哲学の探求
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個人研究発表
技術的対象はどのように発明されるのか
シモンドンの人間機械論と変換の問題
石長 佑一
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2025 年 2025 巻 52 号 p. 152-165

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はじめに

ジルベール・シモンドン(Girbert Simondon, 1924–1989)による発明(invention)という概念は、個体化(individuation)の概念と同じく存在の新たな状態への遷移を問題としている。個体化とは、1958年に提出された博士主論文1(以下、『個体化の哲学』)にて打ち立てられた概念である。シモンドンは存在の生成を実体ではなく、操作のプロセスから説明するためにこの概念を用いた。他方、同年に提出された副論文2(以下、『技術的対象論』)では、人工物などの技術的製品が制作されることを発明という概念を通じて分析した。シモンドンは『技術的対象論』における発明を、真空管や内燃機関などの分析を通じて、技術的対象(objet technique)を形づくる操作のプロセスに位置付けた。この個体化と発明の間には、存在の生成という共通点を見出すことができる。

問題は、両概念にどのような役割の違いがあり、シモンドンの哲学体系においてどのような意義がもたらされるのか明らかにされていないことである。個体化とは、博士主論文において提示された中心的な概念である。それゆえ、副論文にて提示される発明概念は、この個体化という概念を基に構想されたと考えることができる。しかし、発明に該当する存在の生成プロセスが個体化の概念において説明される場合、発明と個体化を概念的に区別した理由が曖昧となる。特に発明概念は、主体の能動的な活動でもありながら、技術的対象の自律的な発展でもあるという曖昧性を含んでいる。そこで本論文は発明概念を取り上げることで、その特徴を明らかにする。

発明概念はすでに、2点の解釈が認められている。一つは、生物という有機体の活動として発明概念を位置付けるものである。増田(2021)は、ジョルジュ・カンギレムの有機体論と比較することで、フランス哲学史の一潮流であるフランス・エピステモロジーの主題として発明を位置付けた(増田 2021: 35)。増田はその中で、技術的対象の発明が新たな環境の創出であることを示し、有機体による「創造(creation)」という主題の一つの展開であることを明らかにした。もう一つは、発明概念を生命論的な目的論として再考するものである。宇佐美(2021,2022)は、認識主体である生物の活動性という観点から発明概念を取り上げた(宇佐美 2022: 162)。そこで発明は、主体と対象に循環性があることを示す概念であり(宇佐美 2021: 164–168)、相互内属的な存在と認識の同時性を発見(découvrir)するという一面を明らかにした。ただし両者の先行研究では、発明概念の思想史的な連関を明らかにしているが、技術的対象と人間の関係性が有機的な生命論に留まりうるという問題点がある3

そこで本論では、発明とは「変換(conversion)」であるという主張を検討する。この立場では、人間と技術的対象のそれぞれの自律性を踏まえつつ、両者の関係を記述できるという利点が考えられる。発明を一種の変換であるとみなすことで、異なる存在でありながら相互間の作用を認めることが可能となるだろう。

本論は発明の記述を対象にし、発明の条件を明らかにする。1節では、技術的対象の未決定性について論じる。2節では、発明の条件として提示される技術的対象と環境の関係を論じる。3節では、技術的対象と人間の関係を「連合環境」という観点から論じる。4節では、変換のプロセスを改めて整理する。以上から、技術的対象における発明の条件を明らかにすることで、本論文の課題である変換という主題に答える。

1. 技術的対象の未決定性

本節では、技術的対象を取り上げ、その特徴である未決定性について取り上げる。その上で発明は、技術的対象と人間との関係を結びつける契機であることを明らかにする。

シモンドンの哲学体系において、発明概念は人間の特性や能力に還元されるものではない。一般に発明とは、ある主体が対象を新たに制作することと定義される。つまり、主体の能動的な行為として発明が定義されることが一般的である4

しかし、シモンドンの哲学体系では共通して、何らかの実体に還元した説明は避けられている。なぜなら、説明されなければならないことは、その実体の存在そのものであるとシモンドンは考えているからである。例えば、存在が構成されるための最小単位を原子に置いた場合、原子それ自体がどのような存在であるのかについては説明されなくなってしまう。ある存在を実体化した時点から存在の実在性は常に不十分で徹底さを欠いた説明となる。そこでシモンドンは、存在の生成を問題とする。「構成された個体としての個体こそ、問題になっているリアリティであり、説明されるべきリアリティである」(ILFI: 23/3)と自らの立場を打ち出した。シモンドンは、存在の構成されるプロセスがいかに説明可能であるかという点に哲学的な問題を設定する。

以上を踏まえ、シモンドンは個体化のプロセスに着目することで解決を図る。この個体化とは、存在の生成のプロセスのことを示す概念である。存在がいかに生成されるのかを分析し、その結果を個体化として概念化することで、特定の存在論的な特権性を排除しつつ、あらゆる存在の説明を試みようとしている。言い換えれば、原子などあらゆる存在が構成されるための共通の原理を明らかにすることが、あらゆる存在の実在性を説明できる唯一の方法と考えている。この個体化の概念と同様に、発明は単に人間という存在に還元される能力とは限らない。発明概念も同じく、ある技術的存在の生成のプロセスから、その存在の構成を説明するための概念である。

シモンドンは、発明を通じて生み出される存在のことを技術的対象と位置付けている。先に述べていたように、技術的対象とは、制作された人工物などの技術的な存在を指す概念であった。個体化によってあらゆる存在が生成すると考えていたように、技術的対象も生成のプロセスにある。『技術的対象論』では、内燃機関、真空管、水力タービンなどが範例として挙げられることで技術的対象に共通する生成プロセスの内実が検討される。

シモンドンは、この技術的対象の特徴を存在の未決定性にあることを指摘する。その内実は、外部の情報に対して未決定であること、そして、人間に対して未決定であること、以上の2点である。

まず、技術的対象が外部に開かれている点についてである。シモンドンは、技術的対象が常に環境と相互作用を行っている点を分析することで、技術的対象が外部に開かれていると主張した。シモンドンの哲学体系に広く見られる特徴であるが、個体の生成を強調する中で、ある個体とその個体が属する環境要因からの影響を非常に重視する。言い換えれば、技術的対象は常にある外的な環境の中で作動する。そして、その環境を自らに適合させる仕方で内的な構造に組み込みながら発展する。シモンドンは、飛行機やグライダーなどの航空機を例に挙げている(MEOT: 62)。飛行機が荷物を乗せ離着陸や飛行を実行できるのは、ある機体がそれぞれの飛行している環境に対して適切な出力を実行できる構造と機能を備えているためである。飛行機の技術的な発展とは、その機体の技術的な歴史を下敷きとしながら、その環境に対して適切な出力が可能となる新たな構造を獲得していることであると考えている。シモンドンは、技術的対象において外的状況から影響を受けることを受容性(sensibilité)(MEOT: 12)とも言い換えており、外部の情報に対して未決定であることを明らかにした。

次に、技術的対象が人間に対して未決定であるという点についてである。技術的対象は生成のプロセスにあることを先に述べた。これは、技術的対象の発展とはそれまでの構造と機能をさらに別の仕方で構造化することである、と言い換えることができる。その構造化のなかで、決定的な舵取りを行う存在として、シモンドンは人間という存在を位置付けた。技術的対象は常に産業社会的な状況から影響を受ける。技術的対象同士の連関は、産業社会の度合いが高まるほど密となる。そこで人間という存在は、「技術的対象という社会の永久的な組織者」(MEOT: 12)とされる。むしろ、人間こそが技術的対象の作動の間で媒介を行う存在である。これは社会がテクノロジーによって規定されるという技術決定論のように思われるかもしれない。しかし、シモンドンが強調するのは、技術的対象の発展には人間という存在が介在するからこそ、未決定であり発展すると主張する点にある。技術的対象は人間を不可欠な媒介として発展する。それゆえ技術的対象は、人間に対する未決定性を含んでいる。

以上の二点を踏まえ、シモンドンは技術的対象が「開かれた機械(une machine ouverte)」(MEOT: 12)であると主張する。「開かれた機械」であるとは、技術的対象の生成プロセスのうちに「未決定の余白(marge d'indétermination)」(MEOT: 12)を備えていることを意味する。この技術的対象に含まれる未決定性の内実とは、先に取り上げた技術的対象それ自身に対する未決定性と人間を媒介とする未決定性のことである。技術的対象は未決定な存在であると述べたが、言い換えれば、技術的対象は常に未完了であるとも言える。こうした技術的対象の性質をシモンドンは「開かれた」という形容を用いて説明している。

その上で、シモンドンは技術的対象と人間の関係を発明という契機において結びつけた。先に取り上げたように、シモンドンは人間という存在を技術的対象の間で調整を行う存在として位置付けていた。シモンドンが人間を「組織者(organisateur)」や「指揮者(chef d'orchestre)」(MEOT: 12)と呼ぶのは、産業社会における人間の役割をあえて強調するものでもある。人間が技術的対象に対して働きかけ調整を行うこと、この行為をシモンドンは発明であると位置付ける。「人間というのは、人間を取り囲む諸機械の恒久的な組織者であり発明者であることに存在の機能性がある」(MEOT: 13)という言葉からもわかるように、発明とは人間と技術的対象の両者の間で相互に関係を取り結ぶことである。

機械に対する人間の存在意義は絶え間ない発明にある。機械のうちにあるもの、それは構造の中で作動する固定化され結晶化された人間の身ぶり、すなわち人間的な実在である。この構造は諸機械の作動の只中で維持される必要があり、最大の改良は最大の開かれ、すなわち作動の最大の自由と一致する。(MEOT: 13)

シモンドンは明確に人間の存在意義を発明に認めている。しかし、人間の特権性として発明を位置付けているわけではない。技術的対象の作動をあくまでもその間で調整する役割として発明を位置付けている。さらに、技術的対象の作動と人間の身ぶりの間に何らかのパラレルな関係があり、発明を通じてそれらが実現されると考えているようである。

シモンドンは人為的な存在である技術的対象が自律的に発展することを示した。他方で、発明を通じて技術的対象の発展における人間の必要性を認めた。このことは、発明の条件として技術的対象それ自身と人間による媒介という二側面を条件とすることを意味している。発明における技術的対象の未決定性は、技術的対象それ自身と人間側からの規定の両側面から明らかにする必要がある。

2. 新たな環境の創設による発明

本節では、さらに技術的対象が発明されるための条件を明らかにするために、技術的対象とその環境との関係を記述する。そこで着目するのが「連合環境(milieu associé)」という概念である。

まず、シモンドンによれば技術的対象は二つの環境から作用を受けている。その二つの環境とはそれぞれ、「技術的環境(milieu technique)」と「地理的環境(milieu géographique)」のことである。シモンドンはこの二つの環境を「世界」とも言い換え、二つの世界(monde)の間、あるいは二つの世界の只中に技術的対象を位置付ける。まずこの点を検討する5

技術的対象は、その名からも分かるように技術的世界の一部として構成されている。ここで取り上げられるのは電気機関車の事例である(MEOT: 63–64)。特にその動力部であるモーターが重要となる。列車を牽引する動力であるモーター部には適切な電圧と周波数の電気を供給しなければならない。発電所から発電機、変圧器、変電所などを経てモーター部に伝送される必要がある。発電所間の送電には三相交流方式を採用することで大容量の電気を効率よく送ることができるが、当時の電気機関車などは直流の電動機が動力部に採用されており、整流器を経て直流に変換するということが必要だった。以上のように、電動部のモーターは技術的な連関のなかに結びつけられることで動力を得る。そして、技術的対象が属している、技術的で人為的な環境のことを「技術的環境」と呼ぶ。

ただ、電気機関車は電力を供給されただけで走行できるわけではない。電気機関車は、様々な気象条件と土地の形状に合わせて敷かれたレールの上を走行する。あらゆる輸送装置は、風などによる抵抗やレールとの摩擦、地面の傾斜の下で運行される。そうした技術的対象が巻き込まれている自然的世界のことを「地理的環境」と呼ぶ(MEOT: 64–65)。

したがって、技術的対象は常に技術的な環境と自然的で地理的な環境を条件として動作を行っているとされる。

シモンドンは、技術的対象と二つの世界との間で行われる相互的なやり取りのことを「翻訳(traduire)」(MEOT: 65)という言葉で説明する。列車が一定に速度を保ち、停止から加速、そして再び停止するに至るまで、単にモーターの回転数が増減されているのではなく、風の抵抗や地面の傾斜を受けてモーター部の回転は調整されている。モーター部は常に技術的世界と地理的世界を変数として、それらを同時に調節する仕組みを持つのである。実際に、「牽引モーターは単に電気エネルギーを運動エネルギーに変えているわけではない」(MEOT: 65)と述べている。このように、技術的環境と地理的環境とは技術的対象において相補的関係にある。

視点を変え、技術的対象からこの事象を捉えれば、二つの世界は技術的対象を媒介として相互にやり取りを行っていると捉えることができる。すなわち、技術的対象は、技術的環境と地理的環境を同時に作動させることのできる仕組みを備えていると見立てる必要がある。

以上から、シモンドンは、この技術的対象において実現されている事態を新たな環境が技術的対象において実現されているとして、第三の環境である「連合環境」と概念化する。

「連合環境」とは、人為的な世界と自然的な世界との間の「翻訳」を通じて創設される技術的対象それ自身のことを指す。第三の環境と呼ばれるのは、二つの環境を通じて創設される新たな一つの環境という意味合いである。先の電気機関車では、電力の技術的体制とその列車が走行する地理的な体制のどちらに対しても作動する構造が技術的対象それ自体に実現されている。すなわち、技術的対象の個体性は、外的な二つの環境を自らの構造に内的に織り込みながら、新たに構造化されていると考えられている。シモンドンはこの個体性のことを「連合環境」として概念化を行なっている。

この連合環境は、発明の条件となる。連合環境は、二つの環境から創設される一つの環境であり、技術的対象の個体性を規定するものである。シモンドンが着目するのは、連合環境が技術的対象の個体性を規定していることで、新たな技術的対象が発明されるための条件として成立する点である。

シモンドンの哲学体系は、あらゆる存在は生成を通じて個体化されることを前提にしていた。個体化の発想とは、あらゆる存在が連続的な生成のプロセスに位置づけられ、あらゆる存在は生成される存在との何らかの連続性を認めるものである。それは個体化の哲学として概念化され、技術的対象にも該当していた。言い換えれば、ある存在が新たに生成されるためには、ある個体を条件として新たな個体の存在が発明されなければならない。

個体化における個体の条件という点は、技術的対象の発明にも該当する。そして、この新たな存在の条件を示すものが「連合環境」である。特にシモンドンが参照するのは、ギンバルタービンの事例である(MEOT: 66–68)。ギンバルタービンとは、水の流れる管の中での発電を可能にした独自の仕組みを持つ小型の発電システムのことである。

ギンバルタービンが発明されるためには、自然的な世界と技術的な世界との間を変換可能にする新たな体制が必要であった。管のなかは水の流れが早く、水圧の影響や漏電を考慮する必要がある。水という条件下で発電を実現するためには解決しなければならない問題が多数存在している。この様々な環境的条件を解決し、効率的なシステムを実現したものがこのギンバルタービンである。

この機構では、タービンが回転するほどローター周辺のジュール熱と磁気損失により発電機は多くの熱を産出することになる。しかし、タービンが回転すればするほど、ローターの潤滑油であるオイルが加圧され滑りがよくなり、金属カバー内の水が増々循環していく。それにより水による排熱がさらに活性化される。オイルによって、ローターの回転は促進され、水による漏電をも防ぐことになる。つまり水中での発電がさらに効率よく行われることになる。さらに同時に、水の循環によって発電による熱は排熱される仕組みにもなっている。お互いに同時に作動する調和的な系によって、ギンバルタービンは小型化され水圧管の中に挿入できるものとして発明された。むしろ水圧間の内部で作動する仕組みが発明されたことにおいて、さらなる効率的な仕組みが実現されたといえる。

このことは、ギンバルタービンが発明されるためには、発電システムやタービン(技術的環境)と水とオイル(自然的環境)の循環する機構が「連合環境」として設立されなければならなかったと捉えることができる。

以上から、連合環境は発明の条件となる。ギンバルタービンという新たな発電システムが発明されるためには、水とオイルの異なる環境を織り込んだ新たな一つの構造である連合環境が創設されなければならなかった。この連合環境を条件としてこのギンバルタービンが発明された。それゆえ、この連合環境は、ギンバルタービンの個体性6であり、新たな技術的対象が発明されるための条件となる。

3. 心的な連合環境という発明の条件

本論の主張は、発明とは人間存在にも技術的対象にも還元されず、むしろ両者の間での変換として考えることができるというものである。そこで初めに、2節で記述した連合環境とパラレルなものとして提示される「心的な連合環境(milieu mental associé)」について検討する。そこで発明とは、技術的対象の自律的発展に還元されず、人間の思考に基づく変換として説明できることを示す。

まず前提となるのは、連合環境を創設する技術的対象の自律的な発展プロセスが「構成的(constructive)」(MEOT: 69)であると指摘されることだ。技術的対象は2節で記述したように、自らを条件として新たな個体が発明される。その際に、人間が発明を行うという行為は記述されていない。むしろ強調されているのは、技術的対象が発明のための条件を自ら作り出していたという事実である。ただし別の場面で、技術的対象の新たな構造が発明されるためには、人間による介入が不可欠であることを強調している(MEOT: 52, 71)。シモンドンは、真空管を例に技術的対象の「起源」を問題とする中で、人間による操作が必要であることを指摘している。そこでは、技術的対象の起源は常に発明されるため、「構成的」であると主張されている。

この点からも分かるように、シモンドンは技術的対象の自律的発展の中においても、発明という場面はその対象にとってある種の不連続な契機であると位置付けている。このことは、発明を「跳躍(un saut)」(MEOT: 68)と呼ぶことからも明らかとなる。すなわち、技術的対象には発明という人間の介入があるために、その発展は構成的であるといえる。問題となるのは、この不連続な契機をなす発明の内実である。

シモンドンが説明として持ち出すのは、人間の心的な現象である。特に、思考の成立が重要となる。人間が技術的対象に対して介入できるのは、人間の思考のプロセスにおいて、技術的対象の自律的な発展過程を把握できるからである。

まず、シモンドンはゲシュタルト心理学への批判を通じて、人間の心的現象には構造の発生のプロセスがあることを指摘する(MEOT: 72)。一般に、ゲシュタルト心理学は、人間の知覚を研究することで、特定の要素には還元されない全体性を持つ構造的な法則性の実証を試みた。シモンドンは、ゲシュタルト心理学に対して、図と地という固定的な関係を認めている点を批判する。ゲシュタルト心理学においては、前傾化する「図」とその背景となる「地」の存在を指摘し、それらを合わせて全体的な性格を持つとされている。しかし、シモンドンは「形態の心理学は全体性の機能をはっきりとみながらも、力を形態に帰着させた」(MEOT: 72)と批判する。つまり、従来の心理学では、形態を生み出すエネルギー的条件を考慮しておらず、形態が現実化される点を説明できていないとシモンドンは指摘している。個体化の哲学を通じて存在の生成こそが問題であると考えるシモンドンからみて、ゲシュタルト心理学は人間の心的現象を固定的な全体性へと還元してしまっているとして批判の対象となる。

そこでシモンドンは、形態とは生み出されるもの、創設されるものであるとの主張を行う。シモンドンは個体化の哲学から一貫して、創設される存在の条件を検討する。ここで持ち出される概念とは「力動的な地(le fond dynamique)」(MEOT: 72)だ。形態などの全体的な構造には、その生成の基盤となる力動的な地とも呼べる存在の条件がある、とシモンドンは指摘する。ゲシュタルト心理学では形態により説明されていた事柄を、シモンドンは力動的な地に基づく生成として捉え直すのだ。

では、技術的対象の発展過程を捉えることのできる人間の思考とは何か。人間が行う思考には、身体的な物質的側面と知覚などの意識的側面が存在する。すなわち、発明を可能とする予測(anticipation)(MEOT: 69)や想像力(imagination)(MEOT: 71)には、生命的な側面と意識的な側面が同時に作動しており、それゆえ成り立っていることを指摘する。そして、この同時に作動する存在のことを「力動的な地」と述べている。

そこで人間の思考には、人間の身体という側面と人間の意識的側面があるとする。人間の思考は、有機体として、目や脳といった器官から構成されており、血液やリンパ液などの組織液、あるいは結合組織によって全体として作られている。一方で、人間は思考する意識的存在としても生きている。人間の意識的側面は、表象、イメージ、記憶や知覚などといったものからなる。これらは、確かにその作動のうちで特定の構造を持っているが、身体的な内的器官を利用することで可能となっている(MEOT: 74)。シモンドンが着目するのは、人間の思考とは、常に物質的な側面と意識的な側面が同時に働き、それらが同時に作動して可能となるという点である。人間の思考と基盤となり、物質的な側面と意識的な側面を備えるものが、ここまで取り上げた「力動的な地」の内実である。

力動的な地について説明したシモンドンは、この人間の思考の基盤を「心的な連合環境」と呼ぶ。つまり人間の思考とは、技術的対象の発展過程における連合環境の創設と並行した関係にあると主張する。

それ〔心的な連合環境〕は、自然的な世界と製造された構造の中間項である技術的対象の連合環境のように、生命と意識的な思考の中間項である。我々が技術的な存在を創造することができるのは、我々の中に、〔思考の〕作用(un jeu)の関係と技術的な対象に創設するものと非常に類似した物質的な形態の連関を備えているからである。(MEOT: 74–75、〔〕は引用者による補足)

シモンドンにとって人間の思考とは、心的な連合環境を条件として新たに現実化されたものである。したがって、技術的対象の発明とは、心的な連合環境を基盤として発明される新たな思考が、技術的対象における連合環境を通じて別の仕方で発明されることである。技術的対象の発明とは、人間の思考を外部において新たに作り出すことなのだ。すなわち技術的対象の発明とは、人間の思考に基づく変換である。

4. アナロジーとシンボルによる変換へ

前節までの議論を整理する。本論では、シモンドンの発明概念とは変換であるとの主張を試みてきた。そこで2節では、連合環境という概念を取り上げることで技術的対象が発明されるための条件を示した。次に3節では、発明のプロセスにおける人間の特権的な役割を明らかにした。技術的対象の連合環境に対し、人間の思考こそが新たな個体を特権的に組織するとしてシモンドンが考えていることを確認した。技術的対象が創設する連合環境を条件に、人間の思考を技術的対象へと変換することが発明であるということを示してきた。

ここまでの議論を通じて、技術的対象の発明とは人間の思考の変換である、と本論の主張を一通り示したこととなる。発明とは、単に技術的対象の自律的発展から生じるものでも、人間の主体的な能力に還元されるものでもない。本論が示す発明とは、技術的対象と人間とが相互媒介的に新たな関係を生じさせることである。本論でいうところの変換とは、技術的対象が人間を媒介に、あるいは人間が技術的対象を媒介として、存在としての新しさを獲得するプロセスとなる。

ただし、シモンドンの記述には発明を人間の能力であると考えている曖昧な節がある。3節で取り上げた「心的な連合環境」が説明される中で、発明とは想像力の産物であるとする記述が行われている。実際にシモンドンは、1965-66年のパリ大学講義にて発明概念を扱うこととなる。この講義では知覚と想像力との関係から発明を論じている。この事実から、さらなる議論を必要とするが、シモンドンの発明概念には人間の知覚として還元される能力論的な一面を含んでいる。発明と想像力との関係は、当時のフランス哲学における想像力論ないしイメージ論の観点からも興味深いものである。しかし発明を単なる人間の思考を引き写した変換ではなく、真に新しさを生じさせる生成的な変換として捉えるためには問題を含んでいる。

発明概念を知覚に基づく想像力論に位置付けてしまうことには、生成を主題とする個体化論の欠点になる可能性を潜めている。結局のところ発明とは人間が行う知覚であり、技術的対象も人間も知覚に基づいていると認めてしまうことになるだろう。その場合、発明とは技術的対象と人間の相互媒介的な生成的プロセスではなく、知覚によって説明されるものとなる。また、技術的対象と人間の等価性をサイバネティクスの発想を乗り越える仕方で議論を進めるシモンドンの議論と齟齬を生んでしまうことになりかねない。以上のように、シモンドンの存在と認識を個体化という生成において説明するという問題設定ごと知覚という観点から修正される必要さえも出てくる可能性を秘めている7。それゆえ、発明とは人間の思考の変換であるという3節までに示してきた主張をさらに解釈し直すことが求められる。すなわち、変換である発明を人間の心的な基盤となる知覚へと還元しない説明を行う必要がある。

そこで改めて、発明のプロセスを整理する。そこで参考となるのが人間と機械(machine)を対比することで発明について説明する記述である(MEOT: 190)。そこでシモンドンは「発明者」について改めて説明を行なっている。

シモンドンによれば発明を組織する発明者とは、機械と機械の作動の間において媒介を行う存在のことである。そして、シモンドンの議論において、この媒介を担う存在こそ人間なのであった。シモンドンによれば「人間としての個体は、諸機械の諸形態を情報へと変換するものとして現れる」(MEOT: 190)、以上のような存在であった。シモンドンの使用する用語がいくつか見られるが、要するに機械の作動の間に位置付けられ、変換を行う存在こそが人間なのだ。この考え方は、本論の1節で説明した記述と重なっている。そこで人間に対する位置付けは、諸機械の恒久的な組織者あるいは発明者として媒介的な役割を付与されていた。その記述と同じくして、シモンドンは改めて人間が発明において担う解釈者としての側面の重要性を指摘している。

したがって明らかであるのは、やはり発明を組織する存在としてシモンドンが認めるのは人間存在である。人間が媒介することにより行われる発明は、すでに述べているように、技術的対象にとっては不連続な瞬間である。発明とは、技術的対象の自律的な発展において見出される、人間により生み出された「跳躍」である。

ただこの発明には、2節と3節を通じて指摘したように、ある種の同型性を有していることから可能となる。シモンドンは発明の条件として連合環境を設定した。そして、この技術的対象の連合環境と人間の心的な連合環境が並行した関係を創設したときに発明が可能なのであった。シモンドンは、この技術的対象と人間の並行性について以下のように述べる。つまり、「発明をする人間と動作する機械の間に存在する同力動性の関係性は、形態の心理学者たちが知覚を説明するため同型説と名付けて想像した関係性よりも本質的である」(MEOT: 191)。シモンドンは人間と技術的対象が等価であるとき、発明が可能であると述べている。すなわち、発明は技術的対象と人間の間で、類比としてのアナロジー的関係が創設されたとき、その条件となるのである。単に人間の心的な連合環境が発明の条件なのではない。技術的対象の連合環境と人間の心的な連合環境の間に並行性という類比という真なる関係が生じる時、発明は可能となる。人間が技術的対象を操作しうるのも、技術的対象と自らの思考との間に類比としてのアナロジーが生じているからなのだ。自らの思考を操作するかのように、技術的対象を操作するのである。

シモンドンにとって、類比というアナロジー的関係は極めて重要な発想である。シモンドンにおいて、真なる類比とは、人間の心的な動作と技術的対象の力学的な動作の間で生じる並行的な関係のことである(MEOT: 191)。そして、この類比としてのアナロジー的関係が生じるのは発明という瞬間においてのみとされる。

しかし、発明者の存在を忘れてはならない。シモンドンにおいて発明を組織する特権的なシンボル的役割を付与されていたのは、人間の思考においてであった。すなわち、人間と技術的対象の類比としてのアナロジー的関係は、人間の思考を中心として組織される。シモンドンは、以下のように述べる。

この二つの動作は、日常生活ではなく発明において並行している。発明者、それは機械を動作させるにあたって自らの思考を動作させるのであり、あまりに断片的な因果性にも、あまりに統一的な目的性にも基づくのではなく、生きられた作動の力動性を辿るのであり、それは作り出されるがゆえに捉えられ、その発生に付き従うのである。機械とは動作する存在である。その力学的な機構は思考においてかつて存在し、思考であった凝集された力動性を具体化している。思考の力動性は発明の際に諸形態へと変換される。(MEOT: 191-192)

発明とは機械の機構における因果や原因として規定される目的論でも説明できない独自の回路を有している。そしてそれは、技術的対象と人間の類比としてのアナロジー的関係が、人間の思考をシンボルとして組織されることによって行われるのである。ここにシモンドンの発明論の最大の特徴を見出すことができる。シモンドンにおける発明とは、シンボルを中心として変換されるプロセスである。

シモンドンの発明とは、人間の思考をシンボルとして変換されるものである。この点は、シモンドンが「元型(archétype)」(MEOT: 192)という用語を使用していることからも明らかである。したがってシモンドンにおける発明とは、人間の思考や知覚に還元され、能力論的に説明されるものではない。発明は、人間と技術的対象のアナロジー的関係とシンボルとしての人間の思考が対称的な関係を取り結ぶときに行われる。その際に人間の思考は、アナロジー的関係を導く中心点となる。発明とは人間の知覚に還元されるものではなく、人間の知覚をシンボルとして用いることで行われるものだ。シモンドンにおける発明のプロセスは、技術的対象、人間、元型となるシンボルとしての思考という3つの項が立ち会うことで行われる媒介的で、真に生成的な過程である。

5. 結論と課題

本論文では、シモンドン哲学における発明概念を検討した。そこで、発明とは変換であるということを主張した。個体化と発明というどちらも新たな存在の生成を意味しているが、変換という作用から検討することで発明概念の内実を示した。

シモンドンの発明概念では、人間と機械とを等価な存在とすることを前提にしている。発明という契機は、自律性を備える技術的対象の発展における不連続な契機である。人間は、技術的対象の連関の間でその形態を媒介的に変換する役割を担っている。当の機械である技術的対象は、構造と機能を独立して発展させ、発明の条件となる連合環境を生み出しているとされた。他方で、人間の側でも心的な連合環境を作り出してもいた。連合環境を通じて獲得される平衡性をシモンドンは類比としてアナロジー的関係の存在を指摘した。そして最後に、発明は人間の知覚に還元されるものではなく、人間の思考をシンボルとして組織される三項関係による変換であることを示した。シモンドンにおける発明は、アナロジーとシンボルに基づくことで真の創造性を担保しようとしたと言える。個体化論の動機が存在と認識の非還元的な説明であったことを踏まえれば、発明概念も同様に徹底して新しさという主題に取り組んだ議論であるだろう。

シモンドンはなぜ、非還元的な説明を徹底しようとしていたのか。この背景には、1940年代から50年代にかけてフランス哲学に影響を与えたサイバネティクスの成果があるだろう。シモンドンは、早くからサイバネティクスを哲学の問題として取り上げた人物の一人である8。そのサイバネティクスでは、生物と機械の等価性を一つの主題としていた。すなわち、生物である人間は技術的に構成できてしまうという発想である。サイバネティクスの還元的な発想に対し、真に新しさを保証する形而上学を作ろうとしたのかもしれない。シモンドンの提示する技術的対象と人間の独特な関係は、サイバネティクスに対する問題意識という時代背景を踏まえて読み解く必要がある。

今後の課題として、変換を通じて示した発明のプロセスを個体化概念にも適用可能であるか検討することが必要である。もし存在と認識を個体化を通じて論じるのであれば、どのように個体の情報が構成され、伝達されるのかを明らかにしなければならない。情報の通信やコミュニケーションの問題というシモンドンの主題から、この変換という発想を再考することが求められるだろう。

参考文献

一次文献

Simondon,G. (2013) L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information[2005]. Grenoble: Jérôme Million. (シモンドン, G.(2018)『個体化の哲学 : 形相と情報の概念を手がかりに』(藤井千佳世監訳)法政大学出版局.)

Simondon,G. (2012) Du mode d’existence des objets techniques[1958]. Paris: Aubier.

二次文献

カンギレム, G(2002)『生命の認識』(杉山吉弘訳)法政大学出版局.

カンギレム, G(2006)『生命科学の歴史 : イデオロギーと合理性』(杉山吉弘訳)法政大学出版局.

藤田尚志(2022)『ベルクソン反時代的哲学』勁草書房.

廣瀬浩司(1995)「技術的対象の現象学--ジルベール・シモンドン思想の射程(2)」『外国語科研究紀要』43(2), pp25–45.

廣瀬浩司(1996)「生成する機械の身体--シモンドンの機械論とその技術論的転回」『現代思想』24, pp. 171–181.

金森修(2003)『負の生命論 : 認識という名の罪』勁草書房.

米虫正巳(2021)『自然の哲学史』講談社.

近藤和敬(2019)『〈内在の哲学〉へ : カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ』青土社.

Le Roux, R. (2018). Une Histoire De La Cybernetique En France. Paris : Classiques Garnier.

増田展大(2021)「創造から発明へ : カンギレムとシモンドンにおける技術論の系譜」『西日本哲学年報』29, pp. 21–39.

中村大介(2005)「個体化論の行方 : シモンドンを出発点として」『関西学院哲学研究年報』38, pp. 17–34.

中村大介(2021)『数理と哲学 : カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』青土社.

宇佐美達郎(2021)『シモンドン哲学研究 : 関係の実在論の射程』法政大学出版局.

宇佐美達郎(2022)「シモンドン哲学における技術性の概念と⼈間主義の顛倒」『フランス哲学・思想研究』27, pp. 156–167.

宇佐美達郎(2024)「無人地帯(ノー・マンズ・ランド)の行方、あるいは一般器官学の可能性」『現代思想』52(10), pp. 59–68.

米田翼(2022)『生ける物質 : アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想』青土社.

本研究は、JST 次世代研究者挑戦的研究プログラム JPMJSP2138 の支援を受けたものです。

Footnotes

Simondon,G. (2013) L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information[2005]. Grenoble: Jérôme Million. 以下、『個体化の哲学』と略す。また、同書からの引用の出典は本文括弧内に示し、略号ILFIの後に原文と邦訳の頁数を指示する。

Simondon,G. (2012) Du mode d’existence des objets techniques[1958]. Paris: Aubier. 以下、『技術的対象論』と略す。同書からの引用の出典は本文括弧内に示し、略号MEOTの後に原文の頁数を指示する。

シモンドンの技術論では、技術的進化ないし技術的展開(évolution technique)という概念が導入される。この概念からも明らかであるように、シモンドンの技術論は人間と機械を有機体として統一的に理解することを可能にしたと言える。このある種の有機体論という方向性は、有機性と無機性の間で両者を成立せしめている条件やその規範性を問うジョルジュ・カンギレムや、独自の生気論ともいいうる「(非)有機的((non)-organique)」な有機体論を展開したジル・ドゥルーズの著作にも認められ、両者は共通してベルクソンの影響下にある(cf. 藤田(2022))。シモンドンもその影響下にあることは疑いえない事実である。また、シモンドンの与えた影響については、中村(2005)が「地そのもの」という観点から検討している。中村は、ベルナール・スティグレールやドゥルーズらが、シモンドンの議論をどのように引き継ぎ、乗り越えているのかを詳細に明らかにしている。ここまで述べたように、シモンドンの議論は、確実に、ある種の生命論、ある種の有機体論が含まれた技術論である。ただ、有機的な技術論という方向性だけでは、シモンドンが技術的対象の発展プロセスにおいて人間の介入が不可欠であると考えたのかという点が十分に検討されていないと本論文は考えている。言い換えれば、有機的な技術論は生命という語義を拡張することにつながっているが、人間と技術を自然という位相へ還元してしまう恐れがある。本論文は、有機性と無機性ではなく、両者の可換性がどのように条件づけられているのかという点に着目する。従来の有機的/無機的という基準とは別の視点から、シモンドン技術論における人間と技術的対象の関係を検討することを試みている。

ただし、シモンドンの発明概念は主体の能力と完全に切り離されるものでもない。中村(2021)は、シモンドンの発明概念を1965–66年の講義録である「想像力と発明」を踏まえて検討している。中村によれば、発明概念はカントにおける「構想力(Einbildungskraft)」の問題と関連している。加えて、シモンドンの発明は技術的対象の「図式」を変形する能力として定義され、「イメージ」を変形する力能であることが明らかにされている。この哲学的背景には、ガストン・バシュラールにおける想像力論の影響が指摘されている。本論文では、技術的対象と人間の関係を問題としているため、人間の側の発明の作動については十分な検討が行えていない。今後の課題としたい。

本論文では、« milieu »という言葉に対して「環境」という訳語を当てている。しかし、« milieu »は、生体の周囲(situation)や属する状況(circonstance)という意味合いだけではなく、媒質や媒体であるということも含まれている。シモンドンにおける« milieu »の使用には、個体や技術的対象の外的状況だけを指す概念ではないことを注意する必要がある。« milieu »概念の多義性については、カンギレムが概念の歴史的発展を辿っている。カンギレムは、『生命の認識』所収の「生体とその環境」において、« milieu »概念が18世紀後半ごろに力学から生物学に導入された概念であると指摘する。« milieu »は物体の遠隔作用を記述しようとする際に使用されていたことを指摘し、二つの物体間の中間にある存在を指すものであったことを明らかにしている。こうした« milieu »概念については、金森(2003: 112–147)にて示されるル・ダンテクとそのネオラマルキズムの動向も非常に重要となる。« milieu »概念が20世紀前後のフランスの生物学や思想史の議論に組み込まれているかについては、米田(2022)がその一端を明らかにしている。« milieu »概念の多義性については、米田翼氏より頂いた有益なコメントを反映したものである。

シモンドンにおける存在の個体性は、斉一性ではなく、常に潜在的な水準が設定され、過剰性を含む存在として過飽和(sursaturée)なモデルが採用される。その内実は、『個体化の哲学』では「ポテンシャル・エネルギー」により表現される。ポテンシャル・エネルギーが現動化されるプロセスが個体化に該当する。物理学から借用されたこの概念は、質料と形式という従来の哲学的図式を乗り越えるため導入されている。『技術的対象論』においても同様の構図が採用されている。

シモンドンにおける超越論的な問題は、近藤(2019: 81–97)による指摘が参考となる。近藤はドゥルーズの内在性の問題を検討する中で、シモンドンの個体化論では主体の問題が不問とされている点を指摘している。

シモンドンとサイバネティクスの関係は、Le Roux(2018)や宇佐美(2024)を参照のこと。

 
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