2023 年 2023 巻 50 号 p. 88-99
VTuberがVTuberとして現出するということ
アリストテレスの「デュナミス」および「エネルゲイア」概念の視座から
山野弘樹
1.VTuberの類型論
本稿の目的は,今日「VTuber」として活躍するバーチャルな存在者の特質をアリストテレスの「デュナミス」および「エネルゲイア」概念の視座から検討することである.また本稿は,今日の「VTuber文化」の多様性や鑑賞者たちによる鑑賞実践の特殊性を分析することを試みる.
多種多様なVTuberたちが活躍する「VTuber文化」において,「VTuber」という語が指し示す対象は大別される傾向にある1.例えば「HIKAKIN」や「ガッチマン」はVTuberとしての姿を獲得しているが,彼らの場合,「配信者2=VTuber」という同一性の図式で理解するのが最も適切であるだろう(それは二人が自らを紹介する際に発する言説からして明らかである).それに対して,『ウマ娘 プリティーダービー』の作中人物である「ゴールドシップ」や,『ザ・キング・オブ・ファイターズ』の「麻宮アテナ」もVTuberデビューを果たしているが,彼女たちの場合,「VTuber=虚構世界の存在者」として理解するのが最も適切であるだろう.「HIKAKIN」たちの場合,「配信者」の代理として「VTuber」の姿が存在している.そして「ゴールドシップ」たちの場合,「配信者」によって「VTuber」のキャラクターが演技されている.両者における「VTuber」の語が意味する対象は明白であり,前者において「VTuber」は「配信者」を意味し,後者において「VTuber」は「虚構的な存在者」を意味している.したがって,こうした意味内容の差異に応じて,まずはVTuberの類型を次の仕方で分類することができる.
A. 「VTuber」の語が物理世界における「配信者」を意味する場合→「配信者タイプ」
B. 「VTuber」の語が虚構世界における「虚構的存在者」を意味する場合→「虚構的存在者タイプ」
また,こうしたVTuberの類型に応じて,次の二つの理論上の立場が導出されることになる.
A’. ある任意のVTuberが「配信者タイプ」であると論じる立場=「配信者説」
B’. ある任意のVTuberが「虚構的存在者タイプ」であると論じる立場=「虚構的存在者説」
今日の「VTuber文化」の多様性を考えれば,こうした二つの説によってより良く説明されるVTuberの数が決して少なくないということは明白であろう.
しかし,ここで考えたいのは次のことである.すなわち,現在主流になっている「VTuber文化」3の特殊性は,こうした「配信者説」と「虚構的存在者説」のみによって適切に説明され尽くされるのであろうか? 例えば,もしも仮に「月ノ美兎」に「配信者説」を適用したとすると,「月ノ美兎」の「モデル」4は物理世界にいる配信者(俗に「中の人」と言われる存在)の代理に過ぎない(すなわち,他のモデルによって代替されたとしても「月ノ美兎」の同一性に一切影響はない)という判断になるが,こうした判断はどこまで妥当なのだろうか? あるいは,もしも仮に「ときのそら」に「虚構的存在者説」を適用したとすると,「ときのそら」の配信者は声優や俳優の如きもの(すなわち,他の配信者によって代替されたとしても「ときのそら」の同一性に一切影響はない)という判断になるが,こうした判断も妥当と言えるだろうか?
本稿においては,現在「VTuber文化」の主流になっている典型的なVTuberたちに対して「配信者説」および「虚構的存在者説」を一様に適用することには反対の立場を取っている.なぜなら,「配信者説」は「VTuberは配信者が絵をかぶっている」という判断に,そして「虚構的存在者説」は「VTuberは配信者が虚構のキャラを演じている」という判断に容易に結びつくように思われるからである.確かに,2018年にデビューを果たしたVTuberたちの初期のLive2Dモデルのぎこちなさを観ると,「配信者が絵をかぶっている」という判断が出てくるのも理解のできない話ではない.しかし,だからといって,この種の判断によって現在の「VTuber文化」の特質が説明され尽くしたのかというと,全くそうではない.ここで求められているのは,次のような「第三の立場」である.
C. 「VTuber」の語が,「配信者」と「モデル」の相互作用によって生起し,かつ「配信者」と「モデル」のどちらにも還元されない存在者を意味する場合→「非還元タイプ」
Cにおいて,「VTuber」は「配信者」と「モデル」が相互作用することによって初めて生起する存在者として理解されている.こうした在り様を理解するために,暫定的に「虹」のメタファーを採用することは無益なことではないだろう.「虹」は「①水滴」と「②光」がある特定の仕方で結びつくことによって生じ,この結びつきが破壊されることによって消失してしまう存在であるが,こうした「③虹」の如き存在(すなわちある二項が特定の仕方で結びつくときに限り成立する第三項の存在)であるとVTuberを理解する立場が,C’の立場である.
C’. ある任意のVTuberが「非還元タイプ」であると論じる立場=「非還元説」5
配信者とモデルの相互作用の典型例は「モーショントラッキング」である.そして,配信者とモデルの相互作用のもう一つの典型例は「倫理的アイデンティティ」の保持である.「倫理的アイデンティティ(identité éthique)」とは,フランスの哲学者ポール・リクールが提唱した概念の一つである.VTuberは,(VTuberとしての)自分の名前を呼ばれたとき,その呼びかけに対して応答を行う.この応答に含意されているのは,「私はXという名前のVTuberです」という宣言である.このとき,もし仮にそのVTuberが配信者の名前で呼ばれたとしても,そうした(VTuberの鑑賞実践としては明らかに無粋かつマナー違反である)呼びかけに対しては応答をしないはずである.なぜなら,もしここで「はい」という応答をしてしまったならば,途端にVTuberという存在の同一性に疑義が生じてしまうからである.その姿勢に含意されているのは,「私はAという名前の配信者ではない」という宣言であろう.「あなたはAという配信者ですか?」という呼びかけに対し,応答を行わないという姿勢.そして「あなたはXというVTuberですか?」という呼びかけに対し,応答を行うという姿勢.それは,XというVTuberとして「私はここにいます」と応答する義務に自ら従うことである.他者からの呼びかけに対して「私はここにいます」と応答し,かつそのような応答を行う義務を自らに課すことで生起するアイデンティティ.
それをリクールは「倫理的アイデンティティ」と呼んだ.こうした「倫理的アイデンティティ」を保持することも,配信者とモデルの相互作用として欠くことのできない契機である.
さて,「非還元」という観点を強力に打ち出すと,「VTuber」と「配信者」との間に「重なり合い」が一切ないかのように受け取られてしまうかもしれない.だが,典型的なVTuberの配信を観れば容易に分かることであるが,例えば配信中に「水を飲む」や「お手洗いに行く」といった行為は「VTuber」としては実現することができず,物理的な部屋の中にいる「配信者」のみが行うことができる行為である.こうした事情を考慮するならば,次のように「非還元説」の立場を呼び分ける必要があるだろう.
C’-1. ある任意のVTuberが,配信者との重なり合いを残した「非還元タイプ」であると論じる場合=「穏健な非還元説」
C’-2. ある任意のVTuberが,配信者との重なり合いを残さない「非還元タイプ」であると論じる場合=「極端な非還元説」
本稿は(タイプの境界線さえ曖昧かつ流動的である)多様なVTuberたちの中でも,とりわけ穏健な非還元タイプに属するVTuberの分析を行う.そして,「穏健な非還元説」の立場からVTuberの存在様態およびその特質を明らかにせんとするのが,次節からの試みである.
2.VTuberがVTuberとして存在するとき――モデルと配信者との間の「連動」と「非連動」
本節においては,VTuberが「現に存在している」と言うための条件(言わばVTuberの存在が実際に成立していると言うための条件)について検討する6.
配信者とも,モデル(およびモデルが表象する虚構的存在者)とも区別される独立の存在者としてVTuberを見なす立場,それが前節で検討した「非還元説」であった.独立の存在者として捉えられるべきVTuberは,単に物理世界において配信者として存在しているわけでもなく,単に虚構世界において虚構的存在者として存在しているわけでもない.独立の存在者としてのVTuberは,他でもないVTuberとして存在しているのである.それでは,配信者としての存在の様態を取るわけでもなく,虚構的存在者としての存在の様態を取るわけでもないVTuberは,一体どのような存在様態として記述されうるのであろうか?
「穏健な非還元説」を採用することによって私たちが守ろうとしている直観,それは「XというVTuberは,配信者AおよびモデルBが相互作用することによって現れるXである」というものである.この直観に含意されているのは,「配信者AとモデルBの相互作用」こそが「XというVTuber」を成り立たせるという図式である.こうした「相互作用」の内実として述べられたのが,身体的な連動(モーションキャプチャーの議論)および「倫理的アイデンティティ」である.
まず問いたいのは,「身体的な連動が断ち切られてしまった場合,そこに残る要素は一体何であるのか」,という問いである.配信者の振る舞いとモデルの振る舞いが結びつかなくなってしまった場合,残るのは,(VTuberとして)身体を表現する手段を失ってしまった配信者と,(VTuberとして)身体が運動する原因を失ってしまったモデルの二つである.当然のことながら,配信者タイプのVTuberであるならば,ここに配信者の要素が残っているのだから,身体的な連動の有無が存在の成否に関わることはない.また,虚構的存在者タイプのVTuberであるならば,そもそも虚構的存在者は虚構世界に存在しているのだから,やはり身体的な連動の有無が存在の成否に関わることはない7.だが,「穏健な非還元説」的なVTuberである場合,身体的な連動が欠けてしまったとき,そこには(それぞれの要素に還元されることはないと示されたはずの)配信者とモデルの要素しかなくなってしまうのである.
だが,身体的な連動という条件だけでは現時点における典型的なVTuber(すなわち「穏健な非還元説」において捉えられるのが適切であるVTuber)の存在様態を説明したことにはならない.なぜなら,「HIKAKIN」や「ガッチマン」のような配信者タイプのVTuberたちも,典型的なVTuberたちと同じように身体的な連動を行っているからである.そのため,ここで私たちは先ほどの倫理的アイデンティティの議論を導入する必要がある.すなわち,「配信者は一体どのような人物としてモデルと連動するのか?」という問いが提起されなければならない.この問いに対して,「配信者タイプ」のVTuberであれば「配信者Aとして」が,「虚構的存在者タイプ」のVTuberであれば「虚構的存在者Bとして」が,そして「穏健な非還元タイプ」のVTuberであれば「VTuber Xとして」が回答になるだろう.ここでVTuberを三つ目の在り様へと固定化させるのが,まさに倫理的アイデンティティに他ならない.倫理的アイデンティティを欠いている場合,それは配信者タイプのVTuberとして画面上に表示されているに過ぎないのだ.
こうした議論を踏まえるならば,私たちは次のように述べることができる.すなわち,VTuberが配信者および虚構的存在者とは区別される「非還元タイプ」のVTuberとして現に存在しているのは,VTuberとしての倫理的アイデンティティを保持しつつ,配信者とモデルが身体的に連動するときである,と.
穏健な非還元タイプのVTuberという全体が成り立つためには,配信者およびモデルという要素に加え,それらが倫理的アイデンティティが保持されながら身体的に結び付くという「連動」の事象を考慮に入れなければならない.すなわち,倫理的アイデンティティを保持しながら行われる,配信者とモデルとの間の身体的連動,それこそが,配信者に還元されるわけでもなく,虚構的存在者に還元されるわけでもないVTuberがVTuberとして独立に存在する様態であると言えるだろう.
ただし,こうした議論だけでは,現在主流になっているVTuber文化の多様性を明らかに出来ているとは言えない.なぜなら現在のVTuber文化においては,典型的なVTuberにおいても,配信者とモデルが身体的に連動していない状態で配信・投稿されるようなコンテンツが無数に存在するからである.例えば,配信者が連動を行うモデルそのものが不在である事態8や,モデルと身体的な連動を行う配信者の運動が不在である事態(言い換えると,モデルがアニメーションとして動かされている事例)9,さらには配信者とモデルとの間の身体的な連動が硬直化している事態10を挙げることができるだろう.こうした「非連動」の事態を私たちはどのように考えれば良いのだろうか? この点について,私たちは節を改めて検討していきたい.
3. 「デュナミス」としてのVTuberと「エネルゲイア」としてのVTuber
身体的な「非連動」状態におけるVTuberの存在の成立の問題を解釈するために私たちが手がかりにしたいのが,アリストテレスにおける「デュナミス(可能態)」および「エネルゲイア(現実態)」概念である11.本節および次節においては,VTuberを「デュナミス」および「エネルゲイア」という二つの次元に分けて分析することを通して,多様なVTuber鑑賞の実践を整合的に語るための枠組みを獲得することを試みる.
まず問いたいのは,「たとえ配信外であったにせよモデルと身体的に連動していない配信者を総じて「VTuberではない」と判断することは果たして妥当なのだろうか?」という問いである.モデルも必要であるというのは言うまでもないとしても,配信者がいなければ,典型的なVTuberたちがVTuberとして活動をしていくことすら叶わないはずではないか.こうした「可能性の条件」とも言える配信者を――いくら非連動時においてはTuberとして現に存在していない状態であるとはいえ――現に存在している状態のVTuberと一切無縁の存在者であると考えるのは強すぎる主張である.むしろ可能性の条件たる配信者は,たとえVTuberとして現実化していないとしても,その現実化自体を支える根本的な力能を有していると考える方が穏当であろう.
可能性の次元にいる配信者が(倫理的アイデンティティを保持しつつ)配信中にモデルと身体的に連動することで,その可能性が現実性の次元へともたらされる.これは,VTuberとしての可能性を発現する「力」を有した存在者が,実際にVTuberとしての「行為」を自ら構成するということに他ならない.VTuberとしての生命を実現する力の「ポテンシャリティ」と,実際にVTuberとして自らを現実化する行為の「アクチュアリティ」,その二つは,共に一つの「VTuberとしての名」のもとに結び付けられる双極の存在であるのだ.
こうしたVTuberの存在の構造を,私たちは古代ギリシャの哲学者アリストテレスが提示した「デュナミス(可能態)」および「エネルゲイア(現実態)」概念を参照することでより明示的に理解することができる.例えば「木材」を例に取るならば,「木材」は「素材」としては「木材」に留まってしまっているが,それが職人によって「机」に加工されたならば,それは「木材」という「可能態」が「机」という「現実態」へと現実化したことを意味している.このとき,「木材」はそのものとしては「木材」でしかないが,「可能態」としては「机」として存在しているとアリストテレスは論じる12.
独立した存在者であるVTuberにとって「可能性の条件」とも言える配信者は,そのままでは確かにVTuberとしては現実化していない.しかし,その配信者は可能的には(可能態においては)VTuberに他ならない存在なのである13.可能的にはVTuberであるという存在論的身分は,まさしく「デュナミス(可能態)」としてのVTuberと記述することができる.それに対して,そうした諸可能性が実現したVTuberの存在論的身分は,まさに「エネルゲイア(現実態)」としてのVTuberと記述することができるだろう.こうしたアリストテレスの「デュナミス」‐「エネルゲイア」概念は,それぞれフランス語では“puissance”(力)と“acte”(行為)(さらに英語では“potential”と“actual”)という仕方で訳されるものであり,私たちはアリストテレスの議論を自らの解釈学の中に包摂したリクールの洞察を借りることによって,アリストテレスの「デュナミス」‐「エネルゲイア」概念の射程を具体的なものにすることができる.すなわち,VTuberとしての自己を実現可能な「力」(可能性)を有している配信者が,発話や運動などの配信上の「行為」(現実性)を通してVTuberとして生起するという存在のダイナミズム――それを巧みに描き出すことができるのが,アリストテレスの「デュナミス」‐「エネルゲイア」概念なのである14.このように,「穏健な非還元説」において捉えられるVTuberたちがVTuberへと転じる在り様を記述する際に,「可能態としてのVTuber」(配信者,および後述するモデル)と「現実態としてのVTuber」(配信を通してその存在が生起するVTuber)という二つの対は非常に有用なものであると言える.
とはいえ,ここで「可能態としてのVTuber」が配信者だけではないという事実はいくら強調してもしすぎることはない.なぜならここで配信者の要素のみを「可能態としてのVTuber」として規定してしまったならば,「VTuberの現実化は可能態である配信者にのみ依存する」という誤解を読者に与えかねないからである.実際には,配信者だけでなくモデル(およびその運動のシステム全体)も「可能態としてのVTuber」の一つである.なぜならモデルは,「現実態としてのVTuber」と同質の外見的性質を共有しており,かつVTuberが現に存在するときに必要不可欠な存在だからである.それでは,「可能態としてのVTuber」である配信者とモデルは,一体どのような仕方でお互いのポテンシャルを引き出し合い,それを通じてVTuberとしての存在を現実化するのであろうか.
この点について,例えば「姫森ルーナ」,「雪花ラミィ」,「鷹嶺ルイ」の三人が行ったコラボ配信の事例を見てみたい15.その配信において,雪花ラミィさんが(珍しくコラボ配信に誘ってくれた)姫森ルーナさんに頭をすり寄せるという場面があるのだが,そのとき姫森ルーナさんは大きく反対側に頭を振りかぶった後に,雪花ラミィさんに対して頭突きを行っている.そのとき,雪花ラミィさんは「初めてだなこのパターン」と動揺を隠せなかったのであるが,この事例は二重の意味で非常に興味深い.
一つは,このとき雪花ラミィさんと姫森ルーナさんは単調に体を左右に振っているのではなく,髪の毛のモデルの繊細な動きのおかげで,二人が非常に生きいきとした仕方で体を寄せ合っているように見えるという点である.しかも,物理的な三次元空間において実際に体を左右に振ったとき以上に,柔らかい前髪の挙動が画面上においては実現している.姫森ルーナさんの右隣にいる鷹嶺ルイさんの巻き髪の揺れ具合も,物理空間における重力の影響下においては再現が容易ではないような独特な髪質の柔らかさを実現している.こうした髪の毛の躍動感は,モデルの繊細な動きのシステム全体が相まって初めて実現されている要素なのである.こうした事態はまさに,「可能態としてのVTuber」であるモデルが有するポテンシャルを明確に表していると言えるだろう.
そしてもう一つは,雪花ラミィさんと姫森ルーナさんは同じ「物理的な運動」(「体を左右に振る」)をしているにもかかわらず,実際には両者共に異なる「行為」をしているという点である.雪花ラミィさんは,不安を抱えながらもコラボに誘ってくれた姫森ルーナさんに対して「よちよち」と頭をすり寄せた.それに対して姫森ルーナさんは,「えへ,えへ」と照れ笑いを浮かべた後に,雪花ラミィさんに対して「オラァ」と頭突きを行ったのだ.確かに,両者の身体的な挙動(「体を左右に振る」)自体は同じである.しかし,二人の行為(「頭をすり寄せる」/「頭突きをする」)は明らかに異なっている.これは,モデルの挙動のポテンシャルをそれぞれの配信者が引き出している事例に他ならない.モデルの挙動の可能的なシステム全体に対して,どのような「行為」の意味を与えるか.それは配信者がモデルとの相互作用の中で創造性を発揮できる次元である.このように,「可能態としての配信者」と「可能態としてのモデル」が相互にお互いのポテンシャルを誘発し合うことによって,VTuberの行為の内実やその魅力は重層的に反響し合うのである.
もとより,モデルは配信者にとって単なる制約になるどころではない.モデルがもたらす挙動の可能性や安定性は,生身で配信を行う配信者が維持できないような挙動の安定性を実現することができる.例えば,加賀美ハヤトさんが静謐な印象を崩さぬ表情のまま長時間配信を行うことができるのは,加賀美ハヤトさんが自らの身体として有するモデルがそうした安定性を実現してくれているからである.他にも,超長時間配信で有名な博衣こよりさんが柔らかい笑顔のまま配信を続けることができるのも,彼女本人の身体に他ならないモデルが博衣こよりさんの所作を安定させているからである.このように,配信者が「可能態」であるのと同等の資格において,モデルもまた同様に「可能態」としてVTuberの存在を下支えしている.アリステレス研究者の渡辺邦夫の言葉を借りるならば,存在するVTuberにとって,配信者およびモデルの両者は「現実を生む積極的条件としての可能性の領分」16に他ならないのである.
さて,ここまで「可能態としてのVTuber」および「現実態としてのVTuber」という視座について分析してきた.次節からはこの両概念を用いて,「非連動」状態におけるVTuberの鑑賞様態の特殊性について検討していきたい.
4.「非連動」状態のVTuberに対する「シームレスな鑑賞」
私たちは前節において,「可能態としてのVTuber」(配信者およびモデル)と「現実態としてのVTuber」(配信中に現に存在しているVTuber)という概念を導入した.こうした「可能態」および「現実態」という概念を導入する利点,それは「VTuberの存在様態」を二つの次元に分けて考えることができるというものである.
本稿において探究されている存在の成立の様態は,実際のところ「現実態」として記述される状態である.現実態のVTuberとして活動しているとき,私たちは「VTuberがVTuberとして現に存在している」と判断する(投稿された配信動画を観るときには,「そのときVTuberとして存在していた」という判断になる).だが,こうした意味における「実際の存在」に至っていなかったとしても,私たちは即座に「その存在者はVTuberではない」と判断する必要はない.なぜなら,仮に身体的な連動の不在が原因で「現に存在している」というわけではなかったとしても,そこに残された配信者およびモデルは,両者共に「可能態としてのVTuber」であり続けるからである.もとより,こうした「可能態としてのVTuber」(配信者およびモデル)が土台となっているからこそ,それらが身体的に連動することによって「現実態としてのVTuber」の存在が成立するのである.そうであるならば,身体的に「非連動」状態における配信者およびモデルを観るとき,私たちは他でもない「可能態としてのVTuber」を鑑賞していると言えるだろう.
例えば「非連動」状態の一例として引き合いに出した「ROF-MAO」の「無人島企画」の場合,確かに動画上に現れているのは基本的に配信者の「声」だけであり,それは明らかに非還元タイプのVTuberが現に存在している様態とは区別されるものであった.しかし,その「声」という配信者に起因する要素を,私たちは「可能態としてのVTuber」として鑑賞することが可能である.実際,仮にモデルの姿がそこに映っていなかったとしても,私たちはそうした「声」を紛れもなく「ROF-MAO」のメンバーのそれぞれの「声」として受け取ることが十分に可能なのである.配信者(の側に位置づけられる「声」)が「可能態としてのVTuber」として存在するからこそ,私たちはそうした存在を「現実態としてのVTuber」であるかのように鑑賞することができる.すなわち,彼らの「声」が可能的にはVTuberであるからこそ,私たちは「無人島企画」の事例を問題なく「VTuberのコンテンツ」として鑑賞することが可能なのである.このように,「可能的にはVTuberである要素を実際に存在するVTuberとして見なす」という鑑賞者の態度を,本稿においては「シームレスな鑑賞」と名づける.なぜ「シームレス」であるかと言えば,「今は可能態として存在している/今は現実態として存在している」という断片的な判断を鑑賞者が場面に応じて行っているわけではなく,それらがどのような状態であれ,鑑賞者は「常にVTuberとして存在している」という地続きの判断をVTuberの鑑賞実践の中で行っているからである.
こうした「シームレスな鑑賞」こそが,連動・非連動の双方を含むVTuberの多様な配信を円滑に鑑賞することを可能にしている.例えば「ホロライブ」所属のVTuberが出演するアニメーション「ホロのぐらふぃてぃ」であれば,そこに身体的な連動が欠けていたり,当のVTuberが言わなそうな発言を動画の中で喋り続けていたりしていたとしても,そこに「可能態としてのVTuber」である要素(動き回るモデルの姿と配信者の声)が見だされる以上,それは他でもないVTuberの存在様態であるかのように鑑賞可能なのだ.
こうした「シームレスな鑑賞」こそが,典型的なVTuberの配信においてモデルが硬直化していたり,そもそも立ち絵イラストしか割り当てられていないような状況であったりしても,そこに登場するVTuberたちを現に今存在するVTuberとして問題なく鑑賞するという実践を可能にする.「シームレスな鑑賞」という概念を導入すれば,私たちは身体的な連動が不在であるようなVTuberを観たとしても,問題なくそれらを存在するVTuberとして鑑賞可能であるという事態について説明することができる.
だが,ここで私たちは決定的な問題提起をしなければならない.それは,「倫理的アイデンティティが不在である場合も,私たちは無条件的に配信者をVTuberとして鑑賞することが可能なのか?」という問いである.例えば,次のような事例を見てみよう.
「琴吹ゆめ」は,2018年4月16日にデビューしたVTuberである.彼女は非還元タイプのVTuberとしては非常に特異な配信を行ってみせた.それは,琴吹ゆめさん(VTuberとしての行為主体)が,飯塚麻結さん(配信者としての行為主体)とコラボを行うという企画である.「【4周年記念配信】魂との対談!?声優の飯塚麻結ちゃんが遊びにくるぞー!」と題された2022年4月17日の動画において,私たちは次のようなやりとりを見て取ることができる.
琴吹ゆめ「今日は特別ゲストを呼びたいと思います.私から分離した魂である,飯塚麻結です.どうぞ!」
飯塚麻結「じゃーん.皆さんこんにちは,琴吹ゆめの魂,飯塚麻結です.よろしくお願いします」
琴吹ゆめ「はじめまして!」
飯塚麻結「あっ,そうですよね.ちゃんと話すのは初めてだわ,はじめまして」
琴吹ゆめ「なんかはじめましてって感じがしない……」
飯塚麻結「あ,やっぱり? 魂が一緒だから……」17
ここで「魂」と言われているのは,俗に「VTuberの中の人」という表現で指し示されている存在者(本稿で言うところの「配信者」)である.つまりこれは,「VTuber」が(いわゆる「中の人」と呼ばれる)配信者とコラボをするという特異な状況なのだ.このようなことができてしまうのも,「VTuber」と「配信者」がイコールではない非還元タイプのVTuberならではの特徴なのかもしれないが,ここで私たちが注意深く検討しなければならないのは,次の問いである.すなわち,「ここで画面上に現れている飯塚麻結さんを,私たちは琴吹ゆめさんとして鑑賞することが可能なのか?」という問いである.もし仮に前述した「シームレスな鑑賞」が,「身体的な連動」のみならず「倫理的アイデンティティ」が不在の状況においても発揮できるような鑑賞者の態度であるとするならば,私たちはこの動画において,飯塚麻結さん(「琴吹ゆめ」へと転じることができる「可能態としてのVTuber」)を琴吹ゆめさんとして鑑賞することが可能だろう.だが,もしここで私たちが飯塚麻結さんを琴吹ゆめさんとして鑑賞してしまったならば,私たちは動画の中で琴吹ゆめさんと琴吹ゆめさんが二人で会話をしているというちぐはぐな場面を鑑賞の状況として受け入れなければならなくなる.だが,このような鑑賞体験が実際にここでなされているわけではないだろう.実際に行われているのは,飯塚麻結さんをあくまで飯塚麻結さんとして受け入れ,琴吹ゆめさんをこれまで通り琴吹ゆめさんとして見なすという鑑賞実践である.飯塚麻結さんとして現前している他者を,私たちは琴吹ゆめさんとして鑑賞することはできない.あるいは,もしも無理やりそのように鑑賞することが可能であったとしても,私たちは鑑賞の規範として,そのように鑑賞をすべきではない.ここで「二人の琴吹ゆめさんが自分自身と会話をしている」と見なすのは,明らかに鑑賞実践としては失敗しているのである.
さて,こうした琴吹ゆめさんの事例から私たちが導出できる帰結がある.それは,倫理的アイデンティティが不在であるような場合,私たちはその配信者に対して「シームレスな鑑賞」を行うことはできないということである.こうした事態は,次のような事例を出すことでさらに明瞭に理解されることだろう.例えば2021年11月10日に「【深層組伝統芸】超絶美麗3D配信」18と題された配信を行った「なまほしちゃん」は,自身の配信中において,「超絶美麗3D」として配信者の姿を画面上に映し出した.ここで,「バーチャルYouTuber」としてオーディエンスに向けて挨拶をしている「なまほしちゃん」を「なまほしちゃん」として鑑賞することは,(非還元タイプのVTuberとしては特異な状況であるとは言え)全く不当ではない.なぜなら,「なまほしちゃん」はここで明確な(「なまほしちゃん」としての)倫理的アイデンティティを保持しているからである.たとえ普段のモデル姿の要素を一切身にまとっていなかったとしても,もしその配信者がVTuberとして倫理的アイデンティティを保持していたならば,私たちはその配信者をVTuberの名で呼び,そのようなものとして鑑賞することが可能となるのである.このような「シームレスな鑑賞」を可能にしてくれているのは,まさにモデルとの「身体的な連動」が一切不在であったとしても堅持されていた「倫理的アイデンティティ」に他ならない.こうした議論を踏まえることで,私たちは「シームレスな鑑賞」が適用できるのは「身体的な連動」が不在である場合のみであり,「倫理的アイデンティティ」が不在であるときにそうした鑑賞実践を行うことはできない(あるいは無理やり行ったとしても,そのような鑑賞は明らかに鑑賞の規範に反する)と結論づけることができるだろう.
こうした「シームレスな鑑賞」という概念は,VTuberの鑑賞実践の多様性およびその特殊性を捉えるための有力な枠組みとなり得るだろう.例えばおめがレイさんとおめがリオさんから成る「おめがシスターズ」は,顔だけがVTuberの姿であり,その他の姿はすべて配信者の姿であるという混合型の様態を視聴者に対して提示したが,シームレスな鑑賞を行えば,いくらレイさんとリオさんが特異な在り様をしていたとしても,それは全体を通してVTuberとして現に存在していると鑑賞することが可能である19.また,個人勢のVTuberとして活躍している「甲賀流忍者ぽんぽこ」と「ピーナッツくん」の二人は,自らの配信において(文字通り)「着ぐるみ」になった姿を公開したが,こうした「着ぐるみ」姿で登場する「ぽこピー」も,「着ぐるみ」がモデルの姿を模した物体であるという意味で,そして配信者の動きがそれを通して表現されているという意味で,現にそのときに存在していたVTuberとしてシームレスに鑑賞することが可能であると言える20.むしろこのように,様々な形態において登場するVTuberたちを私たちはVTuberとしてシームレスに鑑賞しているのであり,かつその多種多様な在り様から生まれる創造性と新規性を鑑賞者は文化として受容している.まさに,「バーチャルYouTuber四天王」の一人であるミライアカリさんが明言するように,今日のVTuber文化ははっきりとした線引きを行うことが躊躇われるほどに「濃すぎる」21ものなのであり,だからこそVTuber文化の参加者たちは「シームレスな鑑賞」という独特な鑑賞態度を身につけたのである.現在急速な勢いで想像的かつ創造的な取り組みが行われているVTuber文化,その胎動の一端を概念的に捉えるための試みこそが,本稿の目指したものであった.
註
参考文献
Benveniste, Émile, 1966, Problèmes de linguistique générale I (Gallimard).
Benveniste, Émile, 1974, Problèmes de linguistique générale II (Gallimard).
Bredikhina, Liudmila, 2020, “Designing identity in VTuber Era”, Virtual Reality International Conference 2020 Proceedings (ed., Simon Richir), 182-184.
Ricœur, Paul, 1983, Temps et récit I: L’intrigue et le récit historique (Seuil).
Ricœur, Paul, 1984, Temps et récit II: La configuration dans le récit de fiction (Seuil).
Ricœur, Paul, 1985, Temps et récit III: Le temps raconté (Seuil).
Ricœur, Paul, 1990, Soi-même comme un autre (Seuil).
新八角,2018年「月ノ美兎は水を飲む」『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』青土社,7月号,92-99頁.
泉信行,2018年「にじさんじ公式ライバーたちの実質的現実」『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』青土社,7月号,79-91頁.
出隆訳,1968年『アリストテレス全集 12』岩波書店.
桑子敏雄,1993年『エネルゲイア――アリストテレス哲学の創造』東京大学出版会.
皇牙サキ,2018年「「声」という商品のパッケージとしてのVTuber」『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』青土社,7月号,64-65頁.
篠澤和久,2017年『アリストテレスの時間論』東北大学出版会.
杉村靖彦,1998年『ポール・リクールの思想――意味の探索』創文社.
原田伸一郎,2021年「バーチャルYouTuberの人格権・著作者人格権・実演家人格権」『静岡大学情報学研究』第26巻,53-64頁.
広田稔,2018年「バーチャル化する人の存在――VTuberの来し方,行く末」『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』青土社,7月号,45-52頁.
山野弘樹,2022年「「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか」『フィルカル』株式会社ミュー,第7巻第2号,226-263頁.
山野弘樹,2022年「「VTuberの哲学」序論――多様化するVTuberと「身体」としてのアバター」『FASHION TECH NEWS』株式会社ZOZO NEXT[CATEGORY: RESEARCH]( https://fashiontechnews.zozo.com/research/hiroki_yamano ).
渡辺邦夫,2012年『アリストテレス哲学における人間理解の研究』東海大学出版会.
G・E・R・ロイド著,河田殖訳,1973年『アリストテレス』みすず書房.