2024 年 2024 巻 51 号 p. 102-114
1.序論
一方で,意識の哲学においては,意識の形而上学的議論,とりわけ意識のハードプロブレムにまつわる議論が長く行われてきた.他方で,意識の哲学では近年,意識あるいはセンシェンス (sentience) の道徳的な価値についての議論が盛り上がっている.このような状況を踏まえ本論では,意識の価値についての議論から,ハードプロブレム解決に向けた新たな論点が引き出される可能性を探る.そして最終的には次のことを示そう.すなわち,意識の価値論は意識の形而上学に対して新たな論点をもたらすのであり,そのような意味で,意識の価値論は形而上学に影響するのだ,と.
そのような影響の内実については,すでにいくつかの先行研究が存在している (e.g. Frankish 2021, Gottlieb & Fischer forthcoming, Kammerer 2019).しかし,そのような影響がそもそもありうるのかという点に関して,先行研究は議論が不足しているように思われる.よって本論では,価値論が形而上学に影響するということそのものの擁護――ある意味メタ哲学的な主張――にとりわけ注力する.
本論は次のように進行する.第2節では,意識の形而上学における議論を概観し,それらの議論が目指すところを確認する.第3節では,意識の価値論における議論を概観し,そこで認められる意識の価値の存在について確認する.第4節では,価値論が形而上学に影響するということを擁護した上で,その影響の内実について簡潔に論じる.結論では,本論のまとめといくらかの展望を述べる.
なお,本論で扱う「意識」は,「現象的意識」や「意識的経験」とも呼ばれるものである.論文内では,基本的に最も簡素な名称である「意識」を使用しつつ,時として他の名称も使用する.また,「意識的である」という言い回しが意味するのはつまり,その存在者であることのような何か,あるいは,その経験をすることのような何かが存在するということである (cf. Nagel 1974).そして,その経験をするとはどのようなことかをまさに特徴づけるような性質(しばしば「クオリア」と呼ばれるもの)に対して,本論では「現象的性質」という語を使用する.
2.意識の形而上学
本節では意識の形而上学について概観しよう.まず,意識の形而上学における重要な立場として「物理主義」がある.この立場の大まかなアイデアは,あらゆる物理的存在者は,究極的にはいくつかの基礎的な物理的存在者から成るものとして説明される,というものである.例えば机や木,さらには人間もまた物理的存在者であり,それらは究極的には,電子や原子のような基礎的な(そのような意味でミクロな)物理的存在者から成るものとして説明されるだろう.このような物理主義のアイデアが正しいならば,世界のミクロ物理的な在り方が一つに定まった時,世界の在り方すべてが一つに定まるはずである.しかしここで例外になると思われるものこそが現象的性質である.
私たちは日々生きる中で,様々なものを意識的に経験する.しかし,意識的経験やそれが持つ現象的性質は,決して物理的には説明し尽くされないもののように思われる.これはしばしば「説明ギャップ」(Levine 1983) と呼ばれる問題である.説明ギャップはあくまで認識論的なレベルでの問題であり,形而上学的テーゼである物理主義を即座に論駁するわけではないだろう.しかしこのギャップは,物理主義が解決すべき問題として認識され,長く取り組まれてきた (cf. 山口 2014).
またこのようなギャップは,「物理主義の下で現象的性質はいかにして説明されうるのか」という問題,いわゆる「意識のハードプロブレム」(Chalmers 1996) を提起することになる.この問題は(本節で概観するように)意識の形而上学における中心問題として多くの研究者によって取り組まれている.
このハードプロブレムに対して,私たちはどのように立ち向かうことができるだろうか.Frankish (2016) の分類によると,この問題に立ち向かうために,私たちには三つの選択肢がある.それはすなわち「急進的実在論」「保守的実在論」「イリュージョニズム」の三つである.またこれらの選択肢は,意識を説明する際に重要な三つのポイントによって分類されることになる.三つのポイントとはすなわち,現象的性質は実在するか,現象的性質は物理主義に反するか,物理主義は正しいか,の三つである.
まずは,一つ目の選択肢である「急進的実在論」を見てみよう.この選択肢は,現象的性質が実在することを認め,かつ現象的性質が物理主義に反するものであることを認める.その上でこの選択肢は,(既存の)物理主義が正しいことを否定し,その修正を試みることになる.
この選択肢をとる立場の一つは「汎心論」と呼ばれるものである.ここで言う汎心論は「汎経験論」とも呼ばれる立場であり,本論で取り上げるタイプのものはとりわけ「ラッセル的構成的汎心論」とも呼ばれる.この立場の基本的なアイデアは「いくつかの基礎的な物理的実体は意識的である」(Chalmers 2013: 1) というものである.
先ほど見たように,物理主義はハードプロブレムに直面してしまう.物理主義は一体どこで道を間違えたのだろうか.汎心論者によると,物理主義の間違いは,物理的存在者が現象的性質を一切持たないという前提を暗黙裡に置いてしまったことである.例えば浅野は,物理主義について以下のように指摘する.
人間の多彩な意識現象は,脳の神経生理学的・物的過程に出自を持ち,それに依存している.[…]しかし,心的な性質を一切欠いているはずの物質から,一体どのようにして,様々な意識現象が立ち上がるのだろうか.(浅野 2015: 27–28)
すなわち汎心論者の考えでは,心的性質の創発を想定してしまうからこそ,物理主義は説明ギャップに直面するのである.
この考えが正しいならば,物質が心的性質を欠いているという前提,本論の用語法に従うと,物理的存在者が現象的性質を欠いているという前提そのものが否定されるべきであろう.このような発想の下では,電子や原子のような,ミクロで基礎的な存在者の中にも自ずと現象的性質が認められることになる.そして,私たちの持つようなマクロな現象的性質は,そこからアプリオリに導出されるのである.
また,物質の中に現象的性質を見出すにあたって汎心論者は,既存の物理学への反省を行った上でこう主張する.すなわち,物理学は物理的存在者の内在的本性を明らかにしない,と (Chalmers 2013, cf. Russel 1927).つまり汎心論者の考えでは,物理学によって明らかにされるのは,ある物理的存在者が他の存在者とどのように関わるのか,あるいは,その存在者がどのような役割を果たすのかということだけなのである.よって物理学は,その存在者が結局のところ何であるのかについて,一切明らかにできないことになる.
汎心論者は,この物理学の空白に現象的性質の居場所を見出す.つまり,電子のような基礎的な物理的存在者の内在的本性として,現象的性質が実在すると考えるのである.よって現象的性質は,いわば新たな物理的性質としてこの世界にその居場所を持つことになる.そして,そのようなミクロな現象的性質が組み合わさることで,私たちを含むあらゆる存在者の意識が形づくられるのである.
汎心論についてまとめよう.この立場には複数のメリットがある.例えば汎心論は,現象的性質が実在するという私たちの素朴な直観を擁護できるだろう.加えて,既存の物理学の空白に現象的性質を見出す以上,既存の物理法則や物理的事実を否定することもない.これは,二元論のような他の急進的実在論にはない利点であり,汎心論が支持を集めている要因の一つであろう.また汎心論の下では,現象的性質が新たな物理的事実として説明されるため,説明ギャップはおのずと埋まることになる.
しかしこの立場にはデメリットもある.例えば汎心論は,電子のような一部の基礎的な存在者,さらにはそれによって構成されるあらゆる存在者が意識的であることを認める.これは非常に反直観的であろう.加えて汎心論は,この立場に特有の問題に直面する.それは例えば,基礎的な物理的存在者の意識はどのようなものかという問題,そして,それらはどう組み合わさって私たちのようなよりマクロな意識を構成するのか,という問題である (cf. Lewtas 2013).このように汎心論は,複数のメリットとデメリットを抱えている.
続いて二つ目の選択肢である保守的実在論に目を移そう.この選択肢は,現象的性質が実在することを認め,かつ物理主義が正しいことを認める.その上でこの立場は,現象的性質はあくまで物理的なものなのだと主張することになる.ただしこの選択肢では,説明ギャップが存在すること自体は認められる.その上で,その説明ギャップは物理主義を脅かさないと主張されるのである.
この選択肢を採る立場としては,例えば「現象概念戦略」が挙げられる (e.g. Loar 1990).この立場の基本的なアイデアは,「私たちは自身の経験を指示するための特殊な概念を持つ」(Carruthers & Villet 2007: 213) というものである.
先ほど見た汎心論は,物理主義や物理学を修正することによって現象的性質の実在を認めようとしていた.しかし,この戦略の支持者は,意識というたった一つの現象のために物理主義や物理学に修正を迫るというのはあまりに急進的すぎると考える.とはいえ,私たちが何かを現象的に経験していることや,そこに現象的性質や説明ギャップが存在することもまた確かなように思われる.このような状況に対して現象概念戦略は,説明ギャップの存在を認めながらも,現象的性質をあくまで物理的なものとして理解するという道を採る.
ここで現象概念戦略が利用するものは,現象的意識や現象的性質について私たちが持つ概念,いわゆる「現象的概念」である.これは,私たちが持つ他の概念から独立したものであり,あらゆる種類の非現象的概念とのアプリオリなつながりを一切欠いているとされる (Carruthers & Villet 2007: 213).現象概念戦略の支持者によると,私たちが説明ギャップを持ってしまうのは,まさに現象的概念のこのような特徴が原因なのである.そして,この現象的概念の特徴が物理的に説明されたならば,そのとき,現象的性質が物理的に説明され難いというギャップは,もはや物理主義にとって問題とはならないだろう.
現象概念戦略についてまとめよう.この立場は,現象的性質の実在と物理主義の正しさという,直観的に広く受け入れられている考えを両方とも擁護しようと試みる.それはどのようにしてかというと,現象的概念に訴え,説明ギャップを無害化することによってである.このような戦略は,多くの論者にとって受け入れやすいものであろう.
しかしこの立場は,現象的概念(あるいはその特徴)が結局のところ非物理的なのか,それとも物理的なのかに関して大きなジレンマを抱える (cf. Chalmers 2007).一方で,もし現象的概念が非物理的なものだと言ってしまえば,それはもはや物理主義ではなく,一種の二元論に帰着する.他方で,先ほど私が示唆したように,もし現象的概念が物理的なものならば,それが本当に私たちの意識のある在り方すべてを説明できるのかが怪しくなってしまう.そのように主張したいならばむしろ,意識や現象的性質の実在そのものを否定すべきであるように思われるのである.そして実際にそのような否定を行うならば,この立場は次に見るイリュージョニズムに帰着することになる.
最後に,その三つ目の選択肢であるイリュージョニズムについて見てみよう.この選択肢は,現象的性質が物理主義に反するものであることを認め,かつ物理主義が正しいことを認める.その上でこの立場は,現象的性質が実在すること自体を否定する.
この立場の基本的アイデアは,「私たちはハードプロブレムを真に受けるべきではない[…]これは疑似問題なのだ」(Frankish 2016: 51) というものである.ここまで見てきた二つの立場の支持者も含め,多くの論者は,自身が明らかに意識を持っていると考える.しかし,なぜ私たちは自身が意識を持っていると確信できるのだろうか (cf. Kammerer 2022).現象的性質が物理的に説明され難いというならば,むしろ,そのような性質が実在するということ自体が疑われるべきであろう.現象的性質や,それを伴う意識が確かに実在すると考えてしまうからこそ,そこに説明ギャップが生まれてしまうのである.もし以上のアイデアが正しいならば,現象的性質の実在を否定し,説明ギャップごと消し去ってしまうことこそが最善の道のように思われる.
では,ハードプロブレムは一体どこに行ってしまうのだろうか.イリュージョニストによると,ハードプロブレムは別の新たな問題,いわゆる「意識のイリュージョンプロブレム」(Frankish 2016, 2018) に置き換えられることになる.これはつまり,「なぜ現象的性質が実在すると私たちは考えてしまうのか」という問題である.イリュージョニストの考えでは,この問題が解決されたならば,ハードプロブレムは単なる疑似問題として解消され,意識に関してそれ以上説明されるべきことは何も残らないことになる (cf. Frankish 2018).
イリュージョニズムについてまとめよう.この立場は物理主義の正しさを強く擁護しながら,説明ギャップやハードプロブレムのような問題を消去あるいは回避することができる.これは非常に大きなメリットであろう.
しかし,現象的性質の実在を否定する,つまり,私たちであることのような何かなど存在しないというアイデアは,非常に反直観的なものである.またイリュージョニズムは,ハードプロブレムを回避する代わりに,イリュージョンプロブレムを解決しなければならない(ただしこの問題は,自然科学的探究によって解決されうるという意味でイージーな問題であるため,少なくともハードプロブレムの解決よりは有望なものであろう).このようにイリュージョニズムは,非常に反直観的である代償として多大なメリットを持つ立場であり,近年注目を集めている.
以上が,意識の形而上学の概観である.ここまでの議論を踏まえた上で,私たちは意識の形而上学という営みに関して,次のように分析することができる.すなわち,意識の形而上学では,存在論的レベルと認識論的レベルを跨ぎながら,複数のポイントに関するより説明力が高くかつコストの少ない見解が目指されているのだ,と.つまり意識の形而上学では,物理学だけでは意識が説明され難く思われることを踏まえた上で,物理学そのものへの反省や,あるいは私たちの既存の直観や認識そのものへの反省を通して,意識という現象に関するより単純で,説明的で,そして直観に適うような見解が目指されているのである.そのような意味で各立場は,意識という現象に関するより妥当な説明の地位を争っているのである.
3.意識の価値論
続いて,本研究が扱うもう一つの領域である意識の価値論に目を向ける.この領域での議論を見通すために,まずは「センシェンス」の概念を導入しよう.大まかに言うと,これはつまり「意識的経験を持つための能力」のことである.Browning & Birch (2022) によると,このようなセンシェンスは以下の二種類に分類される.
一つが「広義のセンシェンス」であり,これはつまり,何らかの意識的経験を持つための能力である.この意味でのセンシェンスを持つ存在者はつまり,何かを感じることのできる存在者である.もう一つが「狭義のセンシェンス」であり,これは,意識的経験の中でもとりわけ,正または負のヴァレンスを伴うような経験を持つための能力である.ヴァレンス (valence) 1を伴う経験とは例えば快や苦痛の経験であり,よって狭義の意味でのセンシェンスな存在者は,快や苦痛を感じられる存在者だということになる.以降の本論で出てくるセンシェンスは,基本的に「狭義のセンシェンス」を意味する.
生命倫理や動物倫理を見ると分かるように,このようなセンシェンスはしばしば「道徳的地位」(cf. Warren 2002) の根拠になるものとして理解される.つまり,ある存在者がセンシェンスを持つ――センシェントである――ことは,私たちがその存在者を(その存在者がセンシェンスを持たない場合以上に)道徳的に配慮すべき理由をもたらすのである.
例として,植物状態の患者のケースを見てみよう.遷延性意識障害(植物状態)(PVS) の患者は,目を開き,睡眠と覚醒のサイクルを維持しながらも,意識の兆候を一切示さない.よって長い間,その患者たちには意識がないと考えられてきた.しかしOwen et al. (2006) の研究によって,PVSと診断された患者の一部が,実はまだ意識を保っている可能性が浮上した.これは何か道徳的に重大な含意を持つように思われ,実際,大きな論争を巻き起こした.ShepherdとLevyの分析によるとその理由は「PVS患者の意識が保たれているという証拠を,非常に多くの人々が,その患者がそれまで考えられていた以上に高い道徳的地位を持つことの証拠として理解した」(Shepherd & Levy 2020: 656) からである.またKahane & Savulescu (2009) が示唆するには,このようなケースで問題になっている意味での意識は,まさに本論で扱っている「現象的意識」に他ならない.
このケースからも分かるように私たちは,意識やセンシェンスを,道徳的地位に影響するものとして直観的に見なしている.しかし,センシェンスが道徳的地位に影響するという直観は,いったい何によって支えられているのだろうか.そのような説明を行うためのもっともらしい方法は,意識そのものが持つ「価値」に訴えることであろう (cf. Shepherd & Levy 2020).
意識の価値について理解する助けとして,ここでSiewert (1998) による思考実験に目を移そう.私たちが次の選択に迫られたとする.すなわち,(a)あなたがこれから過ごすであろう現象的に意識的な生を継続するか,もしくは,(b)現象的意識だけを完全に除去された上で(つまり哲学的ゾンビになった上で)これからの生を過ごすか,という選択に.(b)のような除去に伴うリスクや後遺症は一切ないと仮定しよう.また私たちは,除去後であっても意識の有無以外に一切の変化はなく,よって周囲の誰にもゾンビだと気づかれないままゾンビとして生き続けることができるとする.
ここでSiewertは以下のように述べる.
もしあなたが現象的経験の少なくともいくつかは保持したいと考えるならば,あなたは現象的特徴の所有をそれ自体で価値付けている.他方で,もし意識を完全に欠いても一切の違いが生じない(あるいはむしろそれを好む)と考えるならば,[…]あなたは,自身が意識をそれ自体では全く価値付けていないことに気づく.(Siewert 1998: 320)
彼の考えでは,もし意識的経験のうち少なくともいくつかを保持したいと考える,つまり(a)の選択肢を選ぶならば,それは私たちが意識的経験をそれ自体で価値付けていることの証拠なのである.そしてSiewert (1998) は,実際に多くの人が何のためらいもなく(a)を選ぶだろうと考える.この考えが正しいならば,私たちは少なくともいくつかの意識的経験に対してそれ自体で,直観的に価値を見出していることになる.
ただし,あらゆる意識的経験が価値を持つわけではないだろう.例えば,別に音楽を聴きたくない気分のときに音楽を聴いても,私たちはその経験に価値を見出さないはずである.しかし,ある場面においてある経験に価値があることは確かであろう.そのような経験としてしばしば指摘されるものこそが「ヴァレンスを伴う意識的経験」である (e.g. Shepherd 2018).例えば,快楽を伴うような意識的経験は正の価値を持ち,したがって私たちにとって善いものであるように思われる.先ほどのSiewertの思考実験が示していたのは,このような正の価値の存在であると理解できるだろう.それに対して,意識的経験は負の価値を持つ場合もある.例えば苦痛の意識的経験は負の価値を持ち,したがって私たちにとって悪いものであると思われる.このような意識の価値に訴えることで,センシェンスと道徳的地位との直観的なつながりを支持することができるだろう.
意識の価値についての議論をまとめよう.ここまでの議論が正しいならば,快楽や苦痛のような意識的経験にはそれ自体で正または負の価値がある.したがって私たちは,それらの意識的経験を持ちうる存在者,つまりセンシェントな存在者を道徳的に配慮する理由(例えば,その存在者に苦痛を与えることを避けるべき理由)を持つことになる.つまり,そのセンシェントな存在者は道徳的地位を持つのである.当然ここにはまだ反論やさらなる具体化の余地があるが,このような大まかなアイデアは広く受け入れられていると言えるだろう (e.g., Bentham 1970, Shepherd & Levy 2020)2.
4.価値論は形而上学に影響するか
ここからは,本論の本題である,価値論から形而上学への影響に関して論じよう.意識の価値論は形而上学に対してそもそも影響を与えるのだろうか.また,影響を与えるとしたらそれはどのようなものだろうか.
一方で意識の価値論によると,少なくとも一部の意識的経験は正または負の価値を持っており,これはセンシェントな主体の道徳的地位を支える.他方で意識の形而上学においては,例えば,汎心論によってあらゆる物理的存在者の意識が主張され,また,イリュージョニズムによって意識の不在が主張されている.これらを総合して考えると,汎心論やイリュージョニズムは,私たちの道徳的規範に関わる問題,Kammerer (2019) が呼ぶところの「規範的課題」に直面するように思われる.つまりこれらの立場は,私たちが現在持っている道徳的な直観や行動規範を,根本から覆してしまう危険をはらんでいるのである.規範的課題に対処するために,これらの立場は,意識の価値に関する何らかの説明を用意しなければならないと思われる.
しかしここで重要な疑問がある.すなわち,そもそもの話,形而上学的立場は,意識の価値やそれに伴う規範的課題を気にする必要があるのだろうか.つまり,仮にある立場が何か深刻な規範的課題を抱えるとして,その課題はその形而上学的立場を放棄する理由となりうるのか,ということが問われうるのである.これは,価値論から形而上学への影響を論じる際に必然的に生じる問いである.しかし既存の研究は,この重要な疑問に対して力を入れて取り組んではいない (e.g. Frankish 2021, Gottlieb & Fischer forthcoming , Kammerer 2019).このような状況を鑑み,ここで本論は,この疑問への回答を試みる.
この疑問に対する私の回答は,端的に気にするべきであるというものである.なぜならすでに見たように,意識の形而上学は,意識についてのより妥当な説明を目指しているからである.このことを理解するために,説明ギャップの例を見てみよう.説明ギャップとは一体どのようなものだっただろうか.
説明ギャップをより詳細に再提示すると次のようになる.一方で私たちは,ある意識経験をしているとき,その主体の脳が物理的にどのような在り方をしているのか(脳活動など)を調査し,それについての説明をより洗練させていくことができる.他方で私たちは,その説明がどれだけ洗練されようとも,それは現象的性質についての説明とはなりえないと考えるだろう.というのもその説明は,ある時点で脳において例化される現象的性質を,必然的な仕方で一つに定めることができないからである.例えば私たちは,ある主体の脳状態が赤いリンゴを見ているときのものか,それとも青いリンゴを見ているときのものかについて,その脳状態についての説明だけから確定することはできない.これを確定するためには,自身が見ている対象を主体自身に報告してもらうしかないだろう.そのような意味で,脳状態についての物理的説明は,意識についての説明とはなりえない――それらの間にギャップがある――ように思われるのである.これが説明ギャップである.
しかしこのギャップはあくまで認識論的なレベルの問題であり,形而上学的テーゼである物理主義を即座に論駁することはない.実際,説明ギャップに関して,その名付け親であるLevineは次のように述べる.すなわち,物理主義を即座に論駁するものではないが,「多くの哲学者がその主張に対して抱く居心地の悪さ」を指摘するものである,と (Levine 1983: 354).また,このLevineの考えに対して山口は,「レヴァインは説明ギャップを物理主義の取り去るべき害悪として理解しているのだ」とコメントしている (山口 2014: 41).ここで重要なのは,説明ギャップが実際にそのような害悪であるかどうかではない.むしろ重要なのは,害悪でありうるだけの説明ギャップに対して,あらゆる形而上学的立場が何かしらの対応を迫られており,実際に何かしらの対応を行っているということである.
第2節で確認したように,各形而上学的立場は,存在論的レベルと認識論的レベルを跨ぎながら,複数のポイントに関するより妥当な説明を目指していた.だからこそ,単に認識論的問題である説明ギャップに対して,各立場は対応を迫られたのだと言えるだろう.
これと同様のことが,意識の価値に関しても言える.つまり,規範的課題を解決できないことは,その立場にとっての取り去るべき害悪となりうると言うことができるのである.これは決して,規範的課題に直面するような立場を放棄しなければならない,あるいは,各立場は意識の価値を絶対に認めなければならないといったことではない.各立場が要求されるのはただ,以下で見るような規範的課題に対して何かしらの説明や弁明を行うことなのである.
ここまでの私の主張が正しいならば,意識の価値やそれに伴う規範的課題は,意識の形而上学に確かに影響を与える.しかしそれは,具体的にどのような影響であり,それは各立場にとってどれほど深刻なのだろうか.以下では,実際に起こりうる規範的課題の内実について確認しよう.ここでは,課題に直面することが特に明らかだと思われる,汎心論とイリュージョニズムに焦点を絞る.
まず汎心論について見てみよう.すでに確認したように,この立場はあらゆる物理的存在者が何かしらの形で意識的であることを認める.したがって汎心論の下では,電子のような基礎的な存在者や,それによって構成されるあらゆる存在者が道徳的地位を持つことになる.
ここで汎心論は,規範的課題にぶつかるように思われる.というのも,この世のあらゆる存在者が意識を持つならば,意識の価値やそれに依拠した道徳的地位は,もはや私たちの道徳的な規範や判断に何ら影響を与えられず,よって道徳的に重要なものではなくなってしまうからである.
これに対して,おそらく次のような反論があるだろう.すなわち,たとえ汎心論が正しいとしても,電子のような基礎的な存在者が持つのは広義のセンシェンスだけではないか,と.つまり,人間や動物といった,一般にセンシェンスを持つとされる存在者が持つような狭義の――ヴァレンスを伴うような――意識的経験を,電子は持ちえないのではないか,と考えられるのである.
しかしこの反論はうまくいかない.第2節で見たように,汎心論はそもそも「現象的性質を一切欠いた単なる物質から意識が生み出される」という物理主義の前提に対する批判をその動機としていた.そして,物質の中に現象的性質を認めることで,そこから私たちの意識がアプリオリに導かれるようにしたのである.したがって,もし私たちの意識が電子の意識からアプリオリに導かれない,すなわちそこにギャップが存在するならば,汎心論はそもそもの動機を失ってしまうのである.そしてGotlieb & Fischer (forthcoming) が考察しているように,ヴァレンスを一切持たない意識からヴァレンスを持つ意識がアプリオリに導出可能とは思われない.したがって電子の意識的経験は,何らかの形のヴァレンスを持つことが要求されるのである.
上記の考察が正しいならば,電子もまた何らかの形で狭義のセンシェンスを持つことになり,よって道徳的地位を持つ.したがって汎心論は,やはり規範的課題に直面するのである.
次にイリュージョニズムの規範的課題を見てみよう.すでに見たようにこの立場は,現象的性質の実在やそれを持つ意識の実在を否定する.したがってイリュージョニズムの下では,意識の持つ価値もまた否定されてしまうように思われる.
もしそうであれば,イリュージョニズムは規範的課題にぶつかるだろう.というのも,センシェンス概念や,それに基づいた道徳的地位概念が否定され,それらに依拠した多くの道徳的な直観や判断が根本から覆されることになるからである.
これに対する応答として考えられるのは,「意識の価値の否定は実は規範的課題を伴わない」と主張することであろう.このような主張のために私たちは,例えば,現象的意識が価値を持つという私たちの直観そのものの再解釈を試みることができる (cf. Kammerer 2019: sect. 6.2).Levy (2014) の考察によると,私たちが直観的に見出す意識の価値は,現象的意識だけではなく,アクセス意識――単なる脳機能という意味での意識――によってもまた担われている.この考察が正しいならば,次のような主張が可能かもしれない.すなわち,現象的意識の価値は,実はアクセス意識によってそのほとんどが担われているものとして再解釈されうるため,現象的意識の価値を否定したとしても,私たちの道徳的な直観や判断には大して影響しないのだ,と3.
しかし,このような再解釈が成功するかどうかは疑わしい.というのも,もし意識の価値を担うものがアクセス意識であるならば,Siewertの思考実験で私たちが(a)の選択肢を何のためらいもなく選ぶことはないはずだからである.つまり,たとえアクセス意識がいくらかの価値を持つとしても,それが現象的意識の持つ価値を上回ることはなく,ましてやその価値を代わりに担うなどということはないと考えられるのである.したがってイリュージョニズムもまた,やはり何かしらの規範的課題に直面してしまうだろう.
以上のように汎心論とイリュージョニズムは,規範的課題に避けがたく直面するのであり,よって何らかの対処が必要とされるのである.
5.結論
本論では,第2節と第3節でそれぞれ意識の形而上学と価値論を概観した.その上で第4節では,「価値論が形而上学に影響する」と考えるための一応の理由があることを指摘し,加えて,そのような影響の内実として,汎心論とイリュージョニズムが規範的課題という困難に直面することを確認した.
当然,規範的課題が結局は些細な問題であるということもありうるだろう.規範的課題が実際に形而上学的立場を論駁すると言うためには,規範倫理学的あるいはメタ倫理的なさらなる考察が必要である.つまり,私たちの規範的判断がすでにある程度の正当化をなされている,あるいは,価値という道徳的性質が確かに実在するとされている場合には,意識の価値は確かに形而上学的立場を論駁すると言うことができるのである.
しかし本論の指摘はむしろ次である.物理主義を即座に論駁するものではない説明ギャップは,意識の形而上学における重要な一問題として論じられてきたのであり,これと同様に,意識の価値もまた意識の形而上学における一問題として論じられるべきである,と.これは次のようにも言い換えられるだろう.すなわち,意識の形而上学において問題として論じられるためには,その論駁可能性だけで十分なのだ,と.
そして,実際にそれが問題として論じられるならば,少なくとも一部の立場,つまり汎心論とイリュージョニズムは,規範的課題という困難に直面する.これらの立場が規範的課題にうまく対処できるか否かについての議論は,その立場を評価するための一要素となる.このような新たな論点を提供するという意味で,意識の価値論は確かに意識の形而上学に影響するだろう.よって意識の価値にまつわる議論は,ハードプロブレムを取り巻く議論における新たな論点としてその解決に寄与するのである.
註
参考文献
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