽」であるという判断を下している(裁判官Aと裁判官Bの行を見よ).裁判官Cは二つの前提がともに「真」だと判断しているので,結論も「真」であると判断した.この意味で彼らは合理的である.しかしながら「多数派」はそうではないように見える.二つの前提は「真」だと判断したにもかかわらず,結論は「偽」であると判断したように見えるからだ.

ペティットはこの種のジレンマが,集合的意思決定(態度集約)に関する二つの異なる方法,すなわち「結論中心的手続き」(the conclusion-centered procedure)と「前提中心的手続き」(the premise-centered procedure)との衝突から生じると考える.前者の方法においては,裁判官たちの結論に関する票(判断)を集計し,多数派の判断を彼らの集合的裁定とする.これに対し,後者の方法においては,裁判官の個々の前提に関する票(判断)を集計し,それらの前提に関する多数派の判断によって,結論を集合的に是認するか否かを決定する.先ほどの例に関して言えば,結論中心的手続きを採用すると,「被告には責任がない」という裁判所の判断に至り,前提中心的手続きを採用すると,「被告には責任がある」という裁判所の判断に至る.ペティットが指摘しているのは二つの手続きが互いに矛盾する結論を導くことである.

このジレンマに対して,多くの人は二つの方法のいずれかを選択すれば問題はすぐに解決すると考えるだろう.そのこと自体は誤っていない.ペティットも最終的には前提中心的手続きの方に軍配を上げている.しかしながら,私たちが関心を向けるのは,なぜこのジレンマが集団の意思決定と個人の意思決定との「非連続性」を含意するのかという問いである.この問いを心に留めておかなければ,それに続くペティット(とリスト)のテクニカルな議論に翻弄されてしまうだろう.

次のペティットの言葉はこの問題の本質をよく表している.

このジレンマに陥っている集団が直面する困難な選択とは,どんな問題についても,集合体(collectivity)の見解を,そのメンバーたちの見解に完全に応答(fully responsive)させるべきか――その場合,集合的な矛盾(collective inconsistency)のリスクを負うことになる――あるいは,集団は集合的に合理的である(collectively rational)という見解を,たとえそれが問題によっては,個々のメンバーたちの見解への応答に関して妥協することを意味するとしても,保証するべきか.私たちは個人への応答性(individual responsiveness)か,または集合的合理性をもちうるが,それらを同時にもつことはできない.――あるいは少なくとも両者を確実にはもつことができない(Pettit 2003: 174).

やや分かりづらいかもしれないので言葉を補っておく.まず「集合体の見解を,そのメンバーたちの見解に完全に応答させる」とは,先の法廷の例に即して言えば,裁判所が最終的に下す結論(判断)を,個々の裁判官による結論の判断によって決定することを意味する.しかし,こうした「結論中心的手続き」は,個々の裁判官が下す結論の多数決によって裁判所の結論を決めるという意味で,そのメンバーたち(個々の裁判官たち)の見解に完全に応答することになるが,その方法には「集合的な矛盾」のリスクが伴う.たとえば先ほどの例において,多数派(裁判所)は,個々の前提について「真」だと判断しているにもかかわらず,結論を「偽」と判断するという矛盾が生じていた.つまり,個々のメンバー(裁判官)たちの結論を尊重することは,それらのメンバーが属する集団(裁判所)それ自体の判断の合理性を損なう可能性があるのだ.

次に,「集団は集合的に合理的であるという見解を〔・・〕保証する」とは,前提中心的手続きを採用すること,すなわち個々の前提に関する判断から結論を導き出すことを意味する.先の例で言えば,裁判所は,裁判官たちの多数決により,二つの前提を「真」と判断したのだから,結論も「真」と判断せざるをえない.このやり方は裁判所(集団)が集合的に合理的であることを保証する.だが同時に,それは結論に関する裁判官たちの判断を無視するやり方である.これを指して,ペティットは「個々のメンバーたちの見解への応答に関して妥協する」と表現しているのだ.

ペティットも指摘するように,前者の「個人への応答性」と後者の「集合的合理性」は両立不可能である.というのも,両者は互いに矛盾する結論を導いてしまうことがあるからだ.引用の最後に現れる「それらを同時にもつことはできない」という言葉はこのことを指している.ここで詳細を検討することはしないが,ペティットは,集団の態度(判断)を諸個人の態度(判断)に完全に対応させるのは断念し,すなわち個人への応答性に関しては妥協し,集団自体の合理性を追求する道を選ぶことになる.このために,ペティットはリストとともにテクニカルな議論に少なからぬ頁を費やしているが(List & Pettit 2011: 47–58),それは措いておき,ここでようやく私たちは,「集団の態度は諸個人の態度と非連続である(discontinuous)」という主張を理解するにいたる.いま見たように,前提中心的手続きから得られる集団の合理的な態度は,そのメンバーたちの合理的な態度と完全に連続的であるとはかぎらない.この非連続性は「個人行為者に加えて,それらには還元できない集団行為者が存在する」という主張を強くサポートするように見える.

5.ペティットの「方法論的個人主義」

「態度集約のジレンマ」が含意する個人の態度と集団の態度の「非連続性」を根拠のひとつにして,集団行為者の存在を擁護しようとするペティットの立場は,いわゆる集合主義(collectivism)と親和性をもつように見える.実際,ペティットは自らの立場を繰り返し,集団行為者に関する実在論(realism)と称し,集団行為者が「ある種の自律性」(a certain autonomy)をもつとすら主張する(List & Pettit 2011: 69).ところが奇妙なことに,ペティットは,自らの立場が方法論的個人主義と完全に整合的であるとも述べるのだ.こうしたペティットの態度は私たちを当惑させる.一方でペティットは,集団行為者の存在を否定する消去主義に対して,「集団行為者は存在するだけでなく,その意義と自律性を有する」(ibid., 6)と主張し,他方で,「〔これらの強い主張が〕方法論的個人主義を害することはない」(ibid., 4)あるいは「この描像は方法論的個人主義と完全に合致する」(idem.)とも主張するのである.

はたしてペティットのこうした立場は整合的であるのか.残念ながら,私はそう思わない2.ペティットにかぎらず,多くの哲学者および社会科学者たちにとって,方法論的個人主義から逸脱すること,いわんや「集合主義者」を名乗ることは――それが存在論的な立場ではなく,方法論的な立場であっても――大きなリスクを伴うと考えられている.しかしそれはどのようなリスクなのか.第一に「非科学的」というレッテルを貼られるリスクであり,第二に「全体主義的」(反民主主義的)というレッテルを貼られるリスクである.ペティットが恐れているのはおそらく前者のリスクであろう.ペティットはことあるたびに自身の立場がヘーゲル流の「創発主義」と混同されるべきではないと説く.また,ペティットにとって,「方法論的個人主義を害さない」とは「心理学的に神秘的ないかなる力も導入しない」(they do not introduce any psychologically mysterious forces)ことと同義(同値)である(List & Pettit 2011: 4).この捉え方のもとでは,「方法論的個人主義を害する」ことは「心理学的に神秘的な何らかの力を導入する」ことを含意してしまう.「心理学的に神秘的な力」という表現でペティットが正確に何を意味しようとしているのかは明らかでないが,おそらく彼は,個人とはまったく独立に働く集団の心(「国家精神」など)のようなものをイメージしていると推測される.だが,方法論的個人主義を否定することは,そのような「謎めいた力」を導入することと同義なのだろうか.

いったんここで用語の整理をしておこう.私は「方法論的個人主義」を次のような意味で理解する.

方法論的個人主義とは,社会的集合体〔社会的集団〕に関する言明は,個人と彼らの行為および関係にのみ言及する言明に還元できると説く立場をいう(Ullmann-Margalit 1977: 14).

〔方法論的個人主義にしたがえば,〕社会的な現象(集合的現象)は,個人に関する現象(個人の心的・物理的状態,個人の行為,個人間の相互行為等)のみによって説明されなければならない(cf. Udehn 2001).

ここに挙げたウルマン=マルガリートとウデーンの定式化はごく標準的である(他の哲学者たちによる定式化もだいたい同じである).方法論的個人主義を否定する立場は「方法論的集合主義」と呼ばれるが――「集合主義」に関する様々な偏見に鑑み――ここではそれを「方法論的非個人主義」(methodological nonindividualism)と呼ぶことにしたい(以下,「非個人主義」).この非個人主義は,方法論的個人主義の否定にすぎないので,「社会的集合体〔社会的集団〕に関する言明は,個人と彼らの行為および関係にのみに言及する言明に還元できない」もしくは「社会的な現象(集合的現象)は個人の現象(個人の心的・物理的状態,個人の行為,個人間の相互行為等)のみによって説明される必要はない(説明されなくてもよい)」と説く立場として理解される.ペティットが,不整合の誹りを受けながらも,「方法論的個人主義」に固執するのは,彼がその立場に独特の意味をもたせてしまったからだと私は推測する.繰り返すが,通常の意味での方法論的個人主義を否定したところで,ペティットの想像するような「神秘的な力」が登場するとはかぎらない.

たとえ私のこうした推測が誤っていたとしても,なおペティットの立場は一貫性を欠くと主張することができる.以下でこのことを示したい.

ペティットが自らの「方法論的個人主義」の拠りどころにするのは,次の「スーパーヴィーニエンス・テーゼ」(S)であると思われる.

(S) 集団行為者の態度と行為はそのメンバーたちの寄与〔態度と行為〕にスーパーヴィーンする(List & Pettit 2011: 66).

この(S)を,スーパーヴィーニエンス関係の一般的な定義にしたがって,「メンバーたちの態度・行為の違いなしに,集団行為者の態度・行為の違いは存在しえない」と言い換えてもよいし,決定関係(determination)という「逆概念」を用いて,「メンバーたちの態度・行為は集団行為者の態度・行為を決定する」と言い換えてもよい.

このスーパーヴィーニエンス・テーゼが成り立つことを示すことで,集団行為者の理論から「謎めいた力」を排除できるとペティットは考えた(List & Pettit 2006).だが,このテーゼは,前節で検討したような態度集約の場面において問題なく成り立つのだろうか.実のところ,事はそれほど容易ではない.ここでペティット自身が指摘する問題点を検討しておこう(List & Pettit 2011: 70).以下の図2Aと2Bはそれぞれ,三人の個人からなる二つの集団AとBにおける態度集約(判断の集約)を表している.判断の対象になるのは三つの命題p,qおよびp & qである.ここでは最初の二つの命題pとqを「前提」,三つ目の命題p & qを「結論」とする.

図2A:集団Aにおける態度集約

p q p & q
個人1
個人2
個人3
集団(前提中心的手続き) ⇒真

図2B:集団Bにおける態度集約

p q p & q
個人1
個人2
個人3
集団(前提中心的手続き) ⇒偽

集団Aにおいて,前提pは多数派(個人1と個人2)によって「真」と判断されているので,集団としてはpを「真」と判断する(図2A).同様に,前提qは多数派(個人1と個人3)によって「真」と判断されているので,集団としてはqを「真」と判断する.また,結論p & qに関しては多数派(個人2と個人3)が「偽」と判断しているが,この態度集約においては――集団の合理性を優先し――前提中心的手続きを採用するため,集団の判断は「真」である(集団はpとqをともに「真」と判断したので,当然p & qも「真」と判断しなければならない).

集団Bについてはどうだろう(図2B).前提pに関して多数派(個人2と個人3)が「偽」と判断しているので,集団としてはpを「偽」と判断する.前提qについても多数派(個人2と個人3)は「偽」と判断しているので,集団はqを「偽」と判断する.同様に,結論p & qについても多数派(個人2と個人3)は「偽」と判断している.前提中心的手続きにしたがって,p & qは「偽」と判断されるが,このケースでは結論中心的手続きを採用してもp & qは「偽」と判断される.

この態度集約の例において何が問題となるのか.個人の合理性に関しては何の問題もない.集団の各メンバーは,前提pとqをともに「真」と判断するとき結論p & qも「真」と判断しており,その他の場合は結論を「偽」と判断している.また,この例では前提中心的手続きを採用しているので,集合的合理性は維持されている.だが,問題は結論の「列」にある.図2Aと図2Bの最後の列を見比べてほしい.集団Aにおいて個人1と個人2と個人3の判断を並べると「真・偽・偽」となり,集団Bも「真・偽・偽」とまったく同じになる.それにもかかわらず集団Aが下す最終的な結論は「真」,集団Bの結論は「偽」となる.これは前節で見た二つの態度集約の方法のたんなる「衝突」ではない.それはスーパーヴィーニエンス・テーゼが各命題について成り立つわけではないことを意味しているのだ.

スーパーヴィーニエンス・テーゼは,「集団の態度が異なれば,(必ず)そのメンバーたちの態度も異なる」と主張するものだった3.だが,いま見たケースにおいて,結論に対する態度は集団Aと集団Bで異なるにもかかわらず,そのメンバーたちの態度は異ならない(まったく同じになる).このことは「命題ごとのスーパーヴィーニエンス」(proposition-wise supervenience)は断念しなければならないことを意味する.集団の態度がもつ「ある種の自律性」とは,それが命題ごとのスーパーヴィーニエンスに違反することを指している(ibid., 69).

この問題を回避するためにペティットは,「全体論的なスーパーヴィーニエンス」(holistic supervenience)なる概念を拵え,命題ごとではなく,命題の集まりに関する集団の一連の態度が,命題の集まりに関する個人の態度にスーパーヴィーンすればよいという解釈を提示する.スーパーヴィーニエンス・テーゼに関するこうした解釈が成功しているかどうかについて,ここで議論することはしない.だが,もしペティットが方法論的個人主義を維持するためだけにこのような概念を提案しているならば,あまり感心できない.なぜならこのホーリスティックな概念は,結局のところ,集団の態度は全体として,何らかの個人の態度に依存すると述べるにすぎないからだ.それは集団の態度と個人の態度とのあいだに成立する明白な存在論的依存関係を確認するだけであり,何ら実質的な事柄を述べているようには見えないのである.

6.構造・ルールの問題

私は,ペティットによる集団行為者の実在論に賛同しながらも,彼の「方法論的個人主義」およびそれを維持するための(全体論的)スーパーヴィーニエンス概念は説得力に欠けると考える.とくに集団の態度が有する「ある種の自律性」は,集団行為者の存在を擁護する際に重要な根拠のひとつになると私も信じているが,私自身はより直接的な仕方でそれを示すことにしたい.それは次のように表現される.行為者になりうる集団,すなわち組織(organization)は,ある構造をもち,ルールに支配される.それらの構造・ルールは個人の態度や行為を集団の態度や行為に変換する役割を担っており,集団行為者にとって,そのメンバーたちと並んで,本質的な構成要素である.前節で見たように,メンバーたち(個人)の態度がまったく同じであるにもかかわらず,集団の態度が異なるという事態は,構造・ルールを異にする二つの集団においては,ごく自然に生じうる.集団行為者の「ある種の自律性」はこうした構造・ルールによって説明される.

しかし,構造・ルールを――個人の態度・行動に加えて――集団の態度や行動の説明の中に持ち込むことは方法論的個人主義からの明白な逸脱を意味するだろう.なぜなら集団の構造やルールはある意味で「個人を超えたもの」だからである.

ここで私が念頭に置いているのは,P. フレンチが論じた「会社の内的意思決定構造」(corporation’s internal decision structure: CID Structure)のような構造である(French et al. 1992).このCID構造は,(i)集団の内部における地位(stations)とそのレベルを定める組織フローチャートと(ii)集団の意思決定を認定する方法を告げるルールからなる.これらに対応して二種類のルール,すなわち(i*)地位やそれに付帯する権限を定義する「組織ルール」(organizational rules)と,(ii*)あるポリシーのもとで集団の意思決定を行うために必要となる手続きを指示する「ポリシー/手続きルール」(policy/procedure rules)とが区別される.フレンチによれば「これらのルールは,もしそれらが存在しなければ可能ではなかった出来事の記述を可能にする」(French et al. 1992: 17).

会社Cの役員であるジョーンズとスミスとジャクソンの三人が「Cはロシア事業から撤退する」(P)か否かを決定する会議に参加しているとしよう.彼ら三人は会社Cの「組織ルール」にもとづき,命題Pを決定する会議に参加する権限を付与されている.その会議では「手続きルール」に則った投票が行われ,その結果が会社Cの決定として記述される.この出来事は「ジョーンズはPに賛成票を投じた&スミスはPに賛成票を投じた&ジャクソンはPに賛成票を投じた」と記述されるかもしれないが,より正確には,CID構造のポリシー/手続きルール(「地位Xを占める者が全会一致でPに賛成し,かつPがCのポリシーと整合的であるとき,CはPを決定したと見なされる」)にしたがい,「会社CがPを決定した」と記述されなければならない.

この例とペティットの態度集約の例とはどこが違うのだろうか.一見すると大きな違いはないように見える.しかし,フレンチにとって組織(会社)の構造は,そこに属する個人が入れ替わったとしても,基本的には変化しない.たとえばある個人が役職を退き,他の個人がその役職を引き継いだとしても,彼に与えられる組織内部での権限は前任者のそれと同じである.彼個人の資質がどのようなものであれ,彼の地位は組織の権威構造の中で定められたものである.また,手続きルールも,個人が入れ替わるごとに変化するものではない.さらに,組織(会社)のポリシーや目標も,フレンチが指摘するように,その組織に属する個人の欲求・目的と比べて「比較的安定している」と言えよう(French et al. 1992: 19).このように集団の構造・ルールはある意味で「超個人的」(supra-individual)なものとして捉えられる.フレンチは,集団の態度・行為を否定しようとする試みにおいて「人間中心的バイアス」(anthropocentric bias) (ibid., 20) が働いていると述べるが,こうしたバイアスは集団の構造・ルールを何らかの個人の態度・行動(の組み合わせ)によって説明しようとする試みにおいても働いているのではなかろうか.

さらに,いま述べたような立場は「社会的集団の形而上学」によっても正当化されるだろう.近年この分野で重要な仕事をしているK. リッチーによれば,社会的集団(social group)は「構造の実現」(realizations of structure)であり,次のような存在者として規定される(Ritchie 2013).

(a)集団は構造を伴った存在者である.

(b)集団は具体者であるがゆえに,それらは集団構造が実現されるときにのみ存在する.構造が実現されるのは,機能的に定義されたノード(地位)のそれぞれが特定の個人によって占められたときである.

この社会的集団の形而上学によれば,集団の持続にとっては構造が重要であり,それは個々のノードを一時的に占める個人には還元できない抽象者である.

翻ってペティットは集団の構造についてどのように考えているのだろう.ペティット自身も構造の重要性を自覚していたことは次の言葉からもうかがえる.

スーパーヴィーニエンス・テーゼは集団行為者の組織構造の役割を排除してしまうわけではない.二つの異なる集団行為者のメンバーたちが,いくつかの命題に関してまったく同一の志向的態度をもっているにもかかわらず,その二つの集団行為者が,それらの異なる組織構造のために,異なる態度をもち,異なる仕方で行為することはまったく可能である(List & Pettit 2011: 66).

しかしながら,ペティットは自らが掲げた「方法論的個人主義」に拘束され,組織構造を個人のレベルに解消する道を選択する.

だが,二つの組織構造の違いは,二つの集団のあいだの個人レベルの違いのうちに現れるだろう.それら組織形態の違いは次のことを意味する.すなわち,それらのメンバーたちが異なる仕方で行為する〔・・〕傾向にあるということを.たとえば,一方の集団が民主的に組織されているのに対し,他方が独裁的であるならば,その違いは,票の集計に関するメンバー間の異なる傾向性のうちに現れるだろう(List & Pettit 2011: 66,強調は引用者).

残念なことに,ここでペティットは,集団行為者の「自律的」を示す特徴であるはずの組織構造を,そのメンバーたち(個人)の行為の規則性あるいは傾向性のうちに回収してしまうのである.これは方法論的個人主義との整合性を意識してのことだろう.だが,私たちがフレンチとリッチーとともに見たように,集団行為者の本質的要素である組織構造それ自体は,そこに現に属している個人たちの態度や行為の規則性・傾向性によって説明できる存在者ではない.ペティットの「方法論的個人主義」はたんに整合性を欠くだけでなく,集団行為者の根幹である構造・ルールの説明にも「歪み」をもたらしてしまっているのである.

6.結びにかえて

ペティットの機能主義的理論が,社会存在論における集団行為者の議論に多大な貢献をなしたことは疑いえない.とくに集団行為者に関する実在論者たちにとって,その理論は,少なくとも今後しばらくは無視することのできない参照点であり続けるだろう.

しかしながら,本稿の中で繰り返し指摘したように,ペティットの「方法論的個人主義」はおよそ整合的とは言えない側面を有している.そればかりか,彼が固執する方法論上の立場は集団行為者の本性を見誤らせるという意味で有害ですらある.

私自身は,集団行為者の実在論と方法論的個人主義は両立不可能だと考える.なるほど集団行為者の態度・行為はすべて個人の態度・行為に存在論的に依存している.すなわち何らかの個人の態度・行為が存在しなければ,集団の態度・行為は存在しないことは必然である.集団はいわば独力で態度をもち,行為を遂行することなどできないのである.しかしながら,個人の態度・行為を集団のそれに変換する構造・ルールが存在しなければ,集団の態度・行為は存在しえないことも明らかである.そうした構造・ルール自体は個人の態度・行為に還元できない存在者であるかぎり,集団の態度・行為の説明の中には「個人ならざるもの」が不可避的に含まれることになる.ゆえに,「集団行為者は存在する」という立場(実在論)と方法論的個人主義のテーゼがともに真であること不可能である.

さらに付け加えておけば,ペティットの態度集約の例に登場する個人はあまりにも「薄っぺらな」個人である.裁判官たちは純粋な個人の観点から各命題について判断を下すと想定されているが,現実にそのようなことがありうるだろうか.むしろ彼らは,公正な判決を下すという理念をもつ裁判所のメンバーとして各命題を判断するのではないか.このことは裁判所だけではなく,多くの集団行為者のメンバーにも当てはまるだろう.多くのケースにおいて彼らは自らが属する集団のメンバーとして意思決定を行い,行為を遂行する.これが正しければ,「個人の態度・行為」のうちに不可避的に「集団」の概念が入り込むことになる.したがって,たとえ集団行為者の(抽象的)構造・ルールに言及しなくても,態度集約に関する方法論的個人主義を維持することは困難である.

私は,哲学者と社会科学者たちが方法論的個人主義を「不可侵」と見なすことをやめ,非個人主義を正しく評価できるようになる時代はすぐそこまで来ていると信じている.

  1.    以下,C. リストとの共同作業に言及する際も,特別なケースを除いて,「ペティットとリスト」ではなく,たんに「ペティット」と記すことにする.ペティットは政治哲学者として名高いが,近年は社会存在論の領域においても中心的な哲学者のひとりと見なされている.従来の社会存在論における“the Big Four”(J. サール,M. ブラットマン,R. トゥオメラ,M. ギルバート)にペティットを加えて“the Big Five”と称することもある(cf., Chant, Hindriks and Preyer 2014).
  2.    私は本稿のもとになったレクチャーを行った数週間後の2022年8月にウィーンで開催されたSocial Ontology & Collective Intentionality 2022に参加した.その折に,ダヴィット・シュヴァイカルトと,ペティットの「方法論的個人主義」について議論する機会を得た.彼も私と同様,ペティットの立場には問題があると考えており,後日その問題について論じた論文を私に送ってくれた(Schweikard 2016).その論文の中でシュヴァイカルトは「多元主義」という概念を使ってペティットの「方法論的個人主義」を何とか整合的に読み解こうと腐心している.しかし私の見解ではペティットの立場に整合性を見出すことは難しい.
  3.    これは「メンバーたちの態度が異なれば,集団の態度も異なる」を含意しないことに注意せよ.スーパーヴィーニエンス・テーゼはいわゆる「多重実現可能性」,すなわちメンバーたちの「異なる態度」が集団の「同じ態度」を実現するケースを許容する.しかし,メンバーたちの「同じ態度」が集団の「異なる態度」を実現するケースは許容できない.

参考文献

Bratman, M. E. (1999). “Shared Intention,” in Faces of Intention: Selected Essays on Intention and Agency, Cambridge University Press, Ch. 6: 109-129.

Chant, S. R., F. Hindriks, G. Preyer (2014). “Introduction: Beyond the Big Four and the Big Five,” in S. R. Chant, F. Hindriks, G. Preyer (eds.), From Individual to Collective Intentionality: New Essays, Oxford University Press: 1–9.

Copp, D. (2006). “On the Agency of Certain Collective Entities: An Argument from ‘Normative Autonomy’,” Midwest Studies in Philosophy, XXX: 194–221.

French, P. A., J. Nesteruck, D. T. Risser with J. Abbarno (1992). Corporations in the Moral Community, Harcourt Brace Jovanovich College Publishers.

Gilbert, M. (2014). Joint Commitment: How We make the Social World, Oxford University Press.

Lasagni, G. (2022). Dimensions of Shared Agency: A Study on Joint, Collective and Group Intentional Action: Vernon Press.

List, C. and P. Pettit (2006). “Group Agency and Supervenience,” The Southern Journal of Philosophy, Vol. XLIV: 85-105.

——— (2011). Group Agency: The Possibility, Design, and Status of Corporate Agents, Oxford University Press.

Pettit, P. (1993). The Common Mind: An Essay on Psychology, Society, and Politics, Oxford University Press.

——— (2003). “Groups with Minds of Their Own,” in F. F. Schmitt (ed.), Socializing Metaphysics, Rowman & Littlefield Publishers, Inc.: 167–193.

Ritchie, K. (2013). “What are groups?,” Philosophical Studies 166: 257–272.

Schweikard, D. P. (2016). “Pluralism Across Domains,” in S. Derpmann and D. P. Schweikard (eds.), Philip Pettit: Five Themes from his Work, Springer: 101–109.

Searle, J (1990). “Collective Intentions and Actions,” in P. Cohen, J. Morgan, and M. E. Pollack (eds.), Intentions in Communication, Cambridge, Branford Books, MIT Press: 401-415.

Tollefsen, D. (2014). “Social Ontology,” in N. Cartwright and E. Montuschi. (eds.), Philosophy of Social Science, Oxford University Press, 2014, Ch. 5: 85-101.

——— (2015). Groups as Agents, Polity.

Tuomela, R. and K. Miller (1988). “We-Intentions,” Philosophical Studies 53: 367-389.

——— (2013). Social Ontology: Collective Intentionality and Group Agents, Oxford University Press.

Udehn, L. (2001). Methodological Individualism: Background, History and Meaning, Routledge.

Ullmann-Margalit, E. (1977). The Emergence of Norms, Oxford University Press.

 
© 哲学若手研究者フォーラム
feedback
Top