哲学の探求
Online ISSN : 2759-6303
Print ISSN : 0916-2208
個人研究発表
カントにおける超越論的自己と経験的自己の同一性の問題
久保田 智也
著者情報
研究報告書・技術報告書 フリー HTML

2023 年 2023 巻 50 号 p. 55-64

詳細

カントにおける超越論的自己と経験的自己の同一性の問題

久保田智也

はじめに

『純粋理性批判』(以下,『批判』」)第二版の「純粋悟性概念の超越論的演繹」(以下,「B版演繹論」)の第24節,いわゆる自己触発論においてカントは,認識主体の二重な在り方について論じ,それについて次のように問うている.

思考する私は,自分自身を直観する私と区別される(私がなお別の直観様式を少なくとも可能なものとして表象できるということによって)が,やはりこの後者と同一の主体として同一であるのはいかにしてか.(B155)

本稿の目的は,この問いの内実を明らかにすることである.以下で見るように,この問題は,カント自身によってもカント研究者によっても未だ十分に検討されていない.それゆえ,この問題の意味内実を明確にし,たしかにこれが検討に値する問題であることを示しえたならば,演繹論研究に対して一定の貢献を果たせたと言えるだろう.

本稿では,上記引用における「思考する私」を超越論的自己,「直観する私」を経験的自己と呼び,これらの同一性についてのカントの問いを「超越論的自己と経験的自己の同一性の問題」と呼ぶ.この問題の内実を明らかにするためには,次の三点に答えることが必要である.第一に,超越論的自己とはどのようなものか.第二に,経験的自己とはどのようなものか.第三に,これらが同一であることの何が問題なのか.

結論を先取りすると,この三点には次のように答えられる.第一に,超越論的自己とは,判断によって過去の直観,すなわち想起の内容を規定する主体である.言い換えれば,主体が過去の対象をどのように想起するのかということは,主体が過去のその対象についてどのように判断するのかによって規定される.本稿は想起を一種の直観として扱うが,このように直観(想起)の内容を悟性の働きによって規定するという点において,この主体は「超越論的」自己と呼ばれる.

第二に,経験的自己とは,感性を触発されることによって対象を直観する主体である.言い換えれば,この主体がどの対象をどのように直観するのかということは,時間・空間という直観の形式を度外視すれば,どの対象がどのように主体を触発するのかによって規定される.この観点からすれば,主体が対象をどのように直観するのかということは,主体が対象についてどのように判断するのかとは関わりなく定まる.

第三に,二つの自己の同一性が問題になるのは,超越論的自己は判断によって直観の内容を規定し,経験的自己は対象からの触発によってのみ直観の内容を規定される,という相違があるためである.もしこの二つが一個同一の主体であるとしたら,主体は判断によって直観の内容を規定し,かつしないということになる.この(見かけ上の)矛盾のゆえに超越論的自己と経験的自己の同一性は問題になる.

最後に本稿の概略を述べておく.第1章では,初めに,テクストの整理と,従来の解釈の批判的検討を行う.カントは上記引用の問いを,他の二つの問いと並べて提起している.しかるに,それらが同じ一つの問いの別表現なのか,それとも連関のある別々の問いにすぎないのかということが定かではない.カントの問題意識を把握するためには,それら三つの問いの関係を明確にしておく必要がある(第1節).次に,それを踏まえて,従来の解釈の批判的検討を行う(第2節).従来の解釈には,この問いを他の問題と同一視するものや,『批判』以外のテクストに基づいて「解答不可能」と断定するものがある.本稿ではこうした理解が必ずしも正当なものではないことを明らかにしたい.

次いで,第2章では,B版演繹論第24節のいわゆる自己触発論(B152-157)の読解を通じて,経験的自己と超越論的自己とはそれぞれどのようなものであるのかを説明し(第1節,第2節),その成果をもとに,二つの自己の同一性をめぐる問題の所在を明らかにする(第3節).

1.問題のテクストと三種類の誤読

本章では,本稿が「超越論的自己と経験的自己の同一性の問題」と呼ぶものを,カントは実際にどのように表現しているのか,テクストに即して確かめる(第1節).次いで,その箇所に関してありうる誤解を三つ並べ,それぞれの問題点を指摘する(第2節).

1.1. カントの問題提起

問題は,B版演繹論第24節のいわゆる自己触発論の半ばで,次のように立てられている.

しかし,①思考する私〔das Ich, der ich denke〕は,自分自身を直観する私と区別される(私がなお別の直観様式を少なくとも可能なものとして表象できるということによって)が,やはりこの後者と同一の主体として同一であるのはいかにしてか.したがって,②知性体〔Intelligenz〕であり思考する主体としての私が思考された対象として私自身を認識するのは,私が思考の対象であることに加えてさらに直観において与えられる限りにおいてであり,ただ,他のフェノメノンと同様に,私が悟性に対して存在するとおりにではなく,むしろ私が私に現象するとおりにであると言いうるのはいかにしてか.このことは,③私が私自身に対してそもそも対象でありうる,しかも直観と内的知覚の対象でありうるのはいかにしてかということとちょうど同じだけの難しさを有する.(B155-156,①②③の番号付けは引用者による)

ここでは,三つの問いとそれらの関係が提示されているように見える.①においてそれが「いかにしてか」と問われているのは,思考の主体でありかつ対象である私と,直観の主体でありかつ対象である私が,区別されながらも同一の主体であるという事実である.しかるに,この事実と,認識は概念と直観からなるという『批判』の基本的テーゼが合わさると1,私が私自身を認識するのは私が自らに対して現象してくる限りでのことである,ということが帰結する.②は,この帰結をなす事実がいかにして成り立っているのか,と問うている.このように,②が問題にしている事柄は,①によって問われている事柄と,『批判』の基本的主張からの帰結である.しかも目下のところ,認識が直観と概念からなるという基本テーゼの正当性は問題になっていない.それゆえ②は,①のパラフレーズであり,実質的には①と同じことを問題として提起しているのである.

また,②と③の間に置かれた「ちょうど同じだけの難しさを有する」という表現は,やはり両者が実質的には同じことを問題にしているということを示唆している.すると結局のところ,②と③の問題は①の問題に帰着する.つまり,思考の主体が自分自身を(感性的)直観できるのはいかにしてかという問題である.

すでに述べたように,この問いは本稿が「超越論的自己と経験的自己の同一性の問題」と呼ぶものであり,以上のことから「超越論的自己」はカントの記述では「思考する私」であり,「経験的自己」は「自分自身を直観する私」に対応していることが分かる.

なお,本稿が思考する私を超越論的自己と呼ぶのは,上の問題がいわゆる自己触発論(B152-157)の中で提起されたことに起因している.自己触発論では,一貫して自己の二面性とその内的連関について論じられている.初めに,主体は「内的に触発される」(B153)とおりに自分自身を直観するという感性論における「内的感官の形式の解明」(B152)が,「私たちが私たち自身に対して受動的なものとして振る舞わなければならない」(ibid.)という逆説的な見かけを持つと言われる.そして,この逆説の克服を名目として論が起こされる.議論が進むと,自己を触発する自己自身の働きは,「構想力の超越論的総合」(ibid.)と名付けられる.

つまり,自己の二面性は,まず,触発する・されるという抽象的な対比で表現され,次いでこれが,構想力の超越論的総合・内的感官というカントのより実質的な理論概念によって言い換えられる.そして重要なのは,上で見た「思考する私」と「自分自身を直観する私」の区別も,この二面性に対する別の言い換えに他ならないということである.そのため,ここで「思考する私」の「思考」は,認識の可能性の条件であるような超越論的な働きとして理解されなければならない.本稿では,以上の文脈を踏まえて,「思考する私」を「超越論的自己」と呼ぶ.

1.2. 三つの誤読

上に示したテクストに関して,まずは,ありうる三種類の誤読を退けておく.当該箇所に関してはそもそも言及されること自体が少ないのだが,そのことも以下のような誤読に由来すると思われる.なぜなら,以下に示すいずれの解釈も,当の問題はそれ独自で考察に値するものではないという結論をもたらすからである.

第一の誤読は,自己触発の「逆説」(B152)との同一視である.第二に,ここで立てられた問いは「説明不可能」であるとカントが別の箇所で述べていることにしたがって,考察を放棄することが挙げられる.第三に,カントの問いを,直後のB版演繹論第25節において提示される,自己意識と自己認識の区別と関連づけて理解する立場がある.しかるに,そのような立場をとるなら,この問いは単なる疑似問題となってしまう.以下ではこれらの誤読についてそれぞれ見ていく.

(1)自己触発の「逆説」(B152)との同一視

まず,上記引用における,二つの自己の同一性についての問いは,自己触発論の冒頭に立てられた「私たちが私自身に対して受動的なものとして振る舞う」(B153)という「逆説」(B152)についての問いと混同されてはならない.なぜならそこで言う「逆説」は,単に「自己が自己を触発する」という語り方がどこか逆説的な印象を帯びているということにすぎないからである.

そもそも,主体が自分自身に対して受動的であるということは,事柄としていつも問題になるわけではない.実際,自分で自分を叩いたり,自分で自分を褒めたりすることができるのは明らかである.他方で,徒競走で自分が自分を追い抜かすことは不可能である.このように,問題(もしあるとすれば)の所在は,自己が自己自身に対して受動的であることではなく,そのさい自己とはどのようなものであり,自己自身に対してどのような関係に立つのかということにある.自己触発という主題に即して言えば,問題は,「自己が自己を触発する」という言い方がどこか逆説的な印象を与える(かもしれない)ことではなく,自己とはどのようなものであり,自己を触発するとはどのようなことか,という事柄の実質の方にある.そしてのちに見るように,二つの自己の同一性についての問いは,まさにこの事柄の実質のうちに問題を見出すものである.

自己触発の内実が未だ明らかになっていない冒頭部分では,問いは表層的な仕方で立てられざるをえなかった.その後,自己触発についての詳しい議論を経て初めて,問題は本来の定式を得る.自己触発論の論述の流れはこのように理解できる.

ところでアリソンは,カントの問題提起が「自己触発とその内的感官による自己認識との関係に関する当初の問いの単なる再定式化」,つまり自己触発論冒頭の逆説の再表現であるはずにもかかわらず,カントはその後,問いを立てなおしたというよりむしろ「答えてしまったかのように」論を進めているとし,そのことに対する違和感を露わにしている(Allison 2015, 391).しかし,カントの問題提起は単なる再定式化ではない上に,次に見るように,カントとしては問いに答えを与えたつもりは全くないだろう.

(2)「説明不可能」という断定

後年の『形而上学の進歩に関する懸賞論文』においてカントは,次のような問いを立てている.「思考する私が私自身にとって(直観の)対象であることができ,そうして私を私自身から区別することができるのはいかにしてか」(AA20, 270).この問題は,見たところ,上に見た超越論的自己と経験的自己の同一性の問題と同じことを述べているように思われる.しかるに,続けてカントは,「それは疑う余地のない事実であるが,説明不可能である」(ibid.)と言う.つまり,この問題には答えを与えることができないと言うのである.また,『純粋理性批判』の自己触発論における問題提起(2ページ前の引用を参照)の直後には「しかしやはり現実にそうでなければならない」(B156)とある.ここから,このときすでにカントは,事実としては認めるほかないが,なぜそのようになっているのかはわからない,という考えを抱いていたようにも見える.これらの言明を重くとり,問題に答えることはできないとするものとして,例えば中野の解釈がある(中野2021, 193f.).

たしかに,これらの表現を素直に受け止めることもできる.しかし注意すべきは,カントはそこでなぜ「説明不可能」であるのかについての説明を一切与えていないということである.そして目下のところ,カント自身によっても,カント研究者によっても,そもそも問題の内実が明らかにされていない.したがって,「説明不可能」というカントの言葉に促されてこの問題の検討を放棄してしまうのではなく,まずは問題そのものの意味をはっきりさせることは,たしかに有意義であると言える4

ところで,湯浅もまた,第1節に見たカントの問いが『懸賞論文』の問題と同趣旨であるとしながらも,この問いに関して「「人間理性の限界」に突き当たるまでは「超越論的である探究」は進行しうるのであり,その「限界」内で解明しうることも少なからずある」(湯浅2008, 87n.)という可能性を認めている.ただし,思うに,この問題が「「悟性」と「感性」,さらには「精神」と「身体」との結合の問題とも重なることは容易に理解されうるだろう」(ibid.)という湯浅の主張は疑わしい.なぜなら,「(直観の)対象」としての「私」,すなわち経験的自己は,外的直観の対象としては身体であり,内的直観の対象としては精神であるゆえに,精神と身体という対立と超越論的自己と経験的自己という対立とは上手く符合しないからである.

(3)自己意識と自己認識の区別の問題との混同

一見するとカントの問題提起は,B版演繹論第25節における自己意識と自己認識の区別とを重ね合わせて理解できるようにも思われる.その区別によると,自己意識は,「ただ私は存在するということ」(B157)だけを表象し,私がどのように存在するかということは一切表象しない.その意味において,「自己自身の意識はしたがって未だ自己自身の認識ではない」(B158).自己認識のためには,「私はさらに私の中の多様の直観を必要とする」(ibid.).

この区別と重ねてカントの問題提起を敷衍するなら,次のようになる.主体は自己自身を,二つの仕方で表象する.一方は自己意識であり,そこではただ「私は存在する」ということだけが表象される.他方は自己認識であり,そこでは「私は(現象として)しかじかのように存在する」ということが表象される.しかるに,自己意識における「私」と自己認識における「私」が同一の存在者であるとして,そのことはいかにして確かめられるのか.

これはしかし,擬似問題である.というのも第一に,自己意識が自己認識を前提することなくそれ単独で実行されるならば,それぞれの対象が同一の主体であることを確かめることは不可能である.それは,「存在する」という情報だけからそれがどの存在者であるのかを特定することが全く不可能であるのと同じ理由による.第二に,自己意識が何らかの自己認識を前提するならば,この問題は極めて容易に解かれうる(ので,もはや問題という名に値しない).というのも,自己意識が自己認識を前提するとは,「私は存在する」ということを意識するのに先立ち,あるいはそれと同時に,同じ私が一定の仕方で存在することを認識していなければならないということである.この場合,自己意識と自己認識の対象の同一性は明らかである.

2.経験的自己と超越論的自己,その同一性の逆説

本章ではまず,経験的自己と超越論的自己,すなわち自己の超越論的な在り方と経験的な在り方を,自己触発論の読解を通じて説明する(第1節,第2節).そしてその成果をもとに,超越論的自己と経験的自己の同一性の問題とは何であるのかを明らかにする(第3節).

2.1. 経験的自己

経験的自己とは,「自分自身を直観する私」(B155)であった.カントは,自己認識について論じているはずのB版演繹論の第24,25節においてすら,認識主体の経験的な在り方についてはっきりとした記述を残していない.それでも,『批判』の基本的前提から,以下の二つの特徴を経験的自己に帰することができる.

第一に,経験的自己は,それに対して与えられる諸現象の一部分を占めている.すなわち,自己直観は(知的直観ではなく)感性的直観であり,自己は諸対象が内在するのと同じ時空間において現象してくる.これは,私たちの直観は感性的直観であるという基本的テーゼから導かれる.

第二に,経験的自己は,心と身体を有する.カントが「私が私自身に対してそもそも対象でありうる,しかも直観と内的知覚の対象でありうる」(B155-156,強調引用者)と言うとき,自己が外的・内的両方の直観の対象であることを示唆している.外的直観の対象は空間的な事物であるから,外的直観の対象としての自己とは身体のことである.また,内的直観の対象は心およびその状態である.

つまり,経験的自己は,他の対象と並び立つ感性的直観の対象であり,しかも外的・内的両方の直観の対象である.それは結局のところ,時空的世界に内在する知覚主体であるということにほかならない.経験的自己は,世界のある時点・地点に存在し,そこから世界全体のわずか一区画を今・ここから知覚すると同時に,自身の身体と心的状態も知覚している.こうした自己についての描像は容易に受け入れられるだけでなく,捨て去り難くもある.

2.2. 超越論的自己

超越論的自己は,先に,「思考する私」すなわち構想力の超越論的総合の主体として定義された.それゆえここで明らかにすべきは,構想力の超越論的総合という働きの内実である.

B版演繹論第24節の自己触発論(B152ff.)は,その議論全体が,「私たちは私たちが内的に触発されるとおりにのみ私たちを直観する」(B153)という主張の解明という目的に捧げられている.自己触発論の第一段落(B152-153)でこの主題が掲げられ,第二段落(B153-154)では,先の主張のパラフレーズが行われる.すなわち,悟性が「構想力の超越論的総合という名の下に,受動的主体へ及ぼす作用」であり,「内的感官はこの作用によって触発される」.

整理するなら,認識主体は一方で悟性,ないし構想力という能力を有しており,他方で内的感官を有している.そして,構想力の超越論的総合という働きを通じて,前者の能力が後者の能力を触発する,あるいは「規定する」(B153).したがって,構想力の超越論的総合とは,内的直観の内容,すなわち何をどのような時間的順序で知覚したかということを定める悟性の働きであり,超越論的自己はそのような能力の主体である.超越論的自己は,自らが何を(内的に)直観するかということを,自らの思考の能力によって定める.

この解釈を根拠づけるために,「何をどのような時間的順序で知覚したかということを定める悟性の働き」について,続く第三段落の序盤(B154-155)の「線を思い浮かべる」という例に即して,さらに詳しく説明しよう.カントによると,「頭の中でそれを引くことなしには,私たちはいかなる線も思い浮かべることができない」.

次のような反論に対処することから始めよう.私たちは線を引く過程の表象をスキップして,いわば「瞬時に」線の全体を表象することができるように思われる.実際,「線を引くのを想像せよ」ではなく単に「線を想像せよ」と言われれば,線を引く過程まで一々思い浮かべることはしない.

これに対して次のように応えることができる.ここで問題になっているのは,線を表象するときにそれを頭の中で引く,つまり線が徐々に伸びていく過程をも表象しなければならないか,それとも,その過程を表象することを省略して一気に全体を表象することもできるか,ということではない.むしろ,線を頭の中で引く,つまり線が徐々に伸びていく過程を表象することが,悟性による特殊な意味での「引く」作用を必要とするということがここでは主張されている.

線が徐々に引かれていくことの表象において,悟性は,線を引くことの各段階の直観に対して一定の順序を指定するという働きを担う.仮に10cmの線を引くとしよう.その場合,各段階の直観として,1cmの線,2cmの線,3cmの線…が考えられる.そして,線を引くことの表象のためには,10cmの線の直観に,1cmの線,2cmの線,3cmの線…の順序で線が直観されたという意識が伴っていなければならない.言い換えれば,1cmの線の直観を時系列の先頭に置き,次に2cmの線の直観を置き…というふうに順序を指定しなければならない.

線を引くために不可欠なこの順序指定の働きは,単に各段階の直観を記憶しているということとは区別される.たしかに,諸直観を記憶において保持していることも,線を引くことの表象のために欠かせない要素ではある.しかし,記憶された諸直観のそれぞれは,各自がどの時点で(何番目に)生じたのかを教えない.記憶されたある直観が3cmの線を示しているからといって,それが時系列上で2cmの線の直観の次に,そして4cmの線の直観の前に位置している保証はない.仮に3cmの線,4cmの線,2cmの線…という順序で直観が生じたのだとしても,最終的な記憶の内容は1cm,2cm…という順序の場合と全く同一,つまり,1cmの線,2cmの線…,10cmの線である.したがって,一定の諸直観を記憶にとどめているということだけを根拠にして,その諸直観がどの順序で生じたかということを確定することはできない.

たしかに,記憶において私たちは,1cm,2cm…の順序で線が伸びていくイメージを再生するだろうし,そのことが直観の生じた実際の順序を告げ知らせるようにも見える.だが,直観の生じた順序と,それを再生する順序は独立である.例えば,ある一日の出来事を日没時点から遡って回想することができる.直観をある一定の順序で再生するからといって,実際にその順序で直観が生じたと考えるように強制されることはない(逆もまた然りである).

そもそも,頭の中に留められている1cm,2cm…の線の直観は,ただその直観を有しているということだけからは,それが過去の記憶であることは帰結しない.なぜなら,全く同じ形・色の線を,記憶することもできれば,想像することもでき,また予想することもできるからである.以上の議論は,線を引くことよりも大きな時間幅を持つ直観を思い起こすことでより理解しやすくなるだろう.ともあれ上述から,直観を保持する記憶の働きと,直観に対して時間順序を指定する働きは全く異なるものであることは明らかである.

カントは,内的感官は結合作用なしでは「未だ決して規定された直観を含まない」(B154)と述べる.カントがここで結合作用が働く以前に未規定的な直観が存在すると考えているとすれば,それは,上記のような単に記憶に保持されただけの諸直観に対応するだろう.外的な触発によって生じた直観にせよ,(単に想像力としての)構想力によって内側から引き起こされた想像にせよ,内的感官はそれを受け止め,保存する役割を担っている2

このように記憶には留められているが,その時間順序については全く未規定な直観に対して,順序を指定する,すなわち規定を行うのは「形象的総合と名づけたところの構想力の超越論的作用(内的感官に対する悟性の総合的な影響)による,内的感官の規定の意識」(B155)である.直観の生じた順序の指定は,単に直観を記憶に留めることや,それを恣意的な順番で再生することによってではなく,「…であった.次に,…であった」という過去時制の判断によってなされる.結局のところ,「何をどのような時間的順序で知覚したかということを定める悟性の働き」とは,記憶に残された諸直観に対し,それらの時間順序を過去時制の判断によって定めるということにほかならない.

線を引くという事例に即してなされた以上の議論から,悟性によって内的直観を規定するという超越論的自己の働きは,より具体的に,直観の時間順序を定める作用として理解できた3

2.3. 超越論的自己と経験的自己の同一性という問題の所在

第1節において自己の経験的な在り方が,第2節において自己の超越論的な在り方が明らかになった.自己のこうした二重性が,超越論的自己と経験的自己の同一性にほかならない.では,そこにはいかなる問題が存するのか.問題は,自己の経験的な在り方に即した認識の描像が,超越論的な在り方に即したそれと調和しないということである.

経験的自己は,世界のある時点・地点に存在し,そこから世界全体のわずか一区画を今・ここから知覚する.この描像には,客観的世界と直観の受容性の観念が必然的に伴う.つまり,世界は主体が一度に知覚できないほど大きく,そこに内在する諸物は,主体によって知覚されていようといまいと一定の仕方で存在する.そして,主体の直観は,近接する客観的対象からの触発に依存する.すなわち,主体がそのつどどのような光景を知覚するかということは,主体のまわりの客観的状況によって決定される.

すると,経験的自己としての主体の認識について,概ね以下のような描写を与えることができる.客観的世界が一定の姿をとって存在しており,その一区画が触発を通じて主体に呈示される.主体はそこで直観された内容に基づいて世界の在り方に関して判断を下したり,すでに下された判断の訂正を行なったりする.

他方で超越論的自己は,すでに見た通り,過去に何をどの順序で直観したかに関する想起の内容を自発的に規定する.この規定作用はもちろん,過去に何が生じたのかということそのものにまでは及ばない.「先ほど私は犬を見た」と考えることで実際に先ほど犬を見たことになるわけではない.しかしながら想起は,過去を表象するための唯一の手段であり,その内容が悟性によって規定されるということは,主体は主体が判断するとおりにのみ過去を表象するということである.

したがって,少なくとも過去の認識に関して,上に見た経験的な描写は適用できない.その描写に従えば,主体は直観の内容に基づいて判断を下したり,その真偽を判定したりする.だが,上述の超越論的自己についての説明に従えば,過去の直観(すなわち想起)の実行は同時に判断を下すことを必要とするから,まず直観が与えられ,その次に判断を下す,という順序にはなっていない.しかも,想起内容は必ず判断内容に合致しているから,想起の内容に基づいて判断の真偽を判定することもできない.

経験的な描写に従えば,過去のある時点での直観は記憶としてラベリングされた状態で保存され,過去について判断を下す場合には心の中でそれを掘り起こし,参照するということになる.だが,心中にただよう表象のうちどれが過去の,どの時点の記憶であるのかということは,過去についての判断とともに決定されるということは前節で確認したとおりである.つまり,過去についての判断を行うのに先立って,ある表象を記憶として扱うことはできない.

繰り返すように,主体が判断するとおりに過去の世界が存在するとは限らない.そうではなく,主体は,主体が判断するとおりにしか過去の世界を表象できないのである.そしてそうである以上,過去の認識に関して,直観は判断の(真偽判定の)根拠にならない.

以上から,B版演繹論の自己触発論の第二段落から第三段落冒頭まで(B153-155)に展開された,超越論的自己による過去構成の理論は,主体の経験的自己としての在り方に基づく認識描像と一致せず,後者を部分的に放棄することを要求するということは明らかである.そうしてまた,自己と認識に関する二つの見方の間でどのように折り合いをつければよいのかが問題になる.これこそ,カントが第三段落の半ばで立てた問い,すなわち超越論的自己と経験的自己の同一性の問題にほかならない.

衝突している二つの見方を整理するなら,次の通りである.一方では,客観的世界の在り方は主体がそれをどう考えるかとは独立に定まっており,その在り方が直観において開示され,その内容に基づいて主体は判断を下すという見方である.この見方に従えば,直観の内容は主体がそれをどう考えるかによってではなく,主体がどのような客観的状況に身を置いているかによって定まる.他方では,直観の内容は主体がそれをどう考えるかによって定まるという見方である.二つの見方は,直観の判断への依存という点で対立している.

ところで,上述の議論では,後者の見方が過去の認識に局限されていた.それゆえ問題はさほど深刻ではないように映るかもしれない.なぜなら,現在の認識に関しては前者の見方を,過去の認識に関しては後者の見方をそれぞれ採用すれば,少なくとも解消困難な矛盾は回避できるからである.そして,後者の見方の奇妙さをいかにして払拭するかという問題だけが残される.

しかし,演繹論の目的が「私たち感官のあらゆる対象に関するカテゴリーのア・プリオリな妥当性を明らかにすること」(B145)である以上,後者の見方はむしろ過去の認識に局限されてはならない.なぜなら,直観の全対象がカテゴリーに従うということは,全ての直観の内容が主体の思考によって決定されることを必要とするからである.もちろん,あらゆる直観の内容が全面的に思考によって決定されるとしたら,それは端的に不合理である.いまパソコンのモニターを知覚しているのは,「私はいまパソコンのモニターを知覚している」と考えているからだとは到底考えられない.それでもやはり,カテゴリーの妥当性が単なる偶然ではなく「ア・プリオリ」な事実であるならば,対象をどのように思考するかということが対象をどのように直観するかということを決定する,ある必然的かつ普遍的な連関が存在しなければならない.

しかるに,この連関の存在を少しでも認めれば,もはや思考と独立に存在する客観的世界の観念は放棄せざるをえないように思われる.つまり,演繹論の遂行は,自己と認識についての経験的な見方の放棄(という見たところほとんど不可能なこと)を要求するのではないだろうか.この点については,演繹論を上記の目的に適うものとして読むことをモチベーションの一つとする近年の概念主義的解釈(Cf. Gomes 2010; Conant 2016, 101ff.)の検討を通じて,慎重に論を進める必要がある.しかしその作業は本稿の主旨を逸脱するので,ここでは,超越論的自己と経験的自己の同一性の問題,すなわち自己に関する二つの見方をいかにして調和すればよいかという問題が,自己触発論に固有のトピックではなく,演繹論そのものの可能性にまで関わるということを示唆するに留めておく.

結論

超越論的自己と経験的自己の同一性の問題は,主体に関する二つの見方の対立をいかに解消するかという問題として理解された.対立を生むのは,直観の判断への依存という論点であった.自己触発論によれば,主体は,超越論的自己として,判断によって過去の直観すなわち想起の内容を規定する.それゆえ,過去の認識に関しては,直観は判断に依存する.他方で,主体の経験的な在り方に即して考えるなら,直観の内容は判断によってではなくむしろ主体の置かれた客観的状況によって決定される.最終的に,このように対立的な見かけを有する二つの見方を調和させることこそ,「超越論的自己と経験的自己の同一性の問題」と本稿が呼んできたものの本質であることが明かされ,しかもその問題が,カテゴリーの超越論的演繹の遂行可能性にまで関わっているということが示唆された.

本稿を締めるにあたって残された課題について簡単に述べておきたい.まず,本稿では問いの内実を明らかにしたのであって,それに答えを与えていない.それに加えて,超越論的自己とは何であるのかを明らかにするために行われた自己触発論解釈(第2章第2節)は,十全に遂行されたとは言いがたい.自己触発論において内的直観の悟性への依存が中心的主張を成すという最低限のポイントは確認できているにせよ,その主張の実質を過去構成の理論として理解することの解釈上の妥当性や,過去構成の働きそのものについてもさらなる説明が必要である.しかし,ともあれ,超越論的自己と経験的自己の同一性がなにがしか考察に値する問題であることを明らかにするという本稿の目的は果たされたとして,上記諸論点の検討は別稿に譲ることとする.

  1.    この基本的テーゼ単体からは②が出てこないのは,①で言われている同一性の事実を前提しないことには,「私は考える」という自己意識において私はいかなる感性的直観からも切り離された独特の対象を(知的に)直観しているという可能性がなお排除されないからである.この可能性を排除するための実質的な議論,つまり,「私は考える」という自己意識において現象としての自己とは切り離された別の対象が表象されているのではないということの論証は,後の「純粋理性の誤謬推論について」(A341/B399ff.)において行われている.
  2.    クラウスによれば,内的感官には,外的触発に由来する直観とともに,内的触発すなわち自己触発に由来する直観(例えば諸々の感情)も属している(Kraus 2019, 178ff.).ただし,直観を生じさせるような自己触発と,B版演繹論第24節で問題になっている自己触発とは別の働きであると見るべきだろう.
  3.    以上の自己触発論解釈は,大森荘蔵のいわゆる「想起過去説」を参照軸としながらより詳細に展開できるという見立てがある.その実行は今後の課題とする(Cf. 大森1992).また,過去の認識に関するカントと大森の類似と相違については,湯浅2015も参照のこと.

参考文献

『純粋理性批判』からの引用は,慣例に倣って,第1版をA,第2版をBと表記し,そのあとに各版の項数を添えた.『形而上学の進歩に関する懸賞論文』からの引用に際しては,アカデミー全集版(AA)の巻数と項数を記した.なお,引用文中の[]内は引用者による補足である.

Allison, H. E., Kant's Transcendental Deduction: An Analytical-historical Commentary, Oxford University Press, 2015

Conant, J., “Why Kant Is Not a Kantian,” in: Philosophical Topics, vol. 44 no. 1, 75-125, University of Arkansas Press, 2016

Gomes, A., “Is Kant’s Transcendental Deduction of the Categories Fit for Purpose?,” in: Kantian Review, vol. 15 no. 2, 118-137, Cambridge University Press, 2010

Kraus, K., “The Parity and Disparity between Inner and Outer Experience in Kant,” in: Kantian Rewiew, vol. 24 no. 2, 171-195, Cambridge University Press, 2019

大森荘蔵『時間と自我』,青土社,1992

中野裕孝『カントの自己触発論』,東京大学出版会,2021

湯浅正彦『超越論的自我論の系譜 カント・フィヒテから心の哲学・ヘンリッヒへ』,晃洋書房,2009

———「「第三アンチノミー」解決の鍵としての超越論的観念論」,『立正大学文学部研究紀要』,31号,1-33,2015

 
© 哲学若手研究者フォーラム
feedback
Top