哲学の探求
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個人研究発表
麻雀の哲学
拡張ベルクソン主義と深層強化学習型AIのモデル検討を導きとした文理融合型アプローチを通じて
中谷 碩岐宮原 健輔山道 宏紀大原 迪久栗 汰道
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2025 年 2025 巻 52 号 p. 238-254

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1.はじめに

本論文は、現在中谷が構想している日本式麻雀をモデルとした哲学理論「麻雀の哲学」について、筆者たちの研究班(以下、「私たち」)の共同研究1をもとに、現時点でのその大枠を素描することを目的とするものである。具体的には本論では「麻雀」という営みにおけるプレイヤーやAIの思考や学習プロセスを再検討し、その作業を通じて従来のそれとは異なる麻雀AIのモデルのプロトタイプを提示すると共に、その哲学的意義を示すことを試みる。

結論から言えば「麻雀の哲学」ということで私たちが問題にしているのは、エージェントの世界に対する認知の枠組みを認知に先立って規定している「非-身体的な」領域である。この領域を具体的・実証的事例と共に主題化可能であることこそが、私たちが考える「麻雀の哲学」の最大の哲学的意義であって、私たちは以下の議論において、麻雀を特にロボット研究と(ベルクソンの議論を補助線として)対比することによって、その独自の位相を指摘すると共に、その議論が有する射程を確認していくことになるだろう。

2.研究背景と先行研究の状況

私たちが研究をはじめたのは、極めて素朴な疑問からだった。つまり、人間は将来を見通せない状況の中で、どのように判断するのだろうか、という疑問である。より仰々しい言葉遣いで言えば「不完全情報下において、知能はどのように判断するのだろうか/その知能の判断をどのようにモデル化できるだろうか」ということになるだろう。

「不完全情報社会」や「世界の偶然性」という社会/世界認識を共有しつつ、それを知能が「飼い馴らす」(ハッキング)にはどのような方途が存在するだろうか、と問うこうした議論は、近年様々な領域で展開されている(cf. 北野2014)。たとえばイアン・ハッキングは、この問題へのひとつの解として統計学や確率論を取り上げ、その歴史的分析に取り組んだ(Hacking1975, Hacking1990)わけだが、当然のことながら、こうした巨大な問いに対してはその他にも多様なアプローチがありうる。たとえば、こうした統計的手法が社会の巨視的な分析を重視するのに対して、ミクロ経済学はさらに狭い(個人レベルの)不確実性下のエージェントの行動を扱う。こうしたアプローチはたとえばフォン・ノイマンによって創始された「ゲーム理論」に典型的に見られるものであるといえるだろう。

2-1. 関連分野の動向①:ゲーム情報学

ところで「ゲーム理論」という名前から容易に見てとれるように、こうした理論においてはしばしば社会や市場を「ゲーム」という形式において理解し、その中で意思決定を行う人間をそのプレイヤーとみなすという方法論が採用される。したがって、こうした理論の重要性の増大は、翻って(文字通りの)ゲームの研究を「複雑な社会の中でどのように意思決定を行うか」という問いを巡るものとして活性化させてきた。実際のところ、コンピュータモデルの発案者でもあったフォン・ノイマンその人以来、ゲーム研究はAI研究との関係において最も重要な研究分野のひとつであり続けており、現在も情報処理分野の日本最大の学会である情報処理学会の下部会「ゲームプログラミングワークショップ」において、将棋や囲碁と言った種類のゲームに関する研究が盛んにおこなわれ「ゲーム情報学」と呼ばれる研究群を構成している。

私たちもまた、こうした関心から、ゲームという主題に着目する2。しかし、私たちの関心に照らして見たとき、こうした分野において古典的に中心的主題として扱われてきた完全情報ゲーム、すなわちプレイヤーと切り離して、ゲームそれ自体として「解」を出すことが権利上可能である種類のゲームはさほど興味をそそられるものではない3。それに対して近年、ゲーム情報学研究の主眼はむしろ、さらに現実社会に近い不完全情報ゲームへ移行しつつある(松原2016)。そして現在(人狼のようなゲームと並んで)こうした「不完全情報ゲーム」の代表として注目を集めているのが、私たちの主題である「麻雀」なのである。

こうした主題の移行は、その移行を可能にしたAI開発の方法論の発展とも重なっている。将棋や囲碁に代表される複雑な完全情報ゲームにおいても既に、従来のモンテカルロ法などの探索木による手法では探索空間が膨大になり、AIプレイヤーの開発が困難であることが指摘されてきた。初期の麻雀AIでもまた、将棋や囲碁と同じく上記の手法が採用されている(とつげき東北2004、作田2007、小松2012、水上2014)が、麻雀のような不完全情報ゲームにおいては「対戦相手のモデル化」(相手が聴牌しているかどうかの推定など)と「長期的な視点での報酬」(高い打点を目指すべきかの判断など)といった要素がこの手法では考慮に入れることが出来ず(作田2007)、その研究は将棋・囲碁などと比して更に後れを取ってきたといえるだろう。

しかし、ニューラルネットワークの登場によってこうした状況に変化が訪れる。この手法の登場によって、場に開示された情報から相手の待ちを予測する(=相手モデル化)が可能になったのである(e.g. 我妻2014)。既に将棋においてもBonanzaは機械学習を用いた評価関数の作成によって高い成果をあげていた(保木・渡辺2007)が、麻雀においても、たとえば水上らは従来のモンテカルロ法や探索木を用いた手法に平均化パーセプトロンといったニューラルネットワークの技術を組み合わせ(水上2019)、麻雀AI「爆打」を開発する。

ただし水上らは学習に際して重視する特徴量を主観で(開発者の裁量で)決定している(清水2021)。こうした「特徴量を人間が設計しなければならない」という点は機械学習にとって本質的な課題であった(cf. 松尾2015:137)。こうした状況を更に一変させたのが、2010年代前半の計算機の発達、そして深層学習の登場である。深層学習が革命的であったのは、自己符号化等の技術を用いて、特徴量抽出を人間による重みづけなしに行うことができ、強さが飛躍的に向上する点に存する(松尾2015:第5章)。実際にこうした成果を受けて、次々と強力な将棋プレイヤーや囲碁プレイヤーが開発されたが、麻雀AIとしては、とりわけ2020年にマイクロソフトによって発表されたSuperPhenix(以下Suphx)がトッププロに近い強さを持つ。その「衝撃」を伝える開発チームによる言葉は、世界最高の麻雀AIを開発する彼らが、私たちと同じ関心でこの「麻雀」というゲームに向き合っていることを示している。

麻雀を超えて、不完全情報ゲームにおけるAIの躍進が、非常に複雑な現実世界の意思決定問題に対処し、人間がより大きな課題に対処するのに役立つことを期待しています。 (お知らせ2020:5)

以下で、私たちもまた、この深層学習型の麻雀AIのモデルの検討を通じて、不完全情報下における知能の構造をモデル化することを試みる。麻雀という具体的な主題を設定することによって、究極的には実装を念頭に置いた具体的なレベルで議論を行うことが出来るし(これは哲学と理系諸分野の学際研究においてはこのうえなく重要である!)、こうした先行研究の蓄積の肩の上に乗ることも出来るだろう。

2-2. 関連分野の動向②:ロボット研究

前節で論じたゲーム情報学は「世界をゲームとしてモデル化し、その中のプレイヤーの働きの分析から知能を理解する」というものであると要約することができ、特に不完全情報ゲームたる麻雀のAIに関する研究は、私たちの理論構築の最も重要な導きとなる。しかし当然ながら、「不完全情報下(すなわち現実世界)における知能の構造」という私たちの主題関心から見て無視できないものとして、より直接的に人間の知能にアプローチしようとする研究群も存在している。その中でも本論ではとりわけ、ロボット研究の知見を参照したい。

近年、人間/人工知能を数理的に説明するための有力なモデルとして、自由エネルギー原理Free Energy Principleが注目を集めている(Parr et al. 2022)。この原理は「脳の認知機能が機械学習の理論によって説明可能であることを示唆しており、生物とコンピュータという違いに依らない共通の知能の存在を示唆している」(磯村2018:83)。こうした神経科学の成果は、機械学習を用いたAIを実際にロボットとして開発することを通じて知能の構造を解明しようとする構成論的アプローチを採用するロボット研究の重要性を高めているように思われる(後述)。

奇妙に思われるかもしれないが、こうした「ロボット」の研究は、「ゲーム」だけではなく「知能」の構造を問題にしている点において、同じ(狭義の)ゲームである完全情報ゲームの研究よりも私たちの関心に近い。これは、完全情報ゲームにおいては、既に述べたようにゲームの形式が単独で議論の中心となるのに対して、ロボット研究においては、まさにエージェントであるロボットが世界とどのように関わるのか、という点において(当然のことながら)エージェントの側が議論の中心となるからである。とりわけ近年のロボット研究は(従来のアプローチが有していた「記号接地問題」「フレーム問題」という課題の解消やロボットの環境に応じた柔軟性の実装、人間が明確な正解を有さない課題の対処といった、ゲーム研究とは異なる動機によって駆動されたものではあるものの)上述した情報処理分野における不完全情報ゲーム研究への移行と、深層学習の重視という方向性を共有している。こうした点において、ロボット研究もまた、深層学習型AIのモデルの検討を通じて人間の知能をモデル化しようとする私たちの議論の導きの糸になってくれる。

しかし、私たちの主題は、完全情報ゲームではないのと同じく「ロボット」でもない。言い換えれば私たちは「ロボット」ではなく「麻雀」という主題を取り上げることで、新たに見えてくるものが存在すると考えているということだ。

それでは、こうしたロボット研究の議論と私たちの「麻雀の哲学」はどのように異なり、そしてとりたてて後者を取り上げることに何の意味があるのだろうか。次節では、現在のロボットAIの開発の議論の導きの糸として論じられており、私たちもまた議論の導きとするフランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)の哲学の検討4を通じて、現在盛んにおこなわれている「ロボットAI」に対して私たちが着目する「麻雀AI」がどのような理論的独自性を有しているのか、という点を明確にしていきたい。

3. 「麻雀の哲学」の基本構造

3-1. 拡張ベルクソン主義・ロボット・麻雀

ベルクソンはその主著『物質と記憶』(1896)において、伝統的な哲学の立場である実在論(世界は意識から切り離されてそれ自体存在する)と観念論(世界は意識の表象に過ぎない)という二つの立場を調停し、世界を「イマージュimage」の総体としてモデル化した(ベルクソン2019:10)。その構造においては、物質イマージュが「機械論的因果」(ベルクソン2019:48)に従って作用に対して反作用を即座に返すのに対して、意識はその中に存在する「身体」という特殊なイマージュを媒介として反作用を遅延させ、そのことによってそこに機械論的因果とは異なる行動の可能性を開く。ベルクソン哲学の枠組みにおいては、この身体イマージュによるイマージュ総体への介入が「遅延」「減算」「縮約」といった語と共に中心的な主題となるのだが、私たちにとってはさしあたり、ベルクソンの議論がこうしたイマージュを世界それ自体とみなした上で、そのイマージュにエージェントが内的に接地しているとみなすことで、世界に対する直接的なアクセス可能性を担保する立場を支持していること、そして「身体」という審級がそのアクセスの鍵となっていること、という二点が重要である。

「生物の運動側の条件が知覚空間を定義する」(平井2022:237)と述べられるように、ベルクソンにおいて、このアクセスは「生物種としての人間特有のセッティング」(平井2022:49)としての複数の「スケール」に規定される。たとえば、末端神経での反射は(原生生物においてそうであるように)極めてミクロな時間スケールによって外界に対して反作用を返す(即座に反応する)が、人間の思考のような高次の認知は長いスケールによって遂行される。それゆえ、通常一個体と見なされるエージェントの内部にも複数のスケールを認め、それによる知覚(インプット)と行動(アウトプット)の規定を行うのがこの議論の特徴であるといえるだろう。

平井自身も指摘するように、こうした「マルチスケール」に基づく議論は、他の科学の領域において展開されている(平井2022:51)が、とりわけ類似の議論が近年の人工知能/ロボット研究に多く見られることは注目に値する5。いくつか紹介しよう。

たとえば谷口忠大らが展開している「記号創発ロボティクス」(谷口2014; 2020、谷口編2024)は、ユクスキュルの「環世界」の議論を参照しつつ、ロボットの知覚する世界のあり方が感覚器(センサー)と運動器(モーター)によって「閉じている」(谷口2014:27)ことを強調し、その中でどのように言語が「創発」するのか、どのようにロボットが「身体経験」から「概念」を構成するのかを論じている。また谷淳は、記号接地問題を解消し「伝統的な記号主義からのラディカルな移行」(谷2022:13)を果たすべく、複数の時間スケールによって構成された神経回路モデルを提案している(谷2022:第9章)。三宅陽一郎はユクスキュルの環世界論やギブソンのアフォーダンス論をAIのモデルとして高く評価しつつ、ベルクソンの議論を導きとしてデジタルゲームのエージェント開発を行っている(三宅2016; 2024)。

私たちの考えではベルクソンの議論、および平井によるその「マルチスケール」的解釈は、エージェントの「接地問題」という議論を解消するという点においてこうした議論と方向性を共有しており、かつその立論において知能の「創発」という局面を重視する点において議論の相性がよい。実際、こうした議論は近年交叉(人工知能学会監修2024)しつつあり、今後文理両輪で更に展開されることが期待される。

こうした動向に倣って、私たちもまた、このベルクソンの議論と「マルチスケール」を麻雀AIのためのモデルとして採用したい。後述するように、現在最強のAIであるSuphxの学習方法を見る限り、長期目標を考慮に入れた麻雀AIはより強い(≒高度な知能を有する)ことが知られているが、平井=ベルクソンのモデルはこの時間軸という視座をAI開発に組み込むことを可能にする。とりわけ「伝説効率」と呼ばれるような、通常の麻雀AI開発では考慮に入れることの出来ない極端な事例を含めてモデル化することを可能にする点で、平井=ベルクソンの議論は有用なものであるように思われる。

伝説効率とは「その局の収支に照らしてどちらが得かが微差であるような打牌選択においては、もしそれが成功した際に「伝説」となるような、すなわち記録に残って称賛される選択を取るべきだ」という、日本プロ麻雀協会所属の麻雀プロ渋川難波の主張である(渋川2020)。こうした渋川の主張には、一定の説得力がある。たとえば、2018年の放送対局「芸能界麻雀最強位決定戦 THEわれめDEポン」において、岡田紗佳は伝説の役満である九蓮宝燈を和了し、大きな話題となった。翌年岡田はカドカワサクラナイツにドラフト指名され、トップリーグであるMリーグに参戦する。当然のことながら、こうした事例を念頭に置いてプロは麻雀を打つことになるだろう。こうした事例は、ある試合における打牌選択に選手のキャリアという半荘を超えたスケールが折り込まれ、その判断に小さくない影響を与えている事実を示している。

しかしもちろん、選手たちは通常プレイする際には特定の「スケール」だけで麻雀を打っているわけではない。麻雀プレイヤーは「局収支」から「半荘収支」、はては「伝説効率」に至るまで、長短さまざまな時間スケールを同時に生きているのであり、麻雀における打牌選択を規定する知能の構造は、こうした要因に規定されている。麻雀をプレイするエージェントの中に複数の時間スケールが存在しており、その並列が最終的な打牌選択に影響を与えるというこの状況は、現状の麻雀AI開発の枠組みを超出するものでありモデル化が困難であるが、その理解に際してベルクソンの議論とそのMTS解釈は有用な道具立てであり得るだろう。

3-2. 研究仮説

しかしここで重要なのは、こうした平井=ベルクソンの議論をAIのモデルとするにあたって「麻雀」と「ロボット」が有する差異である。さしあたり、前節で確認した私たちにとって重要な平井=ベルクソンの主張を確認・整理しておこう。あらかじめ言えば、私たちは②を支持するが、①と③を部分的に変形させる。

  1.    エージェントの知覚が直接世界と関係(接地)していること。
  2.    エージェントが世界を特定のスケールにおいて理解していること、そしてそのスケールが一個体の中で複数存在すること(MTS構造)。
  3.    この②のスケールは、運動側の条件(=身体)に帰属するということ6

こうした議論がロボット研究と相性が良く、実際にそれに基づいた議論がなされていることは既に見た。しかし、私たちが主題とする麻雀においては事情が異なる。なぜならこれから確認していくように、麻雀においてプレイヤーが参照可能なパラメータは、プレイヤーの「身体」というよりはむしろ「天鳳」や「雀魂」のような麻雀ゲームそれ自体が有する形式(以下「ハード7」と呼称)によって規定されているからである。

前節で確認したように、平井=ベルクソンの議論やそれに対して親和性のある近年のロボット研究において強調されるのは、エージェントの「認知の閉じ」と、それにもかかわらず世界と繋がるための「身体性」であった。言い換えればその時、ロボットは既に身体を持ったものとして想定されているのである。私たちの理解が正しければ、こうした前提に立つ多くのロボット研究において、AI学習のために用いるデータセットは、現実世界の中にセンサーをつけたロボットを置き、動かすことによってデータを集めるという方法で収集される(ex. 谷口2014:第二章)。それゆえ、その学習データの形式はいわば身体が有するエージェントの感性の形式に規定されており、それと合致するといえる。

しかし、麻雀においては、その学習プロセスは必ずしもロボットのそれと合致するわけではない。言い換えれば私たちは、知覚をそのようなものとして成立させるための構造に、むしろ非身体的な規定が存在しているのではないか、ということを考えてみたいのである。

一度整理しよう。私たちは「知能」、すなわちエージェントを議論の対象にする点において(同じゲーム研究である完全情報ゲームの研究というよりはむしろ)ロボット研究を導きの糸としてきた。そこでベルクソンの哲学を議論の導きとして明らかになったのは、こうした議論が外世界の認知を行う際に「身体性」を重視することであり、知能の形式もまたその感性の形式に従属するということであった。

しかし麻雀は「不完全情報ゲーム」である。このことが意味しているのは、そこでは本質的にエージェントの感性を超出する何らかの要素が、それにもかかわらず(不在のものとして)たしかに存在しており、エージェントもそれを認知しているということである。だとすれば麻雀における知能は、不完全情報下における知能のモデルとして、私たちにロボットのそれ(すなわち身体とその感性の形式を中心としたそれ)とは異なる知能のモデルとその発生プロセスについて理解することを可能にするように思われる。

4. 麻雀AIの開発と実装に関する諸問題

4-1. 参照可能なパラメータと知能の関係

本節と次節では、前節で示唆した麻雀における知能の形式のモデル化のため、麻雀AIの具体的な開発内容を確認(し、そこで新たなAI開発のための仮説を提示)することを試みる。

私たちの考えでは、麻雀においては、プレイヤーが参照するパラメータの増加とAIの強さ(=知能の発達)は正の相関にある。こうした知見は、一定の範囲までは明白であり疑いの余地がないように思われるが、私たちがこうした仮説を支持する最も大きな理由は、それが現役のトッププレイヤーの知見によって裏付けることが出来るからである。たとえば、日本で最も有名な麻雀リーグ「Mリーグ」の2023-24年度MVPであり、所属団体のタイトル獲得経験もあるトッププロの鈴木優は、著書『一秒で見抜く麻雀心理術』(2022)において、「打牌の音やリズム、視線、表情、思考の間…」(鈴木2022:9-10)といった要素を考慮に入れることが、実戦において重要な戦略として機能することを証言している。こうしたトッププロの知見は、麻雀AIがトッププロの強さに到達していない現時点においては、その性能向上の方途を探究するにあたって参照すべきものであるように思われるし、更には人間の知能に近付くという人工知能研究の基本的な方向性にも沿うものであるだろう。

また実際のところ、麻雀AI開発の観点からの裏付けもある。現在最強の麻雀AIであるSuphxは、学習の過程において盤面の情報、局の情報(Categorical features)、数値的情報(Integrer features)を取得し、それぞれに学習に組み込むためのデータ処理を施し特徴量として利用している(Li et al. 2020)。これらは(天鳳のような麻雀ゲームでは)対局中のある時点での盤面から取得できる情報をすべて網羅した特徴量となっているが、しかしここで強調すべきは、Suphxがこれらに加えて「先読み情報量」「大局的予測報酬」という新たな特徴量を導入していることである。

「先読み特徴量」とは、現在の局においてどの牌を捨てるとどのような手を和了ることができるか、という「先読み」を探索木を用いて行い,その結果を学習用データの形にしたものであり、「大局的予測報酬」は、現在の半荘において終局時の持ち点がいくらになりそうかという期待値を予測するものである。これは、現在の局までの持ち点の推移をもとにGRU(時系列予測で多く用いられる学習アルゴリズム)を用いて計算される。このように報酬や和了の先読みを行えるようにしたことが、Suphxの強さの大きな要因である。これはどちらも不完全情報ゲームエージェント開発における難しさの原因の1つとされた「長期的な報酬の予測」を可能にするために導入されている。

これまでの麻雀AI(爆打など)は、対局中に盤面から取得できる情報から特徴量を抽出し、学習に利用していた。それに対してSuphxは、ある時点の盤面の情報だけでなく、その前後の点数状況といった長期の時間スケールから特徴量を追加している。この特徴量抽出のために用いる情報の増加、とりわけ異なる時間スケールにおけるそれが、その性能向上に重要な役割を果たしてきたといえる。

4-2. 具体的な開発に際する困難とその解決 

しかし、このSuphxの開発の方向性を私たちが引き継ぎ、それを先に進めることは見かけほど容易ではない。そこにはAI開発特有の事情が存在する。本論の議論の大筋からは逸れるものの、具体度をあげるため、一度ここで、実装のレベルで議論しておきたい。

よく知られているように、強化学習のためには大量の学習データが必要である。多くの麻雀AIの研究は、そのデータとしてネット麻雀の最大手である「天鳳」の公開された牌譜データを利用している。しかし、それは同時に、現行の麻雀AI開発においては、ゲームの形式は「「天鳳」において実装されているもの」を指していることを意味している。

例えば、上述の鈴木が挙げる要素のうち、「待ち時間」はネット麻雀の対局中には存在しており、それゆえプレイヤーの読みにも入るが、その一方で、天鳳の牌譜データには存在しない。逆に「手牌のどこから牌を切ったのか」という情報は現実の麻雀においては読みに入れられ、またネット麻雀においても牌譜データには存在しているが、ネット麻雀の対局中は手出し場所の表示が(仕様上)固定されるため読みに入らず、それゆえAI開発に利用することは出来ない。AI「爆打」の開発においても、既に部分的にこうした難点は指摘されていた(水上2018:187)。

こうした論点は、通常のAI研究ではそれほど問題にならない。しかしこと「ゲームの形式」に着目する私たちにとっては、この規定は非常に深刻な困難を引き起こす。すなわち、Suphxが「天鳳」の盤面から収集可能なすべての特徴量を考慮に入れたモデルであるがゆえに、それに対して新たな特徴量を加えるためには、学習のために用いる牌譜の形式を更新するために「天鳳」とは異なる麻雀ゲームそれ自体を新たに開発し、データを収集する必要があるのである。

こうした状況を受けて私たちが現在考えているのは、とりわけ「手出し位置」というパラメータを取り上げ、それを考慮に入れるために、対戦時も含めて手牌を完全理牌させる麻雀ゲームを作成し、AIの自己対戦による教師なし学習を通じてデータセットを取得した上で、それを基に麻雀AIを開発するというものである(詳細は別稿の課題としたい)。

しかし、この点においてもまた、別の困難が再来する。たしかに実戦の読みにおいては比較的重要な位置付けを有するパラメータであるこの「手出し場所」は「天鳳」や「雀魂」の牌譜において実装されていない。それゆえ、私たちの考えでは、このパラメータを学習データに用いる牌譜に反映することで、学習精度が向上することが期待される。

しかしその導入のためにハード側で手牌における理牌を強制した場合、通常重視されるよりも更に「手出し場所」の評価が上がり、そのパラメータが過度に重みづけをなされてしまうことが予想される。だとすればそれは、もはや麻雀をプレイしているとは言えないのではないだろうか8。言い換えれば、それは不完全情報ゲームである麻雀を、相手の手牌14枚の確率処理によって解を出す、より単純なゲームへと還元してしまうことにはならないだろうか。

これは、確かに深刻な問題である。しかしながら、現在のところ私たちは、データセットにランダム性(ノイズ)を入れることによって、こうした問題を解消することが出来るのではないかと考えている。この手法は、機械学習の分野では、データセットの絶対数を増やすための「データ拡張Data Augmentation」の方法論として一般的なものであるが、こうした方法論は特徴量のロバスト性を向上させ、過学習を回避出来ることが知られている。ここで過学習とは、学習に使用したデータセットを過剰に学習(丸暗記)することによって、本来AIに求めていた一般的な課題解決の精度が低下することを指すが、従来の機械学習の議論においては、こうしたノイズの追加や「ドロップアウト」などの他の方法論を用いて、特定のパラメータを過剰に評価することを避け(松尾2015:167-175)、いわば「データセットの丸暗記」ではなく「データセットの傾向性」を正しく学習することが目指されてきた。 

そして、私たちの考えでは、こうした方法論は私たちの議論に応用可能である。というのも、私たちの現在の仮説が正しければ、ハード側の強制によって手牌を完全理牌した上で、その一部の順番をランダムに変更する処理を行った上で学習データとして使用することで「手出し場所」の過剰な重みづけを避けることが出来ると考えられるからである。しかしランダム性は部分的なものであり、基本的に手牌が理牌されていることには変わりがないので、その結果「相手はある程度理牌をしているはずだ(が実際にはしていないかもしれない)」という信頼度を有するパラメータとして適切に重みづけを行うことが出来るだろう。そしてそれは、実際の麻雀において我々が行っているところのものにほかならない9

こうした議論については、上述のように実際にAI開発を通じて精度向上の検証を別稿にて行う予定であるため、本論では仮説の提示に留まる(率直に言って、作って動かしてみなければわからないことが多すぎる)。しかし、こうした追加パラメータの実装方法の提案は、従来のものよりも性能を向上させるAIの開発に際して有用な仮説枠組みであり得るだろう。

4-3. 主張:エージェントの感性の形式とゲーム(麻雀の哲学の独自性)

こうした実装の議論を理解することによってこそ、私たちが予告していた主張が理解される。上述した麻雀AIの開発過程においては、参照可能なパラメータが増加すればAIの打牌精度が向上するということが示されていた。そして私たちが確認してきたように、そこでプレイヤーが参照可能なパラメータは、それを先行して規定する、学習データを産み出すハードの形式に規定されるものであった。だとすれば、私たちは「深層強化学習を採用した場合に、そのデータ収集の形式(ハードの形式)自体がその学習の結果生じる知能に先行し、それを規定している」と主張することが出来るのではないだろうか。これが麻雀を取り上げることで、私たちが思考したい知能とその発生のモデルである。

しかしそれはロボットにおいても同じではないのか、という疑問が提示されるかもしれない。実際のところ、通常の意味で「麻雀」というゲームのデータによって学習するエージェントのみを考慮した場合、そのエージェントの感性を規定する形式とゲームの形式は完全に合致する。なぜならその知能はまさに学習の結果生じたものであり、それゆえ原理的にエージェントが世界を認識する形式は世界の形式、すなわちゲームの形式にほかならないからである。この点から見れば、たしかにロボットにおけるセンサ/モータ系と同型のものとして、麻雀におけるエージェント/ゲームの系を理解して済ませてしまうことも出来るだろう。

しかし、上で述べた「打牌の音やリズム、視線、表情、思考の間…」といった事例は、いうまでもなく現在のAIが考慮できる範囲を超えている。なぜなら、こうした要素を取り入れるためのセンサー(マイク、顔を映すカメラ、打牌間隔を記録する何かしらの装置)といったものが、現在の麻雀ゲームにおいては実装されていないからである。上述した通り、私たちはこれらをゲームのハードに組み込むことを考えている。しかしそれ以前に、そもそもこうした立論が可能なのは、ここで「ゲーム」が「プレイヤー」と切り離されているからにほかならない。

この分離こそが「麻雀の哲学」において最も重要な点である。私たちの考えでは、こうした分離は「ゲーム」という主題に特有のものである。ゲームは世界の中で特定のルールに従って切り出された系であり、それゆえ、たとえば「伝説効率」のような審級を考えると想像可能であるように、プレイヤーはゲームを超えた現実世界内の存在者として常に本来的にはゲームからはみ出している。しかしそれは同時に「ゲーム」である限りにおいて、確かに(ゲーム内の存在者としての)プレイヤーの認知を限定するのである10。私たちの考えでは、現実世界において、こうした感性の形式を規定する上位の審級を直接思考の対象とすることは難しい(それは、あまりにも容易に主観の形式に回収されてしまうか、もしくはそれに対して二次的な位置付けを与えられてしまう)。それゆえ、最終的に学習の結果ゲームの形式と感性の形式が合致するとしても、その分離を思考しなければ、そもそもこうした問いをたてることが出来ない11。この点において「ゲーム」という主題設定は、こうした規定をより明瞭に提示してくれるし、それが学習に与えている影響も実証的に示すことが出来るのである。

5. 情動

私たちにとって問題だったのは、知能がどのように不完全情報下において意思決定を行うのかということであった。そして麻雀AIの検討を通じたここまでの議論で提示されたのは、知能が身体に先行する審級において制限されているとみなす議論の可能性であった。

しかしそれは「人工知能」の問題であって「人間知能」の問題ではないのではないだろうか。意識が人工知能と同じく機械学習のように構造化されているという前提(2-2.)を踏まえれば、前者の学習プロセスを論じる「麻雀の哲学」は、後者をも説明する有用なモデルとしてより広い射程を有してしかるべきだろう。ここには、更なる発展的課題が残されている。

ここで私たちが着目したいのが、人間知能と人工知能を峻別する古典的な命題、すなわち「フレーム問題」(正確には一般化フレーム問題)である(松原・橋田1989)。簡潔に要約すれば、知能が最適な課題解決を探究する時、すべてのパラメータを考慮に入れると計算が終わらないため関連する一部のパラメータを適切に選別し文脈を制限する必要がある(フレーム問題の疑似解決)のだが、ここでいうフレーム問題とは、この制限を人工知能が適切に行えないという事象を指す。この問題は、これまでしばしば人間知能と人工知能の差異を論じる際に取り上げられ、そしてそれゆえ開発上の問題になってきた。

この「フレーム問題の疑似解決」が「不完全情報下における判断」を論じる麻雀の哲学にとって本質的な重要性を有するものであることは容易に予想される。そして、私たちの考えでは、「フレーム問題の疑似解決」は深層学習において特定のパラメータを重み0として扱う構造を説明したものとしても解釈可能であり、それゆえこれまでの本論の議論の延長線上において議論可能である。それゆえ(従来「人間知能」の特性として論じられてきた)「フレーム問題(の疑似解決)」に対して私たちの議論の枠組みから新たな主張が可能であるとすれば、それは単に人工知能を巡る議論のみならず、知能一般に関する新たな知見を提供するものであるといえるだろう。それゆえ最後に、この主題に対する現時点での見通しを手短に共有しておきたい。

ここで焦点となるのは「情動」を巡る議論である。というのも、従来人間知能がフレーム問題を解決する鍵はこの「情動」にあるということがしばしば指摘されてきたからである(信原2017)。たとえば久保2018は、ダマシオの「ソマティック・マーカー」の議論を導きとしつつ、フレーム問題を回避する人間の力能を情動に見出し、それをAIと対比的に論じている。

しかし、既に柴原2004はニューラルネットワークに着目しつつ、ロボットにおけるフレーム問題を回避するために情動に着目した議論を行っていた。実際に近年ロボット研究において情動の創発という議論もなされている(長井2019)ことを鑑みれば、この「人工知能の中に情動を見出す/実装する」という議論の方向性もそれほど突飛なものではないことがわかる。

そして、近年の情動に関する諸研究は、情動がエージェントに全面的に帰属するものであるというよりは、他者との関係によって生じるものであるとされることを教えてくれる(箭内・西井2020)。しかし私たちの目から見て議論の余地があるのは、こうした議論において「情動」がしばしば身体(とその可能性)と重ね合わされることである(e.g. 諏訪2020)。それに対して「麻雀の哲学」にとっては(それはつまり、学習プロセスを重視し、身体の形式そのものの構成を論じる議論においては)、既に論じた通りこうした「情動」を他者の間で成立することを可能にする感性の形式はまさにゲームの形式に従属するのであり、それは必然的な帰結として、身体を規定する更に高次の審級を考慮することを要求するように思われる。

それゆえ、この課題に関する「麻雀の哲学」の独自性は、この点に存する。すなわち、フレーム問題を疑似解決するものとしての「情動」を、人間身体に帰属するものとして解釈する従来のモデルに対して、その基盤をむしろそのエージェントがプレイする「ゲーム」の側において論じるモデルの提示である。前節で論じたように「麻雀の哲学」の議論の主眼はエージェントの感性の形式をその発生において規定する構造としての「ハード」の形式の主題化にある。それゆえここでの私たちの主題に関して言えば、「麻雀の哲学」の議論は、従来「ゲーム」を(適切に)選別するものとして考えられてきた身体的な「情動」を、その発生において、むしろ逆に「ゲーム」に規定されたものであると解釈するモデルを提供するのである。

そして実際のところ、こうした議論は、実証的な知見によってある程度裏付けを得ることも出来るように思われる。よく知られているように、行動経済学における人間の合理的選択の分析には、情動という問題系が切り離せない。行動経済学における意思決定モデルにおいては、例えば「近視眼性」(将来の利益を極端に割り引いて計算)「S字型効用」(利益に対してリスク回避的、損失に関してリスク選好的)「歪曲確率」(小さい確率の過大評価)などの知見があげられるが、とりわけ「ヒューリスティクス」(必ずしも正しい答えが得られるわけではないが、ある程度望ましい選択を短時間に得る発見的方法)の議論は、フレーム問題を人間が情動によって回避する過程を記述したものとして理解可能である12

ここで注目すべきは、近年の文化人類学の成果によって、こうした情動の形式が必ずしもアプリオリなものではなく、むしろ社会相対的であるということが明らかになりつつあるということである。たとえばアメリカ五大湖の先住民であるイロコイ族は「重要な意思決定を行う場合、七世代先の人々になりきって考え、物事の判断をしてきた」(谷山ほか2019:266)ことが知られている。こうした知見は「フューチャー・デザイン」と呼ばれる学問領域において、上述した(こう言ってよければ、西洋近代的主体が有する)「近視眼性」を相対化する意思決定プロセスとして注目を集めている(谷山ほか2019)。

私たちにとってこうした行動経済学の知見が興味深いのは、 こうしたモデルがフレーム問題を疑似解決する人間知能による、パラメータへの重みづけの豊富な見地を提供しているという理由によってだけではない。それは同時に、文化人類学の知見と併せて考慮した際に、この情動が社会相対的であるということ13、それゆえ(私たちが「麻雀の哲学」でそうすることを試みたように)それを規定する更に上位の審級を思考することが出来ることを意味している。ここでその詳細を記述することは出来ないが、こうした社会哲学的観点から見ればその領野は「文化」や「社会」、そしてその基盤としての「歴史」であるだろう14

6. 結論

手短に本論の議論を整理しよう。「不完全情報下における知能/判断のモデル化」を主題とする私たちは、特にロボット研究を念頭に置いて研究を行ってきた。しかし、そこで援用されるベルクソンの議論の検討と共に指摘されたのは、そこでは「身体」が一次的であり、学習データの形式はそれが有する感性の形式に規定されているということであった。

それに対して私たちが麻雀AIの学習過程を検討しつつ主張したのは、「麻雀」という私たちの主題が、身体的な感性の形式に先立ち、それを規定する審級を問題化することを可能にする特異なものであることである。図式的に言いかえれば、この不完全情報ゲームは、完全情報ゲームのように「ゲーム」のみを主題化するのでも、ロボットのように「身体(性)」のみを主題化するのでもなく、その間を思考することができる点において、極めて特異なテーマ系であるだろう。私たちの考えでは、こうした議論は、単に従来のものより性能向上が期待される麻雀AI開発の新たな作業仮説を提供するのみならず、新たなベルクソン解釈の方向性の提示や、フレーム問題の疑似解決を基軸とした人間知能と人工知能の架橋、人間/人工知能と社会の関係の解明といった方面において、新たな議論の端緒となり得るように思われる。

とはいえ、紙幅の都合と私たちの能力の限界によって、以上の議論が、あまりにも不完全なプロトタイプであることは一目瞭然であるだろう。ここに書くことのできたものも含め、多くの議論が未だアイデア段階であることは否めず、更なる議論の明確化と検証が必要であることは言うまでもない。とはいえ、始めることが何よりも重要であることもまた確かである。そして本論の拙い試みが、少なくとも「麻雀」に問題が、それも文理双方にとって取り組むべき巨大な問題が存在するということを示せていれば幸いである。

多くの論者がこの主題にともに取り組んでくれることを期待している。

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Footnotes

本研究班は、大阪大学超域イノベーション博士課程プログラムの競争的資金(グループ企画支援)の支援を受けて組織されたものであり、本論もその活動成果である(活動題目「深層強化学習AIの開発による新たな哲学的遊戯論の構築: 日本式麻雀を事例とした文理融合型アプローチを通じて」活動代表者:中谷碩岐、2024年6月 - 2025年3月)。本論については中谷が全文を執筆したが、適宜共著者から各分野に関する助言を得た。

麻雀という「ゲーム」を主題とする哲学である私たちの議論が、おそらくは読者の予想に反してほとんど従来の哲学的遊戯論に言及しないのは、率直に言って、その膨大な研究蓄積にもかかわらず、その主流の方向性と私たちが向かいたい議論の方向性が全く逆の方向であるように思われるからである。

管見の限りでは、従来の遊戯論の多くは、遊戯における「秩序の撹乱」「計算不可能性」「賭け」といった側面を極度に強調してきた。たとえば『賭博/偶然の哲学』(2008)において独自の「競馬の哲学」を展開する檜垣立哉は(フーコーやドゥルーズに関する研究を背景とした)「生の統治/計算不可能性」という側面を強調する結果、競馬論においても「(馬の生命に起因する)予見不可能性」や「賭け」という側面を強調する。同様に入不二基義も、その遊戯論において明確に「確率空間」と「現実性」を区別し、確率計算に囚われない現実の一回性を志向する議論として「賭け」「祈り」の議論を強調する(入不二2018、のち入不二2020)。私たちの考えでは、こうした「確率計算を超える賭け」の重視は「確率計算による社会統治」に対する批判的観点から「戯れ=賭けjeu」を強調する戦後の大陸哲学の動向と軌を一にしている。こうした主張に各個として賛同しないわけではないものの、この時哲学者による「AI」や「統計」に対する批判は、しばしばAI研究者によって「他分野のシロウトがつぶやく難解な繰り言」(西垣2018:22)と見なされてきたのではないだろうか。

ただしこの「戯れ=賭け」というモチーフがHuizinga1956からSicart2014まで古今の哲学的遊戯論に見られる以上、こうした批判は、上述の個別の論者に向けられるというよりは哲学的遊戯論という領域全体の動向に向けられるものであるかもしれない。私たちは、こうした断絶を埋めていきたいと考えている。

ボードゲームでは、チェッカーやオセロが既にゲームとして「解」を出されていることはよく知られているし(Schaeffer et al.2007、Takizawa2023=2024)、膨大な計算量が必要であるとはいえチェス、囲碁、そして将棋も、本質的にはこうしたゲームとして理解することが出来る。

正確に言えば、私たちが本論で議論の導きとしているのは、ベルクソンの思想そのものというよりも、その現代的再解釈である「拡張ベルクソン主義」(エリー・ミケル2016)である。その中でも本論は平井靖史『世界は時間でできている』(2022)において定式化されたベルクソン解釈(MTS解釈)を主に参照する。

近年のAI研究は、デカルト的な「観想的意識」からメルロ=ポンティ、ハイデガー的な「世界内存在」へ、という動向と共に身体性を強調する議論構築が進んでおり、ベルクソン評価もこうした動向と軌を一にしている。しかし私たちが「麻雀」と共に主張したいのは、深層学習においては知能を規定する「身体」に先行的な規定を、身体に回収しない仕方で考える余地があるのではないか、ということである。なお、研究構想時には自覚的ではなかったものの、こうした私の発想は、図式的に言えば戦後フランスにおいて「観念論」を批判するものとして登場した「実存主義」の次世代の思想群、すなわち「超越論的主観なきカント主義」(リクール)としての「構造主義」以降の思想(特にジャック・デリダのそれ)に大きな影響を受けている。

問題になっている論点を明確化するために(本論の主眼ではないとはいえ)ベルクソンの議論にさらに踏み込もう。荒い図式であることを承知の上で整理すれば、私たちの考えでは、近年のロボット研究がベルクソンを評価する際に念頭にあるのは『物質と記憶』における身体と感覚-運動図式であり、それによるイマージュの限定であるように思われる。しかしそこでは、しばしばその「身体」がどのように成立するのかについては議論がなされない。言い換えれば、そこで感覚-運動図式を有する「身体の変容」は論じられても、感覚-運動図式を有する「身体の発生」は論じられない傾向にある。私たちが論じたいのは、この後者の論点である。

 急いで付け加えておくと、これはベルクソンからの離反を意味しない。実際のところ、ベルクソンが「感覚-運動図式の発生」という審級を考慮に入れていないわけではない。というよりもむしろ、ベルクソンにとっては個体を創設する生命の働き(エラン・ヴィタル)こそが議論の主眼だったのであり、個体は常にその途上にあるものにほかならない。私たちの考えでは『物質と記憶』の一部の議論はそのように解釈可能であるように見える(別稿の課題としたい)し、とりわけ第三主著『創造的進化』においては、よりはっきりとこの位相が詳述されることになる(平井2022で言えば、第5章以降の議論に相当する)。

 このとき、私たちと同じく『物質と記憶』における感覚-運動図式の規定を非身体的なものに帰属させようとする米田2024の試みは興味深い。米田はその『創造的進化』解釈の中で、エラン・ヴィタルに動機づけられた生命の創造の位相を①「最も基礎的なレベル」としての「宇宙論的な水準」と②「二次的なレベル」としての「生命種の創造」という領野を区別している(cf. 米田2024:322-323)。米田自身は、こうしたベルクソン解釈から、炭素を中心的な構成要素とする太陽系の生物とは異なるような生物の組織を探究する「代替生化学」へと議論を展開するが、私たちの考えでは、こうした『創造的進化』の再解釈は、知能の形式を考慮するにあたって先行規定としてのデータセットの影響を重視する「麻雀の哲学」の立場に極めて近い。

 もちろん、私たちは現在必ずしもベルクソンのように生物学的な進化的認識論を主眼に置いているわけではない。しかし米田のベルクソン解釈は、拡張ベルクソン主義をモデルとして知能を考える私たちが注目する、「イマージュを限定する身体」に先立ち、それを規定する審級をベルクソンの議論の内部の枠組みにおいて考えることを可能にする。私たちが本論において一見不要な固有名であるにもかかわらず、意識的にベルクソンを強調して議論を行っているのは、いわば正当な哲学史研究におけるベルクソン解釈として「麻雀の哲学」を展開する議論の可能性を念頭に置いているからである。紙幅の都合上、その詳細については別稿を期したい。

私たちは、この「ハード」「ハードの形式」という語で(データセットを規定する)「ゲーム」および「そのゲームの側が有する「感性の形式」」を指示しているが、あまりよい呼び方ではないかもしれない。

この点については、一橋大学の飯川遥氏に有益なコメントを頂いた。記して感謝する。また、タイトル獲得経験もある元プロ雀士の堀内正人による検証を見る限り、とりわけ高度な計算能力を有するAIに関して言えばこの「手出し位置」というパラメータが極めて有用であることが伺える(堀内2023)。

ベルクソンの運動図式論の一部は、データセットにおけるこのランダム性の導入を、むしろエージェントの側で行ったものとして理解できるかもしれない(cf. 平井2022:221)。

この「はみ出し」とゲームの相互依存関係は、そのゲームが不完全情報ゲームである場合により顕著に思考可能であるように思われる。第三節末尾を参照。

たとえば、時空間以外の純粋な感性の形式をカントの超越論的感性論に実装することの想像が困難であることを想起されたい。

実際に、フレーム問題研究の第一人者である松原らは、既に1990年代にヒューリスティックスを用いたフレーム問題の解決を提案していた(松原・橋田1993)。

「近視眼性」を生物学的性質とみなす強い立場を採用した場合にも、それが進化論的に獲得されたものである限りにおいてその相対性を主張することは可能であるように思われる。

ここで私たちにとって重要なのは、基盤的な情動が存在するということよりも更に、それを規定する更に上位の審級が存在するということである。その上位の審級の相対性は、おそらく文化や社会を発生させる人類の「歴史」という観点から語られることになるだろう(近藤2024)。

 
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