哲学の探求
Online ISSN : 2759-6303
Print ISSN : 0916-2208
個人研究発表
笑劇的な失敗について
ミシェル・フーコーにおけるユビュ的な権力の問題
徳永 怜
著者情報
研究報告書・技術報告書 フリー HTML

2024 年 2024 巻 51 号 p. 164-179

詳細

1.はじめに

ミシェル・フーコー(1926-84)は,知がいかにして人間主体を構成し作り上げるのかを,「権力」pouvoirという概念を用いて分析したフランスの哲学者である.

2015年に刊行が完了したコレージュ・ド・フランス講義録(1970~1984)の登場に伴って,彼の権力論も再評価が進んでいる.講義録では『監獄の誕生』(1975)や『性の歴史Ⅰ』(1976)といった主要な著作から独立した主題が多分に扱われており,それまでの解釈を更新する契機に満ちていたからだ.実際,京都大学人文科学研究所「フーコー研究」は,この新しいコーパスの位置づけをめぐって発足されている

こうした研究状況を受けて,本稿では1975年刊行の『監獄の誕生』と同年講義録『異常者たち』を反復的に読解する.『異常者たち』で扱われている笑劇を援用した権力分析(「ユビュ的権力」の分析)が,『監獄の誕生』でたびたび問題となっていた「監獄の失敗」,規律化の失敗,「主体化=従属化」assujettissementの「失敗」échecsという問題を読解する上で重要な機能を持つためである.

本稿の読解の新規性をあらかじめ強調しておこう.これまでの「監獄の失敗」に関する先行研究は,「非行者」や「異常者」といった拘禁,排除される側の「主体化=従属化」の失敗を問題にするばかりで,監視や処罰を行う行政官の分析には注意を払ってこなかった.規律の装置は,その担い手をも等しく貫くものであるにもかかわらずである.本稿はここで,『異常者たち』で展開された,行政官,技術官僚の「主体化=従属化」の失敗に焦点を当て,そこに潜在している笑劇のモチーフを明らかにする.

講義録刊行に伴った権力論,主体化論の変容をふまえた上で,まずは本稿と先行研究との関係を整理するところから始めよう.

2.自発的従属化

まずは,講義録が刊行される以前からよく知られていたフーコーの規律権力論読解を紹介しよう.

かつて,フーコーの主要な著作である『監獄の誕生』や『性の歴史Ⅰ』は,「支配権力がいかに自己の支配にふさわしい主体を形成していくかを分析」しており,「人が外部から権力的に強制されるのではなく,身体と精神の内部から,いかにしてその社会に適合的な主体として形成されていくかが描き出される」3ものとして読解されていた.能動的に支配権力の望む人物像に「主体化=従属化」4していくプロセスを,フーコーは「規律の装置」5に拠るものとし,その微細な力関係の束を「規律権力」pouvoir disciplinaireと呼称する.このような「主体化=従属化」を基調とした「規律権力」のディストピア的な読解は,「自らの意志で進んで規律に服する人々,規律を内面化した人々を作り出すこの装置の恐ろしさが,近代的な価値として重視されてきた自由・自発性・主体性の存立根拠を揺さぶり,掘り崩すものとして読まれ,衝撃も反響も大きかった」6という.

3.従属化の失敗としての「非行者」,「異常者」

重田2011が総括しているように,20世紀当時の,すなわちフーコーが生前に刊行した著作を基にした読解においては「自発的従属化」が最も重要なクリシェだった.ところが,未刊行資料の登場と共に状況は変わってきている.講義録の刊行に伴ってたびたび指摘されてきた以下の問題は,「規律の装置」の実体を捉える上で重要である.『監獄の誕生』第四部二章「違法行為と非行性」,そして1975年講義録『異常者たち』において論点に上がっているのは,「主体化=従属化」の失敗である.

そこでは「非行者」délinquantや「異常者」anormalといった,規律の矯正に適合しない人物が描かれている.「非行者」とは第一に累犯者のことであり,監獄による矯正の関心を集めながらも,ついに規律を内面化するには至らなかった者である.一方「異常者」も,規律的な関心に晒されながら,ついに矯正不可能なものとして扱われるに至った人物類型を指す7.これらの人物は通常の運用から逸脱したレアケースとして描かれたわけではない.むしろ恒常的に問題となっていたことが重要である.監獄はその誕生と同時に,無力さを露呈していた.

監獄のおかげで犯罪発生率が減少するわけではない.〔…〕犯罪件数と犯罪者数は一定であるか,もっと困ったことに増加している.〔…〕再犯件数は減るどころか増えている.

〔…〕監獄は個人を矯正したうえで釈放するどころか,反対に住民のなかに危険な非行者を分散移転する8

監獄は矯正と社会復帰の役に少しもたっていないどころか,むしろ「非行者」を作り出してすらいる.この倒錯的な状況は「監獄の失敗」と呼ばれ,監獄の運用が始まる1820年から1975年出版当時まで変わることはない9.上述の自発的従属化のイメージとは対照的に,フーコーは規律社会のユートピアが理念的には目指されているが実際には破綻していることをここで示している.啓蒙主義者や功利主義者が提示する理想的な計画としての「主体化=従属化」,これに適合しない人物像,それが「非行者」,「異常者」なのである.

4.「失敗」échecsをいかに説明するか?

当然の疑問が残る.監獄は法律違反者を矯正することを目的として設置された.しかし,これだけの致命的な失敗に晒されてなお,なぜ「監獄」という刑罰は現在に至るまで受け入れられてきたのか.これは規律権力という分析枠の有効性をめぐる極めて重要な問題である.そしてこの問いに答えるために,今まで実に多様なフーコー読解がなされてきた.

代表的なもので言えば,監獄の失敗を規律社会の失効として捉え,別の権力体系による支配によって説明しようとする移行論的読解10,あるいは規律権力の射程を広く取り,この失敗も包含して規律の機能と捉える重田や廣瀬らの読解11などが挙げられる.

管見ではあるが,この中でも後者の読解はフーコー自身の記述に最も近いように思われる12.なぜなら彼女らは,規律の本質を「矯正」における結果ではなく,技術官僚による逸脱者の絶えざる囲い込み,その「種別化」という過程,具体的な様式に重きを置いているからだ.故に彼女らの読解において規律化の個別的な結果の失敗は,規律権力そのものの失効を意味しない.規律は個別的には失敗するが,その装置自体は過程において作動し続ける.『監獄の誕生』第二部二章のフーコーも,規律権力において本源的なのは,法律が定めるような矯正や「罪の償い」を遂行することなのではなく,行動様式を細分化して管理しようとする知の様式であるとしている13

ここでは詳細には立ち入らないが,本稿ではこうした規律化の過程を重視する読解を引き継ぐことになる14.次節では,この過程としての「種別化」を行う知の恣意性という観点から,「監獄の失敗」を説明することとしたい.

5.「種別化」と知の恣意性

「監獄の失敗」は非行者を「種別化」spécifierすることに成功した15.監獄は矯正の役に微塵もたたない代わりに,「非行者」という人物像(種別)の危険性を人口に膾炙させることに成功したのである.監獄の行刑実践から生まれた犯罪学は,「非行者」を「危険な階級」として民衆から遠ざけることで,盗みなどを行う普通犯を脱政治化することに成功したのだ.

これは言ってしまえば労働者階級同士での連帯を阻止する目的で,ブルジョアジーにとって役にたったということができる.「非行者」は実質的にルンペンプロレタリアートである16.ルンペンプロレタリアートとは,労働者以下の無産者として19世紀から頻繁に現れるカテゴリーのことだ.そもそも旧体制(監獄以前)において,庶民階層の違法行為は憎まれる対象ではなかった17.しかし監獄の誕生と表裏一体で進められた窃盗など庶民の違法行為への取締りの強化は,その時期に成立した犯罪学,精神医学などの権威を借りて,「非行者」をすべての民衆の敵,社会の敵として描いたのである.

犯罪者であり精神障害者でもある「異常者」に関する言説もまた,工場や学校といった,あるべき行為の在り方を細部まで規定する「規範」normeが重視されるようになった社会の中で現れた,非適合者の種別なのである.「異常者」anormalとは,字義通りには「規範」normeに適合しないもの(否定の接頭辞a)のことを指し,あらゆる規律システムの「残滓」として語られる.「異常者」が単なる「狂人」や「精神障害者」と区別されるのは,19世紀の市民社会の到来に伴って,求められる規範に従えるか否かに注意が払われている点にある.それ故に,それまでは「狂人」とはみなされなかった,十全に理性を発揮できる人間であっても,規範に従わない「特殊な利害関心」を持っているとされる場合は,「異常者」に分類されるのである18.「非行者」とは異なり,犯罪の理由を「合理的には」(=「利害関心」にかなって)特定できない者がこれに当たる.この言説はのちに統合失調症など,触法精神疾患のカテゴリーをめぐる言説へと移っていった.

19世紀の市民社会の到来に伴って,「非行者」や「異常者」に関する言説は猛烈な勢いで生産されていくことになる.市民社会においては,資本的な生産に寄与しないこれらの人物を管理することが至上命令となるからだ.そしてここにこそ,知の恣意性のようなもの,ブルジョアジーと技術官僚,さらに司法権の連携と呼べるようなものがある19.知の恣意性,それは技術官僚が言説を独占することである.「非行者」の危険性に関する言説はブルジョアジーの政治的な要求から大量に生産される一方で,もはや非行者自身の言い分を聞く者はいなくなる.万人に平等なはずの法の言説さえもが,もはや「自らに必要な階級上の不均衡を公言して憚らない」20.19世紀の監獄改革者であるシャルル・リュカの発言を引用しながら,フーコーは以下のように総括する.

裁判所では社会全体がその成員のひとりを裁くのではなく,社会秩序をつかさどる社会的範疇が無秩序に身をささげる別の社会的範疇を罰するのである.「〔…〕いたる所で諸君が目にとめるのは,はっきり異なる二つの階級の人間であり,その一方はつねに告発者と裁判官の席に,他方は告発される者と被告の席にいるのがわかり」,しかもこの事態の説明は,この後者の階級が資産と教育を持たぬがゆえに「法律上の誠実さの枠内にとどまる」のは不可能であるという事実にもとづく.したがって,自ら普遍的たらんとする法律言語はその点においても不適格である.もしも法律言語が有効でなければならない場合,それはある階級から別の階級へ発せられる言説でなければならず,またそうした言説は,それが向けられる階級と同じ考えも同じ言葉も持たないのだから21

ここで言われていることをまとめてみよう.裁判はもはや公平なものではない.そこはブルジョアジーや法の言語を語りうる階級が,他方の「最も啓蒙されざる階級」たる「非行者」,「異常者」へと一方的に語りかける場なのである.「非行者」や「異常者」は,もはや法の枠内においてすら,「共通の言葉を持たない」者として,語る可能性を拒絶されるのである.

6.言説生産の非対称性 小役人ユビュ 笑劇的な失敗について

ここからは本稿の立論について論じる.3節では,規律の装置に適合しないもの,「従属化」に失敗したものを「非行者」,「異常者」として紹介した.そして5節で確認したように,彼らに向けられる「種別化」は19世紀の市民社会の到来と,ブルジョアジー中心の知の恣意性のようなものが根底にある.ここで『異常者たち』から,いわば第三の従属化されざる者である「小役人ユビュ」Ubu rond de cuir22を紹介しよう.

ここでは「小役人ユビュ」と「非行者」,「異常者」との違い,その非対称性に注目してもらいたい.第一に「小役人ユビュ」は,「非行者」や「異常者」とは異なり,拘禁されたり排除されたりするものではない.むしろ「非行者」や「異常者」を収監し,観察し,管理する立場の人物である.19世紀以来の官僚制,その行政官における「従属化」されざるもの,それが「小役人ユビュ」なのである23.『監獄の誕生』においては看守の横暴24,『異常者たち』においては子供相手の説教のような法精神鑑定の言説がこれに当たる.

「非行者」や「異常者」という語は,19世紀に実際に犯罪学や精神医学の言説を構成したものであるが,「ユビュ」という語はフーコーが官僚制批判のためにアルフレッド・ジャリの笑劇『ユビュ王』ubu roi(1896)25からパラフレーズしたものである.ここには,看守の暴力や可笑しな精神鑑定の言説に異議申し立てを行う言説が,体系的には整備されなかったという非対称性が潜在している.言いかえれば,規範から逸脱した官僚に関する種別はほとんど生産されなかったのである.

「非行者」や「異常者」への過剰な言説生産に対する,技術官僚の不問性.この言説の非対称性こそ,フーコーが知を構成する権力,その恣意性に対して批判を試みた地点にほかならない.フーコーは言説の内在的な性質によってではなく,発言者の地位によって権力の効果が確保される事態を「ユビュ的」ubuesqueな問題であると言う26.本稿で紹介する「ユビュ」という語には,「滑稽なほど極端に残酷で反世間的かつ臆病な性格」,「グロテスクで不条理,もしくは戯画的な性格」27という含意が込められている.ここには行政官を単なる恐怖の対象とするのではなく,愚かさを伴ったものとして笑いの対象とする意図も込められている.以上のことから,「小役人ユビュ」は,規律による従属化の失敗,しかも笑劇的な失敗なのだと言うことができる.

次節からは,ここでフーコーが用いた笑劇という演劇的パラダイムの政治的意義について,実例を交えつつ概説することとしたい.

7.演劇的パラダイム 笑劇とは何か 荘厳さと無秩序

すでに柴田2015 が指摘している通り,70年代のフーコーは,政治空間においていかに「真理」が生み出さられるのかという問いを,演劇的な概念連関のもとに,しばしば自らの権力論の根底に投げかけていた.1978年の対談「哲学の舞台」での以下の発言は示唆的である.

私の知りたいのは次のようなことです.すなわち,病気というものを,狂気を,犯罪を,人はどのように舞台にのせたかということであり,言いかえれば,人が病気や狂気や犯罪を,どのように見,どのように受け取り,それらにどのような価値を与え,どのような役割を演じさせたのか,ということなのです.つまり,私が書こうと思うのは,後になって人がその舞台の上で真偽の分割を樹立するようなそういう〈舞台〉そのものの歴史なのであり,私の関心は真偽の分割にはなく,〈舞台〉と〈劇場〉の成立そのものにあると言えます.西洋世界がどのようにして,〈真理の劇場〉,〈真理の舞台〉を自らのために構築したか,つまり西洋的合理性のための舞台の構築そのものを問おうと思うのです28

病気や狂気,犯罪は,「真偽の分割」を可能にする「舞台」のもとで,初めて「真理」として上演される.70年代のフーコーにおいて「真理」は絶対普遍なものではなく,常にさまざまな権力関係のなかで構築されるものとして読むことができる29.それ故に彼の関心は,こうした「真理」を可能にするための,「真理の劇場」,「真理の舞台」を分析することになるのである.

ではこのような演劇的な概念連関において,「笑劇」が占める位置とはどのようなものなのだろうか.

先んじて結論を言ってしまえば,フーコーにおける「笑劇」の本質はギャップ,「不調和」disparateにある.「真理」を上演する荘厳な「舞台」,儀礼空間に,それに似合わない不埒でお粗末な「無秩序」,おぞましいものが現れること.この「荘厳さ」éclatantと「無秩序」désordreの「不調和」disparateが,笑いを引き起こすのである30

ここでフーコーが実際に「ユビュ的」であるとした法精神鑑定の言説の実例を見てみよう.

「彼は木でこしらえた武器で遊んでいた」,「彼は畑のキャベツを切り取っていた」,「彼は両親を悲しませていた」,「彼は学校を休んでいた」,「彼は課題を暗記しなかった」,「彼は怠け者であった」,そして,「そこから私(=鑑定医)は彼に責任があると結論する」31

これは決して三流の精神科医が残したものではない.当時最も権威のあった医師達が署名した鑑定書からの抜粋である.ここに見て取れるのは,法廷という荘厳な,「真理」を判断する空間において,司法的にも科学的にも「神聖化」32されている精神鑑定医が,一般的なモラルに訴えかけるだけのお粗末な言説を展開しているという,笑劇の構造と同様のギャップ,「不調和」である.実際こうした言説が生産されたとき,陪審の多くは笑うこととなったし,司法領域においても精神鑑定医の裁量について懐疑する声は多かったと言う33

しかしそれでも,この言説はまかり通ってしまった.「笑いを誘い,命を奪う力を制度的に持つような真理の言説」34として実際に機能してしまった.これは6節で言及した非対称性,技術官僚の不問性の一例である.改めて強調しよう.「ユビュ的権力」pouvoir ubuesqueの恐ろしさは,誰の目に見ても笑えるほどにお粗末な言説でありながら,まさにその無効さによって機能することなのである.

権力者からの明らかな価値剥奪によって権力が行使されることこそがユビュ的であり,権力と権力の保持者とを明示する儀礼それ自体によって権力の保持者が自らの効力を失うことにこそ政治のグロテスクさがある35

自らの権力と権威を明示する荘厳な「儀礼」,その華々しさの中において,「明らかな価値剥奪」を受けながら,それによってなお権力が完全に機能すること.ここに見られるのは,まさに荘厳さと「無秩序」のギャップ,上述の笑劇の構造そのものなのだ.

問いを進めよう.そもそも,なぜこのような逆説は起こってしまったのか.誰の目からみても無効に見える「ユビュ的」な言説や権力は,なぜまかり通ってしまうのか.

次節では,フーコーの議論を補完しうるいくつかの論者の立論を交えながら,改めて笑劇の概念連関のもとにこの問いに答えていくこととしたい.

8.「近代権力の複層性」

そもそも技術官僚の暴走,ユビュ的権力はなぜ問題にされてこなかったのか.その明らかな価値剝奪にも関わらず,なぜ機能してしまったのか.この疑問を解くカギは,法と行政の対立・補完関係.即ち,「法的権力」36に対する規律権力の対立・補完関係を確認することで見えてくる.『異常者たち』の「ユビュ的権力」という問題を,ここでは今一度『監獄の誕生』の記述により戻して考えていきたい.

重田2020や藤田2021によってすでに指摘されているが,フーコーは近代法にネガティブな機能を捉えていた.規律権力や行政のミクロな権力行使が,法的権力(近代以降の主権権力)によって合法化されることで,そこに潜在する不当性を隠蔽する危険があると,フーコーは論じている.

一方の監禁制度と他方の法およびそれの判決との大いなる連続性が,規律上の諸機構と,それらによって行われる制裁や処罰に一種の法律上の保証を与える37

懲罰の行使にあたって存在するかもしれない法外さは,その制度のおかげで,かき消されようとしているのである38

法的な保証を受けて展開される規律権力の装置は,その法による正当化のせいで,細部における権力行使自体の是非は問われにくくなる39.「監禁制度のこうした連続性,ならびに〈形式としての監獄〉のこうした普及の結果,規律中心の権力の合法化が,いやいずれにせよそれの正当化が可能になり,こうしてその権力は自らに含みうる過度なもの,もしくは職権濫用的なものを人目につかぬようにするのである」40

「近代権力の複層性」41(重田2020),即ち規律権力と法的権力の相互補完性は,行政官42の「職権濫用的なもの」でさえ,合法化し正当化することで隠蔽する.たとえ権力の行使において,その客観的な合理性が乏しく,笑いを誘うような言説を伴ったとしても,一度法的に規律的な領野としての専門性を認められ,その裁量権を委任されてしまえば,権力行使それ自体の是非を問題化することは難しい.ここにこそ「ユビュ的権力」という問題は発生する.近代以降の主権権力は,個別的な規律権力の裁量を合法化し正当化することで,ユビュ的な実践を問われにくくするのである.

とはいえこうした議論構成は,三権分立を基盤とした近代主権理論に慣れ親しんだ私たちからすると,直観に反するもののように感じられるだろう.通常ならば,立法府優位の原則のもと,行政は主権によって規範的にコントロールできると考えるのが定説だからだ.「小役人ユビュ」の横暴は,法によって律されて然るべきだし,こうした官僚の腐敗も偶発的なエラーにすぎないと考えるのが常識的な見解だと言えよう.

しかし,本稿で紹介したフーコーの「ユビュ的権力」の分析にはじまり,近年のアガンベンや大竹の研究43は,こうした定説が見落としてきた行政の根源的な管理不可能性という問題を,まさに16世紀以来の西洋主権理論(及び国家理性論等)の系譜を遡りながら捉えている.彼らに共通しているのは,「主権」は本当に「行政」を律することに成功しているのか,という問いである.

ここでその厖大な歴史研究を詳細にひも解く紙幅はないが,本稿では最後に,こうした主権と行政の対立を,フーコー以外の論者の立論(主に大竹2018)も交えて,改めて演劇的なパラダイムのもとに整理することで結びとしたい.

9.主権の劇場性 行政の秘密性

演劇的パラダイムのもとでこの歴史を理解するためにカギとなる概念は,主権の「公開性」(「劇場性」)と,行政の「秘密」性という二項対立である.以下では,主に大竹弘二『公開性の根源―秘密政治の系譜学―』での西洋主権理論の成立史をかいつまんで論じることとする.

先んじて結論を言おう.西洋主権理論はその誕生のときから,行政による秘密裡な治安活動,その無規範性を批判する中で生み出された.主権理論はそのはじめから,行政の「秘密」を「公開性」の空間のもとに引きずり出し,それに規範的な制限を加えることを目的として作られていたのである.

ここで言う行政の「秘密」性とは何であろうか.それは「アルカナ・インペリイ」(国家の秘密)論という16世紀の行政技術論に由来している.

16世紀は宗教内戦の時代であった.もはやキリスト教規範に準じた封建制に頼れなくなった情勢において,傷ついた内政秩序を回復するために生み出されたのが,「その存立と保存それ自体が平和を意味する」ものとしての「国家」を自己目的化した,「国家理性論」,「アルカナ・インペリイ」(国家の秘密)論である.こうした学説は,「必要は法律を持たない」という古い格律と共に,執行権力が法律や道徳規範に反して行使されざるを得ないことを認めていた.「アルカナ」(秘密)はそこで用いられる政治的術数,陰謀などを意味する.

こうした治安維持のための無規範な行政権力に対抗して,ジャン・ボダン『国家論』(1586)による近代主権理論は展開された.そこでは行政の「アルカナ」(秘密)に抗って,主権の「公開性」,「劇場性」が重視されたのである.こうした主権の「劇場性」は,その後の絶対王政期には王の主権-至高性(刑法)が華々しく誇示されるéclater 44ことに見られ,今日的な代議制民主主義においては,「主権」代表者が熟議に晒されながら立法を行う制度へと引き継がれているのが確認できる.かつての行政の「秘密」性は,こうした主権の「劇場性」によって明るみに出されたことで,その正当性を判断される契機を得たのである.そしてここから,今日につづく常識的な原則,行政府に対する立法府の優位の原則として主権理論は定着していったのだ.フーコーにおける笑劇の条件にあった「荘厳さ」という舞台設定も,こうした主権の劇場性に帰することができる.

しかし,近代主権理論は,事実上,行政のすべてをその手中に収めたわけではなかった.主権が行政に対して介入できる部分には限界があり,劇的で注目を集める政治問題以外の専門的な決定については,専門家に裁量権を委ねるといった選択しか実質的には取れなかったからである.

ボダンの試みも虚しく,今度は主権の劇場性そのものに眩惑され,話題になりにくい専門的な問題については,かえって行政権の内実を秘密のままにしてしまうという皮肉な結果が生まれることとなる.

フーコーが,官僚制批判としての「ユビュ的権力」の分析で一貫して問い続けたのは,こうした構造のもとで隠蔽される知の恣意性,非対称性,技術官僚の不問性なのである.

こうした歴史を踏まえることで,「笑劇的な失敗」というテーゼには,単なる規律権力による「従属化」の失敗とはまた違った様相が見えてくるだろう.つまり,行政の「無秩序」なものを,「荘厳な」主権空間の「劇場」に引きずり出したにもかかわらず,結果的にそれを統制することには失敗してしまった,ということである.演劇的パラダイムが政治的に重要になるのは,こうした正当性を判断する主権空間の限界を捉えることを可能にするからなのである.「ユビュ的な権力」の問題,笑劇的な失敗とは,こうした主権-劇場空間から行政を問題化することの根本的な不可能性をも示唆している.

10.おわりに

本稿で一貫して問い続けたのは,技術官僚の「従属化」の失敗と,その不問性の追究である.平易にいえば,規律の装置によって支えられている官僚(小役人ユビュ)が,なぜ当の規律を守らなくて済むのか,ということを問うたのである.

まとめよう.従来のフーコー研究において,規律権力の主要な機能である「主体化=従属化」の問題は,それが成功していようが失敗していようが,「非行者」や「異常者」といった,拘禁,排除される側の人物しか問題にしてこなかった.そこで本稿は新しく,そうした「非行者」や「異常者」を収監,管理する人物である行政官,官僚側の「主体化=従属化」の失敗に焦点を当てたのである.このようにして問題化されたのが,フーコーが笑劇を用いて分析した第三の従属化されざる者,「小役人ユビュ」という表象なのであった.

「小役人ユビュ」とは,フーコーが官僚制批判のためにアルフレッド・ジャリの笑劇『ユビュ王』からパラフレーズしたものであり,笑劇のモチーフのもとに行政官,技術官僚の「主体化=従属化」の失敗を捉えたものである.ここには,技術官僚の規範からの逸脱を問う言説はほとんど生産されなかったという,「非行者」等の過剰な言説生産に対する言説の非対称性の問題が潜在していた.

7節では,こうした非対称性がそもそもなぜ問題になるのか,笑劇のモチーフと共に掘り下げていった.フーコーにおける笑劇の本質は「荘厳さ」と「無秩序」のギャップにある.ユビュ的な権力の実例である法精神鑑定の言説は,裁判所という「荘厳」な儀礼空間の中で,「無秩序」な言説を生産するという点で笑劇の範例であった.

8節ではそもそもこうした技術官僚の従属化の失敗がなぜ放置されたのか,その原因を追究した.そこでは重田2020の言う「近代権力の複層性」,法的権力が規律権力の専門性を合法化し正当化することで,そこにあるユビュ的な問題を隠蔽するという構造が見て取れた.

9節では,ユビュ的な権力の本質的な問題,主権による行政の管理不可能性という問題を,再び演劇的パラダイムのもとで歴史的に論じた.主権概念はその成立時点から,行政権力の陰謀,「秘密」(アルカナ)を,公開性の法的空間に引きずり出し,制限することを目指して生み出された.こうした主権空間の劇場性は,現在でも議会政治に見出すことができるが,残念ながら,行政のすべてを規範的にコントロールすることに成功したわけではなかった.主権が行政に対して介入できる部分には限界があり,劇的で注目を集める政治問題以外の専門的な決定については,専門家に裁量権を委ねるといった選択しか実質的には取れなかったからである.

主権理論の最初の志も虚しく,結果的には,主権の劇場性そのものに眩惑され,話題になりにくい専門的な問題については,かえって行政権の内実を秘密のままにしてしまうという皮肉な結果が生まれることとなってしまった.

フーコーが,官僚制批判としての「ユビュ的権力」の分析で一貫して問い続けたのは,こうした構造のもとで隠蔽される知の恣意性,非対称性,技術官僚の不問性だったのである.

結論として,本稿で紹介したフーコーにおける「笑劇的な失敗」というテーゼは,二つの意味を獲得する.一つは単純に笑劇を用いた技術官僚における「主体化=従属化」の失敗という意味であり,もう一つは,行政の「無秩序」なものを,「荘厳な」主権空間の「劇場」に引きずり出すという笑劇の構造の中で,結果的にそれを統制することには失敗してしまった,という,主権-劇場空間から行政を問題化することの歴史的な失敗,根源的な不可能性をも意味しているのである.

1 講義録や草稿の出版によって研究が進み,京都大学を中心に「フーコー研究」という研究会も精力的に活動し ていた.主な成果物として『フーコー研究』や,『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義録』を読む』といった論文集が出版されている.(小泉,立木 2021, 佐藤,立木 2021)

2 本稿はフーコーが近代法について言及している箇所を積極的に評価する.実際に「ユビュ的」ubuesqueと形容された法精神鑑定医のことを「技術官僚」と呼び,『監獄の誕生』において《行刑的なるもの》pénitencierを司る「の裁定者=〔裁判官〕」Les juges de normalité (Foucault 1975 p.311[邦訳 p.304])と呼ばれた者たちのことを「行政官」と呼称する.フーコー読解において法の価値を重視することの妥当性については註19を,「行政官」の詳しい定義については註42を参照されたい.

3 中山1996 p.139

4 Foucault 1976 p.81[邦訳 p.79]

5 Foucault 1975 p.238[邦訳 p.235]

6 重田 2011 p.119

7 Foucault 1999 p.53[邦訳 p.65]

8 Foucault 1975 pp.269-270[邦訳 pp.264-265]ここはフーコーがLa Fraternité, n° 10, février 1842.から引用した箇所である.以下,Foucault 1975の邦訳は一部改変したところがある.

9 Ibid.

10 『性の歴史Ⅰ』での主権権力から規律権力への移行を説明した箇所や,ドゥルーズ2007での規律社会から管理社会への移行論に触発されたものが多い.ネグリ&ハート2003も同様である.「何よりもまず指摘しておかなければならないのは,フーコーの仕事によって,規律社会から管理社会への移行という,社会的諸形態の歴史における画期的な移行を認識することが可能になったという点である.」(ネグリ,ハート2003 p.40)

11重田2011,廣瀬1998など.彼女らの主張では,『監獄の誕生』時点のフーコーは,失敗も規律権力の一部として捉えている.規律権力は個別的な矯正において失敗していたとしても,近代的な生産に寄与する主体こそ正当と認め,それ以外の人物像を政治的に無外化するという戦略のもとでは依然として機能し続ける.規律権力の本質はこの主体/非主体の弁別作用にあるため,個別的な成功/失敗を包含して,この規律の装置は作動するのである.

12「監獄の《失敗》は,したがってその運用の一部分であるのではないか.」(Foucault 1975 p.276[邦訳 p.269])

13「規律的な権力体制のなかでは,処罰の技法は,罪の償いをも,さらには,性格には抑圧をも目ざすわけではない.その技法では,以下のはっきり異なる五つの操作が用いられる.」「比較し差異化し階層秩序化し同質化し排除する.要するに規格化するのだ.」(p.185[邦訳 p.186])規律権力の具体的な様式とは「規格化」normaliserである.5節で扱っている通り,「規格化」,即ち規格の策定は非行者などの種別を生み出すことを可能にし,矯正の如何にかかわらず政治的な効果を生み出すことに成功している.

14 本稿は行政官及び技術官僚の規律化の失敗を描くが,それによって規律権力そのものが失効するとは捉えていない.むしろ規律権力の失敗,その最悪な形態として,ユビュ的権力というものを素描してみたいと考えている.

15 「監獄は犯罪の減少に失敗しているという確認のかわりに,多分つぎの仮説をもちこむべきだろう.違法行為のなかの種別的な型,政治的もしくは経済的に危険がいっそう少ない―極端な場合には活用可能な―形式たる非行性を生みだすことに監獄は成功した」(Foucault 1975 p.282[邦訳 p.275]).

16 ここはフーコーがアルチュセールを経てマルクスに接近するポイントである.佐藤2021「国家装置から権力諸装置=配備へ」を参照.

17 旧体制の違法慣習illégalismeに関する研究を参照のこと.Foucault 1975 pp.84-87[邦訳 pp.85-88],「監獄的監禁について」(Foucault 1994, Dits et Ecrits2 pp.435-445[邦訳フーコー・コレクション4 pp.155-174],平野 2002など.

18 『異常者たち』1975年2月5日の講義におけるアンリエット・コルニエ事件を参照.「利害関心とは,犯罪の内部にあってそれを理解可能にする一つの合理性のこと」であり,規範化normalisationによって「処罰を可能にする」地点である(Foucault 1999 pp.105-106[邦訳 p.127]).自分の娘をキャベツと共に煮て食ったアンリエットは,「空腹ではなかった」という理由で「異常者」と認定され無罪となる.ここで「特殊な」と形容された「利害関心」は,通常の規範化normalisationでは介入できないもののことである.

19 マルクス主義的な権力観だという誹りを受けるかもしれない.確かにフーコーの権力分析は「ミクロ物理学」と呼ばれるように,国家権力VS市民のような大局的なものでも,階級間の闘争に還元できるものでもない.しかし従来のフーコー研究はこの点に囚われすぎて,フーコーの分析するミクロな権力作用が,マクロな「主権」空間でどのように作用するのかという分析を含んでいたことを見落としていた.重要なのは,ミクロな次元で働く経験的,事実的な権力分析と,マクロな次元で働く超越論的,権利的な権力分析の連関を見逃さないことである.この点に注目した先行研究としては,藤田2021「生命的-主権的複合体」などが挙げられる.

20 Foucault 1975 p.281[邦訳 p.274]

21 Ibid.

22 Foucault 1999 p.13[邦訳 p.15]「ユビュ的権力」を扱った先行研究としてIslekel 2016,市田2023が挙げられる.Islekel 2016の立論は「ユビュ的権力」を生政治における「殺す権力」をいかに説明するかという問いの中で固有に位置づけることに終始しており,本稿で扱うような規律権力との連続性や,主権と行政の複層構造の問題にまで言及できていない.市田良彦『フーコーの〈哲学〉真理の政治史へ』での立論と本論との関係は註44で検討する.

23 言説の内在的な性質によってではなく,発言者の地位によって権力の効果が担保される事態を,フーコーはグロテスクで「ユビュ的」な問題であると言う(Foucault 1999 p.12[邦訳 pp.14-15]).言説の内在性に依拠しないという部分を,適切な言語活動を規制する「従属化」の機能から逸脱したケースとここでは捉えている.

24 「懲罰の行使にあたって存在するかもしれない法外さ」(Foucault 1975 p.308[邦訳 p.301]),あるいは「技術的権力の中に存在しうる恣意的なもの」(ibid. p.310[邦訳p. 303])

25 初版1896年.この物語はポーランド王国を舞台に,「パタフィジック博士」で樽型の図体をした卑劣な大悪党ユビュ親爺が,王位を簒奪して国政をほしいままにした挙句追放され流浪するというものである.演劇の成功と共に「ユビュ的」ubuesqueという語はフランス語として一般的になった.笑劇の中で,ユビュ王はその象徴たる「形而下棒」を用いながら,国を豊かにするために税金の半分を私物化したり,司法制度を占領したりする.紙幅の都合で詳細には立ち入らないが,暴君としての荒々しさと,滑稽かつ冒涜的な身振りがジャリにおける「ユビュ」だということができる.(Jarry 1948)

26 Foucault 1999 p.12[邦訳 p.14]

27 Ibid. p.10[邦訳p.31]

28 Foucault 1994,Dits et Ecrits 3, p.572[邦訳 思考集成Ⅶ p.158]

29 Foucault 1976 p.123[邦訳 p.121]

30「汚辱に塗れた人々の生」Foucault 1994,Dits et Ecrits3. pp.251-252[邦訳 思考集成Ⅵ p.332]. 残念ながら,「笑劇」という語に対応する直接的な定義をフーコーが述べてくれているわけではないが,封印状嘆願書に見られる王や法の「荘厳さ」と民衆の「無秩序」の衝突を演劇的な「不調和」として,笑いを引き起こすものであると論じた「汚辱に塗れた人々の生」や,彼の歴史叙述の方法論である「系譜学」の認識論(「ニーチェ・系譜学・歴史」(Foucault 1994,Dits et Ecrits 2 . pp.156-174),1971年講義(Foucault 2011))においてしばしば登場する「笑い」のテーマは,こうした結論を導くことを可能にするように思われる.

31 Foucault 1999 p.34[邦訳 p.41]

32 「識者としての鑑定医,安全な場所に身を置き,保護され,司法制度全体と正義の剣とによって神聖化されてさえいるその鑑定医が,子供の言語を語り,恐怖の言語を語る」(Foucault 1999 p.33[邦訳 p.40]).「神聖化」という言葉は,『言説の領海』において指摘されている「儀礼」の機能との関係にも結びついている.

33 この点はパトリシア・ムーラン「情状酌量」に詳しい.(Foucault 1973.[邦訳pp.370-380])

34 Foucault 1999 p.7[邦訳 p.8]

35 Foucault 1999 p.33[邦訳 p.40]

36 ここでは重田2020の整理を少し改変し,近代法に限った部分で援用する.フーコーにおける①司法judiciaireと②主権 souverainetéの区別を,近代以降の「法loi」を扱った部分に限り「法的権力 pouvoir juridico-légal」とまとめて呼称する.①司法とは主に法曹が属し,合法/違法という法的な分割を扱う領域のことを指すのに対して,②主権とは近代以降においては主にブルジョアジーのもとに民主化された立法権とその正当性を問う概念のことを指す.また,ここではそれぞれが果たす役割に応じて,適宜「司法権力」,「主権権力」と分けて用いる.

37 Foucault 1975 pp.308-309[邦訳 pp.301-302]

38 Foucault 1975 p.308[邦訳 p.301]

39 先行研究はこの点をめぐって対立している.重田2020は行政権力の問題化の難しさをネガティブな法の機能として強調する一方で,ゴールダー,フィッツパトリック 2014 (p.68)では,フーコーにおけるポジティブな法概念は応答性,柔軟性を持っており,規律の行き過ぎを制御可能であるとしている.本稿では重田の立場を採用している.

40 Foucault 1975 p.309[邦訳 p.302]

41 直接的な言及はなされていないが,藤田 2021「生命的-主権的複合体」は,こうした規律と法の二重性の問題を,『言葉と物』の「経験的-超越論的二重体」に由来し,統治性論においても同様の構造が引き継がれていることを論じたものである.

42 ここで行政官と呼んだものは,『監獄の誕生』においては主に《行刑的なるものpénitencier》を司る「の裁定者=〔裁判官〕」と呼ばれた者たちのことである.これは監獄においては,法的な「拘禁」の命令を受けて稼働しはじめ,「矯正」の機能において本来の法の規定を上回る「捕捉」を行うとされた人物(Foucault 1975 p.251[邦訳 pp.245-246])を指すが,規格normeを扱うという点で教育や医療の分野においても見出すことのできる者である(Ibid. p.311[邦訳 p.304]).フーコーはこれらの人物を一括りに「行政官」とまとめたことはないが,法的な保証なくして十全に機能できる規律権力は存在しないという読解のもと(重田 2020),広くノルムに関わり法的な命令を実行する者たちを指すものとして,ここでは「行政官」とまとめる.

43 『王国と栄光―オイコノミアと統治の神学的系譜学のために―』(アガンベン 2010), 『例外状態』(アガンベン 2007)『公開性の根源―密政治の系譜学―』(大竹2018).

44 市田 2023は,「ユビュ的権力」の構成要件にジョルジュ・デュメジルの主権論を重ねている(市田 2023 pp.253-257).規範化normalisationの言説を正当化するにあたって,必要なものは「法」による正当化だけではない.魔術的正当化の機能としての「閃光」(「栄光」)éclatが必要となる.「デュメジルの「第一機能/主権」論は教える.「我々」を「我々」として「結びつけlier」,「我々」を「我々」に「縛りつけlier」るためには,〈法〉による強制だけでは足りず,〈真理〉が「魔術的」に「我々」の「目を眩ませる」必要がある,と.真理の「閃光éclat」が,異常から正常へ,偽から真への移行ないし逆転を確実にしてくれるだろう.目を眩ませる効果においてその魔術性が同定される光の名前が「真理」だ」(Ibid. p.253).こうした「閃光」は,通常は規範化normalisationの機能を権威づけるために用いられるが,ユビュ的な言説においてはそれがまかり通らない.「栄光ならぬ笑いの炸裂」(Ibid. p.256).市田においてユビュは,司法的な言説と専門知の綜合が「栄光」を構成することに失敗したために,「笑い」が生まれたと説明される.私の立論である「劇場空間」(主権空間)から行政を問題化することへの失敗,という論理は,市田の主張と矛盾せず,演劇的パラダイムからそれを補強するものであるとすることができる.

参考文献

ミシェル・フーコーの著作

Foucault, M. (1971). L'ordre du discours. Gallimard. (フーコー,ミシェル (2014)『言説の領界』慎改康之訳.河出書房新社)

——— (1973). Moi, Pierre Rivière, ayant égorgé ma mére, ma sœur, et mon frère...: Un cas de parricide au XIXe siècle, présenté par Michel Foucault. Gallimard. (フーコー,ミシェル (2010) 『ピエール・リヴィエール 殺人・狂気・エクリチュール』慎改康之他訳.河出書房新社)

——— (1975). Surveiller et punir : Naissance de la prison. Gallimard. (フーコー,ミシェル (1977) 『監獄の誕生―監視と処罰』田村俶訳.新潮社)

———(1976). Histoire de la sexualité Ⅰ :La volonté de savoir. Gallimard. (フーコー,ミシェル (1986) 『性の歴史Ⅰ 知への意志』渡部守章訳.新潮社)

——— (1994). Dits et Ecrits 2. Gallimard. (フーコー,ミシェル (2006) 『フーコー・コレクション4 権力・監禁』小林康夫他編.筑摩書房)

——— (1994). Dits et Ecrits 3. Gallimard. (フーコー,ミシェル (2000) 『ミシェル ・フーコー思考集成Ⅵ セクシュアリテ/真理』丹生谷貴志他訳.筑摩書房.『ミシェル・フーコー思考集成Ⅶ 知/身体』渡辺守章他訳.筑摩書房)

———(1999).Les anormaux. Cours au Collège de France 1974-1975. Gallimard. (フーコー, ミシェル (2002) 『ミシェル・フーコー講義集成〈5〉 異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974-1975)』 慎改康之訳.筑摩書房)

———(2004).Sécurité, territoire, population. Cours au Collège de France 1977-1978. Gallimard. (フーコー, ミシェル (2007) 『ミシェル・フーコー講義集成〈7〉 安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)』 高桑和己訳.筑摩書房)

———(2011).Leçons sur la volonté de savoir. Cours au Collège de France 1970-1971. Gallimard. (フーコー, ミシェル (2014) 『ミシェル・フーコー講義集成〈1〉〈知への意志〉講義 (コレージュ・ド・フランス講義1970-1971)』 慎改康之訳.筑摩書房)

その他の参考文献

Islekel, E (2016) “Ubu-esque Sovereign. Monstrous Individual Death in Biopolitics”, Philosophy Today, Volume 60, Issue 1, pp.175-191.

Jarry, A. (1948) Ubu roi (Œuvres complètes / Alfred Jarry ; 4). Monte-Carlo : Éditions du Livre. (ジャリ,アルフレッド(2013)『ユビュ王』竹内健訳.現代思潮新社)

アガンベン,ジョルジョ (2007)『例外状態』上村忠男,中村勝己訳.未来社.

アガンベン,ジョルジョ (2010)『王国と栄光―オイコノミアと統治の神学的系譜学のために―』高桑和己訳.青土社.

市田良彦 (2023)『フーコーの〈哲学〉真理の政治史へ』岩波書店.

大竹弘二 (2018)『公開性の根源―秘密政治の系譜学―』太田出版.

重田園江 (2011)『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』ちくま新書.

重田園江 (2020)「近代権力の複層性―『監獄の誕生』の歴史像―」(重田園江(2020)『フーコーの風向き―近代国家の系譜学』所収.青土社.pp.75-98).

小泉義之,立木康介編 (2021)『フーコー研究』岩波書店.

ゴールダー,ベン.フィッツパトリック,ピーター (2014)『フーコーの法』関義徳監訳,小林智 小林史明,西迫大祐,綾部六郎訳.勁草書房.

佐藤嘉幸,立木康介編 (2021)『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』水声社.

佐藤嘉幸 (2021)「国家装置から権力諸装置=配備へ」(前掲『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』所収.pp.93-115) .

柴田秀樹 (2015)「ミシェル・フーコーの文学論と真理の問題―小説から演劇へ―」(『関西フランス語フランス文学』21巻.日本フランス語フランス文学会関西支部.pp.75-86)

ドゥルーズ・ジル (2007)『記号と事件』宮林寛訳.河出書房新社.

中川久嗣 (1998)「フーコーの『知の考古学』における言表/言説の実定性について」(『哲学』49巻 日本哲学会 pp.271-279)

中山元 (1996)『フーコー入門』筑摩書房.

ネグリ,アントニオ.ハート,マイケル (2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲,酒井隆史,浜邦彦,吉田俊実訳.以文社.

平野泰樹 (2002)『近代のフランス刑事法における自由と安全の史的展開』現代人文社.

廣瀬浩司 (1998)「分身の系譜学と権力のテクノロジー:フーコー『監獄の誕生』の哲学的意義」(『言語文化論集』48巻所収.pp.55-72) .

藤田公二郎 (2021)「生命的-主権的複合体―フーコーの人文科学批判の射程―」(前掲『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』所収pp.210-231) .

 
© 哲学若手研究者フォーラム
feedback
Top