2024 年 2024 巻 51 号 p. 132-148
はじめに
ジョルジョ・アガンベン研究において,前期の言語哲学と後期の政治哲学を接続する試みは次のようになされてきた1.すなわち,言語活動をフォーネーとロゴスに分離し,前者が後者の基礎となる限りで排除しつつも包含するという「前提化構造」の論理と,人間の生をゾーエーとビオスに分離し,前者を後者のうちに排除−包含することで政治的身体を生み出すという主権権力における「例外化」のメカニズムとの同型性を提示することによってである2.実際にも,アガンベンは『身体の使用』(2014)のエピローグで,例外状態の理論が言語活動にも見出されることを発見したと後になって語っている3.つまり,後期の政治哲学が前期の言語論を事後的に参照するような仕方で,アガンベン哲学の一貫性というものが明らかになったわけである.
アガンベンの哲学はしばしば前期と後期とで断絶していることが主張されてきた.その最初にして代表的な提唱者が,アントニオ・ネグリである4.彼によれば,「二人のアガンベン」が存在するという.曰く,「形而上学的アガンベン」と「政治的アガンベン」である.こうした「二人のアガンベン」の分裂を埋めるようにして,これまで先行研究においては言語哲学と政治哲学との接続が目指されてきた.その一方で,「形而上学的アガンベン」をテクスト内在的に読解する試みというのは,それほど大々的に行われてはこなかった.その理由の一つには,「政治的アガンベン」の方がこれまで多くの関心を惹いてきたという事情に加えて,前期のアガンベンが文学・芸術・言語といった多様なテーマを扱っているがゆえに,それを包括的に捉えるようなパースペクティヴが欠けていたことも指摘できる5.とはいえ,アガンベンが形而上学に留まりながらその思考を紡いでいったこともまた事実である.ハイデガーの影響を色濃く受け,形而上学の破壊というハイデガーの企図を前期のアガンベンは批判的に継承する6.同じくハイデガーからの強い影響下にあったデリダは,形而上学を脱構築し攪乱することで新たな思考を展開した.アガンベンもまた同様に,一方で形而上学の徹底的な精緻化によってその限界を露わにし,他方でそこから逸脱するような思考を見出そうと試みる.本稿では,言語論から出発して,形而上学の限界に至るまでのアガンベンの思考の理路をクロノロジカルに追跡しようと試みる.それによって,アガンベンが形而上学から政治哲学へと至る端緒が示されるだろう.
議論の道筋を明確にしておこう.まず第一節では,アガンベンの哲学の出発点を「言語活動への問い」に定め,最初の論考「言語活動の木」を手がかりに,言語と存在というその後の中心的な問題設定を明らかにする.次に,第二節では,前期の芸術論『スタンツェ』における記号の二重性の問題を,存在論的差異として読み替えるアガンベンの議論を概観する.そして,第三節では,前節までの言語/存在,記号の二重性といった議論が,記号論/意味論のあいだの断絶の問題として語り直され,その断絶が「シフター」と呼ばれる特異な記号によって媒介されていることが確認される.最後に第四節では,アリストテレス以来,第一原因をめぐってなされてきた形而上学的思考が前提としてきたのが,言語活動の生起という出来事であり,同時にそれが把握しきれないものとして捉えられてきたことが示され,そこにおいて形而上学の限界が明らかとなる.
1.言語と存在――構造言語学への批判
本節では,アガンベンの最初の論考「言語活動の木」(1968)を手がかりにアガンベンの「言語活動への問い」の出発点を明らかにする.最初の論考が言語論を扱っているとはいえ,アガンベンは,哲学はもちろんのこと,文学や芸術や政治など,多様なテーマを扱っており,そのなかでもなぜ「言語活動への問い」を起点にするのかをここで明確にしておかなければならないだろう.その理由は,アガンベン自身によって語られている.ではアガンベンは自らの哲学をどのように認識しているのか.『インファンティアと歴史』のフランス語版に付された序文「言語活動の経験」(1989)のなかで,それは突然明かされる.曰く,
すでに書いてきた本やいまだ書いていない本において,私が執拗に思考しようとしてきたのは,ただひとつのことでしかない.すなわち,「言語活動が存在する」とはどういうことなのか,「私が話す」とはどういうことなのか,というのがそれである.7
この言葉を真剣に受け取れば,「言語活動への問い」というのがアガンベンの一貫したテーマであると言えるだろう.そして,その問いは主に二つに分けられる.①まず,「言語活動が存在する」とはどういうことなのか,つまり言語活動の本質(何であるか)やその様態(いかにあるか)に関する問いであり,②そして,「私が話す」とはどういうことなのか,すなわち言語活動の主体の本質や様態に関する問いである.それゆえ,本稿ではこの問いを手がかりにアガンベンの哲学へと入ってゆく.
さて,論考「言語活動の木」は,当時その勢力を拡大しつつあった構造言語学を論敵に設定し,その祖であるソシュール言語学を批判している.言語活動をラングという記号の体系へと還元するソシュールに対して,体系的な思考では問い落とされてしまうような言語の余剰――それをアガンベンは存在としてのロゴスと呼ぶ――を提示する.大まかに,言語/存在という区別がここに設定されるわけだが,この両者の関係をめぐって,アガンベンは「言語活動への問い」を深化させてゆく.ソシュール言語学は,アガンベンの言語論において特権的な地位を占めているため,手短に触れておく.
近代言語学の創始者であるソシュールは,『一般言語学講義』において言語の科学を提唱する.言語学が科学であるためには,その対象が明確に規定されなければならない.そこでソシュールは言語の記号的な側面に着目する.曰く,記号には二重性がある.記号は,一方で意味するものであると同時に,他方で意味されるものである.これが今日よく知られているシニフィアンとシニフィエである.ところで,シニフィアン/シニフィエが結びついたものとしての記号の体系は,大まかに二つの性質によって特徴づけられる.すなわち,差異性と恣意性である.
差異性は,単純に説明できる.つまり,「猫」はそれ自体で「猫」なのではなく,他の言語記号との差異によって,「猫」という言語記号が占める位置が決定されるということである.言い換えれば,「猫」という言語記号は,他の記号ではないものとして否定的にしか基礎付けられない.これが差異の原理である.
恣意性は,シニフィアンとシニフィエの結合する仕方についての性質である.シニフィアン/neko/は,シニフィエ「猫」と結びつくが,その結合に内的な必然性はない.これは複数の言語体系を比較した場合に明らかである.たしかに,シニフィエ「猫」は日本語で/neko/と呼ばれるし,英語では/cat/と呼ばれ,フランス語では/chat/と呼ばれる.この結合に内的な必然性があるとすれば,言語体系が多様であることの説明が困難になる.じつのところ,フランス語/chat/は,「猫」のなかでも雄猫を表す.フランス語では雄猫/chat/と雌猫/chate/は音声上区別されるが,日本語においては区別されない.つまり,シニフィアンとシニフィエとの対応の範囲が,言語体系によって異なっているのである.こうした事実から,シニフィアンとシニフィエの結合は恣意的であると考えられている.
アガンベンによれば,ソシュール言語学は,記号を「シニフィアンとシニフィエという二つの構成要素の不可分の結合によって特徴づけられる,一貫した実体の集合として規定することによってはじめて科学として成立することができた」8.つまり,記号学を言語学に先行させることによって,「それ自体としての,それ自体のための言語」を科学の対象として確立したのである.爾来,言語学は,記号という最小構造から出発し,定義された変換規則をつうじて,それによってあらゆる文についての説明が可能となるような言語のシステム,つまり合理的な言語のシステムを追求することになる.アガンベンは,ここにライプニッツ以来の普遍言語の構想が深く根を張っていることを看取する.それはライプニッツをつうじて,ソシュールからチョムスキーの生成文法に至るまでの,理性=言語の系譜を形作っている.言語活動を合理的な記号の体系に還元するという,この途方もないプロジェクトから,言語活動を計算するようにして思考するという考え方が全面的に現れてくる.
今日,言語学が他の科学のなかで特権的な地位を占めているとすれば,それはまさに,言語活動の理由を追求することによってであり,ライプニッツの「合理的言語」に匹敵するような普遍的な学問の方法を構築することを可能にしているからにほかならない.そしてその決定的な精緻化というのが,サイバネティクスや情報理論の課題である.つまり,現代の言語学において,「言語活動とは理性である」という文は,「言語活動とは計算である」という意味で理解されるのである.それはつまり,数学的な規則にしたがって情報のある側面を別の側面へと変換する論理機械であり,まさに言語学は,あらゆる可能な知に合理的な構造を付与するこの計算のメカニズムを研究するのである.9
「言語活動とは理性である」というのは,古代ギリシア以来,伝統的に受け入れられてきた考え方である.実際,ギリシア語logosは,言語は当然のこと,理性や理由,さらには,計算をも意味する.つまり,ここでアガンベンが述べているところによれば,言語の合理性という側面が現代の言語学においては,計算として立ち現れているというのである.とはいえ,アガンベンは言語の合理性の追求によっては汲み尽くされないような余剰の方へと思考の照準を定める.
さて,アガンベンはいかに構造言語学を批判するのか,今一度確認しておこう.その論点は次のように示される.すなわち,①言語活動には記号の体系には還元されないような余剰があるということ,そして,②ロゴスという語の意味は,理性や計算という意味に尽きるのではなく,存在という意味でも理解されなければならないということである.アガンベンによれば,そのような言語活動の余剰,あるいは存在としてのロゴスをめぐる思考は,ギリシア思想の黎明期に宣言されていながら,言語活動についての省察の歴史のうちで,いわば保留されたままとなっていた別の可能性であるという.それは,ライプニッツから計算機科学へと至る,ロゴス=計算の系譜とは別の系譜の可能性である.アガンベンによれば,この可能性のもとに思考される言語というのは,存在の本質と隈なく一致する.曰く,
この可能性が思考に開く道にしたがえば,言語活動とはロゴスであるが,ロゴスは単に「理性,計算」を意味するのではなく,その語源によれば,それが何であるか〔=本質〕を現れさせるために,何かを集め,保持し,目の前にもたらす行為を意味するものである.この意味で,言語活動とは,あらゆるものを,存在という光のなかで,われわれの前につなぎとめるものである.ギリシア人が「存在と言語活動は同じものである(to autò estin einai te kai logos)」と言ったのはこのためであり,彼らは,存在に属するこの根源に照らし合わせて,早くも言語活動に固有な記号の本質を解釈していたのである.10
「言語活動の木」におけるアガンベンのソシュール批判および構造主義批判は,つまるところ,形而上学的=体系的な思考では問い損なわれてしまうものがある,という主張に限りなく近くなる.ソシュールに端を発する構造言語学は,言語活動をシニフィアン/シニフィエのユニット,つまり「意味する音声」であるところの記号の体系のうちに閉ざされている,というのである.ソシュールを批判する点において,アガンベンは,『グラマトロジーについて』のデリダとの連帯を表明している11.
じつのところ,言語活動の還元不可能な余剰や,ロゴス=存在の可能性とアガンベンが呼んでいるものは,この最初の論考においては,これ以上探求されないままである.とはいえ,この論考はのちのアガンベンが辿ることとなる思考の道のりを照らしている.70年代に入ると,アガンベンは言語学者エミール・バンヴェニストのテクストと出会い,ラング/パロールといったソシュールの図式をある程度引き受けながら,言語活動が生起することそのものを問題とするようになる.爾来,アガンベンは,記号と存在との差異,シニフィアンとシニフィエとの差異,指示作用と意味表現との差異に焦点を当てながら,記号論と意味論,フォーネーとロゴスのあわいへと思考を巡らせてゆくことになる.
2.現前の分裂――意味作用に抗する壁/襞
言語/存在という区別を,『スタンツェ』(1977)のアガンベンはソシュール言語学におけるS/s(S=シニフィエ,s=シニフィアン)の区別へとスライドさせ,両者の一致と不一致を問う.ここにおいて,最初の論考でなされていたようなソシュール批判は影を潜め,S/sやラング/パロールといった図式は,議論の土台として受け入れられてゆく.本書においてアガンベンが主張するところによれば,S/sという図式は,シニフィアンとシニフィエの一致であると同時に,つねにその一致を裏切るような不一致としての「/」を記号のうちに刻んでいるのだという.形而上学および言語学は,意味作用という概念によって,シニフィアンとシニフィエの不一致を覆い隠す.しかし,両者の不一致こそがいっそう重要な問題である.というのは,そこにこそ,それぞれ異なる二項がいかにして一致しているのかという問いの余地があるからである.これは単なる記号が,いかにして意味をもつようになるのかという問いとパラレルである.それでは,『スタンツェ』の最終章における記号の二重性と意味作用についての考察を辿ってみよう.
まず,記号は,その性質上,何かの代わりになるものである.例えば,記号「猫」は,現実に存在する猫の代わりに用いられ,この記号の意味作用によって,実在の猫がイメージとして呼び起こされる.つまり記号と対象が,意味作用によって,一致するわけである.しかし,ここにはある決定的な差異,すなわち,現前と不在との差異が折り畳まれている.記号としての「猫」は現前している一方で,実在としての猫は不在のままである.逆に言えば,不在の対象である猫を,記号としての「猫」は現前させる.意味作用は記号と対象を結びつけることで,象徴的なイメージを生み出す.だが,そこにはつねに現前と不在という不一致が原初的な亀裂として刻み込まれている.引き裂かれ二つに分割されてあるというその語源的な意味において,記号すなわち「分かれているものを統合する認識行為としての「」は,この認識の真実にたえず背き,告発する「」でもあるのだ」12.「」というのは,ギリシア語の語源に遡れば,二つに分割されて引き裂かれてあることを意味する.「」は,二つに分割されたものがぴったりと一致していることを指している.そのため,「」かつ「」であるというのは,シニフィアンとシニフィエが本来分割されてあるものでありながらも一致しているという性質を示している.何によって一致するのか.意味作用によってである.
現前と不在との原初的な亀裂を覆い隠すようにして,意味作用はそれらの一致をしるしづけ,哲学を可能にし,ひいては記号学を可能にする.逆説的にも,現前と不在が分離され引き裂かれているがゆえに,「意味作用」は可能となるのだとアガンベンは述べる.曰く,原初的な亀裂があるがゆえに,哲学する必要があるのである.シニフィアン/シニフィエは,「/」という意味作用に抗する壁によって隔てられている.アガンベンは,この現前における分裂を覆い隠している意味作用という基盤の上に,西洋の形而上学が存していることを指摘しているのだが,そこで同じく,現前の形而上学を批判する哲学者として引き合いに出されているのが「グラマトロジー」のデリダである.デリダの議論を概観してみよう.
デリダの「グラマトロジー」の要点は二つある.①まず第一に,ソシュール的な記号論は,シニフィアンとシニフィエの統一として意味作用を解釈してきた点で,伝統的な形而上学と共犯関係にあるというものである.記号の意味作用において,シニフィアンはシニフィエの代わりをなすものとして,構成上劣位に置かれることになる.これが形而上学に特徴的な,意味するものよりも意味されるもの,文字よりも音声を優位に置く,音声=ロゴス中心主義である.デリダはソシュールの記号論が形而上学の域を出るものではないことを批判する.②そこでデリダが提唱するのが,「グラマトロジー」である.デリダによれば,記号の意味作用は,つねに存在者の不在を痕跡として指し示し,それを表象=再現前化(représentation)させる.この痕跡が,現前と不在のズレを証言するのであり,この現前と不在のズレを生じさせるのが,いわゆる差延(différance)と呼ばれる,差異化のプロセスである.
この観点から見ると,意味作用による現前と不在の一致に先立って,両者の差異が差延によって産出される.例えば,差延(différance)と発音したのか,差異(différence)と発音したのかは,フランス語の音声上,区別できない.音声的シニフィアン(différance/différence)が観念的なシニフィエ(差延/差異)を指し示すより以前に,エクリチュール(文字)によって音声的シニフィアンは差異化されているのであって,音声の位置にはつねにそのように差異化された痕跡がある.つまり,シニフィアンがシニフィエを指し示し一致するという意味作用に先立って,その意味作用を攪乱する文字による差延作用があるわけである.それゆえデリダは,記号学を言語学に先行させるというソシュールの形而上学的な意図に反して,グラマトロジー(文字学)を言語学に先行させるべきだと主張することができたのである13.
おそらくアガンベンにとって,デリダによる形而上学批判は賛同するところが少なくなかったのだろう.実際,アガンベンの批判的企図とデリダのそれは多くの点で一致をみせている.アガンベンもまた,シニフィアン/シニフィエの分裂を覆い隠す形而上学や言語学を敢然と批判してやまない.とはいえ,アガンベンは,グラマトロジーに与するわけでもなく,そこから距離を取ろうとする.
実際,形而上学とは,外観と本質,シニフィアンとシニフィエ,感覚的なものと観念的なものとの二重性として,現前の亀裂を解釈することだけを単に指すのではない.オリジナルな経験は,常にすでに襞に折り畳まれているということ,語源的な意味において,「シンプル」(‘sim-plex’ 「一度折り畳まれた」)であるということ,つまり,現前は常にすでに意味作用の中にとりこまれているということ,このことこそが,まさしく西洋の形而上学の起源なのである.エクリチュールや痕跡を第一に置くということは,このような原初的な経験を強調するということであって,それを乗り越えるということなのではない.実際,「表記」[gramma] と「声」[phone]はどちらも,ギリシアの形而上学の企図に属している.ギリシアの形而上学は,言語に関する考察に「文法」という資格を与え,「声」[phone] を「セマンティケー」[semantiche](つまり「霊魂の中に書き記されたもの」の記号)とみなすことで,すでに最初から,「文字」の観点から言語をとらえていたのである.14
ここには,デリダからの並々ならぬ影響とそれへの抵抗を読み取ることができる.アガンベンは,デリダの分析を一方で認めつつも,みずからに固有な思索の磁場を形成しようと離れてゆく.そして,アガンベンはデリダを批判して「エクリチュールとシニフィアンの形而上学は,声とシニフィエの形而上学の裏返しにすぎない」15とまで言ってのける.つまり,アガンベンによれば,デリダは形而上学の構造を明らかにしただけであって,それを乗り越えたわけではないというわけである.こうした批判には,少々強引なところがないわけではないが,アガンベン自身の立ち位置を明確にするものであることは確かである.そして,アガンベンが主張するのは,意味作用に抗する壁「/」のうちに,言語の原初的な状態を再認識すべきである,ということである.どういうことか.
アガンベンによれば,意味作用の本質というのは,シニフィアンのなかにあるのでも,シニフィエのなかにあるのでもないし,また文字のなかにあるのでも声のなかにあるのでもない.「そうではなくて,それらが基づいている現前の襞の中にあるのである」16.つまり,シニフィアンとシニフィエのあいだ,すなわちS/sという図式に刻まれた「/」のうちにあるというのである.ここにこそ,ある記号が別の記号を意味するという作用の謎がある.しかし一方から他方への移行はいかにして可能となっているのか.次なる問いは,記号論と意味論のあいだの断絶,そして両者のあいだの移行へと向けられることとなる.
3.断絶と移行――記号論と意味論のあいだ
1970年代以降,アガンベンの着想源となってきた言語学者エミール・バンヴェニストの研究が『インファンティアと歴史』(1978)において全面的に参照されることとなる17.前期アガンベンの言語論において,バンヴェニストから引き継がれたテーマは主に二つある.①記号論/意味論の断絶と②「言表の指示子」ないし「シフター(転換子)」の問題である.これを足場として,アガンベンは,いかにして人間が「いまだ話さない」前−人間的な状態から「すでに話している」人間的な状態へと移行してゆくのかという言語活動の主体の問題へと思考を進めてゆく.ここでは言語活動の能力についての問いがアガンベンの思考を裏から支えているのだが,それはアリストテレスによる人間の定義「言葉をもつ動物」を承けたものである.言語活動というのが,人間と非人間の閾をなしているとすれば,その閾において何が生じているのかということにアガンベンの問いは収斂する.それでは『インファンティアと歴史』における議論を辿ってみよう.
ソシュールによって導入されたラング/パロールの区別によって,人間の言語活動は一方で純粋に記号論的な次元へと還元され,他方で個別的な発話や言説は意味論的な次元として分離された.ソシュール言語学を批判的に継承するバンヴェニストによれば,記号論/意味論は断絶している.記号論は記号の認識にかかわり,意味論は言説や文の意味ないしその解釈にかかわる.曰く,「記号論(記号)は認識されなければならないが,意味論(言説)は理解されなければならない」18という.これらはそれぞれ異なる領域に属しているために,この二つのレベルのあいだに移行はなく,「ひとつの断絶がそれらを分け隔てている」.言語活動における二つのレベルの断絶というテーマは古くはアリストテレスによっても指摘されてきた.例えば,同様の議論がアリストテレスの『カテゴリー論』のうちにも見出される.そこでは,「結合にしたがって言われるもの」と「結合なしに言われるもの」との区別として語られている19.例を挙げれば,「人間は走る」,「人間は勝つ」,というのが結合にしたがって言われるものであり,「人間」,「牛」,「走る」,「勝つ」,というのが結合なしに言われるものである.一方は文や言説を形成しており,意味論の領域に属しているが,他方は記号論の領域に属しており,文や言説としては構成されていない.両者の違いは明確である.文字や単語は,たしかに文や言説を構成する.しかし,「人間」「は」「走る」といった記号は単独では言説を構成しない.「人間は走る」と発話されて初めてそれは言説としてのステータスを獲得し,その意味の解読や解釈の俎上に載せられる.
では,両者の断絶というバンヴェニストの問題提起を受け入れたとして, 一体いかにして記号論から意味論への移行は可能となるのか.実際,われわれは現に話すことができるのであって,みずからが所属する言語の体系をたえず個別的な発話行為へと変換している.であってみれば,この移行を可能にする何らかの手がかりがあるはずである.アガンベンはそれをシフターという特異な記号のうちに求める.シフターとは,「わたし」「いま」「ここ」といった指示代名詞である.とりわけ,それらは発話行為の主体や時間や場所を示している.とはいえ,シフターは,一般的な記号(例えば「猫」)とは異なって,それに対応する一定の指示対象をもたない.発話のたびに「わたし」「いま」「ここ」が示すものは再設定されるわけである.それゆえに,これらの代名詞は発話から発話へと移ってゆくその性質からシフターと呼ばれる.そうであるとすれば,これらシフターと呼ばれる特殊な記号は,記号であるにもかかわらず,それ自体記号としては何も表現せず,意味論の領域でのみその機能を発揮する,ということになる.バンヴェニストは,シフター――彼はそれを「言表の指示子」と呼んでいる――を説明して述べている.
それでは,わたしまたはあなたが参照する「現実」とは何か.それはもっぱら「言説についての現実」なのであるが,これはきわめて特異なものである.わたしは,名詞的記号の場合のように対象の用語ではなく,「話し方」の用語によってしか定義することができない.わたしは,「わたしを含むいま現に進行中の言説を言表している者」を意味する.それは定義上唯一の現存であり,その唯一性においてのみ有効なのである.たとえわたしが,同じ声によって発せられた,わたしを含む連続した二つの言説の現存を認めたとして,それだけで,この二つの一方,そのわたしは他の人物に帰せられるべき一つの報告された言説,一つの引用ではないとは,いささかも保証されるものではないのである.そこで次の点を強調せねばならない:すなわち,わたしは,それが含まれている現に進行中の言説によって,かつただそれのみによって同定されうるものであるということである.20
ここでシフターの特徴は次のようにまとめられる.それは,①発話とその発話者をつなぎ留めるものであり,②その発話が生起している位置を指示参照し,③あらゆる発話において前提とされ,④つねに繰り返され,そして繰り返し生起するものである,ということである.ここにおいて,シフターは,世界から言語活動,言語活動から世界への移行を生じさせているように思われるのだが,実際には,言語内的な移行(「ラングからパロール」,「コードからメッセージ」あるいは「記号論から意味論へ」の移行)を生じさせている21.
記号論と意味論の断絶をシフターが媒介し,両者の移行を実現する.このとき,発話の主体には何が起きているのか.「言葉をもつ動物」というアリストテレスによる人間の定義をひとまず受け入れるとすれば,この移行の瞬間つまり言表や発話の瞬間に生起しているのは,言語活動の生起であると同時に人間の生起である22.人間はいまだ言語を話さない人間未満的なものとして誕生し,物心がついたときには,つねにすでに言語を話す存在として自らを認識するようになる.ここにおいて,『スタンツェ』の最後で言及されていた「襞」についての一節が理解可能となる.
「言葉をもつ動物」[zoon logon echon] としての人間を特徴づける「ロゴス」とは,存在の「結合」の中にあらゆるものを集めそして分ける,この襞のことなのである.そして,人間的なものとは,まさしく現前のこうした亀裂のことであり,この亀裂がひとつの世界を開示し,この亀裂の上に言語も存在している.「S/s」というアルゴリズムは,それゆえ壁,つまり「/」だけに縮小されなければならない.が,この壁の中にわれわれは,単に差異の痕跡のみならず,結合と連接 [synaphies] のトポロジー的な戯れを見る必要がある.23
つまり,言語および人間的なものとは,非人間的なもの/人間的なもの,動物/言語との断絶から生じるのである.それらの不可能な一致を証言する主体として,みずからを言説の主体である「わたし」という記号と一致させることによって24.では,そのような言語活動の生起とはいったい何であるのか.シフターが指示しているという主体の位置には何があるのか.いかにして,そのような指示作用が可能となるのか.その答えは,〈声〉にある.次節では,〈声〉の場所をめぐって形而上学を再解釈するアガンベンの議論を辿ってゆく.
4.分節化――フォーネーとロゴスのあいだ
形而上学とは,教科書的な定義を与えておけば,あらゆるものの根源にあるもの,言い換えれば,第一原因や第一実体と呼ばれるものが何であるのかといった存在の本質をめぐる思考の営みである.西洋哲学では,プラトン以来この種の探求が目指されてきた.とりわけ,アリストテレスは,言語のカテゴリーと存在のカテゴリーを同一視し,現実存在である第一実体を本質存在である第二実体との結合によって,存在するものを解釈する.これによって,「SはPである」という文を基盤とした命題論理学や三段論法という推論の方法が整備されることとなる.前節で確認したように,ここには記号論から意味論への移行がある.その移行を可能にしているのがシフターである,というのがバンヴェニストの言語学を承けてのアガンベンの見立てである.しかし,問題は,シフターの意味表現作用ではなく,その指示作用である.ここにおいて,『言語活動と死』(1982)のアガンベンは,伝統的な形而上学へと立ち返り,シフターについての考察を展開してゆく.そこで力点が置かれているのは,指示するとはいかなることなのか,という問いである.
しかし,なぜアガンベンは形而上学へと立ち返るのか.それは形而上学や存在論が探求しつつも捉え損なってきた存在と言語の問題に関わっている.ここにおいて,形而上学が,何とか把握しようと試みてきた第一実体(現実存在)についての思考というのは,じつのところ,シフターをめぐる思考であったことが判明する.アリストテレスの「この何ものか(tode ti)」,中世哲学の「これ性(Haecceitas)」,ヘーゲルにおける感覚的確信(「〈このもの〉をつかまえること(das Diese nehmen)」),ハイデガーの「現存在(Dasein)」,これらすべてが言語の純粋な指示作用(何があるか)に関係するものであり,この指示作用をつうじて,意味表現作用としての本質規定(何であるか)へと移行してゆく.
とはいえ,ここでは指示作用の否定性が問題となっている.ハイデガーによる現存在(Dasein)を一瞥してみよう.まず,Daとはドイツ語で「ここ」を意味する副詞である.そして,そんな「ここ」と一致し,つねにすでに「ここ」であるような存在,それが現存在(Da-sein)である.ハイデガーは,根源や第一原因としての神など,伝統的な形而上学の前提を排して,まったくの無前提な地点から存在への問いを始める.その出発点が,「いま,ここ」で現に存在している者であるところの現存在というわけである.では,現存在が位置しているという「いま,ここ」とはどこなのか.それは過去・現在・未来へと一直線に流れてゆくような通時的な時間の上には位置づけられない.なぜなら,現存在が位置しているのは,まさに「いま,ここ」であるような場所だからである.そのような「いま」というのは,二重の否定性が重ね合わされた折り目=襞のような場所である.すなわち,もはや過去ではなく,いまだ未来でもない.そんな否定性によってしか言い表せないような場所,そこで現存在は生起するのである.あるいは言語活動が.
さて,このように哲学が暗黙のうちに前提としてきた指示作用というのは,いかにして可能となっているのか.それはどのように生起するのか.バンヴェニストの回答ではシフターと現に進行中の言説との「同時性」がそれを生起させ,ヤコブソンの回答ではシフターと発話者とのあいだの「実存的な関係」によってそれは生起するのだという.しかし,それはどのような意味においてなのか.アガンベンは,「同時性」や「実存的な関係」が根拠づけられるのは,音声の上においてでしかないと応答する24.その傍証として,アガンベンはアウグスティヌスの『三位一体論』における死語(vocabulum emortuum)についての省察を援用する.それによれば,死語は非−意味伝達的なものとして,意味内容を欠いて伝達される.しかし,それが意味内容を欠いた語として聞き取られるためには,それが元々何らかの意味をもった音声として聞き手に想定されていなければならない.例えば,テーメートゥム(temetum)はかつて「葡萄酒」を指すのに使われていた語だが,それが死語として聞き取られるとき,単なる音声としてではなく,音声が分節化されて意味内容を伴った言語として捉えられているわけである.ここには,人間の発する言葉が,あらかじめ文字によって分節化されていることが示されている.
つまり,指示作用およびシフターによって言語活動の生起であると想定されているものは,もはや単なるフォーネー(音声)ではなく,すでに文字によって分節化されていながら,いまだ意味表現的なロゴス(言語)ではないような人間の〈声〉である.曰く,
動物的な音声,フォーネーは,なるほど,もろもろのシフターによって前提されているが,それはあくまで意味を表示する言説が生起するためには必然的に除去されなければならないものとしてである.音声の除去と意味の出現のあいだにあっての言語活動の生起は,その存在-論理学的次元が中世の思想のなかに出現するのをさきに見たもうひとつの〈声〉である.そして,それは形而上学の伝統のなかで人間による言語活動の根源的な分節(artron)を構成しているのである.しかし,この〈声〉はもはや音声でないといまだ意味でないという身分をもっているかぎりで,それは必然的に否定的な次元を構成している.それは根拠である.が,存在と言語活動が生起するためには根底にまで向かっていって消えてなくなるものであるという意味においてそうなのである.古代の文法学者たちのグランマ〔文字〕の概念から近代の音声学の音素の概念にいたるまで,言語活動に関する西洋の省察全体を支配しているひとつの伝統によると,人間の音声を言語活動において分節するものは純粋の否定性にほかならないのである.26
第一原因をめぐる思考である形而上学は,その基礎に否定的な根拠をもっている.そこで探求されるべき,存在そのものは音声からも意味からも二重に排除された言語活動の生起そのもの,すなわち〈声〉である.しかし,二重の排除,二重の否定性によって把握されている限りで,〈声〉を捉えようとする形而上学的な思考の試みは必然的に座礁する.なぜなら,〈声〉はけっして言い表すことのできないものとして,つまりは絶対的な「無」として,つねに形而上学的な思考から逃れてゆくからである.そして,アガンベンが指摘するところによれば,デリダが喝破したような形而上学における音声=ロゴス中心主義のうちには,音声を分節化する文字がその基礎をなすものとして刻まれている.それゆえ,アガンベンは,デリダの意図に反して,「形而上学というのはつねにすでにグラマトロジーなのだ」27と主張することができたのである.アガンベンによるデリダのグラマトロジー批判は,のちの著作においても同じ手つきで繰り返し主張されている28.しかし,見逃してはならないのは,とりわけ『人間の声』(2023)において,追加された次の一文である.
それゆえ,デリダの思想は脱構築という形式をしか引き受けることができなかったのであって,フーコーのようには考古学という形式を引き受けることができなかったのである.29
ここでは,デリダのグラマトロジーとフーコーの考古学が対置されている.アガンベンは,一方でグラマトロジーを形而上学の反復であると批判しながら,考古学を肯定してみせる.のちにアガンベンは,みずからの思考の方法論をフーコーに倣って「哲学的考古学」30と呼ぶことになるが,それはおそらく形而上学の否定性という限界から逃れるための思考法であったに違いない.とはいえ,アガンベンの「哲学的考古学」がいかにして形而上学を逃れえているのかについては,稿を改めた上で検討する必要があるだろう.
おわりに
本稿の議論を端的に言い表すなら,アガンベンの言語活動への問いによって明らかとなったのは,もはや音声でもなければいまだ言語でもないような,体系的な知の枠組みから排除されていながらもその基礎をなしているような,否定性が存在するという事実である.しかし,そのような存在が否定的にしか捉えられえないのだとすれば,なぜそれはなおも「存在する」と言えるのだろうか.この問いに応えることは容易ではない.西洋の形而上学は,それに応えようとして失敗し続けてきたのだから.この限界を認識して初めて,形而上学的な思考から逃れる「政治的転回」という後期アガンベンの試みが理解可能となる.
『言語活動と死』の終わり近くで,アガンベンはアリストテレスの『政治学』の一節を引きながら,言語と政治の類縁性を指摘している31.アリストテレスは述べている.
動物のうちで人間だけが言葉〔ロゴス〕をもっている.音声〔フォーネー〕であれば,これは苦痛と快楽のしるしであるから,他の動物たちももっている(動物たちの自然本性も,苦痛と快楽を知覚し,それを互いに示しあう程度までには発達している).しかし,言葉は有利なものと有害なもの,そしてまた正しいものと正しくないものを明示するために存在しているのである.なぜなら,善と悪,正しいものと正しくないもの,等々についての知覚をもつということが,他の動物にくらべて人間のみに固有のことであるからである.そして,これらのことを共通にしているということが家や都市〔国家〕を作るのである.32
じつのところ,この一節は,後期アガンベンの代表的著作である『ホモ・サケル』(1995)において,まさに同じ箇所が引かれている33.同書において,アガンベンが政治哲学の主役として登場させるのは,古代ローマにおいて,宗教の領域からも法の領域からも排除され,犠牲化不可能かつ殺害可能となった「ホモ・サケル」という政治的な形象である.この二重の排除および否定は,前期の言語哲学を下地としている.人間が「言葉をもつ動物」であることと「政治的な動物」であることは隈なく一致するのである34.
さて,アガンベンの政治哲学は,そんなホモ・サケルという否定的な形象を政治的な主体としてポジティヴに提起する試み,あるいは岡田(2018)の言に従えば,例外を範例(パラダイム)へと転化させる思考の実践であると言える35.前期アガンベンにおける言語活動への問い,形而上学の徹底的な精緻化は,その限界において,純粋な否定性としての〈声〉という空虚な主体を見出す.対して,後期アガンベンは,同様の排除によって生産される客体であるところのホモ・サケル=剥き出しの生が,いかにして政治の主体に変容するのかを問う.言うならば,ここで働いているのは,前期の言語哲学を形而上学から政治哲学へとスライドさせ,具体的な政治の場における人間の言語の可能性を実践的に,あるいは実験的に,行う試みであると言えるだろう.それゆえ,本稿が辿ってきた前期アガンベンの言語哲学は,後期の政治哲学へもその射程を伸ばさなければならない.事実,後期においてもアガンベンは繰り返し言語活動についての省察へと立ち戻っている36.しかしそれは次なる研究において示されなければならないだろう.
註
参考文献
ジョルジョ・アガンベンの著作
アガンベンの著作を引用する際には略記号を用いた.
略記号の後の数字は順に原書ページ,訳書ページを示す,なお訳文は適宜変更した箇所がある.
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