2025 年 2025 巻 52 号 p. 166-180
1.はじめに
本稿は財の再配分における身体器官(眼球1や臓器等)の再配分の議論を整理・検討したものである。その中でも、財の再配分において、金銭等の再配分は認めるものの、身体器官の再配分は認めないとする立場が、どのような根拠で再配分の対象から身体器官のみを除外することを正当化しているのかについて、その正当化根拠の妥当性を検討したものである。
現代政治理論において、ジョン・ロールズ(Rawls, John B.)やロナルド・ドゥオーキン(Dworkin, Ronald M.)にはじまる、いわゆるリベラルな平等主義と呼ばれる政治理論と、自由至上主義(リバタリアニズム)の中でも(新)古典的自由主義2と呼ばれる政治理論は、基本的に私有財産制を認めつつ、その上で、一定の財の再配分も認めるという立場を取っている。これは所有権を認めつつ、同時に所有権に一定の制限をかけることも認めるという、一見ダブルスタンダードともいえる主張である。だからこそ、これらの政治理論は、双方が認められる根拠、そして、双方を認めることが矛盾ではない根拠を、各々が追求し述べている次第となる。しかし、その財の再配分について、再配分される財の内容を見ると、再配分されるのは金銭のみであり、眼球や臓器等の身体器官が再配分されることはない。もちろん、金銭以外にも、公務のように税収で提供されるサービスもあれば、経済的弱者に金銭を渡すように、健康的弱者にも医療費の補助が提供されており、その額も決して低いものではない。しかし、いうまでもなく、この世には金で買えるものと買えないものが存在する。それは公権力が市場に介入して取引を禁じているものもあれば、希少すぎて滅多に市場に出回らないものもある。そのような中で、透析患者に健常者の腎臓の1つを提供するような財の再配分は、実施されていない。これでは経済的弱者にばかり有利な再配分であって、健康的弱者にばかり不利な再配分ではないだろうか。にもかかわらず、リベラルな平等主義でも、古典的自由主義でも、なぜ財の再配分において徴収と再配分の対象から身体器官を除外することが正当といえるのかは、あまり論じられていない。ゆえに本稿では、財の再配分において身体器官の再配分だけは行わなくてよいといえる根拠を探り、その妥当性を検討したい。
2.臓器再配分論の先行研究
臓器の再配分の是非については、殊の外多くの先行研究が存在する。しかし厄介なのは、それらの議論が再配分の対象としている臓器も、再配分を行う理由や目的も、悉くばらばらな点である。例えば、ジョン・ハリス(Harris, John)の議論では、すべての臓器が再配分の対象となっており、提供者も死亡する前提である。彼が依拠するのは功利主義である。また、ジェラルド・コーエン(Cohen, Gerald A.)の議論では、2つある眼球のうちの1つが再配分の対象となっている。この場合は提供者も死亡することはなく、眼球を受け取る側も、眼球が2つともないことは死に直結しない。彼が依拠するのは平等主義である。もっとも、コーエンは身体器官の再配分の一例として眼球を挙げているに過ぎないが、身体のどの部分を再配分の対象とするかは重要な問題である。言い換えれば、なぜ再配分を行うべきなのかの理由によって、身体のどの部分が再配分の対象となるかは決まる。たとえば、再配分を行うべき理由が生存権の保証である場合、眼球は再配分の対象にはならず、対象となる臓器は腎臓などに限定される。
ほかにも、身体器官の再配分について、重要なのは身体器官ではなく、その器官によって得られる能力だと述べる議論も存在する。柏葉武秀は眼球再配分の議論について、「パーフィットやコーエンの二つの思考実験において再分配の対象となっていたのは人の眼球そのものであった。だが、本当に必要とされているのは健康な眼球ではなく、それが可能とする視覚あるいは視力のはずである」(柏葉 2005: p. 142)と述べる。この場合、人工眼球や人工臓器で代用できるのであれば、眼球や臓器の再配分は必要ないといえる。また、腎臓が無くても人工透析で代用できるのであれば、腎臓の再配分は必要ないと考えることもできるだろう。それ以外にも、橋本努は成長論的自由主義の観点から、身体への権利を「臓器」「手足」「労働」の3つの次元に分ける考察を行っている(橋本 2005)。この3つを「制御力」という観点で見ると、同じ身体器官でも手足は「制御力」に直結するが、意識しなくても動く臓器は「制御力」に直結しないと橋本は述べる(橋本 2005: pp. 21–22)。この身体の「制御力」こそが、個々人の人格に深く関わるものと考えた場合、「制御力」に関わらない臓器は人格に深く関わらないものとなり、社会的配分の対象になる可能性があると彼は述べる。
柏葉は眼球の再配分について、本当に必要なのは眼球ではなく視力であると述べるが、では視力さえ戻れば、眼球のあった場所が空洞になっていてもよいのかというと、おそらく多くの者は審美的な面で反対するだろう。橋本の議論についても、「制御力」が十分であれば義手義足になってもよいのかと問われれば、多くの者は審美的な面でも生理的感覚の面でも反対するだろう。筆者としては、身体器官の価値は、それ自体を所有しているという価値と、それが外見に及ぼす審美的な価値と、それが正常に機能しているという価値の3点が存在すると考えている。役立つ機能を持っているわけでもなく、審美的に良い効果も無い部位だとしても、だからといって、身体のその部位を取られてもよいと考える者は少ないだろう。理由の如何を問わず、身体への侵襲それ事態を嫌悪するのは生理的感覚として当然である。
また、身体は所有物か否かという問いも存在する(cf. Ryan 1987: Ch. 9)。これは身体と人格は不可分か否かという問いでもある。前述の柏葉は、リバタリアンが使う自己所有権という言葉は不自然であると指摘する(柏葉 2005: pp. 141–142)。柏葉は「ある事物を任意に処分できるからこそ、われわれはその事物を所有しているといいうる」(柏葉 2005: p. 141)と述べ、我々が眼球の再配分を受け入れがたいと感じるとき、それは眼球が自分の所有物であると実感するから受け入れがたいのではなく、眼球がいかにしても私から引き剥がしえない、絶対的に譲渡不可能なものだと信じているから受け入れがたいのだと述べる(柏葉 2005: p. 141)。おそらく、このような見解の根底にあるのは、身体と人格は不可分であるという考えだろう。筆者としては、不可分か否かはその部位によると考えている。身体と人格が不可分という議論は、身体の中でも脳のような部位であれば妥当といえる。仮に脳に病気ができた場合、脳を身体から切除しなければ死亡するが、切除すれば意識は無くなっても身体は機械に繋げば生きられるし、脊髄反射も可能であると言われても、多くの者はそれを拒否するだろう。脳を取られれば人格と不可分の意識も無くなってしまうため、この場合はまさに身体と人格が不可分といえる。しかし、それ以外の部位であれば、身体と人格は不可分にはならない。むしろ、身体は人格に従属する道具的存在にもなる。たとえば眼球、臓器、あるいは手足に病気ができて、その部位を切除しなければ死亡すると言われた場合、多くの者は切除するだろうし、切除するという判断に疑問を持つ者も少ないだろう。
これらの殊の外豊富な先行研究が存在する中で、本稿は、なぜ経済的弱者には金銭を再配分するのに、健康的弱者には臓器を再配分しないのかという切り口で、身体器官の再配分の議論を検討していくことになる。これは既存の再配分論に対して、身体器官だけが再配分の対象とならないのは不当ではないのかという問いを向ける議論でもある。そのため、それを不当ではないと考える立場から想定される反論について、ここであらかじめ簡単に回答しておきたい。まず、財の再配分が金銭だけで行われることについて、金銭は価値交換媒体であるからよいのだという意見もあるだろう。現代の刑罰もタリオの法のような「目には目を」の同害刑ではなく、基本的には罰金や拘禁である。また、そもそも財の再配分自体、渡すのは金銭だけであって、働けない者へ生活保護費を渡すことはあっても、働ける環境まで提供する訳ではない。その点において、金銭での再配分も根本的な解決を与えている訳ではないのだという意見もあるだろう。さらに平等を追求すれば、臓器が無い者に臓器を与えるなら、家族がいない者に家族を与えるのかといった問いも考えられる。これらの指摘について、筆者は財の再配分における最優先の目的は何かという観点から、身体器官の再配分と金銭の再配分の2点に絞った議論を行っている。財の再配分の目的は何か。これについては、最低限の生存権の保証、不平等の是正、各人の自己実現支援など、様々な回答が挙げられるだろう。では、この中で最優先の目的は何か。それは最低限の生存権の保証だろう。どのような手厚い再配分も、生きていなければ享受できないからである。この最低限の生存権の保証という目的は、主に古典的自由主義者が述べる目的であるが3(cf. 森村 1995)、リベラルな平等主義が述べるような、よりアドバンスな再配分の目的も、優先順位を考慮された場合、最優先となるのは、やはり最低限の生存権の保証ではないだろうか。無論、古典的自由主義やリベラルな平等主義において、生存権の保証を目的としないような財の再配分制度も存在するのかもしれないが、基本的には財の再配分を実施する時点で、最低限の生存権の保証という目的は、最優先事項として不可避的に組み込まれると考えて差し支えないだろう。つまり、最低限の生存権の保証は、古典的自由主義のような最小範囲の財の再配分であっても、リベラルな平等主義が論じるようなある程度手厚い財の再配分であっても、必ず考慮しなければならない事項となる。ここまでの議論を要約すると、筆者は最低限の生存権の保証に必要な財の再配分は何かを考えたとき、それは金銭と健康な臓器であるという結論に達するため、この2つのうち片方だけが再配分されない理由を検討すべきと考えた次第である。
改めて、本稿の議題を整理する。本稿は財の再配分における身体器官の再配分の議論を整理・検討するものである。なぜこのようなテーマを検討するのかというと、多くのリベラルな平等主義や古典的自由主義が論じる財の再配分制度は、経済的弱者に金銭を再配分しても、健康的弱者に臓器を再配分するわけではない点が、筆者には不当に感じられたからである。では、この問題が解決された政治理論とは、どのようなものだろうか。1つは、財の再配分について、金銭も身体器官も再配分を行わない政治理論である。これはいわゆるハード・リバタリアン4が採用する政治理論である。2つ目は、財の再配分について、金銭も身体器官も再配分を行う政治理論である。これはコーエンが該当する。3つ目は、財の再配分について、金銭の再配分は行い、身体器官の再配分は行わないが、それを正当化できる根拠を持つ政治理論である。本稿ではこの3つの立場の議論をそれぞれ整理・検討し、その正当化根拠を評価する。そして、最後に本稿冒頭で述べた筆者の問題意識に即して結論を述べる。以上が本稿の流れである。
3.臓器の再配分も行う/行わない政治理論
はじめに検討したいのは、財の再配分について、金銭も臓器も再配分を行う政治理論と、双方とも行わない政治理論である。本稿の問題意識は、なぜ財の再配分において身体器官の再配分は行われないのかというものであるが、このような発問をするためには、そもそもなぜ身体器官の再配分を行わなければならないのかについて、先に答える必要がある。ゆえに本稿では、身体器官の再配分を行うべき理由について、先に整理し検討する。筆者が先行研究を概観する限り、その理由は、功利主義的な理由と、平等主義的な理由の2つに大別できる。前者はハリス、後者はコーエンの議論を中心に発展している。一方、身体器官の再配分を行うべきでない理由については、自由至上主義の分野に議論が蓄積されている。同分野もコーエンのような平等主義の議論とともに、身体器官の再配分の議論を発展させている。本章では、それらの議論を功利主義、自由至上主義、平等主義の順で検討していく。
3. 1.功利主義の臓器再配分論
功利主義に依拠した臓器の再配分論については、ハリスの論文「サバイバル・ロッタリー」(1975)が挙げられる。彼は、病気のYには新しい心臓が必要で、同じく病気のZにも新しい肺が必要であるとき、健康な人を1人殺して、その人の臓器を摘出し移植すれば、2人とも救われるという例を述べる(Harris 1975: p. 81)。そこから思考実験として、社会のメンバーのうち健康な人々は全員くじを引き、その中から無作為に選ばれた人の全身の臓器を、臓器移植を受けなければ死亡してしまう人に移植するという制度を提案した(Harris 1975)。この制度により、1人の死と引き換えに多くの人が助かるのであれば、より多くの人が長生きできる社会になる。功利主義的にいえば、最大多数の最長生命を実現できるということである。この議論に対して、飯田亘之は、「健康な人は臓器提供の犠牲者になることを恐れて、結果的に使用不適な臓器の持ち主になるような生活をするであろうし、臓器が悪くなれば他からの臓器の交換が可能と考え、不健康な生活を送る者も当然出てくるだろう。そうなれば、初期の目的である最大多数の最長生命の確保は難しくなる」(飯田 1988: p. 7)と、モラルハザードの可能性を指摘している。飯田の指摘するモラルハザードは、現行の金銭による再配分においても既に起きている問題である。この制度について、ハリスが述べている例は複数あり、対象者を瀕死状態の者に絞り、瀕死のXとYを死なせるよりは、Xの臓器をYに移植して、1人は助かったほうが良いといった、飯田の指摘を考慮した例も存在する(Harris 1980)。
どちらの例においても、我々が感じる抵抗感は、積極的に殺すことと消極的に死ぬに任せることの違いに由来するものだろう。この論点は、フィリッパ・フット(Foot, Philippa R)の論文「中絶問題と二重結果理論」(1967)が先駆といえる。彼女はこの論文で、出産中の女性が生まれてくる赤子の頭蓋骨を砕かなければ死んでしまう場面を論じている(Foot 1967: p. 6)。何もしなければ母親が死ぬが、頭蓋骨を砕けば赤子が死ぬ。この場合、両者の違いは直接的介入(direct intention)の有無であることに彼女は注目した。これらの事例は、助けられる命を消極的に死ぬに任せることが積極的殺人よりも良いといえる理由が明らかでない(cf. 森村 1995: pp. 29–30, 2001: pp. 47–51)。その点が、ハリスが提案する制度の正当化根拠にもなっている。
3. 2.自由至上主義の臓器再配分論
政治哲学や法哲学において、臓器の再配分と言われてまず思い浮かぶのは、コーエンの『自己所有権・自由・平等』(1995)だろう。同著で彼は眼球の再配分制度を論じている(Cohen 1995: p. 70, p. 244)。しかし、同著の議論はロバート・ノージック(Nozick, Robert)の『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)を受けてのものであり、眼球の再配分制度についても、コーエンより先に論じているのはノージックである(Nozick 1974: pp. 206–207)。あまり注目されている議論ではないが、彼はロールズの『正義論』(Rawls 1971)における格差原理を批判する際に、次のように述べている。
自分の身体の部分に対する人々の権限(権利)はどうか。最も恵まれない人々の立場を最良化するという原理の適用は、身体の部分の強制的再配分(「あなたは何年もの間ずっと眼が見えてきた。だから今、あなたの目の片方――それとも両方――は他の人々に移植されるべきだ」)や、放っておけば若くして死ぬはずの人々の生命を救うのに必要な材料の提供に身体を利用するためにある人々を(寿命より)早く殺すこと、を含んでもおかしくない(Nozick 1974: p. 206)
ノージックは上記の問いについて、「このようなケースが許容できないものとされる根拠はどこにあるのか」(Nozick 1974: p. 207)と続け、最終的に「我々は(なぜ)身体の部分や人々の命の終結に関するこのような再配分の活動を、社会の基礎構造に組み入れることができなかったのか」(Nozick 1974: p. 207)と述べて、この議論を締めている。つまり、ノージックは、仮にロールズの格差原理が正しいといえるならば、臓器の再配分も行われることになるはずだが、それは受け入れがたいだろうという背理法で、ロールズの格差原理を批判している。この議論はまさに本稿における筆者の問題意識と重なるものである。
ノージックは自己所有権を根拠に金銭・身体器官双方の再配分に応じない立場を取るが、彼の自己所有権の議論は、なぜ人々が自己所有権を持つといえるのかが十分に説明されていない(cf. 森村 1995: p. 40, 福原 2017: p. 106)。これはトマス・ネーゲル(Nagel, Thomas)が「基礎づけなきリバタリアニズム」(Nagel 1975)と指摘した問題である。この点について、森村進は、ハリスやコーエンが述べる臓器の再配分制度に対して我々が感じる直観的な嫌悪感を、そのまま自己所有権の正当化根拠とする議論を展開している。我々が臓器移植くじに抵抗を感じるのは、自分の身体は自分のものであり、何人も他人に対して臓器の提供を要求する権利などないと信じているからであるというのが、森村の自己所有権の正当化根拠である(森村 1995, 2001)。これは大まかに言えば、自分の身体は自分のものであるという道徳的直観から自己所有権を正当化した議論である。この議論は次章で再度検討する。
一方、ノージックの自己所有権の根拠はイマヌエル・カント(Kant, Immanuel)に求められるという意見も存在する。これはコーエンやマリー・ロスバード(Rothbard, Murray N)、ロバート・テイラー(Taylor, Robert S.)の立場である。コーエンは「ノージックの理論は、諸個人は目的であって手段ではないという基底的なカント的原理を反映している」(Cohen 1995: p. 238)と述べ、ロスバードもノージックを「カント的直観主義者」(Rothbard 1982: p. 252)と形容している。福原明雄も「ノージックの自己所有権はカントの定言命法第二定式から導かれているように思われる」(福原 2017: p. 108)と述べ、「自己の主人であるという概念と、自己所有権という概念は非常に近い」(福原 2017: p. 112)と指摘する。その場合、臓器の再配分は自己所有権に依らずとも、カント的義務論から退けられるかもしれない。
とはいえ、諸個人を手段としてのみならず、つねに同時に目的として扱うべきというカントのテーゼは(cf. Kant 1785, 1788)、金銭の再配分も臓器の再配分も提供者を手段として扱うことではあるが、それと同時に提供者の人格及び尊厳を尊重しているのであれば、行ってもよいといえてしまわないだろうか。人格や尊厳を尊重するという概念自体、抽象的なものではあるが、仮に金銭を徴収することは提供者の人格及び尊厳を尊重することと両立して、臓器を徴収することは提供者の人格及び尊厳を尊重することと両立しないというのであれば、こちらも、なぜそのようにカントのテーゼを解釈することができるのかの根拠を示す必要がある。
3. 3.平等主義の臓器再配分論
ノージックがロールズへ投げかけた眼球再配分の問いに対して、答えたのはコーエンであった。彼は平等主義の立場から、両目の眼球が見える人から無作為で、政府が選んだ人の片方の眼球を強制的に取り出し、両目とも見えない人に移植するという制度を提案した(Cohen 1995: p. 70)。なぜそのような制度が妥当であるといえるのかについて、コーエンは「健康な眼球が自分のものであることは全くの幸運であるという事実ゆえに、私は自分の眼球に対する特権を失うはずである」(Cohen 1995: p. 70)と述べる。つまり、運の平等主義の観点から眼球の再配分を正当化したのが、コーエンの議論である。コーエンの『自己所有権・自由・平等』は、ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』において論じられた自己所有権の概念に応答するものであるが、彼は同著の眼球再配分の議論において、ノージックの眼球再配分の議論に答えると明言している訳ではない。しかし、同じ眼球が例に挙げられていることからも、彼はノージックが例に挙げた眼球再配分の議論を踏まえ、それに応答する意味も込めて、この議論を述べたと思われる。
ここまでノージックとコーエンの議論を検討したが、彼らの立場はロールズをはじめとしたリベラルな平等主義とは異なり、身体器官の再配分に応じるか否かについて、明確に回答している。ノージックにおいては、ロック的但し書きのような例外事項を認めるとしても(cf. Nozick 1994: pp. 178–182)、基本的には金銭の再配分も身体器官の再配分も応じない立場であり、コーエンにおいては、双方に応じる立場である。功利主義に依拠するハリスの臓器再配分論に応じられるかは別として、このノージックやコーエンの議論にはある種の説得力がある。その説得力とは、平等を標榜しつつ、特定の財のみを再配分し、それにより特定の弱者のみを救済して、それを平等と呼ぶような主張がない点にある。財の再配分を考える際、コーエンのように、金銭も臓器も再配分に応じる。なぜなら、私がお金を稼ぐ能力を持っていることも、健康な臓器を持っていることも、単なる幸運だからであると述べるのは分かる。同じくリバタリアンのように、金銭も臓器も再配分に応じない。なぜなら、それは私の所有物だからであると述べるのも分かる。しかし、金銭の再配分には応じるが、臓器の再配分には応じないというのは、それが不当ではない根拠を述べなければ、恣意的な平等主義と非難されるだろう。ゆえに、本稿が探りたいのも、この金銭と臓器の間に引かれている線引きの根拠である。
しかし、多くのリベラルな平等主義や古典的自由主義は、金銭の再配分には応じるが、臓器の再配分には応じないという立場を取っていながら、それが不当ではない根拠を述べていない。というより、財の再配分における財の中身が曖昧なまま議論を進めているように見える。もちろん、リベラルな平等主義においても、財の再配分における財の中身に注目したような議論は存在する。ナンシー・フレイザー(Fraser, Nancy)の「再配分から承認へ?」(Fraser 1995)や、アマルティア・セン(Sen, Amartya)が論じる「潜在能力の平等」(cf. Sen 1992)などが、その好例といえるだろう。これらの議論は、金銭による再配分だけでなく、承認や潜在能力といった目に見えない財や価値についても検討することを促したものである。いうまでもなく、現在の政治哲学における財の再配分の基準は、ロールズやドゥオーキンのような資源の平等、コーエンのような運の平等だけではない。それらを叩き台に展開された、福利(厚生)の平等、非関係主義的な平等、優先性説、充足性説など、数多くの議論が存在する。それらの議論は古典的自由主義者にとっても、なぜ人々は最低限であっても福祉への権利を持つといえるのかを検討する際に重要なものとなるため、同立場からも論及されている次第となる(cf. 橋本 2007, 福原 2017)。そのような点で、リベラルな平等主義と古典的自由主義は、現在一層近づいているといえるだろう5。しかし、豊富に展開されたそれらの平等論ないし再配分論においても、身体器官の再配分という観点は未だ手薄である。
4.臓器の再配分は行わない政治理論
前章で取り上げた議論は、財の再配分について、金銭による再配分も、身体器官の再配分も、双方行う、または行わない政治理論であった。本章では、財の再配分について、金銭による再配分は行い、身体器官の再配分は行わない政治理論のうち、その理由を述べている議論や、金銭のみを再配分の対象とすることの説明がつく理論を検討していく。筆者が先行研究を概観する限り、それらは、自己所有権の適用範囲を狭く解釈する議論、複数の道徳的直観の共存というかたちで正当化する議論、再配分に使用できる財を無主物に限定する議論の3つに大別できる。それらを順に本章で検討していく。
4. 1.自己所有権の解釈:ジョン・クリストマンの場合
はじめに検討するのは、自己所有権を認めつつ、それを解釈することによって、金銭の再配分を認め身体器官の再配分を認めないことを正当化した議論である。これはジョン・クリストマン(Christman, John)の議論に見ることができる。そもそも、ロック的所有権ないしロック=ノージック的自己所有権には、森村進が自己所有権を狭義の自己所有権(身体所有権)と広義の自己所有権(労働所有権)に分けるように(森村 1995)、ジョン・ロック(Locke, John)が『統治二論』において述べた「人は自分自身の身体に対する固有権を持つ(Man has a Property in his own Person)」(Locke 1690: Book 2, Ch. 5, Sec. 27)という一文に代表される自己の身体への所有権(身体所有権)と、自己の労働を加えることによって外物を私有化する労働所有権の2つが存在する(Locke 1690: Book 2, Ch. 5)。この2つの自己所有権について、狭義の自己所有権のみを認めようとするのがクリストマンの議論である。
もっとも、クリストマンに限らず、多くのリベラルな平等主義者も、自己所有権を認めるかは別として、金銭による再配分を認め身体器官の再配分を認めない点において、(リバタリアンの言い方では)狭義の自己所有権のみを認めているといえるだろう。それに対して、狭義の自己所有権と同じく広義の自己所有権も認めようとするのがリバタリアンの議論である。筆者が前章においてノージックの格差原理批判を取り上げたように、そもそもロールズのようなリベラルな平等主義者であっても、身体器官の再配分は受け入れがたいと考えられる。だからこそ、リバタリアンの議論は、外物への権利も身体への権利と同種のものとすることによって、身体への権利だけでなく外物への権利も、格差是正のための財の再配分という説得力ある理由であっても侵害を許さないほどに、強固に守ることができるのである。この論法の要は、外物への権利を身体への権利と同じレベルで主張するところにある。それにより、我々は目の見えない者に2つある眼球の1つさえ提供せず、臓器提供を受けなければ死んでしまう者に2つある臓器の1つさえ提供しないのに、なぜお金が無くて困っている者だけは私財を提供して助ける必要があるのかという主張を可能にしている。この主張はコーエンのような議論を批判することはできない。むしろ、コーエンの平等主義がいかに矛盾のないものであるかを際立たせるだけである。しかし、リベラルな平等主義が述べる平等の矛盾を突くことはできる。その点において、リバタリアンの議論とコーエンの議論は表裏一体の関係にある。
これについて、クリストマンは著書『財産権の神話』(1994)で、自己所有権は自己支配(Control ownership (of oneself))の権利であり(Christman 1994: p. 149)、自己の行動から収入を得る権利は含まないという議論を展開する(Christman 1994: pp. 155–157)。要約すれば、「自己支配の権利と収益権とを峻別する」(柏葉 2005: p. 139)のが、クリストマンの自己所有権論である。彼はそのように自己所有権を解釈することによって、自己所有権と矛盾しない財の再配分制度を論じている。この解釈によって自己所有権の適用範囲を限定するという方法は、財の再配分を認めることと身体器官の再配分を拒絶することを両立させる際の好手といえるだろう。クリストマンは、私が自己をコントロールする権利を持っているといっても、他者を巻き込んだ取引をしたり、そこから利益を得たりする権利を持っているわけではないと述べる(Christman 1994: p. 155)。その理由は、取引は本来他者の趣味や決定に依存しているため、市場における取引にまで自己所有権を認めてしまうと、自己支配の権利は他者支配の権利にもなってしまうからというものである(Christman 1994: p. 155)。これについて森村は、彼の論の基礎にあるのは、自己の身体の直接の支配から得られる利益はある意味では自然なものだが、他者との取引から生ずる利益は市場という制度に依存する規約的・人工的なものだから基本権の対象ではなく、平等といった価値に従うべきという観念であると整理し(森村 1995: p. 27)、市場取引は確かに規約的なものといえるが、強制的な再配分とは違って、誰の何の自由の制限もなしに成立しうるという点で、それは自己の身体の支配権と共通の自然権的な性質を持っており、市場取引も自然権として正当化することができると反論する(森村 1995: p. 27, pp. 107–108)。
クリストマンの議論は、身体器官を再配分の対象から除外できる理由を説明できてはいる。しかし、その根拠となる市場取引を他者支配の権利と結びつける議論は賛同しがたい。クリストマンが述べる通り、市場取引はたしかに他者の趣味や決定に依存している。これは逆にいえば、その他者は取引するか否かを自らの意思で自由に選択できる権利を持っているということである。市場は取引を行うか否かを個々人が自由に選択できる場である。ゆえに、筆者としては、人々が等しく取引を行う・行わない権利を持つ市場取引を、他者支配の権利とは考えられない。
4. 2.複数の道徳的直観の共存:森村進の場合
次に検討するのは、複数の道徳的直観の共存によって、再配分の範囲を身体器官の再配分以外で達成される最低限の生存権の保証に限定する議論である。これは森村進の議論であり、彼は狭義・広義の自己所有権を認めつつ、同時に財の再配分も一定程度認める古典的自由主義の立場である。彼は狭義の自己所有権、広義の自己所有権、そして最低限の生存権の保証の3点を、複数の道徳的直観の共存という方法で、矛盾なく成立させようとする。
前章で述べた通り、森村は自分の身体を所有しているという生理的感覚から導かれる道徳的直観を自己所有権の正当化根拠としている。森村曰く、臓器移植くじを多くの人が嫌がるのは、自分の身体は自分のものであるという道徳的直観を持っているからである(森村 1995, 2001)。福原の言葉を借りれば、これは身体を所有しているという事実と、そうであるべきだという規範を、道徳的直観によって繋げることで正当化を行った議論である(福原 2017: pp. 96–97)。ここまでが、森村の狭義の自己所有権(身体所有権)の議論である。次に、森村は広義の自己所有権について、リバタリアン一般が採用するロック的所有論と同じく、狭義の自己所有権から外物への権利である広義の自己所有権を導出する議論で正当化している(森村 1995: pp. 44–59)。そして彼は、生存権は自己所有権に優越する権利であると述べる。森村は、自己所有権論者は生存権の主張を受け入れることができると主張する(森村 1995: pp. 91–92)。その根拠は、ロックの「慈悲(charity)」の議論(Locke 1690: Book 1, Ch. 4, Sec. 42)、またノージックが述べた「個人の権利は壊滅的な道徳上の惨事を避けるためには侵してもよいのか」(Nozick 1974: pp. 29–30)という発問について、侵す可能性も否定されていないことに求めている(森村 1995: pp. 91–92)。まとめると、森村の自己所有権論は、狭義・広義の自己所有権を認めつつ、自己所有権には生存権の保証も含まれているのだと主張するものである。無論、この自己所有権の議論は、ネーゲルが指摘する通り、なぜ人々は自己所有権を持つといえるのかを説明できなければ成立しないため、彼はハリスやコーエンの臓器再配分論を例にした道徳的直観の議論から、自己所有権を正当化するのである。しかし、この議論は、最低限の生存権を保証するために金銭も臓器も再配分されるのではなく、直観の議論で臓器再配分論が挙げられている通り、おそらく金銭のみが再配分の対象となっている6。森村を含め、リバタリアンが採用するロック的所有論は、身体への権利の延長として外財への権利も正当化されている点において、一方のみに制限をかけることは難しいように思われる。これについて、森村はどのような根拠で、最低限の生存権は広義の自己所有権を優先しても、狭義の自己所有権を優先できないとしているのだろうか。
福原はこの議論を、「森村は身体所有権(狭義の自己所有権)・労働所有権(広義の自己所有権)・最低限の生存権という人道的配慮の三つが、いずれも採用できる直観だとしてきた」(福原 2017: p. 102)と整理している。そして、この三つのセットはそれほど受け入れやすい組み合わせではなく、広義の自己所有権と最低限の生存権という人道的配慮は、そのままでは整合的に両立させることはできそうにないと述べる(福原 2017: p. 102)。つまり、森村の議論は、「直観の優先性を判断する根拠は何か」(福原 2017: p. 102)という点が疑問となる。それについて、森村は次のように述べる。
相互に還元できない異なった原理や価値の間で優先順位をつけられないことがあるのは我々の道徳感覚の避けられない特色であって、そこに必ず順位をつけなければならないという要請を課する方が強引である(森村 2006: pp. 428–429)
異なる直観同士が優先順位をつけられないことについて、それは当然起こると彼は述べる。また森村は、自分の議論に例外を持ち込むために場当たり的に直観に訴えかけているのではなく、自分が熟慮しても不合理とは思えない無視できない直観を道徳理論の中に体系的に取り入れようとしているのだと述べる(森村 2006: p. 429)。たしかに、複数の道徳的直観の中には、優先順位づけの根拠を述べる必要性の低い直観の組み合わせもあるだろう。しかし、身体への権利、外財への権利、最低限の生存権の保証の3つの直観のセットは、なぜ生存権が一方の権利のみ優先することができるのかについての根拠が無ければ、筆者としては受け入れがたい。
4. 3.無主物のみの再配分:ヒレル・スタイナーの場合
最後に検討するのは、再配分に使用する財を無主物に限定する議論である。本稿の問題意識は、経済的弱者に金銭を再配分しても、健康的弱者に臓器を再配分するわけではないという点にある。ノージックやロスバードのようなハード・リバタリアンは、この問いに矛盾なく答えられる点は評価できるが、同時に一切の財の再配分を行わないという点で、平等や社会正義という観点からは批判の対象となる。これについて、個人の身体所有権を認め、労働所有権も(一部)認めたうえで、財の再配分も達成することを追求した議論が存在する。左派自由至上主義(レフト・リバタリアニズム)と呼ばれる、ヒレル・スタイナー(Steiner, Hillel)の所有論である。彼は著書『権利論』(1994)において、遺産や無主物に注目した再配分論を展開する。スタイナーが依拠する議論はノージックとコーエンであり、自己所有権も労働所有権も認めるが、占有される前の無主物資源への所有権は認めないという立場を取る(Steiner 1994)。自己所有権と労働所有権についてはリバタリアン一般の見解を採用し、無主物資源についてはコーエンの説を取るのが、スタイナーの立場である。
スタイナーの議論の最たる特徴は、再配分に回す資源として、遺産に注目した点にある(Steiner 1994: Ch. 7)。彼は遺産という無主物を共有財産として使うことで、リバタリアンが求める所有権の保証と、平等の達成を両立している。遺産については森村も議論しており(cf. 森村 1995: pp. 111–115, pp. 201–203)、「遺贈にせよ法定相続にせよ、自己所有権テーゼからは正当化しがたい。人が死後まで遺産の処分権を持つべきだと考える理由がないからである」(森村 1994: p. 201)と述べている。また、同じ理由から相続税の大幅な引き上げも提案している(森村 1994: p. 202)。とはいえ、スタイナーの無主物に対する見解は、リバタリアン一般が認めているものではない。森村の言葉を借りれば、リバタリアン一般の無主物に対する見解は「早い者勝ちで占有できる」(森村 1995: p. 28)ものであり、対してスタイナーは占有できる資源の平等を主張する(Steiner 1994: pp. 231–236)。スタイナーの場合、資源を占有する機会があるにもかかわらず、そうしない人がいると、その資源だけが誰にも活用されなくなり、無駄になる可能性がある。その点において、ロック的但し書きを踏まえた早い者勝ちの占有のほうが資源を有効活用できると森村は指摘する(森村 1995: p. 28)。
スタイナーの所有権理論は、労働所有権を認めてはいるものの、リバタリアン一般が労働所有権の1つとして認める無主物先取を認めていない。しかし、再配分の対象を無主物に限定することで、本稿の問題意識である、経済的弱者に金銭を再配分しても、健康的弱者に臓器を再配分するわけではないという点には答えられている。スタイナーの場合、再配分に使用する財は無主物しか認められていないため、理由なく臓器の再配分だけを行わないわけではない。また遺産についても、死者が生前所有していた財産だけでなく、死者の身体も無主物と考えるならば、死後の臓器も再配分の対象となるだろう。
5.終わりに
本稿は財の再配分における、身体器官の再配分の議論を整理・検討したものである。その中でも、財の再配分において、金銭等による再配分は認めるものの、身体器官の再配分は認めないとする立場が、どのような根拠で再配分の対象から身体器官のみを除外することを正当化しているのかについて、その正当化根拠の妥当性を検討したものである。
ここまでの議論をまとめると、はじめに、なぜ臓器の再配分を行わなければならないのかについて、その理由は功利主義的な理由と平等主義的な理由に大別できる。ハリスのような功利主義を根拠とした臓器の再配分論は、助けられる命を消極的に死ぬに任せることが積極的殺人よりも良いといえる理由が明らかでない点で説得力を持つ。コーエンの議論も、金銭も臓器も再配分するという首尾一貫した平等主義を貫く点で説得的である。そして、彼らの臓器再配分論に相対するのが、リバタリアンが論じる自己所有権の議論である。いうまでもなく、ノージックやコーエンのような財の再配分の一切を認める・認めない立場であれば、財の再配分において身体器官の再配分だけを行わない理由は何かという問いの対象にはならない。しかし、たとえ最低限であっても生存権の保証に言及した政治理論であれば、再配分の対象から身体器官を外すことについての説明が求められる。その点では、リベラルな平等主義から古典的自由主義まで、本稿の指摘の対象となる政治理論は幅広いといえるだろう。
では、金銭の再配分を認めたうえで、身体器官の再配分を認めないような財の再配分は、どのように正当化できるのだろうか。これについて、1つは、自己所有権を自己支配の権利と解釈して、市場取引のような他者との取引で得た財には自己所有権を適用しないという方法がある。これはクリストマンの自己所有権論であり、再配分の対象から身体器官を除外する理由を説明できてはいるが、その論拠である彼の市場取引を他者支配の権利と結びつける議論については疑問が残る。2つ目に、複数の道徳的直観の共存で正当化する方法がある。これは森村進の方法であり、彼はロック的所有論に依拠して、身体への権利の延長として外物への権利を正当化している。しかし、この方法では身体と外財が同種の権利で正当化されているため、一方を財の再配分の対象から除外することが難しくなる。この点は森村に限らず、他の古典的自由主義者の議論にも当てはまる問題だろう。ゆえに、この身体への権利、外財への権利、最低限の生存権の3つを共存した道徳的直観のまま正当化しようとするのが森村の議論であるが、こちらもなぜ直観の優先順位を身体への権利、最低限の生存権、外財への権利の順とすることができるのかについての説明は必要であると感じられる点で、臓器の再配分だけを行わない理由として盤石とは言い難い。3つ目に、再配分に使用できる資源を無主物に限定する方法がある。これはスタイナーの政治理論である。彼の場合、財の再配分に使用してよい資源を無主物に限定しているため、その結果として金銭のような外財は再配分され、生きた人間の臓器は再配分されないだけである。そのため、理由なく臓器の再配分だけを行わないわけではない。この方法は財の再配分を認めつつ、再配分の対象から生者の身体器官を除外することについて、最も矛盾なく成功した例といえよう。
結論として、財の再配分の対象から身体器官を除外することを正当化できる根拠としては、スタイナーにおける再配分に使用できる資源の設定が、最も説得的であるといえる。対して、ロック的所有論ないしロック=ノージック的自己所有権論は、身体への権利と外財への権利を同種の泉源から正当化している点で、ノージックやロスバードのような一切の再配分に応じない立場であれば問題はないが、一定の再配分を認める古典的自由主義の立場においては、最低限の生存権を保証するための臓器の再配分に応じないことは矛盾となり得る。以上が本稿で検討した範囲での結論である。
参考文献
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本稿では眼球も臓器の1つとして扱う。
本稿では古典的自由主義も、ジェイソン・ブレナン(Brennan, Jason)のリバタリアニズム区分における「新古典的自由主義(Neoclassical liberals)」(Brennan 2012: pp. 11–12)も、双方含めるという意味で「(新)古典的自由主義」という記載を使っている。ブレナンは両者の違いについて、後者は社会正義(social justice)に明確な関心を持っている点を挙げているが、筆者としては、本稿で扱った古典的自由主義者を含め、古典的自由主義の立場も大なり小なり社会正義への関心といえるものを持っていると思われるため、両者の違いは些細なものと考えられる点から、両者を一括りで扱っている。ブレナンの議論、及び古典的自由主義と新古典的自由主義の違いについては、福原(2017: pp. 15–23)なども参照。
近年は古典的自由主義の立場からも、最低限の生存権の保証という範囲に留まらない、またはこだわらない再配分論が提出されているが(cf. 橋本 2007, 福原 2017)、それについてはここで深く触れない。
本稿のハード・リバタリアンの定義は、ブレナン(2012: pp. 10–11)に従う。
リベラルな平等主義と古典的自由主義の共通性を指摘する議論としては、デイヴィット・アスキュー(1994, 1995)、また、アスキューの議論を検討した福原(2017: pp. 5–15)などが挙げられる。
この点は福原も、森村が述べる最低限の生存権を、広義の自己所有権(労働所有権)のみ制限できる権利と解釈して議論を進めている(福原 2017: pp. 95–106)。