哲学の探求
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個人研究発表
理想国に哲学者と民衆の同意は存在するのか
平石 千智
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2023 年 2023 巻 50 号 p. 78-87

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理想国に哲学者と民衆の同意は存在するのか

平石千智

1.はじめに

この同意が節制であると最も正当に我々は主張できるだろうね,つまり,国家においてもそれぞれ個人においてもどちらが支配するべきかという本性においてより劣った者とより優れた者の協和であると1.(Pl. Rep. 432a–b.)

このソクラテスの言葉は,『ポリテイア』における理想国を解釈する際にしばしば参照される.『ポリテイア』の理想国は,哲人王や妻子の共有といったその過激な思想によってポパー(1980)などの一部の論者から,暴力的で不当な支配であると厳しく糾弾された.特にポパーは,『ポリテイア』においてプラトンが哲学者を神のごとき優位な存在に位置付けており,国家の欲望的部分に属する民衆を不完全で非自律的な人間であるとみなしていると述べる2.それに対して,納富(2012)をはじめとして多くの現代の日本の研究者は,上記の引用を用い,理想国の国民の間には支配者に関する同意が成立しており,民衆は自らの理性でもって哲人王に従う選択をしているのだから,不当で暴力的な支配ではないと反論を行う.では,ソクラテスがここで述べている「同意がある状態」とは,一般に我々が考えるような,そして,不当な支配という理想国の解釈を退ける根拠となるような同意なのだろうか.

本論文では節制の徳がどのような同意であるのかを検討するために,まず,節制や正義などの徳について語る時に用いられる魂と国家のアナロジーと,このアナロジーが引き起こした解釈上の様々な困難について分析する.そして正義や節制の徳が他の知恵や勇気の徳と異なる特徴を持つ点に注目し,国家における正義や節制と魂における正義や節制をそれぞれ独立したものとして解釈することを試みる.その上で,国家における節制とは,ポパーらを反駁する根拠として用いられるような「同意」でありうるのかについて考察することを目的とする.

2.魂と国家のアナロジーが孕むパラドクス

『ポリテイア』において語られる国家と魂の三部分説は,正義が国家や魂の内に生じる過程を示すために導入されたものである.正義が生じる過程を示す理由は,ソクラテスが対話相手であるグラウコンの要請に応じて,正しい人が幸福であり,正義がそれ自体として善いものであることを証明するために,魂の正義について論じようとしていたからである.しかし,ソクラテスに言わせれば,魂の正義の探求は困難を極めるものであり,鋭い眼力を持っていなければ難しいものであった.そこでソクラテスは,魂よりも大きく,探求しやすい国家における正義をまずは探求しようと提案する(Pl. Rep. 368e–369a.).そして,国家の中にも個人の魂の中にも同種類のものが同数存在すること,さらに国家も魂も同じ種類の徳を持ちうることが確認され,国家の正義についての考察が魂の正義に関する考察に適用できることが示される(Pl. Rep. 441.).これ以降,正義や不正,そして諸々の徳について,個人の魂は国家において考察されたことと類比的に語られることとなる.しかしこの魂と国家のアナロジーは,様々な解釈上の困難を生み出した.この困難を論理的にまとめた論者にWilliamsがいる.Williams(1999)に従うと魂と国家のアナロジーは以下のようにまとめられる.

  1.   

    その国民がFである限りにおいて,国家はFである.

  2.   

    国家がFであるという説明は,国民がFであるという説明と同じである.

そして,個人における正義は次のように定義される.

  1. c.  

    それぞれの部分(理知的部分,気概的部分,欲望的部分)がそれぞれの仕事をする.

この(c)は次の要素を含む.

  1. d.  

    理知的部分は支配する.

この個人の正義を国家に当てはめると次のようになる.

  1. e.  

    その国民が正しい限りにおいて国家は正しい.

  2. f.  

    その国民が理知的,気概的,欲望的である限りにおいて,国家の要素は理知的,気概的,欲望的である.

上記の(c)に従えば,国家,個人が正しくあるためには,理知的部分,気概的部分,欲望的部分の三部分が必要であり,これらの部分がそれぞれの仕事をする必要がある.しかし,欲望的部分は正しい状態ではない.というのも,欲望的部分の快楽を最も追い求める人間の生き方は,最も悪く,醜いものだとされているからである(Pl. Rep. 581e–583a.)3.すると,正しい国家,正しい個人はその中に正しくない部分を持たなければならないこととなる.これが一つ目のパラドクスである.さらに,(a)に従えば,国家が正しくあるためには,国民個人が正しくある必要がある.個人が正しくあるには,(c)と(d)に従うと,三部分のうち理知的部分が個人の魂を支配する必要がある.すると,国家の欲望的部分に属する国民の魂は魂の理知的部分が支配していることになる.すなわち,正しい国家の欲望的部分は理知的部分を持つこととなる.これを魂にも当てはめると,正しい魂の欲望的部分は理知的部分を持つこととなる.つまり,国家の各部分の中にそれぞれ部分が存在しており,さらにその各部分の中にそれぞれ部分が存在するという無限後退が生じてしまうのである.これが二つ目のパラドクスである.またこのパラドクスは,これを解決するために魂の三部分に主体性はあるのかという点と魂の欲望的部分に認知能力を認めるかという点で多くの解釈を生んだ.すなわち,国家の正義が成立するためには,個人が魂の中で正義を達成するという主体性が必要である.これを魂にも当てはめると,魂の各部分が主体性を持たなければならないこととなる.さらにこれは無限後退を引き起こす.これを解決するために,欲望的部分に認知能力を与えることで無限後退を引き起こすことなく主体的なものとして魂の各部分を解釈しようとするような研究が生じた.以下では,魂の三部分の主体性と認知能力に関するいくつかの先行研究を概観する.

3.魂の欲望的部分は認知能力を持つのか

まずは,魂の欲望的部分が主体的であり認知能力があると解釈する論者としてErginelを取り上げる.Erginel(2013)は,魂の欲望的部分に認知能力はないと解釈するLorenz(2004, 2006)に応答する形で,魂の三部分を主体的に解釈し魂の欲望的部分が認知能力を持つと主張する.魂の欲望的部分が認知能力を持つ大きな根拠としてErginelは欲望的部分が道具的な推論を行うことができるという点を挙げる.欲望的部分は金銭を愛する部分とも呼ばれるとソクラテスが述べている(Pl. Rep. 580e–581a.)点から,欲望的部分が様々な欲求を満たすための手段として金銭を欲しているので,道具的推論を行う認知能力を有していると述べるのである.

他方,Fronterotta(2013)は魂の三部分説と魂の単一性の統一的解釈を行う中で,魂の三部分を非主体的に解釈している.すなわち,魂の三つの部分はそれぞれ存在しているのではなく三つの機能,もしくはその機能が及ぶ範囲を示しているのである.Fronterottaは魂の三部分説について,相反する衝動が同じ魂から生じることを説明するための仮説として導入されたものであることを強調する.何かを引き寄せながら押しやったり肯定しながら否定したりなど,同一のものが反対の行動を同時に行うことはできない.ではなぜ葛藤が生じるのかといえば,それは魂の中に異なる機能が存在するからであり,その機能によって魂の中の部分は区別されるのである.そしてここでは魂の性質や衝動の機能的な検討は行われても,各部分自体が何であるかについては検討されない.『ポリテイア』第10巻や『パイドン』などで語られるような,単一で不死であるという魂の本性と矛盾しないためにも,魂の三部分はそれぞれが主体として存在しているのではなく,各機能に過ぎないと結論付ける.

また,Wilberding(2012)は魂の欲望的部分が持つ認知能力について,概念化能力と推論能力という二種類の認知が存在するという点を強調する.Wilberdingは魂の欲望的部分は概念化能力を有してはいるが,推論能力を有してはいないと主張する.例えばタバコが何であるかについての考えを持つことなくタバコを欲することができないように,この程度の自分が欲する対象を概念化する能力がある.しかし欲望的部分は推論能力を持たず,ただ信念を持つだけである.

以上,魂の欲望的部分が認知能力を持つか否かについての先行研究を概観したが,パラドクスの解決を試みるために,本論文での立場を定めよう.まず,魂の中で相反する衝動が生じることのソクラテスによる説明を見ていく.例えば,のどが渇いているけれども飲むことを望まないという場合において,魂の中には飲むことを命じるものと飲むことを禁止するものがあるということになる(Pl. Rep. 439c.).この時,のどの渇きという身体の状態を通じて生じる衝動と,理性から生じる衝動が両立している状態である(Pl. Rep. 439c–d.).この両者は理性,すなわち知恵があるか否かで区別されている.決して知識があるか否かで区別されているわけではない.知識と一口に言っても様々な種類の知識がそこには含まれる.魂に知恵があると言われるのは,全体にとって何が利益となるのかを考慮することのできるような知識を持っていることによってである(Pl. Rep. 442c.).したがって,これ以外の知識はたとえ持っていたとしてもそれだけでは魂を知恵あるものにしないのである4.魂の欲望的部分と理知的部分とは,全体にとって何が利益となるのかを考慮することのできるような知識を持っているか否かというただこの点によって区別されており,それ以外の知識については持っていようが持っていまいが問題にされないため,欲望的部分が概念化能力や推論能力といった認知能力を持っているか否かはそもそも考慮に値しないと思われる.また実際,『ポリテイア』における魂の欲望的部分に関する箇所において,Erginelらが述べるような「主体」や「認知能力」や「概念化」といった単語に対応するようなギリシア語は見受けられない.したがって『ポリテイア』においてプラトンは魂の各部分が主体的であるか否か,そして魂の欲望的部分が認知能力を有しているか否かといったことはそもそも問題としていないのだと思われる.

正しい魂の状態になるためには,魂の欲望的部分が理知的部分による支配が妥当であると同意する必要がある.これを踏まえて国家の三部分へと視点を移そう.国家においても欲望的部分と理知的部分を区別するものは,国家全体にとって何が利益になるのかという知識を持っているか否かという点である.したがって,国家の欲望的部分はそれ以外の知識であれば持っている可能性は十分にある.実際,国家の欲望的部分に属する人間の中には職人や農民がおり,彼らは大工の知識や農業の知識を有しているのだ.

4.パラドクスの解決

ではその上で,先の二つのパラドクスはどのように解決すればよいだろうか.Ferrari(2005)も指摘しているが5,このパラドクスはWilliamsによるアナロジーの定式化に誤りがあることで生じていると考えられる.特に,正義という徳の性質をWilliamsは誤解しているように思われる.

正義という徳は,知恵や勇気の徳とは性格が異なる.というのは,国家にその徳が生じる過程が異なるからである.知恵や勇気の徳がある国家というのは,国家内の特定の部分にその徳が生じることで,国家全体もその徳があると呼ばれる.例えば,理知的部分は国家全体に利益をもたらすのは何かという知識を持っており,それを考慮する能力があるという点で知恵があると言われるし(Pl. Rep. 442c.),気概的部分はあらゆる場面において一つの考えを持ち続ける能力があるという点で勇気があると言われる(Pl. Rep. 429d–e.).他方,正義の徳がある国家というのは,国家内の特定の部分に正義の徳が生じることで,国家全体もその徳があると呼ばれるわけではない.正義とは,各部分がそれぞれ自分の仕事に専念し,他の仕事に介入しないという原則を全部分が順守している時に,全体に生じる徳である.すなわち,知恵や勇気は,特定の部分によってもたらされるものであるが,正義は部分によってもたらされるものではない.知恵や勇気は特定の部分がその徳を有することができるようなある種の能力である.他方正義は,全部分がそれぞれ自分の仕事に専念しているという状態である.知恵や勇気は理知的部分のみ,気概的部分のみでも持つことができる徳である.つまり,知恵のある国家では,理知的部分のみが知恵の徳を持っていればよく,他の部分は知恵の徳を持っている必要はない.しかし正義はそうではない.例えば理知的部分のみが自分の仕事に専念していたとしても,他の部分が自分の仕事に専念していなければ国家としての正義は達成されないからである.ここから明らかになるのは,知恵や勇気の徳は,部分に付されるものであり,それが全体に作用するような徳であるが,他方正義は,部分に付されるものではなく,全体がふさわしい状態である時に全体に付されるものだということである.

国家における正義も,魂における正義も,全体がふさわしい状態である時に全体に付されるものである.だが,この二つの正義を考える際に,まずは魂と国家のアナロジーの構造に留意しなければならない.そもそも,魂と国家のアナロジーが導入されたのは,正義が不正よりも善いこと,そして正義がどのような利益をもたらすのかを探求するためであった(Pl. Rep. 368c.).そして探求をより容易にするために,まずは国家の成立過程を見ることで,国家における正義と不正が生じる場面を観察し,その理論を魂の正義と不正にも当てはめようとしているのである(Pl. Rep. 369a.).すなわちここで類比されているのは,国家の正義の成立過程と魂の正義の成立過程である.そして,国家における正義は個人の魂における正義を完全には内包していない.というのは,正しさとは全体がふさわしい状態である時に全体に付されるもので,国家がふさわしい状態であるために国家の各部分が行うことと,魂がふさわしい状態であるために魂の各部分が行うことの内実は異なるからである.例えば個人の魂において正義の徳を有している場合,その個人の魂の内部では諸部分はそれぞれ自分の仕事のみに専念して,他の部分の仕事に介入しない.しかし,そのような状態の魂を持っている個人が,国家において自身にふさわしいとされる仕事に専念するかはまた別の問題である.それは例えば理想国で生まれ育っていない哲学者が,哲学者は支配にふさわしいからという理由で支配者の座に就こうとするわけではないのと同様である(Pl. Rep. 520b.).本来魂において正義が達成されている人は,自身をより優れた人間にしてくれるだろうものに近づこうとするからであり,さらに理知的部分の欲求(知を愛すること)によって他の部分の欲求は支配されているからである.しかし理想国における哲学者は,魂の理知的部分の欲求に従って,国家の支配の任に就くことなく常に思索にふけることは,決して許してはならないとソクラテスは言う(Pl. Rep. 519d.).さらに理想国における支配の仕事は,強制によってやむを得ず行っているものであると明言されている(Pl. Rep. 520e.).決して理知的部分の欲求によって理想国の支配の仕事は行われていないし,彼らが支配の座に就く理由は,祖国への恩以外にない(Pl. Rep. 520b–e.).これに対しグラウコンは,哲学者たちはより善い生活を送ることが可能であるのにも関わらず支配の任を強制することは,彼らに悪い生活を強いていることになるのではないかとソクラテスに問う(Pl. Rep. 519d.).善く,正しい人は幸福であるとされていることを踏まえると(Pl. Rep. 354a.),このグラウコンの疑問はもっともなものであるように感じる.しかしソクラテスはグラウコンに対し,国の中の一部分だけが幸福になるのではなく,国全体に幸福が行き渡るようにする必要があることを述べる(Pl. Rep. 519e.).このように,魂における幸福や正しさと国家における幸福や正しさは,必ずしも一致するわけではない.つまり,魂の正義は国家の正義の部分集合ではなく,それぞれが別の独立した集合である.すなわち,国家の正義にとって,全市民の魂において正義が成立することは必要条件ではない.したがって,魂の各部分の中にさらに部分を作らなければならないというような無限後退は生じない.ゆえに二つ目のパラドクスは解決される.また,国家における正しさは個人における正しさを必ずしも必要としないという点で,一つ目のパラドクスも解決される.そしてこのことは次の命題を導く.すなわち,

  1.   

    個人が自身の魂の中に正義の徳を有していても,その個人が国家の正義の徳を達成するための要素として正しく機能するとは限らない.

そしてこの命題は逆もまた真である.

  1. 2.  

    個人が国家の正義を成立させるための要素として正しく機能していたとしても,その個人自身の魂の中で正義が成立しているとは限らない.

正義とは,全体の関係性の中に生じるものである.そして,国家に成立する正義にとっての関係性とは国家の諸要素間の関係性に限られており,個人の魂の諸要素の関係性では決してない.すなわち,国家の正義がそのまま個人の魂に当てはめられるわけではない.例えば,国家において正義を達成するために農民が正しく自分の仕事に従事していたとしても,農民の魂が正義の徳を有しているとは限らない.各部分が自分の仕事を行っていることは,各部分それ自体がそれぞれ正義の徳を有していることを導くものではない.したがって,Williamsによる魂と国家のアナロジーの定式化は誤っているのである.

5.節制の徳の特殊性

前章では,正義の徳について扱った.本章では国家と魂における節制の徳が前章にて分析した正義の徳と同様の特徴を持つことを示した上で,節制の徳について検討していく.節制は,知恵,勇気と並んで正義が成立するために必要な徳の一つとして語られる.しかし,節制は知恵や勇気とは異なる性格のものとしても語られている.以下の引用からも,ソクラテスが節制を他の二つの徳とは異なるものとして扱っているのが伺える.

ちょうど勇気と知恵どちらもある部分の中に存在することで,一方で国家を知恵のある国家とし,他方で勇気のある国家としたように,そのようにこれ〔節制〕はしない.むしろ最も強い人々と最も弱い人々とその中間の人々をあらゆる音を通して同じものを一緒に歌わせることでまさに国家全体に引き延ばされている.(Pl. Rep. 431e–432a.)

知恵や勇気はそれが特定の部分に備わることで,全体を知恵あるもの,勇気あるものとする.しかし節制は,特定の部分にのみ存在する能力によって達成される徳ではない.節制とは全部分に行き渡っていて,誰が支配し誰が支配されるべきかについての同意が全体にある時に達成されると述べられる(Pl. Rep. 432a.).すなわち,知恵や勇気は,特定の部分の持ちうる能力であるのに対して,上記の引用文においては,節制は能力によるものではなく,三つの部分間の関係性によって達成されるものである.つまり,知恵や勇気は一つの部分のみで達成することができる徳であるが,節制は少なくとも二つ以上の部分が存在しないと達成することができないものである.その意味で,節制は全部分に行きわたっている徳であると言われる.この節制の徳の特徴は,前章で検討した正義の特徴と一致する.すなわち,節制も正義も,知恵や勇気のようにその徳がそこに帰属するような特定の部分が存在しないのである.したがって,正義について分析したことが,節制にも当てはまる.つまり,

  1. 3.  

    国家において個人が節制を成立させるための要素として正しく機能していたとしても,その個人自身の内部で節制が成立しているとは限らない.

というのは,正義の場合と同様に,各部分は節制が達成されるために必要な要素に過ぎないからである.節制が全部分に行きわたっているという時,節制の徳が各部分にそれぞれ備わっていると考えることは,先に挙げたWilliamsと同じ過ちを犯していると考えられる.したがって,節制の徳が達成されている国家の欲望的部分に属する個人の内部で節制の徳が達成されているとは限らない.

そしてこの場合,欲望的部分には固有の徳が認められないこととなる.正義が達成されている国家の理知的部分に属している個人は,少なくとも知恵の徳をその個人の内部にも有している.というのは,理知的部分に属する個人は魂の理知的部分の知への欲求が魂の他の部分を支配しており,全体が善くなるための知識やそれを考慮する能力を持っていることで理知的部分に位置付けられているからである.この点で,理知的部分と気概的部分は,その部分にのみ帰属する国家における徳を有しているし,またその部分に属する個人の内部においても何かしらの徳を有している.しかし,欲望的部分はその部分にのみ帰属する国家における徳を有していない.また,欲望的部分に属する個人の内部において達成されうる徳は節制のみである.というのは,もし欲望的部分に属している個人の内部の理知的部分や気概的部分において知恵や勇気の徳が有されているのだとしたら,その部分によってその個人は知恵もしくは勇気の徳を有している個人となり,その個人が属している部分はその個人によって知恵もしくは勇気の徳を有している部分となり,もはや欲望的部分ではありえなくなってしまうからだ.ただし,国家が節制の徳を有している時,欲望的部分に属している個人の内部で必ず節制の徳が達成されているとは限らないという点は先に述べた通りである.すなわち,理想国の欲望的部分に属する個人は,何も徳を有していないか,節制の徳のみを有しているかのどちらかである.

しかし,欲望的部分に属するほとんどの人間は何も徳を有してはいないのだと思われる.『ポリテイア』第10巻におけるエルの神話の記述を見ていこう.エルの神話では,よく秩序づけられた国制において生涯を過ごしたことで,哲学することなく習慣の力によって徳を身に着けた者の死後の選択について語られる(Pl. Rep. 619c–d.).彼は,国制のおかげで習慣によって徳を身につけただけであったため,本性は欲深く浅慮であり,独裁僭主という最悪の生を次の生として選択してしまう.しかし,彼とは対照的に前世で悪い生を過ごした者は,自身の苦しい経験から,次の生を吟味して選択することとなった.このようにして,多くの魂にとっては善い生涯と悪い生涯が入れ替わる結果となるのだと語られる.ただ唯一,知を愛し求める正しい人間だけは今世で幸福になれるだけでなく,生の選択も誤ることがなく,来世でも幸福に過ごすことができるとされる.

習慣の力によって身に着けた徳とは,一般に真の徳からは区別される.『パイドン』ではそれが思慮を伴っているか否かで真の徳か世俗的な習慣によって身につけられた徳かが分かれるとされている6.そして,理想国で生まれ育った多くの人間はこの習慣によって身につけた徳を有しているのだと思われる.したがって,哲学をする人間が常に善い生を送ることができるのとは対照的に,哲学をしない多くの人間は理想国という国制の助けなしには健全な生を送ることができないのである.

6.節制とはどのような同意か

さて,知恵の徳は全体に知恵をもたらし,勇気の徳は全体に勇気をもたらし,そして正義の徳は全体を正しくするものであった.では,節制の徳は全体をどのようにするのだろうか.節制の徳はテキスト内で以下のように定義されている.

思うに一種の秩序のことであり,さまざまの快楽や欲望を制御することだろう.(Pl. Rep. 430e.)

節制が達成されることによって,多くの快楽や欲望は適切に制御され,全体には秩序が生まれる.さらに,この制御は,制御する側と制御される側の同意によってなされているものである.ソクラテスは,「支配者たちと被支配者たちにおいて誰が支配するべきかについて同じ思わくがある(Pl. Rep. 431e.)」状態が節制のある国家に成り立つと述べる.すなわち,支配されるべき欲望的部分及び気概的部分と支配するべき理知的部分においてどちらが支配者になるべきかについての同意が双方でなされていることで全体に秩序が生じること,これが節制の徳である.

多くの論者はこの節制に関する記述を論拠としてポパーなどの第二次世界大戦後にプラトンを激しく攻撃した論者たちに反駁する.例えば瀬口(2002)は,国家における第三の階層,すなわち欲望的部分に対してプラトンが望んでいるのは節制と正義を備えた自律的な人間であると述べている7.そして,理想国では市民一人ひとりが不正な欲望に支配されることなく正義を実現しているという点を強調し8,理想国における支配は劣った者を非理性的かつ暴力的に征服しているのではないと述べる9.しかし,これは,先ほどまでの論を踏まえれば誤りであることが分かる.すなわち,理想国で正義が実現するための要素として個人が正しく機能していたとしても,それが個人の内部で正義を有していることを導くとは限らないのである.またこれは節制に関しても同様である.したがって,理想国の構成員が正義や節制の徳を有しているから理想国による支配は不当なものではないという主張は誤りである.さらに,納富(2012)も,理想国とは哲学者が他の人々を隷属させる独裁とは正反対であるという主張の根拠として,すべての市民が節制の徳を有しており何らかの理性を発揮して支配者のコントロール下にあることを指摘している10.しかし,理想国の市民が必ず節制の徳を有しているとは限らない.つまり,国民個人の内部に節制の徳が無かったとしても,国家としての節制の徳が達成されうるということは,個人の内部に何らかの徳が無かったとしても,国家の支配者についての同意を行うことが可能であるとソクラテスが考えていたということである.すなわち,ソクラテスに言わせれば,この同意が行われるのに個人の徳の有無は関係ない.言い換えれば,個人の内部に徳を有していてもいなくても,支配者たちと被支配者たちにおいて誰が支配するべきかについて同じ思わくを持つことが可能であるとソクラテスが考えていたことになる.しかし,国民は徳や理性なしにどのようにして同意を形成するのだろうか.

上記の引用で言われている「思わく」とは,古典ギリシア語ではδόξαに相当する.プラトンの対話篇において,δόξα(思わく)は特にἐπιστήμη(知識)と比較されることで,確固とした知識ではなくただの思いなしであるというように用いられる11.節制が達成されるために支配者と被支配者の間でどちらが支配するべきかということについて一致している必要があることを述べる箇所で,δόξαが用いられていることは注目に値するだろう.すなわち,ここで支配者と被支配者の間で行われる支配者の選択についての一致は確固とした知識に基づいたものである必要はないのである.少なくとも,国家や支配者自身による支配者の選択が,全体にとって最も利益となることの知識に基づいて決定されたものであったとしても,被支配者がその決定に対して賛成する際に,それを根拠づけるような知識を持っている必要はない.この場合,支配者は被支配者に支配の妥当性を説く際に,論理的に説得する必要はない.というのは,論理的に説得し,それが被支配者に理解されたのであれば,被支配者が持つものは思わくではなく知識になるはずだからである.しかしここで思わくという単語が用いられていることは,被支配者にその支配が妥当であると思われさえすればよいということを示していると考えられる.では,その思わくはどのようにして形成されるものだろうか.

前章で,多くの人間は理想国という国制の助けなしには健全な生を送ることができないことが明らかとなった.そして,理想国という国制の助けとは,習慣的な徳を身につけさせることであった.この習慣的な徳とは,誰が支配し誰が支配されるべきかをめぐる同意を形成するものではないだろうか.知を愛することなく,どうであるかではなくどう思われるかを重要視して生きる多くの人間にとって,習慣とは,なぜそれを行うのかを論理的に説明することができないけれども日常的に行っている事柄である.このような習慣を形成するものとして理想国では教育,特にいわゆる高貴な嘘と呼ばれるような神話が用いられていると考えられる.その神話とは,理想国の国民たちは皆同じ大地から生まれた兄弟であること,そして神が国民それぞれに,能力に応じて金か銀か銅もしくは鉄の金属を混ぜ合わせたことの二つである(Pl. Rep. 414e–415a.).人々がこれらを信じることで,理想国では金の種族が支配するべきであるといった規則や,そのほか妻子を共有するべきなどの理想国の諸々の規則に全国民が従うこととなり,理想国の運営が実現することとなる.誰が支配し誰が支配されるべきかについての同意は,この神話を信じることで形成されているのではないだろうか.すなわち,金の人間は支配の能力があることから金を混ぜ合わされたのであり,さらに,銅や鉄の人間が国を支配するとその国は滅びるという神託があることから,金の人間が支配するべきであり,それ以外の人間は支配されるべきであるという共通の思わくが国民の間に形成されるのである.

しかし,この神話はソクラテスと同時代を生きている人々には信じてもらえないだろうということはグラウコンに指摘されている(Pl. Rep. 415d–c.).したがって,理想国を実現させるためには,現在国の中に存在している十歳以上の人間をすべて追放することが必要であるとされている(Pl. Rep. 540e–541a.).このように,神話を信じそうにない者を追放するなどの強制的な手段をとった上で,神話によって形成された思わくによって被支配者が支配者の支配を受け入れることは,果たしてポパーのような論者に反論する根拠となりうるような同意と呼べるのだろうか.少なくとも,徳と理性をもって行った同意であるとは言い難い.また理想国において,支配者と被支配者の双方が理性をもって行う同意は成立しえない.というのは,被支配者である欲望的部分の人間は,個人的な徳を有しているとは限らず,国全体にとって最も利益となるような支配者の選択に関して思わくしか持たないために,なぜその人が支配を行うべきなのかに関する知識を持たないからである.したがって,『ポリテイア』において言われている同意とは,一般に我々が想像するような,そして瀬口や納富の言うような理性的な同意ではない.それがどのような過程を経て得た思わくであったとしても,誰が支配し誰が支配されるべきかについて同じ思わくを全国民が持っている状態が同意であるとソクラテスが考えていたと解釈するのが妥当であると考えられる.

7.おわりに

本論文では,魂と国家のアナロジーから節制の徳について検討することで,節制の徳が成立するために必要な同意の性格を明らかにした.すなわち,このアナロジーにおいて,魂の正義や節制と国家の正義や節制はそれぞれ別個の独立した集合であると解釈するべきであり,国家がある状態であることは国家の構成員である個人の魂の状態を規定するものではないことを確認した.それゆえに,理想国では支配者と被支配者の双方に節制の徳があることは必ずしも真ではないことが明らかとなった.かつ,支配者の選択に関して支配者と被支配者の間に同じ思わく(δόξα)があることという節制の定義から,同意の内実は思わくを共有していることであることを示した.さらに,魂と国家のアナロジーが中心的に語られる『ポリテイア』第4巻の直後である第5巻で,知識と思わくの差が語られることから,理想国において,全国民が支配者の選択についての知識ではなく思わくを共有しているとされることに注目した.ここでおそらくソクラテスは,国民全員に対して知識を共有するような論理的な説得は難しいけれど,思わくを形成するレベルの説得であれば可能であると考えていた可能性が高いのではないかと思われる.そして,『ポリテイア』において言及されているものの中で,この思わくを形成する説得の手段として考えられるものの一つとして高貴な嘘を挙げた.しかし高貴な嘘とは,それを信じない者が存在することも想定されており,信じそうにない者に対しては国外追放などの強制的な手段を用いる必要があることも作中で指摘されている.以上に挙げた,①理想国において国民全員が節制の徳を有しているとは限らないこと,②ここでソクラテスの述べる同意とは思わくの共有であること,③思わくの形成には強制が伴うこと,というこれらの三点は,次のことを示す.すなわち,現在の日本において主流の,理想国では全国民が徳と理性をもって同意しているという解釈は誤りであり,かつ理想国においてそのような同意を行うことは不可能なのである.

  1.    プラトン『ポリテイア』のテキストの引用及び訳出は,Slings, S. R. (ed.), (2003), Platonis Respublica, Oxford University Pressを底本とした.また邦訳は藤沢令夫訳を参考とした.また,訳出に際し指示語を補足する場合は,〔〕を用いた.
  2.    ポパー(1980),135–136頁.
  3.    また,欲望的部分は金銭を飽くことなく渇望し,様々な快楽を得ようとするがゆえに,理知的部分によって制御されねばならないとされる.(Pl. Rep. 442a–b.)
  4.    家の中に大工や農業の知識があるからといって,その国家が知恵ある国家であると呼ばれるわけではないとソクラテスが指摘している通りである.Cf. Pl. Rep. 428c–d.
  5.    Ferrari (2005), pp. 42–43.
  6.    Cf. Pl. Phd. 69a–d. またこのことは,知恵を除くすべての徳には,習慣によって身につけられた徳と真の徳の二種類が存在している可能性があることを示している.徳が同じ名前で呼ばれているのにも関わらず,その内実が異なるという点については,Rowe(2013)やVasiliou(2012)が論じている.
  7.    瀬口(2002),43頁.
  8.    同上,58頁.
  9.    同上,61頁.
  10.    納富(2012),205–206頁.
  11.    『ポリテイア』第5巻において,哲学者とそうでない者の違いを規定する際にδόξα(思わく)とἐπιστήμη(知識)の違いが強調されて語られる.哲学者は学ぶことに喜びを感じる者と規定される(Pl. Rep. 475c.).しかしこの規定では,あらゆる合唱隊の公演を聞こうとするようないわゆる見物好きの者たちも哲学者に含まれてしまうのではないかとグラウコンに指摘される.これに対しソクラテスは,知識と思わくの違いを用いて答える.哲学者はイデアのような常にそうであるもの(例えば,常に美であるもの,美そのもの)の存在を信じているが,哲学者でない者はその存在を信じず,そうであったりなかったりするもの(例えば,時と場合によって美しかったり美しくなかったりするもの)の存在しか信じない.そしてここで言われている「常にそうであるもの」が知識と対応し,「そうであったりなかったりするもの」が思わくと対応する.すなわち,哲学者は実際にそうであることの知識を求めるのであり,哲学者でない者は実際にどうであるかを考慮に入れることなく,ただそのように自身に思われたことのみで満足するのである.

参考文献

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納富信留 『プラトン 理想国の現在』,慶応義塾大学出版会,2012年.

 
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