哲学の探求
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テーマレクチャー「社会存在論」
共同行為のミニマリズム
三木 那由他
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2023 年 2023 巻 50 号 p. 16-28

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共同行為のミニマリズム

三木那由他

1.はじめに

複数のひとで一緒に何かの行為をするとき,その行為を「共同行為(joint action)」と呼ぶ1.本稿では,まず共同行為論における代表的かつ古典的な立場として,ライモ・トゥオメラ,マイケル・E・ブラットマン,ジョン・R・サール,マーガレット・ギルバートの四人の分析を紹介する.これらの論者は,共同行為の例として比較的典型的と言えるものを想定し,その例で成り立つ条件を探ることで議論をしているように見える.これに対し,あまり典型的と言えない共同行為の例をあえて挙げながら,共同行為の必要条件を縮小していこうという一群の論者がいる.そうした試みは「ミニマリズム」と呼ばれるが,このミニマリズムの議論についてもいくらか紹介したい.そのうえで最後に,私自身がミニマリズム的試みのひとつとして提起している事例を取り上げたうえで,それを考慮に入れた際に共同行為論が進みうる道について検討してみたい.

2.代表的な分析:トゥオメラ,ブラットマン,サール,ギルバート

共同行為を分析するうえで鍵になるのは,共同行為においては複数人によって達成される事柄と個人の行為とが結びついているという点である.ABが一緒にケーキを作るとき,〈(ふたりで)ケーキを作る〉という目標はこのふたりが揃って達成されるものとなっており,いずれかひとりだけで遂行されるものとはなっていない.他方で,〈(ふたりで)ケーキを作る〉という目標を達成するためになされるのは何かというと,Aがクリームを混ぜ,Bがスポンジケーキを焼くということ,つまり参加者個々人の行為ということになっている.そして参加者が個々人でおこなう行為である以上,それは各参加者が持つ何らかの意図,ないしそれに類する何かのもとでなされるものでもある.つまり共同行為の分析においては,(1) 成功した場合に達成されるのは複数人によってなされる事柄である,(2) そのために実際になされるのは個々人の行為である,(3)個々人の行為にはそれを駆動する意図(など)がある,という三点を念頭に置く必要がある.そのうえで,多くの論者が取るのは,共同行為に参加する人々が持つ意図,および異なる参加者が持つ意図同士の相互関係に注目することで共同行為の分析を与えようという方針である.

意図に着目して分析をおこなう場合,いくつかの選択肢がある.第一に,個人が意図できるのはその個人の行為のみだと考えるような場合には,(1) に挙げた複数人によって達成される事柄自体を個人が意図することはできないので,意図の対象は(2) の個々人の行為だということになる.だが個人が意図できる範囲をそれよりも広く取ったなら,(1) における複数人によって達成される事柄そのものが意図の対象になるという考えも採用しうるだろう.あるいは,その両方がある意味では意図の対象となっているという見方も可能だ.大雑把に言えば,トゥオメラが第一のタイプに,ブラットマンが第二のタイプに,サールが第三のタイプに対応する分析を与えている.まずはこの三人を順に見ていこう.

2.1 トゥオメラ

トゥオメラの基本的な発想は以下の一節によく現れている.

例えばタイプXの共同行為が例えばA1, …, Amという何人かの行為者によって遂行されるとき,これには,行為者たちがXを共同的に遂行する際にはこれらの行為者のそれぞれが何かを,つまり言ってみればそのひとの分担(part)をおこなうということが含まれる,と私たちは論じる.Xi (i = 1, …, m)がAiの分担する行為ないしAiにおける構成素的な行為を表すとすると,いかにこのXiたちの遂行がいわばひとまとまりになってXの遂行が得られるようになるのか,と問うことができる.(Tuomela & Miller 1985, p. 27)

ここでは,共同行為にはその参加者それぞれの分担と言える複数の個別的な行為が含まれており,それが何らかの仕方で束ねられて共同行為になっているという考えが見られる.そしてそれがいかなる仕方においてか,ということが問題なのだとされている.

細かな議論は修正されているものの,Tuomela (2010)のような比較的新しい文献でもこの基本的なアイデアは変わっていない.共同行為に参加する人々はそれぞれで自身の分担を果たそうという意図を形成している.その参加者個々人の意図が束ねられるようにして,共同意図(joint intention)というものが形成され,それによって共同行為が生じる,というのが全体としての枠組みだ.ただ,例えばそれぞれで勝手に「私は(自分の分担として)クリームを混ぜよう」だとか,「私は(自分の分担として)スポンジケーキを焼こう」などと意図を持っていただけでは,共同行為をもたらす共同意図に結実しそうにない.問題は,参加者が自身の分担を果たすときに持つ意図が束ねられれば共同意図になるのだとしたら,では参加者がそれぞれに持つその個別的な意図はどういう構造を持っていなければならないか,である.

こうして提示されるのが,以下のように定義される(weモードの)we意図という概念である.we意図という呼び名からはわかりにくいが,これはあくまで(集団に属す)個人が持つ意図だとされている.

集団gのメンバーAiXしようとwe意図する⇔

  1.    集団gのメンバーAiXにおける自身の分担を(Xにおける自身の分担として)果たそうと意図する.
  2.   

    Xを意図的に遂行する共同行為の機会が得られるであろうこと,とりわけしっかりと十分な情報を与えられたgのメンバーがXの遂行に十分な人数で揃い,Xにおけるそれぞれの分担を果たすであろうことをAiは信じている.

  3.   

    Xを意図的に遂行する共同行為の機会が得られるであろうということがgのメンバーのうちでこの共同行為に参加する者たちのあいだでの相互信念になっている,とAiは信じている.

  4.    部分的には(2)と(3)のゆえに(1)となっている.(Tuomela 2010, pp. 93-94)

以前に挙げた例を用いると,ここで言われているのはこうしたことだ.一緒にケーキを作る機会があるということを,ABと互いに了解していると思っている(きょうケーキを作ろうと約束したのだから).そしてBは(約束をした以上)ちゃんと来てくれるし,そして自分の分担(スポンジケーキを焼く)を果たしてくれるはずだともAは信じている.だからこそ,Aは「よし,ケーキ作りのために,私はクリームを混ぜるぞ」と意図を形成しているのである.このとき,Aは(Bとふたりで)ケーキを作ろうというwe意図を持っていると言われる.大雑把に言えば,「ほかのメンバーもちゃんと自分の仕事をしてくれるはずだから,私も私の仕事をしよう」というようなかたちで個別的な行為への意図を形成しているとき,それがwe意図という特殊な意図になっていると言っているのである.

トゥオメラによれば,こうしたwe意図を束ねたならば,共同意図になる.

行為者A1, …, Amが共同行為Xを遂行しようという共同意図を持つ⇔

  1.   

    これらの行為者がXを遂行しようというwe意図を持つ(もしくはそうしたwe意図を形成するほうに傾いている).

  2.   

    (1)が行為者たちのあいだで相互信念となっている.(Tuomela 2010, p. 95)

トゥオメラの分析のポイントはふたつだ.第一に,共同行為の各参加者が直接に意図するのはあくまで自身がおこなう個別的な行為なのであるが,単にそれをしようと意図するのではなく,あくまで当該の共同行為における自身の分担としてそれをしようと意図するのでなければならないとされている.そしてまた,we 意図の定義(2) に見られるように,共同行為の参加者は互いに「ほかのひとはきっと自分の分担を果たすはずだから」と信じあい,だからこそ自身の分担を果たそうとしているとされている.いわばトゥオメラは,参加者相互の信頼を共同行為の特徴と見ているのである.

2.2 ブラットマン

トゥオメラが共同行為の特徴を相互信頼に見出す論者だとしたら,ブラットマンは共同行為の特徴を助け合いに見る論者だと言える.

ブラットマンはもともと,行為論において,計画としての意図という立場を打ち出していた(Bratman 1987).それによると,意図はそれを持つものが理にかなった仕方でさまざまな時点における自分自身の行為と調整しながら何らかの目標を達成する,ということをもたらすものだとされる.私がシチューを作ろうという意図を持ったとすると,その眼目は私がそのときにどういった心理状態にあるかといったところではなく,むしろシチューを作るという目的のために仕事帰りにスーパーに寄ったり,スーパーでジャガイモやニンジンを買ったり,帰宅後にそれらの材料を切ったり,……といった行為を各時点でおこない,最終的にシチューを作れるようにするというところにあるのだ,というのがブラットマンの考えだ.その意味で,意図を形成するとは計画を形成することなのだとされる.この立場は,私たちが自身のコントロールを超えた事柄に関して意図を持つ可能性を認める点で,意図に関して他の多くの立場よりも柔軟な見解をもたらす(Bratman 1992, p. 97).実際,私たちはしばしば自分自身のコントロールを超えたような事柄をも計画に組み込むことがあるはずだ.そしてそうした立場ゆえに,ブラットマンの場合には共同行為における各参加者は,当該の共同行為そのものを意図の対象とすると考えることができるようになっている.

わかりやすさのために前節と表記を揃えることにすると,ブラットマンによれば,ABXという共同行為をするとき,ふたりは次のような条件を満たすとされる.

(1)(a)(i) 〈私たちはXする〉とAは意図する.

(1)(a)(ii) 〈(1)(a)(i)と(1)(b)(i)のための相互にかみ合ったサブプランに従い,またそうしたサブプランのゆえに私たちはXする〉とAは意図する.

(1)(b)(i) 〈私たちはXする〉とBは意図する.

(1)(b)(ii) 〈(1)(a)(i) と(1)(b)(i) のための相互にかみ合ったサブプランに従い,またそうしたサブプランのゆえに私たちはXする〉とBは意図する.

(1)(c) (1)(a)と(1)(b)で述べられている意図は,他の参加者から強制されたものではない.

(1)(d) (1)(a)と(1)(b)で述べられている意図は,最小限に協力において安定的である.

(2) (1) が共通知識となっている.(Bratman 1992, p. 105)

説明が必要なのは(1)(d)だろう.(1)(a)と(1)(b)で述べられている意図が最小限に協力において安定的である(minimally cooperatively stable)であるとは,(1)(d)を除く上記すべての意図を持っているひとたちが実際にXに取り掛かったときに,ほかの参加者が問題に直面して,関連する意図を保持しながらもほかからの助けなしにはXを成功させるべく行為することはできないという場合に,自分はXへの自分の貢献を揺らがせることなく助けることができ,しかもそうした手助けは特に新たな報酬などを提示されることなくなされることであり,これらすべてが参加者間で共通知識になっている,ということだとされる.要するに,ほかのひとがサブプランを実行しようにもうまくいかなくなった(クリームを混ぜたいのに泡立て器が見つからないなど)場合には,自分のサブプランを破綻させない範囲で手助けする(ちょっと手を止めて泡立て器を見つけてあげる)し,互いにそういうふうに手助けするものとわかっているということだ.ブラットマンは,共同行為に参加する人々はこうしたしかたで相互に協力するものと考えている.

このように各参加者が持つべき意図とその関係についてまとめたうえで,ブラットマンは共同行為自体の条件も提示する.それによると,参加者が上に述べたような意図や共通知識をそれぞれ持ち,そして互いの意図や行為にきちんと反応しあいながら実際にXを達成することがXという共同行為をおこなうことだとされる.

ブラットマンの分析の特徴は,第一に,複数人によって達成される最終目標そのものを各参加者が意図しているとしているところにある.第二の特徴は,参加者たちが持つ意図に関する条件(1)(d)に見られるような,相互協力の要素である.

2.3 サール

サールの関心は,本稿で紹介するほかの三人と異なり,自身の提唱する生物学的自然主義と共同行為の存在を以下に調停するかというところに向かっているように思える.実際,サールは共同行為をもたらすような意図やその他のさまざまな集合的志向性が水槽のなかの脳でも持てるようなものとなっているということを,共同行為や集合的志向性の理論が満たすべき条件だとしている(Searle 1990, p. 406).

サールにはもともと,個別的なレベルにおける意図についての議論がある(Searle 1980).そこでは,行為に先だって形成する先行意図(prior intention)と,行為の真っただ中での「いま私は〇〇している」という経験を指す行為内意図(intention in action)が区別されたうえで,これらとそれによって引き起こされる身体的な動作との因果的結びつきを論じながら,意図の充足条件について論じられている.それを要約すると,「手を挙げよう」という先行意図は,私が自分の手が持ち上がるということの提示となるような行為における行為内意図を持っており,かつこの行為内意図が私の手が持ち上がるということを引き起こしており,またこの行為内意図がまさにこの先行意図によって引き起こされているとき,かつそのときに充足されるとされている.

このサールの見解においては,先行意図は直接的には行為内意図を引き起こすだけであり,実際の動作を直接に引き起こしているのは行為内意図だとされている.それゆえ共同行為を論じる際にも,サールはいかなる行為内意図が共同行為を,あるいは共同行為における個々の参加者の行為を引き起こしているのか,と論じる.では,共同行為の参加者はそれぞれにどのような行為内意図を持って行為しているのだろうか?

もともとがこのように行為内意図と行為との因果的な関係に着目する論者であるがゆえに,サールはブラットマンのように一緒にケーキを作ろうとしているABが〈ケーキを作る〉ということを直接的に意図していると見なすことはできない.仮にAが〈まさにこの行為内意図がケーキを作るということを引き起こさせる〉という内容の行為内意図を持ってクリームを混ぜていたとして,これでは行為内意図とクリームを混ぜるという行為のあいだの因果関係がよくわからなくなるのである(Searle 1990, p. 410)2.そこでサールは,意図のなかには物事のあいだの目的‐方法連関がプリセットされたような特殊な意図があると考えることで,共同行為の参加者が持つ行為内意図を捉えようとする.

例えば銃を撃とうとして引き金を引くひとは,まず〈引き金を引こう〉と意図して,それとは独立に〈銃を撃とう〉と意図するわけではないだろう.むしろ,銃を撃つための手段として引き金を引こうとしているはずだ.こうしたときの意図をサールは〈Aを手段としてB〉タイプの意図と見なす.この場合の〈Aを手段としてB〉行為内意図は,〈この行為内意図がA[引き金が引かれる]を引き起こし,それがB[銃が火を噴く]を引き起こす〉という内容を持つとされる(Searle 1990, p. 412).

こうした〈Aを手段としてB〉タイプの意図の特殊事例として,〈個別的なAを手段として集合的なB〉タイプの意図があり,これこそが共同行為の参加者が持つ意図なのだとサールは考える(Searle 1990, p. 412).つまり,Bと一緒にケーキを作ろうとしてクリームを混ぜるAは,〈この行為内意図が個別的A[クリームが混ざる]を引き起こし,そしてそれが集合的B[ケーキができる]を引き起こす〉という行為内意図を持ってクリームを混ぜているとされる.

トゥオメラの言葉遣いに合わせて共同行為とその分担という表現を用いるなら,サールの議論において共同行為Xに参加するひとが持っているとされる行為内意図の内容を,「まさにこの行為内意図がXにおける自身の分担の成立を引き起こし,それがXの成立を引き起こす」と一般的に表すことができるだろう.

もちろん,こうした行為内意図とともに誰かが動作をおこなっているだけでは共同行為にならない.共同行為には複数のひとのあいだの協力が要る.ただ,サールはこれに関しては「背景(Background)」という概念を持ち出して済ませているように見える.サールの考えでは,志向的な心的状態はさまざまな非表象的な心的能力に基づいて可能になっており,そうした非表象的能力の集合をサールは「背景」と呼んでいる(Searle 1983, p. 143).背景には身体的,生物学的能力や文化的に学習された能力が含まれており,私たちはそうしたものを用いて自らの置かれた状況にあったかたちで志向的な状態を形成するとされる.サールによれば,共同行為に参加する人々も,単に上記のような行為内意図を持っているだけでなく,そもそもそうした行為内意図を可能にしているような背景を同時に備えており,そしてその背景のなかには,関連するほかの人々を,意識を持った協力的な行為主体として見る能力が含まれているとされる.サールにとっては相互の信頼や協力,および互いに同様の意図を持っていると理解しあうことは,相互信念などの問題ではなく,スキルの問題なのだろう.

2.4 ギルバート

以上の三者に比べるとやや異質なのがギルバートだ.ギルバートはそもそも,共同行為に参加する個々人が持つ意図というものが当該の共同行為にとって本質的だとは考えない.ギルバートはむしろ,共同行為における規範的側面がいかに個々人の心理に還元されないかを論じる.

Gilbert (1990)や後年に同じテーマを扱ったGilbert (2002)において,ギルバートはふたりの人間が一緒に歩くというときにもたらされる規範的な帰結を論じている(pp. 24-25).ギルバートによれば,ふたりの人間が一緒に歩いているとしたら,その一方が相手の許可なく先に行ってしまったり,勝手に帰宅してしまったりしたら,相手にはそれを非難する権利が生じる.これは,ふたりの人間が一緒に歩いているとはいえず,単に同じ方向に同じペースで近い距離を保って歩いているだけの場合には生じない帰結である.ギルバートはこうした相互的な義務が,共同行為の核にあると考え,これを「共同的コミットメント(joint commitment)」と呼んでいる.

共同的コミットメントは複数のひとによって形成されるコミットメントであり,その内容は〈一体となって何かをする〉というものになっている(Gilbert 2002, p. 32)3.「一体となって何かをする(as a body)」というのは,ひとつの物体が当該の目標を持って振る舞っているということを可能な限りエミュレートするように各人が行為するということを表す.ABがふたりでケーキを作る場面を改めて考えてみよう.このとき,ギルバートの分析では,ふたりは一体となってケーキを作るということに共同的にコミットしている.これはつまり,いわばABが「合体」してひとりの人間となり,その人間がケーキを作っているかのようにABが,まるでその人間の手足か何かのように行為するようにする,ということを表している.

共同的コミットメントを形成するとき,その参加者はそれに応じてそれぞれの各自的コミットメント(individual commitment)もまた形成する(ibid.).一体となってケーキを作ろうとしているABの場合,Aはケーキを作る「人間」の一部としてクリームを混ぜようとするだろうが,これが各自的コミットメントに当たる.もちろんBも同様に,例えばスポンジケーキを焼くことへの各自的コミットメントを形成する.重要なのは,この各自的コミットメントは勝手に撤回することはできず,そしてそれに違反するとほかのメンバーには非難の権利が生じる,という点だ.それゆえ,一体となってケーキを作ろうとしているにもかかわらずAがクリームを混ぜかけて途中でやめ,本を読み出したりしたならば,Bにはそれを責める権利があることになる.それゆえふたりは,トゥオメラが注目していたのと同様に,互いが自身の個別的コミットメントに従った行為を遂行することを互いに期待しあうだろう.また,ふたりが一体となっているがゆえに,ブラットマンが注目していたのと同様に,どちらかが困難に直面したら,もう一方が助けることになるだろう.ちょうどひとりの人間が右手で何かを取ろうとして誤って突き指をしたなら,代わりに左手を用いるように.

重要なのは,ギルバートの主張によれば,共同的コミットメントも各自的コミットメントも,個人個人が持つ心理によっては捉えられないということだ.個人が持つ信念や意図や決断は,確かに何らかのコミットメントをもたらす.しかし単に個人が心のうちで決断をして形成したコミットメントなどは,特に他人に断ることなく,単に気が変わったからという理由によって勝手に取りやめることもできるだろう.こうしたコミットメントをギルバートは「個人的コミットメント(personal commitment)」と呼ぶが,個人的コミットメントをどのように積み重ねたところで共同的コミットメントやそれに対応する個別的コミットメントは出てこない,とギルバートは考えている(ibid.).

このアイデアのもとでギルバートは次のように共同行為の条件を述べる.

複数のひとが一緒に行為をするのは,そのひとたちがある目的を一体となって採用することに共同的にコミットしており,そして各参加者がその目的の達成にとって適当な仕方で行為していて,ただし各参加者はこれを,自分が問題の目的を一体となって採用するということへの共同的コミットメントに従っているという事実に照らしておこなうという場合である.(Gilbert2002, p. 34)

2.5 四人の共通点

ギルバートを除く三人には,ある共通点が見られる.つまり,共同行為XをおこなうにはXと関連する意図を参加者たちが形成しなければならないとしているのである(ブラットマンの場合にはXそのものが意図の対象であり,トゥオメラとサールの場合はそうではないという違いはあるが).またトゥオメラとブラットマンは,参加者がそうした意図を持っているということが相互信念や共通知識になっているとしている点でも共通している.

ギルバートはこの三者と大きく違う分析をしているように思えるが,実は必ずしもそうではない.というのも,ギルバートは共同的コミットメントの形成には参加者それぞれのその共同的コミットメントに参加する準備(readiness)の表明と,そうした表明がなされたことが参加者のあいだで共通知識になるということとが必要だとギルバートは論じるのである(Gilbert 2002, p. 29, 33).「○○する準備がある」は「○○する意図がある」と同じではないにせよ,少なくとも近いものだとは言えるだろう.そしてそれが共通知識になっているのでなければならないというのだから,共同行為をおこなうために参加者はいかなる条件を満たさなければならないのかという点において,ギルバートは実は他の論者とそれほど大きく異なる立場をとっているわけではないと言える.

こうしたことから,少なくとも次の二点が四人に緩やかに共有された前提として取り出せるだろう.

  1.    共同行為Xの参加者たちは,Xを実現するためのそれぞれの行為を始めるに先立って,当の共同行為をXと特定するような要素を含むような意図やそれに類するものを形成/表明する必要がある.これはさらに二つの要素に分けられる.

  1. (a)  

    共同行為を始めるには意図やそれに類するものの形成/表明が必要だ.

  2. (b)  

    共同行為を始める際に形成される意図やそれに類するものの内容において,当該の共同行為がいかなるものであるかが特定されていることが必要だ4

  1. 2.   (1) で述べられたような意図やそれに類するものは,参加者のあいだで相互信念や共通知識となっている必要がある.

これらの前提が描くヴィジョンは,こういうものだ.共同行為に参加する人々は,まず自分たちが最終的に何をするのかを特定し,その何かか,もしくはそれと密接に関わる何かを実行することを意図したり,実行することへの準備の表明をしたりし,それが互いにわかっているからこそ,互いに協力したり期待したりしながら,その最終的な何かを達成していく.いわば,何か共通の目的を掲げたギルドのメンバーたちの振る舞いのようなものとして共同行為を考えていると言える.

ここで取り上げた四者は,共同行為の哲学説における現代の古典とも言えるような,もっとも代表的な哲学者たちである.これに対し,近年,一部の哲学者たちによって共同行為のミニマリズムという研究プロジェクトが追求されている.

3.ミニマリズムの試み

現在のところ,多く論じられているのは(2)にあるような相互信念や共通知識の必要性に関してだ.Blomberg (2016)は,相互信念がなくとも共同行為が生じうることを,例を用いて示そうとしている(p. 318).ブロンベリの例においては,ヘクターとセリアというふたりの人物がブロックを使って塔を作ろうとしているされる.ふたりはいずれも自分たちで塔を作ることを意図しているし,またそうした共同的な営みの自分の分担を果たそうとも意図している.また互いに相手が共同的な営みの自らの分担を果たそうと意図していると信じており,自分がその共同的な営みのための分担として具体的な行為をしていると相手に信じられているということも信じている.さらに,相手が相手の分担を果たそうと意図しているからこそ自分は自分の分担を果たそうとそれぞれが意図している.そして互いに相手のサブプランと自分のサブプランがかみ合うようにも意図している.互いにこうした意図や信念を持ったうえで実際に相手がブロックを置くたびにその上にブロックを置いていき,順番にブロックを重ねて塔を作っていく.ただ,ブロンベリはここにさらにひとつの仮定を置く.セリアは実際にはヘクターが共同的な営みの一部としてブロックを置いているとわかっているのだが,ヘクターはセリアがそのように理解していることに気づいておらず,ヘクターは単にセリアの置いたブロックを隠してやろうとして上にブロックを置いているだけだとセリアが信じているとヘクターは思い込んでいる,というのだ.

ポイントは,ヘクターがブロックのタワーを作ろうとしている場合でも,セリアがブロックを置くたびにその上に自分のブロックを置いてやろうとしている場合でも,やることは変わらないというところだろう.いずれにせよヘクターはセリアの置いたブロックのうえに自分のブロックを置くという動作をするのだ.そしていまの場合には,結果的にブロックのタワーができあがるような行動パターンに則って振る舞おうとして,ヘクターはブロックを置いている.個の条件下で,ヘクターとセリアは互いのブロックの置き方を見ながら,互いのサブプランを調整し,うまく所定の目標が達成されるように振る舞うだろう.セリアがブロックを倒してしまったのなら,ヘクターはそれを立て直しもするかもしれない.だが,ヘクターはセリア自分の意図を誤認しているはずだと信じ込んでいるのである.

この状況においても,ヘクターとセリアはいずれも自分たちがブロックのタワーをつくろうという意図を持っており,そして相手がそうした意図を持っているとわかっており(自分がそうした意図を持っていると相手がわかっているとはヘクターはわかっていないのであるが),互いにそのためのサブプランを作りながら実際にブロックのタワーを作っていくことになる.これは共同行為として十分なのではないか? ブロンベリはこうした例をもとに,相互信念のようなかたちで互いの意図がふたりのあいだで明らかになっている必要はないのではないか,と指摘している.

Schönherr(2019)は,相互信念や共通知識が共同行為に不要である場合があるばかりか,場合によってはある種の相互信念や共通知識が共同行為を不成立に追い込むと論じている.シェーンヘルが注目するもののひとつは,サブプランに関する相互信念である.シェーンヘルはサブプランに関する相互信念が参加者のあいだにあったなら失敗していたであろう共同行為を「幸運な共同行為(lucky joint action)」と呼び,次のような例を挙げている.

サラとボブはともに自分たちがジョギングに行くことを意図する.サラは,雨が降ったとしてもボブはジョギングを続けるだろうと信じている.これはサラにとっては大事なことだ! というのもふたりがジョギングに行くというサラの意図は,雨が降ってもボブがいなくなったりはしないという信念を前提としてのものなのである.けれど,実はボブは雨が降っていたならば立ち去っていたであろうひとであって,サラがボブに関して持っているこの信念は誤りである.幸運なことに乞う天気が続き,ふたりは楽しいジョギングをやり遂げた.結果的に,ふたりは幸運だったのだ.(Schönherr 2019, p. 124)

この例では,サラとボブは〈ふたりでジョギングに行く〉ということに関する意図をそれぞれで形成し,共同行為を開始している.そしてそのこと自体は相互信念になっているかもしれない.そのうえでしかし,実際にそのジョギングをどのように遂行するかというサブプランに関しては,互いにかみ合わないものとなっており,雨が降ったならば両者はそれぞれ不整合な振る舞いをすることになる.とはいえ,サラはボブが自分と異なるサブプランを持っているとはわかっておらず,そしてだからこそジョギングに行こうという意図を形成しているとされる.この場合,互いのサブプランが相互信念になってしまっていたならば,ふたりのジョギングは起こらなかっただろう.相互信念になっておらず,かつサブプランがかみ合っていないことが明るみに出ないという幸運があって初めて,ふたりのジョギングは成立するのである.

このふたりはジョギングのあいだ,トゥオメラやブラットマンやギルバートが言及していたような信頼,協力,(場合によっては)非難を必要に応じておこなったであろうということに注意してほしい.ふたりの振る舞いは,普通の共同行為としてふたりがジョギングをした場合と,まったく同じになるだろう.だとすれば,この例を共同行為の例として扱わない理由はないように思える.そしてこの例を共同行為の例として認めるのであれば,少なくとも共同行為の参加者が持つ意図に関するある種の相互信念は,共同行為の必要条件をなさないと言える.

ブロンベリとショーンヘルの議論を組み合わせて考えてみると興味深い.ブロンベリによれば,共同行為の参加者たちが現に共有している意図に関して,相互信念は必要ないということになる.他方でシェーンヘルによれば,現に共有している意図を遂行するためのサブプランに関しては,相互信念は不要どころかときに共同行為を成り立たせなくしてしまうものでさえある.前節で挙げた論者のうち,サールは例外かもしれないが,残りの三人の論者は,それぞれ異なるかたちでではあるが,参加者同士の相互理解が共同行為を遂行するには必要であると考えていたように思える.しかしブロンベリとショーンヘルは,互いのことを知らなくても,あるいは知らないからこそ共同行為が成立する場合があると示しているように思える.

3.2 譲歩的共同行為

最後に,私自身のミニマリズム的試みについて紹介したい.Miki (2022)では,共同行為Xの参加者たちが,必ずしも初めから自分たちがXすることになるとはわかっていなくてもよいということを示す例を提示している.

Aは「公園に散歩に行こう!」と言い,Bはそれを受け入れる.その途中で,Aはアクセサリー・ショップを見かけ,Bの許可を得ることなく店に入っていく.Bは「公園に行くんじゃなかったの?」と言う.Aは「行くよ.でもちょっとだけ.ピアスを買いたいんだよね」と答える.Bは譲歩するが,五分ほど経って「行こうよ!」と言う.Aは同意する.公園に着く前に,Aはまた立ち止まり,今度はパン屋に入っていく.Bは怒鳴る.「公園に行くんでしょ?」Aは「行くよ.でも明日のパンがいるじゃない」と言い張る.Bはまた譲歩してしまう.買い物を終え,ふたりは公園に向かうが,今度はBが立ち止まってAに言う.「あなたは買いたいものを買ったんだから,私だって買い物してよくない?」Aは「私の買い物が終わったら公園に行くはずだったでしょ」と不満を漏らすが,結局は譲ってしまう.こうして数時間が経過し,ふたりは両手にたくさんの買い物袋を抱え,もう公園に行くには疲れすぎてしまっている.Aは「公園に行く予定だったけど,また今度にしようか?」と聞く.Bは同意し,「きょうは買い物をしたということで」と言う.(Miki 2022, p. 29)

このとき,ふたりは一緒に買い物をしたと言えるだろう.このことは共同行為が成立することからの帰結に目を向けることで論じられるように思える.例えばABが一緒にケーキを作り,その結果としてC がその後の料理に使うつもりで置いていた薄力粉をBがスポンジケーキ作りに使い果たしてしまったとしよう.これは一般的な共同行為の事例である.ケーキができあがったあと,薄力粉がなくなっていると気づいたCがふたりを非難したとき,実際に薄力粉を使い果たしたのはBであるにもかかわらず,ABの双方を非難することはある程度は正当化されるように思える(ABの責任の多寡は異なるにしても).それは,Cに不便を生じさせたのが,ABのふたりによるケーキ作りであったからであろう.実際,Aがクリームを作り,Bがスポンジケーキを作り,というのをそれぞれ独立におこなった場合にはこうしたことは起こらない.同様に,上の例においても,この出来事のあとでAが買いすぎた品物を実家に送り,実家の物置がいっぱいになってしまってAの親に不便が生じたときに,Aの親がABをともに非難するのは,ある程度は正当化されるだろう.なぜそうした正当性が生じるのかと考えると,ABは確かに一緒に買い物をしていたのだと考えるのがもっともな説明になるように思える.

さて,この例で重要なのは,ふたりが共同的な振る舞いを開始する時点において,ふたりが共有していた目的は〈公園に散歩に行く〉というものであったということだ.ふたりはこの目的に照らして行動するのだが,その途中でAがその目的から逸脱した振る舞いを始める.このときギルバートが指摘していたように,Bにはそれを非難する権利が生じるし,実際Bは非難しもするのだが,ただこの例では結果的にAの強引さにBが負けて譲歩してしまっている.だがその一回の譲歩で〈公園に散歩に行く〉という目的が撤回されたというわけでもなく,ふたりはまた改めてこの目的に照らして行動を続けようとする.しかしその後も同様の逸脱と譲歩と再開が繰り返された結果,ただ公園に散歩に行くだけだったら生じなかったような振る舞いをABはともに次々とおこない,結果的に公園には行かず,買い物だけをして解散することになった.つまりこれは,ふたりが最初に共有していた目的と,最終的におこなったことになる共同行為がずれている例となっているのである.それゆえこれは,前節で取り上げた四人の論者に緩やかに共通する前提の(1b)として挙げたものに対する反例となっている.

この例に関して,いくつかの反論が考えられる.ひとつには,「これは単に一緒に公園に行くという共同行為が失敗に終わり,そのあとで一緒に買い物をするという行為が始まった事例なのではないか」という意見があるだろう.しかし,そのように見るのは難しい.というのも,一緒に公園に行くという共同行為が失敗した時点や一緒に買い物をするという行為が始まった時点を特定することが困難なのである.Aがアクセサリー屋に行ったとき,一緒に公園に行くという目的からAは逸脱しているが,しかしこの目的に照らした共同行為がここで失敗に終わっているわけではない.というのも,その後もふたりはこの目的に照らして互いの行為を非難したり,行為を調整しようとしたりし続けるためである.もしも最後の「また今度にしようか?」のやり取りに至るまで,互いに「公園に行くんでしょ?」と言い合っていたとしたら,この非難や行為調整は,最後のやり取りの瞬間に至るまで続けられていたことになる.だが仮にそれが一緒に公園に行く共同行為が失敗に終わり,一緒に買い物をするという共同行為が始まる時点なのだとしたら,第二の共同行為は始まった瞬間に終わっていることになる.しかも実際にふたりが商品を買う行為をしているのはその時点より前なのである.このように考えると,上述の例はある時点までひとつの共同行為がおこなわれ,しかしその時点でそれが失敗し,代わりに別の共同行為が始まったというかたちで理解するよりも,むしろある共同行為から別の共同行為へと,ふたりの共同的な振る舞いが連続的に変化していった事例だと見なしたほうがもっともらしいように思える.

もうひとつのありうる反論として,ふたりは一緒に公園に行ったり一緒に買い物をしたりしたのではなく,一緒にその日を過ごすといったもっと抽象的な共同行為をしていて,それが公園に出発した時点で始まり,最後のやり取りで終わっているだけなのではないか,というものがある.だが,これはうまくいかない.というのも,Aがアクセサリー屋やパン屋に行ったとき,Bが自分も買い物をすると言い張ったとき,ふたりはいずれも一緒に公園に行くという目的に照らして相手を非難しているのである.もしもふたりが共有しているのが一緒にその日を過ごすという目的であったとしたら,アクセサリー屋に行こうがパン屋に行こうがこの目的は果たせるのだから,相手を非難する理由はない.ふたりはあくまで一緒に公園に行くということを目指して共同的な営みに取り組んでいたのである.

共同的な振る舞いを始めたあとになって,当初の目的からの逸脱とそれへの譲歩が起こり,結果的に当初の目的から外れた個別的な行為が繰り返され,最終的にそもそも当初思われていたのとは異なる共同行為に結実するようなこうした事例を,私は「譲歩的共同行為(concessive joint action)」と呼んでいる.譲歩的共同行為は幸運な共同行為と異なり,その開始時点において標準的な共同行為と区別できないということを特徴とする.例に出てきたABは,ともに一緒に公園に行くことを意図していたり,そのための自分の分担を意図していたり,公園に行くという目的のためにある仕方で歩くというタイプの意図を持っていたり,一体となって公園に行くという共同的コミットメントを形成したりしていたと考えることはできるし,関連する相互信念や共通知識を備えていたとすることもできる.ただ,自分でも当初思ってもいなかった仕方で逸脱をしてしまい,また自分でも当初思ってもいなかった仕方で逸脱に譲歩してしまっているだけなのだ.将来的に自分が自分でも思ってもいない振る舞いをするかどうかということを,その時点でそのひとがどういった心理を備えているのかといった観点から捉えることは,一般的にできないだろう.である以上,標準的な共同行為と譲歩的な共同行為を,その開始時点において参加者がどういった心理やコミットメントを形成しているかという観点から区別することはできない.

3.3 これらの例から見えること

Blomberg (2016),Schönherr (2019),Miki (2022)の例から何がわかるのだろうか? 前節で見てきたような論者はいくらか主知主義的な物の見方をしているように思える.つまり,自分の意図については自分自身でわかっていると仮定するならば,共同行為に参加する者は,自分が何に参加することになるのかをあらかじめ理解しており,しかも他の参加者が同じ目的を受け入れていることや,他の参加者が必要な心理を持っていることについてもあらかじめ理解し,そのうえでそれらの知識に照らして自分の意図を実現したり,共同的コミットメントに従った振る舞いをしたりしようとするものと想定されているのである.

本節で見てきた論者の例が示しているのは,共同行為の参加者たちはそこまで理知的でないという可能性だろう.互いの心理などそこまでわからない,自分がこれから何をするのかそこまでわからない,仮にこれから目指す目的がわかっていたとして,そこからふらりと逸脱しないかどうかもはっきりわかってはいない,そうした人々の共同行為を,これらの論者は取り上げていると言える.そうしたある意味で不合理な者たちの共同行為がありうるということからは,共同行為を始めるにあたって参加者は何を理解していなければならないか(いかなる心理を持っていなければならないか)に焦点を当てるのではなく,むしろそこまでの理解はないままに共同行為のただなかでいかに自分の振る舞いを選んでいくのか,いかに他の参加者と相互調整していくのかということに焦点を当てるべきなのだということが示唆される.

この点において,ギルバートの共同的コミットメントの概念は有用であるように思える.それはまさに,共同行為のただなかでどのように振る舞うか,振る舞うべきか,といったことに焦点を当てる概念であった.ギルバートの場合は,共同的コミットメントの形成の際に準備の表明やそれに関する共通知識といったものを持ち出したがゆえに他の論者と似た前提を採用することとなっていたが,そうしたものを利用せずに共同的コミットメントという概念だけは残すという道もありうるのではないかと思っている.

4.おわりに

共同行為に関してトゥオメラ,ブラットマン,サール,ギルバートという代表的な論者の立場を簡単に紹介した.そのうえで近年のミニマリズムの試みをごく一部だけではあるが紹介し,最後に私自身のミニマリズム的試みとして譲歩的共同行為という例を提示した.それらをもとに,共同行為の開始時点において参加者がいかなる心理を持っているかという点に着目した共同行為論から,共同行為のただなかにおいて参加者はどのようにうまくやっているのかという点に着目した共同行為論が有用かもしれないという示唆を与えた.

  1.    実際にはjoint action,collective action,group action などの複数の用語があり,またこれらの言葉が単に本当に言葉の問題に過ぎず指している事象は同一であるという場合もあれば,別の事象を指すのにいくつかの言葉が使いわけられている場合もある.
  2.    ただしサール自身の例はケーキ作りではなくソース作りである.
  3.    この「何かをする」は身体を使った動作でもいいし,心理状態の形成や規則の受容などでもよいとされる.
  4.    ただしブラットマンはBratman (1987)の第8章において意図された行為と実際になされた行為とのあいだでずれが生じている事例を検討しており,それと同様の事態が共同行為にも生じうるとコメントしている(Bratman 2014, p. 161, n. 23).そのためブラットマンはこの前提を採用しているわけではないが,ただし共同行為においてそうしたずれが見られる事例について積極的に論じているわけでもない.

参考文献

Blomberg, O. (2016). “Common Knowledge and Reductionism about Shared Agency”, in Australasian Journal of Philosophy, 94 (2), pp. 315–326.

Bratman, M. E. (1987). Intention, Plans, and Practical Reason, Harvard University Press, Cambridge.

——— (1992). “Shared Cooperative Activity”, in The Philosophical Review, 101, pp. 327–331. Reprinted in M. E. Bratman (1999), Faces of Intention: Selected Essays on Intention and Agency, Cambridge University Press, Cambridge, pp. 93–108.

Gilbert, M. (1990). “Walking Together: A Paradigmatic Social Phenomenon”, in MidWest Studies in Philosophy, 15 (1), pp. 1–14. Reprinted in M. Gilbert (1996). Living Together: Rationality, Sociality, and Obligation, Rowman & Littlefield, Lanham, pp. 177–194.

——— (2002). “Acting Together”, in G. Meggle (ed.) Social Facts and Collective Intentionality, Hansel-Hohenhausen, Frankfurt, pp. 53–72. Reprinted in M. Gilbert (2014). Joint Commitment: How We Make the Social World, Oxford University Press, Oxford, pp. 23–36.

Miki, N. (2022) “Concessive Joint Action”, in Journal of Social Ontology, 8 (1), pp. 24–40.

Schönherr, J, (2019). “Lucky Joint Action”, in Philosophical Psychology, 32(1), pp. 123–142.

Searle, J. R. (1980). “The Intentionality of Intention and Action”, in Cognitive Science, 4, pp. 47–70.

——— (1983). Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind, Cambridge University Press, Cambridge.

——— (1990). “Collective Intentions and Actions”, in Philip R. Cohen, Jerry Morgan, & Martha E. Pollack (eds.) Intentions in Communication, The MIT Press, Cambridge, pp. 401–416.

Tuomela, R. (2010). The Philosophy of Sociality: The Shared Point of View, Oxford University Press, Oxford.

Tuomela, R. & Miller, K. (1984). “We-Intensions and Social Action”, in Analyse & Kritik, 7 (1), pp. 26–43.

 
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