2023 年 2023 巻 50 号 p. 29-41
フェミニスト認識論における無知・信頼性・行為者性
解釈的周縁化に対する認識的責任
大橋一平
0. 序
次のような事例を想像してみよう.障害のある人が経験する日常の苦労が,家族内のようなローカルなコミュニティではよく理解されているが,それ以外の場面,例えば職場や学校においては,自身の経験に基づく独自のニーズが,職員の無知ゆえに理解されない.障害をもつ人々は,日々生じるこのような経験によって,自身の経験の知識が社会のなかで共有されず,周縁に位置づけられてしまうという経験をする.そしてしばしば,当の周縁化されている人々が直面する問題に関して無知であった,という表現は,マジョリティが果たすべき責任を回避するための言い訳として用いられる.さらにこの表現は,周縁化されている人々を追い詰めるものでもある.このような状況のもとで,社会的に優位な地位にある者たちは,自身の無知や無関心に関して,どのような責任をもつのだろうか.
本論文の目的は,無知と信頼性の関係が,いかに認識的不正義を維持,再生産し解釈的周縁化を生み出すのか,そしてその構造的な認識的不正義に対する個人の責任はどのように問題化できるのかを論じることである.まず第1章において,無知の認識論を紹介する.次に第2章において,無知と信用性がいかに認識的不正義を維持し,解釈的周縁化を生じさせるのかを論じる.そして第3章において,解釈的周縁化という構造的な認識的不正義に対して個人の責任を問うことが可能なのかという問題を巡って,フリッカーとメディナとの間で交わされた論争を概観する.両者の二つの責任モデルを整理することを通じて,解釈的周縁化に対する共有責任の根拠を示し,その必要性,さらには自身を責任ある行為者であると表明することの重要性という論点を補足することで本論文の立場を示す.最後に第4章において具体的な周縁化に対する共有責任の指針として認識的行為者性の発揮を提示し,社会的立場に配慮した「包摂的異議申し立ての場」を設計するための二つの提案を示す.そこにおいて認識的行為者性の信頼性を貶める認識実践に対処する責任を論じる.ここで要求する責任は社会に参加する人々に一律に課せられるものではなく,各人の社会的文脈や立場への配慮に基づいて果たされるべきものであることを示す.
1. 無知の認識論とは
認識論の一分野であるフェミニスト認識論において,無知の問題は重要なトピックである1.「無知の認識論Epistemology of ignorance」という用語はミルズが1997年の著書『人種契約 The Racial Contract』において,伝統的な社会契約論のうちで暗黙裡に前提されてきた人種差別的構造の認識論的側面に焦点を当てた際に用いた用語である.
「したがって事実,人種に関する事柄について,人種契約はその署名者に逆さの認識論,つまり無知の認識論を処方する.局所的かつ一般的な認知機能不全(これは心理的,社会的に機能する)の特定のパターンは,白人が一般に,彼ら自身が作った世界を理解することができないという皮肉な結果を生んでいる.」(Mills 1997, 18)
ここでいう無知とは,単に真なる知識を欠いている,という状態を指しているのではなく,支配的な集団を特権化する積極的な認識的実践として理解されるものである.支配的な集団(ミルズにおいては白人)が自らの特権的地位を維持し,被支配的集団を周縁化するシステムとして無知は構造化されている.無知は社会的な文脈に左右されるだけでなく,その中でも社会的・集団的アイデンティティに関連し,特権的な地位にある人間だけがとりうる悪質な無知のパターンが存在すると理解される.例えば「カラーブラインドネス」という態度はあらゆる個人の平等という名目のもとすでに存在する人種差別の事実に目を向けなくさせるよう働いている.無知を説明する実質的なレイシズム的認知規範が存在すると主張している点で,ミルズの議論は,「無知とは知識の欠如あるいは不在である」と定義する認識論における無知の議論とは一線を画している.無知の認識論は,このようなレイシズムやセクシズムといった抑圧的な社会構造と,その構造に基づいた認識実践によって無知が生み出されるメカニズムを問題にするのである.
メディナはこのような無知をそれ以外の無知から区別して積極的無知active ignoranceと規定している.積極的無知とは「知ることや学ぶことを回避し,抵抗するさまざまなメカニズムに関係するもので,知ろうとしないことnot knowingに深く関与するもの」である(Medina 2016, 182).メディナが強調する積極的な無知は,無知というものが何かを欠いた状態ではなく,個人のなかで習慣的に繰り返されてきた知りたくないものを知ろうとしない認識実践と,さらには個人的次元の問題だけでなく,個人の無知が基づいている歴史文化的な知ることに対する抵抗のメカニズムをも含んでいる.単に真なる信念の欠如として無知を理解するならば,それは無害であり,学習によって取り除くことは比較的容易であるが,積極的な無知はそのような無知の定義では捉えられない悪質で自己防衛的な無知を問題化する.フェミニスト認識論はこのような積極的な仕方で働く無知を悪質なステレオタイプや偏見に基づくイメージの分析を通して問題化してきた(Daukas 2006; Tuana 2006; Collins 2001; Dotson 2011).本稿において重要なのはこの無知における行為者性への注目である.
2. 無知,信用性,認識的不正義
では認識的不正が無知と信用性という問題と絡み合うことでいかに解釈的周縁化が生じ,維持されているのか.
ミランダ・フリッカーは2007年の著書において認識におけるさまざまな種類の不正を「認識的不正義epistemic injustice」と名づけ分析している(Fricker 2007).フリッカーは著書のなかで認識的不正義の主要な事態として「証言的不正義testimonial injustice」と「解釈的不正義hermeneutical injustice」を論じている(Fricker 2007).証言的不正義とはコミュニケーションの聞き手が話し手の社会的アイデンティティについて偏見的なステレオタイプを抱くことによって話し手の証言の信用性が不当に切り下げられることで生じる不正である.裁判の場において黒人男性の証言が,その「「黒人」という社会的アイデンティティに関する種差別的偏見」によって適切に聞き取られない場合はこの種の不正に該当する.
他方解釈的不正義とはある社会における集団的な解釈資源のギャップが特定の社会的アイデンティティを有した人々の社会的経験を理解可能なものにする際に,人々を不当に不利な状況に陥らせることで生じる不正である.例えば,セクシャルハラスメントという概念がなかった時代に,ある女性が職場で上司の男性から性的な嫌がらせを受けた際,自身が被っている被害体験についてそれを名指すことばがないが故に,自身の体験を理解できないあるいは自身の被害を社会に訴えることができないという状況が解釈的不正義の例に当たる.
では認識的不正義と積極的な無知,そして信頼性はどのように結びついているのか.まず証言的不正義の定義に現れているように,証言的不正義とはある特定の社会的アイデンティティに対する無知に基づくステレオタイプによって,証言者の証言内容であったり証言者としての能力に対する信用性が不当に貶められることに由来する.フリッカーはこの信用性の不当な切り下げを「信用性の欠如credibility defecit」と呼び,そこでの信用性判断によって切り下げられる信用性には二種類あるとしている.それは証言者の認識能力competenceに対する信用性の欠如と証言者の誠実さsincerityに対する信用性の欠如である(Fricker 2007).フリッカーは証言的不正義が成立するのは信用性判断において不当に信用性の欠如が生じる場合のみであるとするが,メディナは信用性が過剰に付与される場合credibility excessにおいても証言的不正義が認められると論じている(Medina 2011).例えば,議論の場においてカラードの女性研究者と白人の男性研究者がそれぞれ主張を行った際に,白人の男性研究者の主張に過剰な信用性が与えられた場合などがそれに当たる.信用性の過剰な付与は直接的な害になっていないのではないかと一見すると思われるが,証言的不正義において特定の社会的アイデンティティに対して信用性を不当に付与するということは,そのほかのアイデンティティに対して信用性を不当に低めることと相関している.この場合では白人かつ男性というアイデンティティの信用性を高めることはカラードの女性であることのアイデンティティを不当に低めることと構造的に不可分である.つまり信用性の判断は相互作用的であり,その適切または不適切なアイデンティティへの信用性の帰属は,比較的なcomparativeまたは対照的なcontrastive性格を有している(Medina 2011).メディナはこのように証言的不正義という個人間で生じる認識的実践がより構造的な不正を反映し,かつ反復,維持していると論じる.そしてこの構造的な社会関係パターンが個人の認識実践のなかでその社会的想像力social imaginaryを通じて反映されることによって,ある種の証言が理解可能なものであるか否かが判断されるのである.例えば同じ証言であったとしてもどのような社会的アイデンティティの知る者knowerがその証言をするかによって,すでに社会的に共有されたイメージに基づいて,別の意味として歪められて理解されたり,そもそも理解されなかったりする.このようにネガティブに働く社会的想像力は目のまえにあるすでに想像されているものとは別の可能性を想像するために知ろうとすることに証拠に基づいて抵抗する,つまり積極的無知を生み出すものとして機能する場合がある(Medina 2011).すでにここまでの議論からわかるように証言的不正義における個人間での認識的なやりとりは構造的に特定のアイデンティティの人々の経験が理解可能であるか否かという解釈的不正義の問題と緊密に結びついている.
無知における解釈的な問題と証言的な問題の関係,構造的な問題と個人間の問題の関係両方を考える上で重要な場面とは,あるマイノリティグループのコミュニティ内では共有されている解釈資源がより広い社会的空間のなかでは共有されないという状況である.例えば,性的マイノリティのグループにおいては自身のセクシュアリティやジェンダーについて語るための概念が共有されているが,マジョリティのコミュニティの中ではそれらが通用しないという状況がある.このような状況の中で無知が積極的に働いている事態をポールハウスは「故意による解釈的無知willful hermeneutical ignorance」と名づけ分析している(Pohlhaus 2012).故意による解釈的無知が生じるのは「周縁に位置づけられている知る者は他の抵抗する知る者との相互関係を通じて積極的に認識的支配に抵抗する一方,支配的位置にいる知る者はそれでもなお,世界を誤解しmisunderstand誤読しmisinterpret続ける」ような場面だ(Pohlhaus 2012, 716).このような状況は支配的地位にいる者が自らの理解の枠組みに抗議しその枠組みを問いただすような,周縁化されている者たちの解釈資源を,単に理解することができないというのではなく,あえて理解しようとしない認識実践によって引き起こされる.このようなマジョリティによる積極的無知によって周縁化された人々は社会における主要な認識的コミュニティから排除され,不当な社会的立場に置かれつづける.
無知に基づく支配的なステレオタイプによって,証言者を知る者と見なさない不当な態度が,当の知る者の経験を説明するための解釈資源の共有を阻むことで,新たな無知を生み,無知を再生産する.この事態は無知と信用性欠陥の悪循環の関係を生じさせる.つまり,認識的コミュニティからの疎外が生じる.このような無知とそれに基づくステレオタイプが社会的に再生産された結果としてパターン化し,フリッカーがいうところの「解釈的周縁化hermeneutical marginalization」を引き起こすのである(Fricker 2016).つまり,私たちが,社会的経験を一般的に共有できるようにするために用いる概念や,解釈の枠組みの共有された解釈資源への貢献の点で,公平でない状態が維持されるのだ.このように解釈的に周縁化された結果,周縁化された者たちと支配的な立場にある者のコミュニティとの間で解釈資源のギャップが大きくなり,無知は常態化する.
3. 解釈的周縁化に対する個人の責任
本章では,前章において論じた解釈的周縁化に対する個人の責任を,いかに問うことができるのかを検討する2.この問題に関しては,フリッカーとメディナの間で,構造的な不正である解釈的不正義に対して個人の認識実践の責任を問題にすることができるのか否かという点で論争がある.それゆえ本章は,この論争を整理することから議論を始めたい.まず3-1では,解釈的周縁化を含む解釈的不正義に対する個人の責任に関して,フリッカーとメディナの間でなされている論争を概観し,整理する.3-2では,解釈的周縁化に対する個人の責任を,周縁化を維持する点で重要な認識実践である故意による解釈的無知への責任を分析することを通じて示したい.まずフリッカーの帰責モデルで問える責任と,そのモデルでは捉えられない問題を指摘し,最後にメディナの共有責任モデルで問える責任を根拠づけることによってメディナの責任モデルを採用する.3-3では,このメディナの責任モデルに基づいて,責任はどのように果たされるべきかという点に関して,いかにして責任ある行為者として周囲から見なされるかという観点を導入し,メディナの責任の議論を深めたい.
3-1
まずフリッカーが『認識的不正義』においてどのような立場をとっているか確認しよう.フリッカーは解釈的不正義を証言的不正義との対比のもとで説明している.証言的不正義は,個々の証言のやりとりのなかで生じる加害者と被害者が明確であるのに対して,解釈的不正義においては集団の解釈資源におけるギャップに問題がある点で偶発的な出来事として生じるか,体系的に生じるかのいずれかである.その意味で証言的不正義が特定の非難されるべき個人がいるのに対して,解釈的不正義,またそれを引き起こす解釈的周縁化においては特定の非難すべき個人はおらず,「解釈的不正義を犯す個人はいない.――それは純粋に構造的な概念である」(Fricker 2007, 159)と主張している.
このようなフリッカーの立場に対してメディナは2012年の著書『抵抗の認識論』のなかで解釈的不正義における個人の責任を問題にしていない点を批判している.ここでメディナが問題にしているのはまずフリッカーが証言的不正義と解釈的不正義を切り離して理解していることに現れているように,解釈的不正義とそこでの周縁化を維持している個人の個々の実践に焦点を当てないことである.「それにもかかわらず,彼女は解釈的不正義と,認識的やりとりの参加者のコミュニケーションおよび解釈の行為者性との間に不必要なギャップを導入している」(Medina 2012, 113).
さらにメディナはフリッカーの個人に対する非難に値するか否かの理解があまりに個人主義的なものである点を批判している(Medina 2012, 113).メディナにおいては解釈的不正義を維持しているのは個々の行為者間でのやりとりなのであり,その点で当のコミュニティに参加しているものたちは程度の差はあれ「解釈的不正義の共犯co-perpetrator」である.この点からすれば責任を個人に限定するフリッカーの理解はあまりにせまく,むしろ個々の行為者は共有された責任を有すると捉えるべきである(Medina 2012).
また最後にメディナはこのような共有された責任を理解するためには,解釈的不正義の形態を一面的にではなく,複数的かつ複雑な仕方で意識する必要があるとする.つまり解釈的不正義とは単に不正の被害者が自身の経験を表す解釈資源がまったくない状態をいうのではなく,そこには程度の問題や局所的なのか体系的なのかというさまざまな状況がある.このような複雑性を意識しなければ,そこで実際になされている個々の行為者の認識実践,その行為者性を適切に評価することができなくなってしまう(Medina 2012, 113).
フリッカーはこのようなメディナの批判を受け,後年の論文でその立場を変更している(Fricker 2016).第一に,証言的不正義と解釈的不正義の連続性を認めている.つまり証言的不正義が解釈的周縁化を維持する可能性について検討している.第二に解釈的不正義の多元性を認め,その形態を三つに分類している.そして第三にフリッカーは,例外的にある種の無知が解釈的不正義に類似した状況において非難に値する場合を認めている.それは差別的な動機や信念をもって故意に無知であろうとすることで認識的な害を生じさせる場合である.しかしフリッカーは,このような事例が非難に値するのは,倫理的に悪い動機や信念に基づいてなされる積極的な無知である点においてのみであって,解釈的不正義それ自体が理由で非難に値するわけではないとする.したがって「解釈的不正義は純粋に構造的な現象であって,いかなる個人の加害者も伴わない」という当初からの立場は変更していない(Fricker 2016).これに対してメディナも,フリッカーのこの立場変更にもかかわらず,解釈的不正義の行為者責任についてはなんらその立場を変えていない点を再度非難している(Medina 2017).
以下,このフリッカーとメディナの論争を二つの責任のモデルの競合として整理する.まずフリッカーの個人に対しての非難可能性culpabilityの議論について言及しよう.フリッカーの個人の倫理的に問題のある動機や信念にその非難可能性を帰属させる責任の議論は徳認識論における責任主義的な悪徳のモデルだと言える.それゆえフリッカーが解釈的不正義という構造的な不正の問題を一個人の問題のある動機や信念によって生み出された実践を根拠として帰責することができないことは理解できる.そして次にメディナの共有された責任という責任モデルに関しては主にアイリス・マリオン・ヤングの責任の「社会的つながりモデル」3を参照していることからわかるように,責任主義的な悪徳モデルではなく,政治的な共有(集団)責任のモデルを認識的徳として採用していると想定できる(Medina 2012, 160-161)4.メディナの問題意識は責任の問題が個人への帰責としてのみ扱われることによって,集団責任や制度における責任に関しての個人の責任が問題化されなくなることへの懸念である.このようにフリッカーとメディナの責任論を理解するならば,フリッカーとメディナの個人の責任に対する議論のすれ違いは責任主義的な悪徳モデルと政治的共有責任のモデルという二種類の責任モデルが対象とするものの違いとして整理することができるはずである.
3-2
では解釈的周縁化に対して個人はどのような責任を有するのだろうか.この問題を,解釈的周縁化を維持する点で重要な認識実践である故意による解釈的無知への責任を分析することを通じて示したい.
上記で説明したように,故意による解釈的無知は,一見して構造的に維持されている無知であるように思われる.この無知に対して,個人はいかなる責任があるのか.まず故意による解釈的無知の具体例を挙げよう.「障害をもつ社員への合理的配慮が不十分である」という女性社員の発言を審議する場に,障害に理解のない男性役員しかいない状況を考えてみよう.彼らは,その発言について,「単なるわがままではないのか」,「働けないなら休職したらどうか」と述べ,まともに取り合おうとしない.さらには,障害をもつ人に特有のニーズやそれに対する合理的配慮の必要性に関する理解の誤りを指摘してみても,まったく見当違いな意見を互いに言い合っているだけだとしよう.
フリッカーの責任主義的な悪徳のモデルでは,役員たちの責任をどのように問題化できるだろうか.ここで問題なのは,性別や障害に対する偏見に基づいて女性の発言の信頼性を切り下げ真摯に受け取ろうとしない態度であるが,それだけではなく,故意による解釈的無知において問題なのは,彼ら自身,女性が問題にする事柄を理解できていないということである.フリッカーの責任モデルにおいては,障害をもつ人に関する差別的な理解に基づいて彼らが日々会社で被っている問題についてあえて理解しようとしない役員の態度を非難することができる.また障害をもつものの経験を説明するための解釈資源を学ぼうとしないことに関して「非難に値する無知culpable ignorance」であると個人の責任を問題化できる.つまり役員は,単に問題を理解する能力がなかったのではなく,積極的に偏見に基づいて障害をもつ者の経験を説明する解釈資源の共有を拒んだことに関して非難に値するのである.
フリッカーの責任モデルにおいて問題化することが可能なのは,個人の認識の悪さである.しかしここでは問われていない問題がある.ポールハウスも指摘しているように,故意による解釈的無知の問題は集団による実践であり,構造的で体系的な問題でもある(Pohlhous 2012).役員は,特権的な立場にあるグループの一員として,その場で無知の実践を行っていたという点が指摘されなければならない.それは,周縁化された者の経験を説明可能にする解釈資源を,その認識コミュニティで共有することを積極的に拒否することによって,すでに在る無知を維持するような集団的な認識実践なのである.
この無知の構造的問題は,周縁化された知る者にとって自身の経験を表現するための解釈資源が足りていないという単純な問題ではない.解釈的周縁化が起きている状況では,利用可能な解釈資源は支配的な社会的地位にある者が基準になって生み出されている.そこでは,周縁に位置づけられている者が自身の経験を意味づける資源を利用することができないという非対称性が形成されている.その状況において,周縁化されている知る者は,支配的立場にある人々に対して,経験された世界を意味づけるための資源が不足していることを伝えることができない.なぜなら,その場において大部分を占めている支配的な立場の人々は,その資源の不適切さに目を向けないからである5.そして,周縁に位置づけられている者が解釈資源の不適切さに注意を促し,新たな解釈資源を生み出そうと試みたとしても,その試み自体が退けられてしまう.かくして,周縁化された者の努力は袋小路に陥るのだ.
ポールハウスは,フリッカーが問題にしなかった集団的,体系的問題を,非難されるべき無知として明らかにした.しかし奇妙なことに,故意による解釈的無知と,その無知が維持する解釈的周縁化が含んでいる集団的,体系的問題に対して,個人がいかなる責任を有するのかについては,何も述べていない.
この点をメディナの共有責任モデルは説明することができる.まず個人にいかなる責任があるのかは,社会的文脈のなかでどのような立場にいるのかに依存している.今回の場合,役員たちは特権的なグループの一員であり,かつ認識的に支配的なアイデンティティのもと,解釈資源を利用可能な立場にある.そしてこのような立場を前提に,積極的に周縁化された者との解釈資源の共有を拒絶することによって無知を維持している点で,集団的かつ共有された責任が問題となる.しかし,集団の責任や制度のような構造的な責任のみが問題にされているのではない.そこでの無知の実践は,個人相互間での積極的な認識的やりとりのなかで周縁化された者の知識の共有を拒絶することで無知を維持,再生産する実践であるからだ.つまり集団的に互いがあえて自らの無知とそれを支える社会的地位に関して,無責任であろうとする認識実践だといえる6.それゆえ集団責任,共有責任においても集団や制度の一員である個人として相互のやりとりのなかで無知の再生産に抵抗していく責任が役員たちにはあるのである.
「しかし,認識的に敏感になることは,唯一または主に個人の責任ではなく,個人が常に孤立して自分自身で完全に達成できるものでもない.むしろ,協力的かつ集団的にしか果たせない共有の責任なのだ.そもそも,個人には盲点や鈍感さがあり,放っておくと克服できない(時には発見できない)ので,協力的にしか遂行できない.他者からの批判的な介入,挑発,挑戦(摩擦friction)が必要なのである.そして,第二に,狡猾な形の認識的無神経さは,広く共有された形の無知と不注意を伴うので,問題の認識的責任は,集団,公共,制度の責任であり,かつそれらの社会的集団,公共,制度のメンバーとしての個人の責任でもあるため,集団的にのみ遂行されうるのである.」(Medina 2016, 195-196)
3-3
このように,メディナの共有責任モデルにおいては,故意による解釈的無知とそれが維持する解釈的周縁化に対しての個人の共有責任を問題にすることができる.それは個人の認識的な立場性ゆえに異なる視点をもつ他者との相互関係のなかでの「摩擦」を通じて維持していかねばならないものである.個人があたりまえだと想定している認識規範や別の社会立場への無関心さといった無神経さを,認知-情動的次元での抵抗を介して,自己批判し,再評価することが要求されるのだ.このような経験をメディナは「認識的不愉快epistemic discomfort」(Medina 2016)と呼び,その自己批判的な認識実践を社会制度のなかで教育的に担っていくべきであるとする.それは教育の中で自身の視点とは異なる視点を学んでいくことで,個人や集団の無関心さという悪徳を改善していくものとして理解されている.
確かにメディナの議論は,各人がどのように認識的に責任ある行為者になっていくのかという点に関して重要な示唆を与えてはいるが,当のコミュニティのなかで責任ある行為者として見なされるためには,不十分な点があるように思われる.この責任ある行為者として認められるための条件に関する視点を,メディナの認識的責任の議論に付け加えることで,より議論を深めていきたい.そのために,ドットソンが「証言の飲み込みtestimonial smothering」の議論をする際に提案している「正確な把握力accurate intelligibility」と 「証言受信力testimonial competence」という概念を手がかりにする.ドットソンは証言の飲み込み,つまり証言者が自身の証言が適切に理解されないが故に自分自身で沈黙してしまう事態が生じる状況として,聞き手が話し手に対して,その証言の内容に関し証言受信力のなさtestimonial incompetenceを示す場合を挙げている(Dotson 2011, 245).まず「正確な把握力」とは差し出された証言の内容に対する聞き手の側の把握する能力のことである.対して「証言受信力」とは話し手の側に聞き手が自身の把握能力,つまり差し出された証言に関連する領域に関しての知識を把握する能力を示すなかで,話し手が聞き手を評価する際に用いられる.したがって証言の飲み込みが生じる状況とは聞き手が話し手に対して,差し出された証言の内容に関する知識を把握する能力がないということを示す際に起きる.ここで重要なのは,いくら聞き手に正確な把握する力があったとしても,話し手に証言受信力のなさを示した場合は証言の飲み込みが生じてしまうということである.例えば,いくらハラスメントに関する知識があったとしても,ハラスメントの相談を受けた際に,加害者への同情を示すことで表面的に中立的な態度をとった場合,それは被害者へのガスライティングとなり証言をだまらせてしまう.つまり単に当該の証言に関連する領域の知識があるだけでなく,自身の社会的立場と相手の社会的立場との権力関係を認識した上で,それに基づいた配慮が求められる.この議論では,聞き手と話し手という二者関係が想定されているが,集団と個人との関係やあるコミュニティのなかで話し手が沈黙してしまう状況としても証言の飲み込みの問題を理解できるだろう.メディナの認識的責任の議論では,個人の正確な把握力を,集団や社会がいかに向上させていくかという議論はなされているが,認識的な能力を社会のなかでいかに示すのかという点は論じられていないように思われる.各人が認識的に責任ある行為者であると社会のなかで見なされるためには,単にある知識の領域に対して敏感になるだけでは不十分であり,それを個人としてであれ,ある集団の代表としてであれ何らかの仕方で表明する必要がある.例えば,自身のジェンダーとは異なるジェンダーを持つ人の状況や視点に対して敏感になるだけではなく,ジェンダー代名詞を用いることによって,関連する知識の領域を理解する能力があり,コミュニケーションすることが可能であるということをそのコミュニティのなかで示すことができる7.同時にアライであることを示しているにもかかわらず,当該領域の基礎的な知識を欠いていた場合には非難を受け入れることが要求される.認識的責任が要求する認識的行為を,個人の内で特定の知識を生み出すことやそのために感受性を高めることに限定するのは,社会における知識は構成員間のコミュニケーションによって生み出されることを考えれば,あまりに狭い.それゆえ認識的責任として,社会のなかで対話相手に対して,自身を責任ある行為者として示し認められることを要求するのは妥当である.そしてこのように自身を表明することは,社会のなかで知識が適切に共有されるための信頼関係の前提となる,認識的に信頼に値する責任ある行為者と見なされるためにも重要だ.
従来二者関係で論じられてきた信頼の議論は,より複雑かつ広範である社会的な認識的営みのなかでは,信頼による期待が要求する責任ある行為者のありかたに応じて複雑化する8.つまり「認識的責任は,単に特定の信念を形成する瞬間に適用されるのではなく,むしろ,世界に関する知識や理解のような認識的善を求める探究者として,より一般的に自分自身をどのように振る舞うべきか」(Grasswick 2021, 171)を説明することが求められるのである.それは「世界についてよく知ることができるように,自分自身をどのように位置づけるposition ourselvesのが最善であるかということを含」んでいる(Grasswick 2021, 172).つまり責任ある行為者は単に一時的な会話における自身の信念形成やそこでの証拠の扱い方に関してのみ責任を負っているのではなく,長期的な社会関係のなかでどのように他者の認識的なニーズに配慮し,時には自身の認識規範を反省したりするなかで信頼に値すると見なされる立場に自らを位置づけることが認識的責任として要求されるのである.そしてこのような複雑な社会関係のなかで信頼に値する責任ある行為者として自分自身の能力や立場を表明することは,信頼が期待するものに含まれている9.信頼に値する仕方で認識的に承認される努力をするということは,知識が社会のなかで適切な仕方で共有されるために信頼関係を前提とする限りにおいて,善き認識的実践のために求められる.そして本稿において論じてきたような社会のなかで周縁化が生じている状況において責任ある認識的行為者として振る舞う際に要求されるのは,単に認識的なだけでなく倫理的かつ政治的な責任あるあり方,つまり社会的不公正や抑圧に積極的に抵抗していくことを目指す「解放的な徳」10としての信頼性である.
4. 無知に基づく周縁化に対してどのような責任が求められるのか:「包摂的異議申し立ての場」の設計へ向けて
これまで無知に基づく解釈的周縁化に対しての個人の共有責任とその責任を表明する意義について論じてきた.では解釈的な周縁化を是正していくためにどのような具体的な対策をしていく責任が求められるのか,どのような仕方で実際に表明されるべきなのか.最後に解釈的周縁化を是正するために「包摂的異議申し立ての場」を設計するための二つの対策を提案という形で提示することにしたい.まずドットソンによる認識的抑圧と認識的行為者性についての説明を確認することによって,責任を果たしていくための基準となるものを示そう.
ドットソンは論文「認識的抑圧を概念化する」のなかで認識的抑圧という概念を以下の様に定義している.
・認識的抑圧epistemic oppressionとは認識的排除epistemic exclusionを維持することで知る者が知識生産のプロセスに参加することを妨げること.
・認識的排除とは認識的行為者性epistemic agencyを侵害すること.
・認識的行為者性とは知識生産に参加するために,知る者のコミュニティ内で説得力を有する仕方で共有された認識力の資源を利用する能力と,必要ならばそれらの同じ資源の改訂を行う能力である.…自分の経験を理解するために,与えられた共有リソースのセットを使用することができること,共有された認識的リソース内の公正かつ正確な基準の存在を信頼する能力.(Dotson 2014, 116)
ドットソンの定式化に基づくならば,認識的な抑圧を是正するためには,認識的排除の常態化を防ぐことが重要であり,そのためには周縁化されている者の認識的行為者性を回復することが必要だとわかる.つまり,知識生産の場に周縁化されている者が参加することが可能であるためには,①自身の経験を説明するために説得力ある仕方で解釈資源を利用することが可能であること,②仮に自身の経験を説明するための解釈資源が不足,または不当な解釈基準が存在している場合,それを改訂することが可能であること,が必要である.したがって以下では,この認識的行為者性を回復し,それを十分に発揮していくことのできる環境であるところの包摂的異議申し立ての場,つまりさまざまなアイデンティティにおいて周縁化されている者がコミュニティ内での解釈基準を規定する場に参加することができ,安全に異議申し立てを行うことできる場を構築するために必要な対策を二つ示し,認識的行為者性の信用性を貶める認識実践に対抗する責任を論じる.以下で提示することを責任として論じることはあまりに強すぎると思われるかもしれない.しかしながらすでにこれまで論じてきたように,私たちは自身をそこに位置づけている社会的立場において認識実践をするなかで,解釈的周縁化に何らかの仕方で貢献している点で,潔白innocentではありえない(Medina 2012).しかし要求される責任は一律ではなく,各人の置かれている社会的文脈に依存する.各々の社会的立場によってどのような認識的責任が課せられるのかは個々の文脈に基づいた判断が要求される.それゆえ構造的な認識的不正義の維持に関与する者がその不正に抵抗する責任を求められるならば,それぞれの社会的状況のなかでここで打ち出す方針に関して程度の差はあれ,責任を果たしていくべきである.
第一に,認識コミュニティのなかで,証言者の認識的行為者性に対する信頼性を適切に評価するために,その評価の場に周縁化された者が参加可能でなければならない.周縁化され認識コミュニティから排除されている者の証言を,単に「被害者の声」としてのみ評価することは問題であり,自らの経験を適切に意味づけるための解釈資源を自由に用いることができる一参加者として見なされなければならない.例えば,第三世界フェミニズムの議論において指摘されているように,第三世界の女性の証言が西洋で伝えられる際,自らの権利に対して啓蒙されていない者として,証言者としての信用性が格下げされることによって,家父長制の犠牲者の代表として不適切に信用性が付与されるという二重の認識的不正義を被る場合がある(Mohanty 1984).このような問題は周縁化された知る者がローカルなコミュニティでは自身の認識的行為者性を発揮できているにも関わらずそれを「声なき者の声を聞く」といったメタファーのもと,差別的なステレオタイプに基づいて集団的に当の行為者性に関する信用性を格下げし,理解しようとしないことによってしばしば生じる.もしくはその証言を単なる「生の素材」として受け取り,その証言を解釈する側が自身の解釈枠組みを問題化しないことによって生じる.
第二に,実際に解釈的な規範を改訂することができる場を確保することが目指されねばならない.クリスマンとフッブズは,周縁化された者が政治的に異議申し立てる行為を言語行為として分析し,その行為が成功する条件,つまり適切さの条件felicity conditionsとして,誠実さと善意を挙げている(Hubbs & Chrisman 2018).これらが満たされなければ,異議申し立てという言語行為は不発に終わる.したがって,周縁化されている知る者を「不誠実」であると見なしたり,「偽善」や「利己的関心」などに基づいて証言していると見做したりすることによって,証言者の行為者性に関する信用性を切り下げ,異議申し立てを不発に終わらせようとする試みに注意を向ける必要がある.例えば,会社での既存の社内規則が,障害をもつ女性のニーズに適していないために,その規則を改訂するよう求める活動をしているとしよう.その際にその女性の発言がからかいの対象にされ,まじめに受け取られない状況が形成されてしまった場合,証言者だけではその状況を打開することが困難になってしまうだろう.この状況では,当の知る者の解釈的な意図や動機が集団的に歪められることで,認識的行為者性の発揮が阻害されている11.それゆえ,職場の上司や役員のような当該のコミュニティにおいて力をもつ者が,安全に異議を主張できる場であるセーフスペース12 やブレイブスペースbrave spaces13を積極的に作っていく責任があり,それが十分に確保されていることを表明していく必要があるだろう.
結論
真に信頼に値する責任ある行為者であるためには,当の認識的コミュニティにおいて周縁化されている者の声を,単に認識を改善するための素材としてではなく,共により良い認識を形成していくための参加者として扱う必要がある.同時に,問題のあるルールや基準に関しては,批判的主張が可能であるような発言の場を作っていく必要がある.そして,それは単に個人としてだけでなく,集団や社会の一員として担っていくべき責任である.そして重要なのは,信頼に値する責任ある行為者として認められるためには,その場限りでは形成しえない,長期的な認識的な信頼性が必要なのであり,それは何らかのバッジのように獲得して完了するものではなく,絶え間なく認識的な努力を果たしていかねば維持し得ないものである.
ここまでは,周縁化された知る者が,認識的コミュニティにおいてその認識的行為者性を発揮することが,解釈的周縁化に対し重要であること,そして,その行為者性に対する信頼性が適切に評価されるための場を安全なものにする責任があることを論じてきた.しかし,同時に留意しておかねばならないのは,そもそも誰が信頼に値するのか,誰が信頼に値しないのかという認識基準そのものに批判的になる必要があるということだ.ある種のアイデンティティを有した人々が,自身の知る者としての信用性を証明する重荷を不当に負わされ,その重荷を負わされているということすら当人の属性のせいにされるという不正な構造が周縁化の結果生じている場合,知る者としての信用性を証明するための議論の場自体が排除的なものになる可能性がある14.このような状況において,特権的立場にいる者はいかなる仕方で認識的負担を負っていくべきなのか.以上のような問題に関しては,今後の研究の課題としたい.
註
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