2023 年 2023 巻 50 号 p. 65-77
メタ倫理学における反実在論は道徳的に間違っているのか
――ロナルド・ドゥオーキンの反実在論批判に応答する試み――
中根杏樹
0.はじめに
メタ倫理学の主題は,道徳的な正・不正,価値,理由など多岐に渡る.だがそのいずれについても,実在論と反実在論の対立がある.本稿では,道徳的な正・不正の問題に焦点を絞り,反実在論への一つの反論,反実在論は道徳的に間違っているという反論に応答する.とはいえ,まずそもそも反実在論がどのような主張で,それを受け入れる動機はどのようなものか,ということを述べておかねばならないだろう.第1節では,実在論と反実在論の対立について説明した後,反実在論の動機を確認することで,反実在論がどのような立場なのかを見る.第2節では,反実在論が直面する大きな問題として,ロナルド・ドゥオーキンの挑戦を取り上げる.ドゥオーキンによれば,反実在論は道徳的に間違っている.第3節では,この反論に対する反実在論側からの応答を試みる.第4節では,残る課題を整理する.
1.反実在論の説得力
実在論と反実在論の対立を特徴づけることは,それ自体で厄介な課題である.ここでは,リチャード・ジョイスの特徴づけにならって,道徳的な正・不正は客観的に存在すると考える立場を実在論,⑴道徳的な正・不正の存在を否定するか,あるいは,⑵その存在を受け入れはするのだが,その存在は客観的ではないと考える立場を反実在論とする(Joyce, 2021, p. 2).道徳的な正・不正が客観的ではないとは,それらは心理依存的(mind-dependent)であるということだ.では,心理依存的であるとはどのようなことか.この問いに十全に答えることは難しい(cf. Joyce, 2021, sec. 3.3).ここでは,さしあたりMiller(2007)で提示されている,反事実的な依存という考えに訴えたい.つまり,道徳的な正・不正についての反実在論とは,人が関連する心的態度をもたなければ,道徳的な正・不正は存在しなかっただろう,と主張する立場である.本稿では暫定的に反実在論を以上のように理解し,また,道徳的な正・不正の存在自体は否定せずに心理依存性を主張する類の反実在論を主に論じる.
では,次に反実在論の魅力を見ていこう.ここでは,実在論に対する存在論的な批判,認識論的な批判,偶然性にもとづく批判という三つの批判を手短に紹介する.紹介に入る前に一つ強調しておくと,この節の目的は,あらゆる形態の実在論を論駁し,反実在論の真理を示すことではない¹.ここでの目的は,反実在論へと人々を向かわせる動機を確認し,反実在論を理解することである.
存在論的な批判.われわれの心から独立した道徳的な正しさや不正さとはいったいどのようなものか.道徳的な正・不正は,たとえば星や引力や放射線といったその他の存在者とはまったく異なるように思われる.というのも,星や引力などは因果関係において役割を果たすのに対して,道徳的な正・不正はそうではないからである.そうすると,道徳的な正・不正というのは,非常に奇妙な存在者ではないだろうか.こうした論点は,ジョン・マッキーの奇妙さからの論証ですでに指摘されている.彼が主張するには,仮に規範的存在があるとしても,それは「この世界の他のものとまったく違った非常に不可思議な実体,もしくは特質,もしくは関係であろう」(Mackie, 1977, p. 38; 48頁)² ³.反実在論は,われわれがもつ心的態度という比較的問題含みでない存在者から道徳を説明しようとするため,同じ問題に直面しない.
認識論的な批判.実在論の想定する存在者を,われわれはどのようにして知りうるのか.マッキーは存在論的な問題を提起した後,認識論的な問題も提起している.そうした特殊な存在を知る方法もまた,到底受け入れがたいような特別な能力のようなものになるのではないか,と(Mackie, 1977, p. 38; 48頁).これに対して,実在論寄りの感受性論者であるジョン・マクダウェルは,感受性に訴えた説明をし,「感情を訓練することが,物事の秩序を見抜く〔……〕能力を養うことでもある――この場合,まさに感情との結びつきがあるゆえにその能力はなんら神秘的ではない」と言う(McDowell, 1985, p. 121; 123頁).とはいえ,なぜわれわれは感情を訓練することで物事の秩序を見出せるようになるのか,という謎が残る.反実在論であれば,それはわれわれの感情や価値づけといった心のあり様――多くの論者はさらに,情報を得たうえでの熟慮にもとづく理想化の手続きをこれに追加するだろう――が道徳を成り立たせているからである,と説明しうる.
偶然性にもとづく批判.最後の批判は,近年シャロン・ストリートが提示したものだ(Street, 2006).Street(2006)において彼女は次のように論じる.われわれの道徳的判断は進化論的な選択圧の著しい影響を受けてきた.実在論は,選択圧の影響と道徳的真理について,それらは関係しないか,関係するか,どちらかであると言わねばならない.関係しないと言うとしよう.そうすると,選択圧は,道徳的判断を歪ませるような影響として理解されることになる.だが,そうだとしたら,無関係な影響によって形成されたわれわれの道徳的判断は真でありそうにないという懐疑論を受け入れるか,道徳的真理とは無関係な影響の結果がたまたま道徳的真理と一致したという,ありそうもない幸運を信じるか,どちらかを選択することになる.しかし,どちらも受け入れがたいため,関係しないと言うことはできない.では逆に,関係すると言うとどうなるだろうか.関係すると言うなら,実在論者は,われわれは道徳的真理を追跡する仕方で進化してきたという追跡説にコミットすることになるだろう.だが追跡説は,われわれは周囲の環境に適応する形で進化してきたとする適応リンク説と比べて,説得的ではない.したがって,関係すると言うことも難しい(Street, 2006, pp. 121-136).ストリートの見解では,反実在論の利点はこのジレンマを免れていることにある.というのも,反実在論者は,選択圧と道徳的真理のあいだに関係を認め,そういった影響を受けつつわれわれが獲得してきた観点に依存して道徳的真理は成り立つ,と考えるからである.
以上のような論点が,反実在論を動機づけてきた.他方で,反実在論には大きな問題もある.次節では,Dworkin(1996)の議論をもとに,反実在論の問題を導入する.
2.ドゥオーキンの挑戦
2.1. ドゥオーキンの議論の骨子
ドゥオーキンの議論は二つのパートに分かれる.第一に,彼は,反実在論者の主張の身分を分析することから始める.そして,反実在論者の主張は,道徳的に中立的な主張でもなければ,(規範的議論から独立した)哲学的に厳格な議論のみによって立証される主張でもないと論じる.第二に,彼は,ある種の道徳的主張として反実在論を理解し道徳的な議論にもとづいて反実在論を検討すると,反実在論は誤りであると結論づけ,反実在論を批判する.第一段階から順に見ていこう.
ドゥオーキンの考えでは,反実在論者は自らの主張の身分についてそもそも誤解している.まず,ドゥオーキンは反実在論者の典型的な自己理解を分析する.反実在論者は,自分の主張は道徳的な論争に関してどの立場にもコミットしていないし(中立性の想定),自分の主張は純粋に哲学的な議論にもとづいている(厳格性の想定),と考える(Dworkin, 1996, p. 92).しかしながら,ドゥオーキンによれば,反実在論は道徳的論争に関して中立的であることはできないし,それゆえに純粋に哲学的な議論にもとづいて反実在論を擁護することもできない.
ドゥオーキンは中立性を以下のように批判する.だれかが「中絶は不正である.これはだれの態度にも依存せずにそうなのだ」と言うとしよう.典型的な反実在論者は,「これはだれの態度にも依存せずにそうなのだ」という二つ目の主張――ドゥオーキンに倣って,この主張を「追加主張」と呼ぼう――を道徳的真理の性格に関するメタ的な・哲学的な主張として読もうとするだろう.だがそれは,実はそれ自体で道徳的な主張である.追加主張で述べられているのは,中絶は無実の人間を故意に殺すことを含むため,たとえわれわれが現在有しているような心的態度をもっていなかったとしても,それは不正である,といったことだ.追加主張は「どの発達段階にあるにせよ,故意に人間の命を奪うことは,私やほかのだれかの個人的な反応・趣味に少しも依存しないような理由から,許されないのだ」としか言っていないのである(Dworkin, 1996, p. 98).追加主張は,メタ的な・哲学的な主張というよりも,「中絶は不正である」という一つ目の道徳的主張の明確化や強調として捉えられるべきなのである(Dworkin, 1996, pp. 97-99).したがって,追加主張の否定は,道徳的な主張の否定であることを避けられない.結果,反実在論の主張は,道徳的な含意をもつことになる.しかも,ドゥオーキンの論じるところでは,この主張には,それ以外の意味は存在しない.反実在論者は,この主張はたとえば星や引力のように因果的な影響力を有する存在者として規範的な存在者が存在すると言っているではないか,と言うかもしれない.だが,こうした追加主張の読みは,追加主張をする人に対して,道徳原子(morons)のようなものが存在するという,説得的ではない主張を帰属させている.追加主張を行う人は,そのような明らかに間違った主張を行いたいわけではないだろう.したがって,追加主張をある程度説得力をもつまともな主張として理解するならば,追加主張には道徳的な読みしか存在しない(Dworkin, 1996, pp. 99-108).
次に彼が考察し批判するのは厳格性の想定である.彼は中立性を否定することを通じて,実在論・反実在論の主張は規範的主張であると論じた.この主張にもとづいてドゥオーキンが続けて主張するには,実在論・反実在論の主張は規範的主張なのだから,どちらの主張が正しいかという問題は,一階の規範的な問題を論じる場合とまさに同じ流儀で論じられねばならない(Dworkin, 1996, pp. 117-122).そして,このことを踏まえるならば,反実在論よりも実在論のほうが説得的であるということが分かるはずだ,と言うのである.引用しよう.
議論のために,次の二つの命題のうちどちらかを選択しなければならないことにしよう.
⑴人間は,特別ではあるものの可謬的な判断能力をもち,そのおかげで,道徳的主張を受け入れるか拒絶するか決定することができる.その能力に生じる問題は,道徳的判断における間違いだけを帰結して,他の認知的活動には問題を及ぼさないことがある.
⑵特定の人種の集団を絶滅させたり,特定の人種の人々を奴隷にしたり,幼い子どもを囚われた母親の前でただ楽しみのために拷問したりすることに,道徳的な批判は存在しない.
これらのうちどちらを捨てるべきだろうか?(Dworkin, 1996, pp. 117-118)
ドゥオーキンは――単純化が含まれていることは承知のうえではあるが――⑴を受け入れて⑵を拒絶するのが実在論,⑵を受け入れて⑴を拒絶するのが反実在論であると考える.そして,実在論の選択の方が正しいと思われるため,実在論の主張はまさに道徳的な議論によって擁護されるのであって,反実在論は道徳的に受け入れがたいと結論づける.
2.2. ドゥオーキンの議論の問題点と反実在論に残された課題
私の見解では,ドゥオーキンの議論は反実在論者が応じるべき真正の問題を浮き彫りにすることに成功している.しかし,彼の議論には問題がないわけではない.
ドゥオーキンは,因果的な世界のうちに規範的な存在者が存在するという考えは説得的ではないということを根拠に,追加主張は道徳的主張としてしか読めないと言う.だが,彼自身論文中で確認しているように,そして本稿が第1節で見たように,因果的な相互関係をもつ規範的存在者という考えが説得的ではないということはまさに,反実在論者が強調してきたことである.反実在論者は,そのうえで自然科学的な世界観と道徳の両立を試みて,規範的存在者の存在論的・認識論的身分を説明するためのモデルを提示してきた.実在論者に対するチャリティーに訴えて追加主張は道徳的主張としてしか読めないと言うなら,逆に反実在論の主張を歪曲することになってしまう.
ドゥオーキンの議論はたんに実在論者に対するチャリティーに訴えるばかりで,追加主張は道徳的主張でしかないということを立証できていない.追加主張は道徳的な含みをもつということを認めたとしても,依然として「規範的存在者が自然科学で扱われるほかの存在者とはまったく異なる種類の存在なのだとしたら,どのような仕方で存在するのだろうか」「どのような仕方でわれわれに認識されるのだろうか」といった問題は残り続けるはずだ.そして,これらの問いへの答えが意味をなさないとか,これらの問いについて一階の領域に訴える以外の仕方で議論ができないといった主張は,非常に論争的である.
したがって,反実在論の側からは,「規範的存在者が自然科学で扱われるほかの存在者とはまったく異なる種類の存在なのだとしたら,どのような仕方で存在するのだろうか」といった問いに対する答えとして,追加主張を理解できる,と応答しうる.中立性の否定を認め,その答えがなんらかの道徳的含意をもちうるということを認めたとしても,それでも,追加主張は道徳的主張でしかないとする議論は受け入れがたく,同様に,反実在論の主張は純粋に哲学的な議論にもとづくことができないという議論も,失敗している⁴.
さらに,仮にドゥオーキンの議論が成功していたとしても問題は残る.Street(2016)は,追加主張は道徳的主張でしかないことと厳格性を想定できないことを両方認めたうえで,反実在論からドゥオーキンに応答することを試みている.Street(2016)の基本的なアイデアはStreet(2006)と同じで,選択圧を前提した際に生じるジレンマに依拠している.そこでの議論のうち実在論の批判に充てられた部分を非常に簡潔にまとめよう.適応リンク説を受け入れる場合,実在論を採用するならばわれわれは懐疑論に陥るか,ありそうもない偶然を信じることになるか,そのどちらかである.これらはどちらも第一階の観点から見て,避けるべき事態であろう.つまり,実在論は実際にはドゥオーキンが提示した選択肢⑴よりも悪い選択肢,たとえば⑴'「私には規範的真理を把握する望みがなさそうだ」という選択肢にコミットしている(Street, 2016, pp. 299-330).
以上のように考えると,反実在論を擁護する動機はドゥオーキンの議論を経てもなお強力であり続ける.だが他方で,彼の懸念は確かに真正のものである.もし反実在論の擁護を通じて「⑵特定の人種の集団を絶滅させたり,特定の人種の人々を奴隷にしたり,幼い子どもを囚われた母親の前でただ楽しみのために拷問したりすることに,道徳的な批判は存在しない」といった主張にコミットすることになるのだとしたら,その立場はたしかに受け入れがたい.反実在論者はこの懸念に何らかの形で応答すべきであろう.たとえば,その主張へのコミットメントを拒否するか,その主張を受け入れつつ一見するほどその主張は問題含みではないと主張するか,どちらかの対応が必要だろう.本稿の残りでは,反実在論の側からの応答を考察する.
3.反実在論の応答
反実在論がドゥオーキンの反論にどのように応答しうるかを考えるために,反論それ自体について若干の分析が必要となる.ドゥオーキンが反実在論の主張には道徳的に問題があると指摘している,ということは間違いない.だが,具体的にどこに問題があるのかということについて,彼の議論は多少曖昧で,明確化の余地がある.私の考えでは,彼の議論には二つの批判を見出すことができ,反実在論の側は少なくとも二つの批判に応答せねばならない.
3.1. 反実在論は理由に関して間違った主張をしているという批判への応答
ドゥオーキンはまず,何かが正しい・不正であるのはなぜかという理由について,反実在論者は間違っていると批判している.「何かが不正であったり正しかったりするということはだれの態度にも依存せずに成り立つ」という追加主張を検討しはじめてすぐの箇所で,実在論者はだれの個人的な反応や好みも何かが不正であったり正しかったりすることの理由にはならないと言っているのだ,と彼は主張する(Dworkin, 1996, p. 98).ドゥオーキンの一つの批判によれば,反実在論者はこの実在論者の考えを否定し,特定の態度こそ正・不正の理由だと考えるがゆえに間違っている.
だが,反実在論者はそもそも,特定の態度が理由であるという見解にコミットする必要はない.反実在論者は,自らの見解を,「無実の人間を故意に殺すことになるがゆえにその行為は不正である」とするような道徳的実践の仕組みを説明する理論として理解できる.つまり,反実在論者は,存在論的な問題,認識論的な問題,偶然性の問題といったものを踏まえたうえで,われわれが何らかの理由によって何かを不正としている実践がいかにして成り立っているのかを説明しようとしているだけでありうる⁵.実際,ブラックバーンは,説明と正当化を区別し,自らの投影主義――われわれは道徳実践において,実在しない道徳的性質を事物に投影しているという考え――を説明の側に位置づける(Blackburn, 1993, pp. 154-155; 155-156頁).
もちろん,ブラックバーンも認めているように,何かを正・不正の理由とする実践がわれわれの態度によって説明されることに対してさえ,そのように説明されるならば道徳の権威は失われるのではないかと不安に思う人がいるかもしれない.独立した道徳的実在による裏づけが存在しないなら,われわれの実践を続けていくべきではないのではないか,と.これに対して,ブラックバーンは次のように答える.「投影主義は道徳の地位喪失を伴うと人々が恐れる場合,彼らの恐れは根拠のないものであり,そのような恐れが生じるのは,欠陥のある感受性によって誤った事柄を尊重するにいたった場合のみである」(Blackburn, 1996, p. 156; 158頁).つまり,不安を感じるのは,われわれの態度から独立して説明されるものにしか権威を認められない,という前提を受け入れているからであるが,その前提自体が疑わしいのではないだろうか.そして,この疑わしい前提を受け入れないかぎり,なんらかの心的態度をもとに何かを道徳的な理由とみなす実践を説明することに問題はないはずだ.
これに対してドゥオーキンは,「正当化」と区別された「説明」を行うということはそもそも不可能であると主張するだろう.だが,すでに第2節で論じたように,ドゥオーキンは,「規範的存在者が自然科学で扱われるほかの存在者とはまったく異なる種類の存在なのだとしたら,どのような仕方で存在するのだろうか」「どのような仕方でわれわれに認識されるのだろうか」といった問題があるということを否定できていない.そして,そういった問題は,「ある特定の行為は不正だ」といった道徳的真理の正当化の問題ではなく,どのようにして道徳的正当化といった実践が成り立つのかという問いを扱う,説明の問題であるように思われる.
もちろん,これらの違いを正確に掘り下げるのはそれ自体難しい仕事である.しかし,それらのあいだに違いがあることを否定するのはもっと難しいことに注意したい.それらのあいだには,内部/外部,一階/二階といった言葉によって示唆されてきたように,正当化は実践に仮定的であれコミットすることを求めるが,説明はそうではないという,明確な違いがあるからだ.それらのあいだに違いがないと言うのはあたかも,将棋における一手の良し悪しを論じる試みと,将棋の成り立ちを研究する試みのあいだに違いがないと言うようなものだ.前者(正当化)においては,仮定的にであれ,行為者がそのゲームの目的を共有したゲームのプレイヤーであることが求められるが,後者(説明)においては,仮定的にでさえ,行為者がゲームのプレイヤーであることが求められない.2.2節で認めたように,説明の次元において導き出される答えが,正当化の次元において導き出される答えに影響することもあるかもしれない.しかし,その違いはたしかに存在するのであり,その違いに訴えることで,反実在論は一つ目の解釈におけるドゥオーキンの批判をかわすことができる.
さらに,仮に反実在論・実在論の対立が,何が道徳的な正・不正の理由であるのかという正当化の問題なのだとしても,実在論側も問題を抱えるという指摘もある.Erdur(2016)で論じられるところでは,実在論が仮に正当化の問題についての立場なのだとしたら,「何かが正しいとか不正であるということの理由は,われわれから独立して成り立つ道徳的事実である」と主張することになろう.だが,実際のところは正・不正の理由は,無実のだれかを殺すことになってしまうとか,そういった関連する事実のはずで,道徳的な正・不正が心理依存的な形而上学的本性をもつかどうかということは端的に関係がないだろう.したがって,仮に反実在論と実在論が何かを正しいとか正しくないとする正当化の根拠について争っているのだとしたら,反実在論と実在論のどちらも正しくなく,反実在論と実在論の問題から手を引くべきだということになるはずだ(Erduer, 2016, p. 601).反実在論と実在論の対立が,どちらかが適切でありうるような論争であるかぎりで,そこで問題になっているのは正当化というよりもむしろ,説明だとみなされねばならない.
3.2. 反実在論は間違った反事実的主張をしているという批判への応答
ドゥオーキンが反実在論は道徳的に間違っていると言うとき,そのもう一つの批判は,心理依存性を主張するタイプの反実在論の支持する反事実的条件文が間違っている,ということだ.反実在論の主張では,仮に人が関連する心的態度をもっていなかったとしたら,無実の人を殺すのも不正ではなく許容可能であるということになりかねず,その場合には,特定の人種の集団を絶滅させたり,特定の人種の人々を奴隷にしたり,幼い子どもを囚われた母親の前でただ楽しみのために拷問したりすることに道徳的な批判は存在しない,ということになりかねない.しかしこの主張は,われわれがどのような態度をもっていようと,どの時代でも,どの場所でも,無実の人を殺す行為は不正であるという道徳的直観に反してしまう.要するに,反実在論を採用すると,相対主義を受け入れねばならないように思われ,それゆえに反実在論は道徳的に間違った見方をしているように思われるのである.
以上の懸念に反実在論の側はどう応答しうるか.筆者の支持する解決案を提示する前に,その他の提案を二つ紹介しよう.一つ目は準実在論の応答で,二つ目はカント的構成主義の応答である.
3.2.1. 準実在論の応答とその問題点
以上の懸念について,ブラックバーンは準実在論の立場から応答を行っている.ブラックバーンは,「道徳についての特定の二階の形而上学を体現している思考のように見えるものを,実はそうではなく,一階の態度やニーズを表現している思考の一種として解釈する」という方針を採用する(Blackburn, 1993a, p. 153; 150頁).
「たとえわれわれが熊いじめを是認したり,楽しんだり,やってみたいと思っていたとしても,それはやはり不正なことであっただろう」というのは,投影主義とは正反対の,第二階の実在論的コミットメントを表現しているように思われる.しかし,実際のところ,〔節の中に道徳的文が登場する〕間接的文脈についてわたしが提示している〔一階の態度の表現として理解するという〕解釈のもとでは,次の趣旨の,至極まっとうな第一階のコミットメントとして理解できる.すなわち,いじめが不正かどうかを知る時に考えるべきことは,われわれが楽しんでいるかどうかや是認しているかどうかではない(少なくとも主な理由は熊に対する影響にある),という第一階のコミットメントである.(Blackburn, 1993a, p. 153; 150頁)
この方針を見るかぎり,ブラックバーンは,反事実的条件文が表現しているのは一階の正当化に関する主張であって,反実在論者は正当化ではなく説明に関する立場であるということを見て取るならば,反事実的条件文へのコミットメントを避けることができる,と考えていたように思われる.そして,このようにして,投影主義者でありつつも,反事実的条件文へのコミットメントを避けるからこそ,ブラックバーンは単純な反実在論者なのではなく,準実在論者なのである,と.
だが,本当にこれで問題を回避できているのかは疑問である.ブラックバーンは,投影主義者として,道徳的実践の説明においては,「様々な情操あるいは態度を調整,改善,比較検討および拒絶するという領域に,倫理上の諸活動を位置づける」という方針を採用する(Blackburn, 1993b, p. 174; 201頁).そうすると,二階の説明の領域において心理依存性を認めることを,ブラックバーンはいかにして避けうるのだろうか.ブラックバーンは説明の領域において心理依存性を認めるため,特定の態度がなければ道徳的な正・不正は成り立たなかっただろうという旨の反事実的条件文に対するコミットメントを避けるのは,不可能であろう.そして,こうした反事実的な主張を認めるとすれば,ドゥオーキンの疑念に再び直面することになる.説明と正当化の区別でドゥオーキンの提起する問題を回避することはできない⁶.
3.2.2. カント的構成主義の応答とその問題点
クリスティーン・コースガードやデイヴィッド・ヴェルマンといったカント的構成主義者は,道徳の心理依存性を認めつつ相対主義的なコミットメントを避けるための別の方策を提示している.たとえば,コースガードの見解では,規範的事実はわれわれ合理的行為者の実践的アイデンティティに依存する(心理依存性の主張).しかし,人は合理的行為者であるかぎりにおいて,みな時代や場所を超えて普遍的に人間としての実践的アイデンティティを有しており,道徳的義務は人間としての実践的アイデンティティに由来するため,相対主義の危険はない(相対主義の否定)(Korsgaard, 1996).
コースガードの議論に対しては,Street(2012)などで詳細な反論が為されている.ここでは,ストリートのように議論の詳細に反論するのではなく,カント的構成主義的な企て一般に伴う大きな問題点を挙げたい.それは,カント的構成主義の成功条件同士が緊張関係にあるということだ.カント的構成主義を使って相対主義の問題を解決するには,⑴ある特定の実践的アイデンティティをあらゆる合理的行為者が共有していること,⑵その実践的アイデンティティによって,道徳の絶対性(道徳的に何が正しく何が不正なのかということは相対的ではないということ)を担保しうること,これら二つを示す必要がある.しかし,⑴と⑵を両立させるのは困難である.というのも,これらの主張は,⑴に関して説得的であればあるほど,⑵に関して説得力を失うという,いわば説得力のトレードオフの関係にあるからである.たとえば,合理的行為者であればみな自律的存在者としてのアイデンティティをもち,行為を理解しようとする欲求をもつという主張は,説得的かもしれない.しかし,こうした理解の欲求が道徳の絶対性を担保するという主張は,説得的ではない.逆に,人間としてのアイデンティティ,ひいては人間性を尊重しようとする欲求が道徳の絶対性を担保するということは説得的であるかもしれない.しかし,そうしたアイデンティティ,ひいては欲求をだれもがもつという主張は,説得的ではない.一言でいえば,あるアイデンティティや欲求の内容を薄くすればするほどあらゆる合理的行為者がそれを共有しているということは説得的になるが,その内容を薄くすればするほど,道徳に関する説明をそれが与えうるということは説得的でなくなってしまうのである.カント的構成主義的応答は内部に解き難い緊張を含む.
3.2.3. ストリート的応答
では,どのようにして応答するか.私は,ストリートの示唆を参考に⁷,反実在論者は(反実在論者である以上)なんらかの反事実的条件文を主張するが,それはドゥオーキンの批判する反事実的条件文よりも無害でありうると主張したい.私の考えでは,反実在論者の主張すべき反事実的条件文は「仮に人が関連する態度をもたなければ,無実の人を殺すのも不正ではなかっただろう(つまり,道徳的に許容可能であっただろう)」といったものではない.もちろん,その主張にコミットする反実在論者もいるかもしれないが,それはオプショナルであるし,採用すべきではないオプションだろう.すでに述べたように,心理依存性を認めるタイプの反実在論者がコミットしているのは,「人が関連する心的態度をもたなければ,道徳的な正・不正は存在しなかった」という主張である.この主張は,「仮に人が関連する態度をもたなかったならば,無実の人を殺すのは不正ではなかった」という主張を含意するように思われるかもしれないが,そうではない.「無実の人を殺すのは不正ではない」というのは道徳的命題である.そうであるならばなぜ,「人が関連する心的態度をもたなければ,道徳的な正・不正は存在しなかった」と主張する人が,人が関連する心的態度をもたなかったという想定のもとで,無実の人を殺すことは不正ではなく道徳的に許容可能であるというある種の道徳的事実が成り立つと認めなければならないのだろうか.その想定下においては道徳的な正・不正は存在せず,なにかが道徳的に問題があるともないとも言えない,と主張することもできるのではないだろうか.
この提案を展開するために,「関連する心的態度」について具体的に考えることが役立つ.着目したいのは,トマス・スキャンロンによる道徳の本性の分析だ.スキャンロンは,道徳的な正しさの基本的な定義は,「行為は,それが他者に正当化可能であるとき,かつそのときに限り正しい」というものであると言う(Scanlon, 1998, p. 189; 33頁).もちろん,正当化可能であるとはいかなることか,という問題はある.カント主義者であれば,普遍化可能性のテストに訴え,功利主義者であれば,たとえば最大多数の最大の幸福といったものに訴える.だがどちらにせよ,他者に対してきちんと正当化できるということを道徳的な正しさの中核として考えるだろう.こうした他者への正当化可能性という理想が中心にあるということは,道徳に関する説得的な主張であると言ってよいだろう.道徳の本性をこのように理解するとき,道徳的な正・不正に関するわれわれの思考を駆動し,それを形作る動機は,他者が理に適う仕方で拒否できない諸原理を発見しよう,というものになる(Scanlon, 1998, p. 191; 36頁).自分さえよければ他人のことはどうでもよいといった態度ではなく,他者と互いに尊重し合って生きていきたい,他者に正当化できる形で行為したい,といった動機こそ,道徳的に正しいことを為し,不正なことを避けようとする基本的な動機である.スキャンロンの分析を踏まえるなら,道徳的な正・不正を成り立たせる「関連する心的態度」として,こうした相互承認に対する価値づけを考えることができる.
この分析を受け入れたとき,反実在論者はどのような主張にコミットする必要があり,コミットする必要がないのか.本稿で提案している反実在論者の考えでは,われわれが相互承認を価値づけなければ,道徳的な正・不正は存在しなかった.では,人が相互承認を価値づける場合,反実在論は何と主張すべきだろうか.無実の人間を殺すということは,相手になんら非がないのに甚大な害を与えるという,相手に対して申し開きできない行為の典型であるため,相互承認を価値づける以上は,無実の人間を殺すことは(少なくともその行為が無実の人間を殺すことであるかぎりで)不正であると認められる.つまり,この場合には「無実の人を殺すことは不正ではない(道徳的に許容される)」は偽である.では,人が相互承認を価値づけていない場合,反実在論は何と主張すべきだろうか.もしわれわれが相互承認をまったく価値づけなかったとしたら,そもそも何かが正しいとか正しくないということもなかっただろう.それは,その状況において,無実の人間を殺すことは不正ではなく道徳的に許容可能であったということではない.端的にそうした評価軸自体が存在しなかった,ということだ.「無実の人を殺すことは不正ではない(道徳的に許容される)」はその場合無意味である.以上のように考えるとき,反実在論者はドゥオーキンが批判するような「仮に人が関連する心的態度をもっていなかったとしたら,無実の人を殺すのも不正ではなかっただろう(つまり,道徳的に許容可能であっただろう)」という反事実的条件文にコミットする必要がない.反実在論者は,われわれが相互承認を価値づけなければ道徳的な正・不正は存在しなかっただろうという主張にコミットし――この主張は道徳的な正・不正の存在の心理依存性を主張しているため,その点で反実在論者だと言えよう――,そのうえで,「無実の人を殺すことは不正ではない(つまり,道徳的に許容可能である)」はいかなる場合であれ偽か無意味かだと主張しうる.この主張は,われわれが特定の心的態度をもたなければ無実の人を殺すことは道徳的に許容されるという主張よりも,もっと穏健であろう.
3.2.4. ストリート的応答に対する再批判と再応答
以上で,反実在論者は「人が関連する心的態度をもたなければ,無実の人を殺すのは道徳的に問題があるともないとも言えなかっただろう」という主張にコミットすることで,ドゥオーキンの批判を免れうる,と論じた.しかし,この応答にはさらなる批判がありうる.二つの批判を見てみよう.
第一の批判⁸.もし仮に人が相互承認など何の価値もなく,他人などどうでもよいと考えるようになったならば,それは道徳的な退廃であるように思われる.しかし,退廃しきった状況を考えると,その状況において人は相互承認を価値づけていないのだから,本稿で提示した反実在論によれば,道徳的評価軸は存在せず,道徳的に退廃しているという評価も行いえないということになってしまうだろう.このような批判を行いえないということは問題ではないのか.
第一の批判に対する応答.この批判はもっともであり,本稿の範囲では十分に応答しえない.現在進みたいと思っている方向を示唆しておこう.この批判において当の状況を退廃していると評価する際,評価者による相互承認に対する価値づけが暗に持ち込まれている.相互承認を価値づける態度を前提すれば,道徳的な正・不正は成り立つし,相互承認を価値づけない人々に対して道徳的に退廃しているという評価も成り立つ.評価者の相互承認に対する価値づけに照らして,道徳的退廃という批判を行いうるのである.とはいえ,この再応答が成功するには,道徳的な正・不正の存在は正確にはだれの態度に依存しているのか,ということをはっきりさせる必要がある.
第二の批判⁹.「人が関連する心的態度をもたなければ,無実の人を殺すのは道徳的に問題があるともないとも言えなかっただろう」としか言えないとすれば,人が関連する心的態度をもたなかったとしても無実の人を殺すことは不正であった,とも言えないことになってしまう.これはドゥオーキンのような批判者にとって,不満なのではないだろうか.
第二の批判に対する応答.本稿の立場はたしかに,「「人が関連する心的態度をもたなかったとしても,無実の人を殺すことは不正であった」とは言えない」と主張する.したがって,第二の批判に対して,本稿の立場はこの主張を受け入れずに済むという形で応答することはできない.そのため,その主張を無害化することを目指したい.では,そもそもなぜ「「人が関連する心的態度をもたなかったとしても,無実の人を殺すことは不正であった」とは言えない」という主張は問題含みであるように思われるのか.それは,その主張が「ある人が無実の人を殺すのは不正であると思っていないかぎり,その人にとって,無実の人を殺すことは不正ではなく,道徳的に許容される」という主張を含むと考えるからではないだろうか.つまり,ある人が不正だと認識していないものはその人にとって道徳的に許容されるという,ラディカルな相対主義の擁護であると思われるからではないだろうか.しかし,本稿の立場はそうした相対主義を擁護しない.本稿では,ドゥオーキンの批判に応答するために,道徳実践それ自体を成り立たせているような相互承認の価値づけに訴えた反実在論を提案した.この提案では,ラディカルな相対主義は導かれない.というのも,相互承認を価値づけるかぎりにおいて,無実の人を殺すという行為は相手に正当化しえないがゆえに不正であり,仮に人々が殺人の不正さを認識していなかったとしたら,その人々は殺人に関して誤解しているからである.こうして,本稿の提案は,ある人が正しいと思うことはその人にとって正しい,というラディカルな相対主義を受け入れない.そのため,本稿の提案はいわば信管を外されており,批判者の不満は緩和されるはずだ.
4.おわりに
本稿では,反実在論に対する道徳的批判を扱った.第1節では反実在論について説明し,第2節ではドゥオーキンの批判を導入した.第3節ではそれに対して反実在論がどのように応答しうるのかを論じた.応答は二段階に分かれていた.第一段階では,人が何かを正しい・不正であると思うことはそれが道徳的に正しい・不正であるということの理由・根拠ではない,という批判に応答した.反実在論は不正の根拠・理由を示す正当化の理論であるというよりも,何かを根拠・理由として何かを正しい・不正であると考えるような道徳実践を説明する理論である.第二段階で,反実在論は受け入れがたい反事実的条件文を主張することになる,という批判を見た.これに対して,反実在論は批判者が考えるような反事実的条件文を受け入れる必要はないと論じた.反実在論者は,「人が関連する心的態度をもたなければ,無実の人を殺すのは不正ではなかっただろう(道徳的に許容可能だっただろう)」という主張にコミットしなくともよい.その主張を受け入れない場合,むしろ反実在論者がコミットすることになるのは,「人が関連する心的態度をもたなければ,無実の人を殺すのは道徳的に問題があるともないとも言えなかっただろう」という主張である.そして,この主張は批判されている主張よりもずっと穏健である.こうして,本稿は道徳実在論を否定し反実在論を受け入れることにドゥオーキンの懸念するような問題はないと論じた.
とはいえ,本稿の以上の議論には,埋められるべき点がいくつもある.最後に,残る課題を整理しておこう.
課題1:反実在論の正確な特徴づけ.本稿では,Miller(2007)に倣って,道徳の心理依存性を説明する際に,仮に道徳は「人」の心理に依存するとしていた.だが,ここで問題になっているのは正確にはだれの心理なのか,ということをはっきりさせる必要がある.また,心理依存性についても,どのような仕方で心理依存的なのかを詰めていかねばならない.たとえば,人工物はある意味でわれわれの心に依存して存在するが,道徳的な正・不正はそれと同じ意味で心に依存するのか,そうではないのか.メタ倫理学における道徳の反実在論がいかなる意味での心理依存性を主張しているのかを明確化する必要がある.
課題2:説明と正当化の区別.本稿は,3.1節の議論で,説明と正当化の区別を用いた.実際,将棋の例を用いて述べたように,この区別は否定する方が難しい類のものである.とはいえ,3.1節でも認めたように,この区別を正確に掘り下げることも同様に難しく,反論の説得力を上げるには,説明と正当化の区別についてもっと論じる必要があるだろう.
課題3:スキャンロンの形而上学の検討.本稿では,ドゥオーキンの批判に応じるために,スキャンロン的な相互承認の欲求に訴えることを提案した.しかし,スキャンロン自身はある種の実在論者を名乗っているため,スキャンロンの提案を利用するにはより詳細な議論が必要だ.これは課題1と並行して進められる必要がある.というのも,スキャンロン自身ロバストな実在論者ではないため,スキャンロンがいかなる意味で実在論者であるかということ,そして,反実在論者それぞれがいかなる意味で反実在論を擁護したいのかということを突き詰めていくと,一部の反実在論者に関しては,スキャンロンと実質的に対立がないこともありうるからだ.
課題4:相対性の領域の画定.相互承認の欲求に訴えることでどれほど相対性を免れうるのかを考察する必要がある.相互承認の欲求さえあれば道徳のあり様が一意に定まるというのは,あまりに強すぎる主張だ.なんらかの相対性の余地は残すことになるだろう.相互承認の欲求に訴えてなお相対的である領域,相対性を排除しうる領域を画定しなければならない.
課題5:道徳批判への応答.本稿では「道徳」という言葉を躊躇いなく用いてきた.しかし,エリザベス・アンスコムやバーナード・ウィリアムズが道徳を有害だと批判したことは有名である.道徳に関する実在論/反実在論の論争を扱い,さらにはドゥオーキンの批判には何か真剣に扱うべき論点があると考えるなら,道徳批判に対していかなる態度を取るのかということは考えておかねばならないだろう¹⁰ ¹¹.
註
(F)最も強い意味で真であるが,それらの真理は何ら積極的な存在論的含意を持たない,というような主張がある.
(G)そのような主張が,ある事物がある,あるいは存在すると断言するとき,これらの主張はこれらの事物が何らかの存在論的な意味で存在するということを含意しない.(Parfit, 2011, p. 479: 505頁)
この立場では,道徳的主張を真にする議論の領域がどのようにして成り立っているのか,そういった議論の領域の身分をどう説明するのか,という問題が生じる.結局それが,われわれが何かを価値づけたり尊重したりする態度によって成り立つのだとしたら,最終的に反実在論の側に軍配が上がるように思われる.
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