2025 年 2025 巻 52 号 p. 255-267
1.はじめに
感動は人生を意義深くするように思える。例えば、時間を潰そうと訪れた美術館で、あなたはフェルメールの《真珠の首飾りの女》と出会った。あなたの足は自然と止まり、周囲の話し声や足音も聞こえなくなる。そして、その絵に描かれている女性が着ている服の柔らかな質感や鮮やかな色に打ちのめされる。その絵は自分が今まで絵画に対して抱いていた期待を大きく超えていた。この経験により、これまで退屈だと思っていた絵画に対する認識がガラリと変わったことに気づく。そして、自分が経験した感動とは一体何だったのか、なぜ人は絵画をみて感動するのかがずっと心に残り、絵画の感動経験を明らかにする研究を始める。実のところ、このあなたとは、筆者である私であった。このような感動体験は、私の人生において重要な経験だと思われるし、このような重要さが人生の意義深さを構成しているようだ。つまり、一見したところ、こうした感動が人生の意義深さをつくると言ってよいだろう。
では、感動すればするほど人生は意義深くなるのだろうか。本稿は、部分的にYESであり、部分的にNOだと主張する。すなわち、ある種のタイプの人生––––探究に価値をおくタイプの人生––––においては、理解を伴う種類の感動があればあるほど人生は意義深くなると主張する。しかし、それとは違ったタイプの人生とそれとは違った種類の感動では、感動をすればするほど人生が意義深くなるわけではないと主張する。探究に価値を置くタイプの人生とは、知識の獲得や理解の深まりを重要視する人生のことを指す。これは、個人が知的好奇心を満たすことや、新しい発見をすることに意義を見出す人生である。本稿では、このタイプの人生において、感動がどのように意義深さを増すのかを考察する。
本稿では理解が探究に価値を置くタイプの人生を意義深くするという立場に賛成する。この立場は人生の意味を構成または決定する主要な要素を可解性(intelligibility)だとしている。例えば、人生の意義深さは、人生の特定の側面(起源、影響、目的、または物語)の内容の理解しやすさと豊かさによって決まる(Thomas 2019, Seachris 2009)とする立場や、意義深い人生とは、その人生の「知覚できる記号の意味」の数と質が豊かな人生である(Repp 2018)とする立場がある。本稿では、理解という行為が人生の意義深さを増すという主張には同意するが、理解の対象や内実が先ほど紹介した先行研究とは異なる。具体的には、Thomas(2019)とSeachris(2009)の立場とは、理解の対象が人生の特定の側面に限定されていないという点で異なる。そして、Repp(2018)の立場とは、知識が増えるのではなく、新たな物事の見方や解釈のフレームを手に入れることで新たな理解が得られると考える点で異なる。
本稿において感動とは、強度が強く、個人および人間の人生に深く意味のある核心的問題を明らかにしうる、ある種の美的経験であるとする(戸梶 2001; Hänninen & Koski-Jännes 2023)。また、本稿では人生の意味1を個人の人生における意義深さ2とする。
人生の意義深さを構成する要素の候補はさまざまで、例えば真善美への貢献(Metz 2013)、称賛に値すること(Kauppinen 2012; Metz 2013)、自己を超越すること(Metz 2013; Nozick 1981)などが、これまでの研究で挙げられている。そして、これらの構成要素をどのように説明するのかというモデルとして代表的なものに、物語型モデル(Bres 2018)がある。さらに、それほど広く受け入れられているわけではないが、ホームズ型モデル(Repp 2018)がある。物語型モデルでは、人生で生じるある出来事や一連の出来事は物語として理解され、人生の意義深さはその人生について語られる物語と関連しているとされる。ホームズ型モデルでは、多くの記号の意味(sign meaning)を知覚できることが意義深い人生であるとされる。
感動と人生の関係について考えると、物語型モデルでは、感動経験は人生の物語を構成するさまざまな出来事の一部として整理される。よって、物語型モデルでは、感動経験の価値は、他の出来事との関連性も踏まえて人生がどのような物語として理解されるかによって変化する。つまり、物語型モデルでは、感動経験それ自体には特有の価値はなさそうだ。ホームズ型モデルでは、記号の意味を知覚することでどのように人生が意義深くなるかの説得力が乏しい。つまり、物語型モデルとホームズ型モデルでは、感動と人生の意義深さの関係性を明確にすることは難しい。
そこで、本稿ではウィルケンフェルドの理解の概念(Wilkenfeld 2019)を参照し、ホームズ型の人生の意味の解釈モデルを拡張した「理解型のモデル」を提案する。理解型のモデルでは、ある人の人生の意義深さはその人が持つ世界の理解度によって決まる。また、感動の中にも新たな理解や自己変容を起こす種類の感動がある。理解型のモデルでは、この種の新たな物事の見方や解釈を増やすような感動をすればするほど世界の理解度が高まり、人生は意義深くなる。ゆえに、感動をすればするほど人生は意義深くなる。
これまで、感動は人生を意義深くすると主張されてきた(Maes 2022; Hänninen & Koski-Jännes 2023; Tan 2009)が、どのような種類の人生にとってどのような種類の感動が意義深くなるかについては言及されてこなかった。本稿では、理解型のモデルで捉えられた人生においては、新たな理解をもたらす種類の感動は可解性を高めるため人生を有意義にするが、そのほかの種類の感動は人生を有意義にするとは限らないと主張する。つまり、あらゆる種類の感動は、あらゆる種類の人生を意義深くするわけではないので、感動と人生の意味の関係を議論する際には、感動と人生の多様性に注目することが求められる。
2.感動とはなにか
私たちは、日常生活のなかでさまざまな経験をする。そのなかでも、感動は、小説を読んだり、映画を観たり、長年の努力が実った瞬間に立ち会ったり、予想もしていなかった出来事に遭遇したりすることで生じる。例えば、アスリートが努力の末にオリンピックで金メダルを勝ち取った姿を見て、挑戦に対する勇気を感じる瞬間や、思いがけないタイミングで美しい自然の風景に出会い、ハッとする瞬間に私たちは感動をしている。
さらに、感動によって、人生の方向性が決まったり、人生で重要なこととは何かと気付かされたり、人生の転機となる出来事が生じることがある。例えば、ある人がたまたま訪れた美術館で絵画に感動し、芸術家を志すこともある。こうした、強い情動と実存的体験を伴う経験を感動体験の典型例としよう。
感動とは強烈な感情の高揚を伴う経験である。戸梶(2001)によると感動は次のようなメカニズムで喚起される。まず、現実の出来事や小説、映画などにおいて、ある出来事の基本構造となる人物や状況設定が成立し、テーマやゴールに基づく推論が行われる。このテーマやゴールは、成功や達成、愛情、友情、美など何らかの形で万人に共通するものなので、人はテーマに感情移入し、結果への期待が高まる。出来事が進むにつれ、期待感や緊張感が高まっていく。そして、出来事の終結とともに出来事への最終評価が行われ、さまざまな感情を含んだ感動が喚起される。例えば、オリンピックの観客が、あるアスリートが金メダルをとった姿に感動する例を考えてみる。まず、観客はアスリートが子どもの頃から金メダルを取ることを夢みて一生懸命練習に励んだという背景を知る。そして、アスリートがオリンピックの試合で危うく負けそうになりつつも、勝ち進んでいく姿を見る。観客はハラハラしながらも勝利への期待を持つ。最終的にアスリートがライバルを倒して金メダルを獲得したことで、アスリートの努力が報われたことに対する喜びの感情が溢れ、観客は感動する。また、芸術作品をみて感動する例では、これまで絵画は退屈なものだと思っていた人が、たまたま訪れた美術館で自分の期待を大きく越える作品をみるケースがある。その人は、思わず息をするのを忘れるような感覚をおぼえ、圧倒的な美を感じ、強い驚きを含んだ感動をする。このように、感動とは強い情動を伴う経験である。
しかし、感動が単に強い情動であるだけでなく、個人の存在や自己認識に深い影響を与える実存的経験であることも重要である。Hänninen & Koski-Jännes(2023)では、感動体験が感情的および実存的体験であるとされており、具体的な感動体験として美術館での体験がどのように個人の感情や実存に影響を与えるかが詳述されている。例えば、インタビュー対象者の一人であるサビナは、アンドレ・ドランの絵画、《Woman in a Chemise》に出会った際の経験を次のように述べる。
入ってすぐに、そのドランの絵がこちらに迫ってきて、素晴らしいと思いました。〔……〕色彩は非常に強烈ですが、絵の中の女性がまるで絵から出てくるような印象もあります。そして、線と色で示される絵の中の生命感、それが私にとって印象的でした。〔……〕私は北欧の冬で育っていないので、ノルウェーでは11月から1月にかけて色に対する渇望を感じます。そして(絵の)色を見ると、その渇望の感覚が取り除かれるのです。〔……〕それは私に自己の感覚を与えます。実際、それは私のアイデンティティ感に貢献しています。(Hänninen & Koski-Jännes 2023, p. 91)
彼女はこの経験を通じて自分自身のアイデンティティが強化され、長い北欧の冬による鬱屈した気分が一瞬で解消されたと述べている。この例は、感動経験が単なる一時的な情動の高揚だけではなく、個人の存在や自己認識に深い意味を持つ場合があることを示している。また、Landmann et. al.(2019)の研究では、感動は、自分の価値観や優先事項、つまり人生に意味を与えるものを思い出させると示唆している。
さらに感動は、単なる経験ではなく美的経験の一種である。Høffding et. al.(2022)は、感動とは、強烈な感情や存在に関する経験であり、芸術との出会いが人々に大きな変革をもたらすことがある、重要な美的経験の一形態であるとしている。Høffding et. al.(2022)による感動体験と美的経験の関係性についての説明に基づくと、感動は、芸術作品に向けられた知覚的な志向性と、自身の存在に対する感情的な志向性が同時に働くことによって生じる。これにより、芸術作品に向き合いながら、自分自身の存在や人生に関する感情を再確認したり、新たな視点がもたらされるプロセスが発生したりする。このプロセスは循環的に作用し、感動が強まるごとに自分自身の存在についての認識も深まるというループが形成される。この経験は、単なる感情的な反応ではなく、知覚、感情、反省を超えた統一的で意味を持つ経験であるので、美的経験であるとしている。例えば、壮大な風景を描いた風景画をみて、その風景の広大さに圧倒され、自分の存在の小ささを感じるとともに、人生の意味や自然との一体感を強く意識するという体験が挙げられる。この場合、風景に対する知覚的な志向性と、それに伴って湧き上がる存在に関する感情的な志向性が同時に働き、感動が深まる。風景が美しいだけでなく、自己や人生について新たな理解や感覚を得ることで美的経験が生じる。
一方で、強度が低い実存的な経験や、強度は高いが実存的ではない経験もある。前者の例では、通勤途中の風景を眺めているときに人生のはかなさについてふと思い至るような、強度が低い実存的な経験が挙げられる。また、後者の例では、応援しているサッカーチームが優勝する姿に興奮をするが、実存的な探究は伴わない強度の強い喜びの経験が挙げられる。前者は本発表の扱いたい種類の感動経験ではないので今回は扱わない。また後者は感動経験とも言えるかもしれないが、実存的体験を含まないので今回は扱わない。本稿では、日常的な「感動」概念とは異なり、強度が高く、実存的な美的経験を感動経験として扱っていく。
3.人生の意味における三つの解釈モデル
それでは、感動と人生の意味はどう関わるのだろうか。本稿では人生の意味を、個人の人生における意義深さとする。何が人生を意義深くするかにはさまざまな解釈方法があるので、まず、人生の意味の哲学でよく取り上げられる物語型モデル、そして、ジョシュア・レップによるホームズ型モデルという人生の意義深さの解釈モデルを概説する。その後、ホームズ型モデルを拡張した理解型モデルを提案する。そして、何が人生を意義深くするかは人生の意味の解釈モデルによって異なることを説明する。
3.1.物語型のモデル
まず物語型の人生における意義深さの解釈モデルを説明する。物語型の人生モデルとは、人生で生じるある出来事や一連の出来事を物語として理解し、人生の意義深さはその人生について語られる物語と関連しているというものだ(Bres 2018)。例えば、物語と人生の意味の関係について述べているヘレナー・D・ブレスは物語を用いて人生の意義深さを評価するときの特徴を次のように述べている。
第一に、物語は選択性を持つ。すなわち、人生が提供する大量の素材の中から特定の人物、出来事、設定に焦点を当てる。第二に、物語は統一性を持つ。選択された異なる要素を結びつけ、因果関係や類推的な関係を引き出し、それらをより大きな文脈の中に位置づけることで、一貫性のある全体を織りなす。第三に、多くの物語は広義に同型的(isomorphic)である。他の物語と共通する深い構造的特徴を持つ傾向がある。大多数の物語は、安定状態-複雑化-盛り上がり-危機-解決-結末という抽象的な弧に従い、その内容はしばしば以前の物語に見られるストーリーライン、テーマ、モチーフを反映している。(Bres 2018, p. 15)
とある高校球児の人生を例に挙げて考えてみよう。彼は練習中に怪我をして、大事な大会に出場できなかった。しかし、治療の過程で優秀なスポーツドクターと出会い、怪我を治してもらった。そして、この出来事に感銘を受け、医師になる決意をし、実際に医師になった。では、この人生を物語型のモデルで解釈してみよう。まず、彼の人生の中で、いくつかの出来事を選び出す。例えば、高校生のときに野球部に入って甲子園出場を目指していたこと、怪我をして大事な大会に出場できなかったこと、そしてスポーツドクターに治療してもらい感銘を受けたことなどだ。続いて、これらの出来事を結びつけ、ストーリーにする。この場合には、挫折を乗り越えた成功物語として捉えることができる。怪我をしたことはこの出来事単体でみると、大事な試合に出場できなくしたネガティブな出来事だが、挫折を乗り越えた成功物語という文脈でみると人生を変えるきっかけの出来事としてポジティブに評価できる。このように、人生における個々の出来事の価値は、それ自体ではなくて、他の出来事との関連も踏まえてどのような物語として理解されるかによって変化する。そして人生全体の価値も、人生に含まれる出来事がどのような物語として理解されるかによって変わる。
物語型モデルの利点は、大きく二つある。一つ目は、私たちが世界を理解する方法は、主に物語によって行われるとみなされているため、物語型モデルはモデルとして比較的自然であることだ。心理学者のH.ポーター・アボットはナラティブが人間の思考と人生に広がっていることを指摘している。アボットは次のように述べている。
私たちは毎日、生活の中で何度もナラティブを作る。そして、言葉を組み合わせ始める瞬間からほとんどそれを行っている。主語の後に動詞が続くと、私たちはナラティブの議論に従事している可能性が高くなる。〔……〕ほとんどすべての人間の議論にナラティブが存在することを考えると、言語自体の隣にそれを置き、独特の人間の特徴とする理論家がいるのも不思議ではない。〔……〕ナラティブの贈り物は非常に普遍的で広範にわたるため、ナラティブは「深層構造」であり、私たちの文法の能力が生まれつき備わっているのと同じように、遺伝的に私たちの心に組み込まれている人間の能力であると強く示唆している人々もいる。(Abbott 2020, p. 1)
アボットの指摘するように、人間は日常生活の中で、自然と物語を形成している。私たちは主語と動詞を組み合わせて一連の出来事を意味づけるプロセスを繰り返している。このような物語をつくる能力は深く人間の心に組み込まれているとアボットは述べる。この観点からみると、人生を物語として捉えることは私たちが自然にもつ思考の枠組みと一致しており、物語型モデルは受け入れやすい。
二つ目の利点は、物語型の理解に基づくと、人生の重要さの評価が多様であることがわかることだ(森岡・蔵田 2023, p. 72)。物語型の理解をすると、ネルソン・マンデラやアインシュタインのように大きな成果をあげなくても、見返りを求めずに地域のボランティア活動に取り組む人や、家族を支えるために一生懸命に働く親の人生も重要だと評価される。そして、このことは、人生はさまざまな観点から意義深いものになるという、私たちの直観と一致している。
物語型の人生モデルと感動について先取りして考えてみよう。物語型の人生モデルでは、感動経験それ自体は人生の物語の一部として整理されそうであり、感動経験それ自体の特有の価値はなさそうだ。この主張に対し、「感動経験は、個人の考え方や価値観に強く影響を与える出来事であり、従って物語的な重要性がある。よって、感動経験は人生を意義深くする」という反論が想定される。この反論に対しては、次のように応答する。確かに感動経験は、特定の物語における重要な出来事となる場合がある。しかし、その感動経験が人生全体の物語の中でどのように、そしてどれくらい意義深さに寄与するのかは、他の出来事との関連性に左右される。また、人生の物語にその感動経験が組み込まれなければ、その感動経験の価値はないことになる。本稿では、感動経験それ自体が持つ特有の価値や、感動と人生の意味の興味深い関係にフォーカスしたいので、物語型モデルにはそれほど議論に広がりはみえない。
3.2.ホームズ型のモデル
次にジョシュア・レップによる人生の意義深さの解釈モデルである、ホームズ型のモデルを説明する。ホームズ型という名称はシャーロック・ホームズに由来し、彼のように多くの記号の意味(sign meaning)を知覚できることが意義深い人生とされる(Repp 2018)。記号の意味とは、知的または認知的な内容と活動の多くを指し、例えば、シンボルの意味や、身体的なジェスチャー、芸術作品、自然現象などが含まれる。煙は火を意味し、しかめっつらは悲しみを意味する。また、詩は取扱説明書よりも多層的な意味や感情を含み、知的または認知的な内容が多く含まれるため、多くの記号の意味を持つ。ホームズがワトソンを見て、日焼けややつれた顔、腕の怪我から、彼がアフガニスタンで働いていた陸軍の医師だと見抜いたように、ホームズのような人は普通の人より多くの記号の意味を知覚でき、それゆえ人生は意義深くなるとレップは主張する。
レップの主張は一見したところは不思議なものにみえるかもしれない。記号の意味を読み取ることは、どのように人生に意義深さを与えるのであろうか。まず、記号の意味を読み取ることで、世界への関与感(engagement)を感じるので人生の意義深さが増すとレップは主張する。記号の意味を読み取る能力は、その人が周囲の世界に対して興味を持ち、注意を払い、知識を持っていることを示す。レップは、意味のある人生という感覚がしばしば「夢中」や「関与」と関連しており、逆に意味のない人生は「退屈」や「疎外(estranged)」感を与えると指摘している。レップは、「自分の経験から意味を見出すのに必要な興味、知識、注意力がなければ、人は世界から疎外されていると感じるだろう」と述べている(Repp 2018, p. 413)。したがって、記号の意味を読み取る能力が、人生に意義深さを与えるための重要な要素となる。
さらに、記号の意味が読み取れないと、経験が味気ないものになる。例えば、ほとんどの人にとって、近づいてくる車の音は、車が近づいてくるという以上の意味を持たない。しかし、車の愛好家にとって、車の音は、車のモデル、エンジンの種類、エンジンの状態などの情報を伝えることができるかもしれない。また、芸術作品についても同様のことが言える。一見すると抽象的な絵はただのカラフルな線や形の組み合わせに過ぎないかもしれない。しかし、絵画についての知識を持つ人にとっては、その絵画は特定の美術運動の影響、画家の精神状態、さらには政治的メッセージを伝えるものであるかもしれない。例えば、ピカソの《ゲルニカ》をみたとき、ひとは、そのカオス的な構成や象徴的なイメージから、スペイン内戦の恐怖と破壊の表現を読み取ることがある。さらに、日常生活においても、笑顔が話に興味を持って共感してくれていることを表していたり、あくびが退屈を表すことを読み取れなければ私たちの人生は味気ないものになるだろうとレップは述べる。とはいえ、知覚できる記号の意味が増えることでなぜ人生は意義深くなるのか、知覚できる記号の意味はどのように人生の意義深さに寄与するのかについての根拠は明確ではない。
レップによると、人生の意義深さは知覚された記号の意味の数と質によって評価できる。記号の意味を知覚するためには対象に対する関心、知識、または注意が必要である。記号の意味を多く知覚できるということは、関心のあるものごとをたくさん知覚できるということを意味する。さらに、不快な記号の意味ばかりを知覚してもその人生は意義深くならないように思える。そのため、知覚する記号の意味の質も人生の意義深さに関わってくる。
ホームズ型のモデルの利点は、大きく三つあるとレップは主張する。一つ目は、幸せと人生の意味が現象学的に異なるという心理学で広く共有された見解と一致していることだ。二つ目は、ピカソやアインシュタインのような偉大な芸術家や科学者の人生が直感的に意義深いとされる事実とも一致していることだ。偉大な芸術家や科学者は「見えるものから見えないものを推測し、物事の含意をたどり、全体をパターンによって評価する」(James 1979, p. 398)というホームズ的な能力を持っている。三つ目は、宗教的な問い(例えば、神の存在や性質について)と結びついているように見える人生の意味についての問題を理解するのに役立つことだ。ホームズ型のモデルから見れば、宗教的信念が人生の意味に重要である理由は、どんな現象も神の意志や知性の表現として解釈するための枠組みを提供し、任意の現象を記号の意味のあるものとして見出すことを可能にする点にある。
3.3.理解型のモデル
ホームズ型モデルでは、知覚できる記号の意味が増加することでなぜ人生は意義深くなるのか、知覚できる記号の意味はどのように人生の意義深さに寄与するのかについての説明が明確になっておらずわかりにくい。また、2節で紹介したサビナの感動経験を振り返ると、感動によって個別の知識が増大するにとどまらず、新たな物事の見方や解釈のフレームを手に入れることで、新たな理解が得られるように思われる。
そこで、まず、サビナの感動経験を説明できるような感動の理解を作り出すことを試みたい。ここで理解の哲学を参照しよう。哲学者のウィルケンフェルドは理解概念が適用される条件を次のように定式化している3。
ある人p1が文脈Cにおいて別の人p2よりも対象oを理解している程度は、p1が文脈Cにおいてoに関する有用な種類の情報(少なくとも文脈Cにおいてどの情報が関連しているかに関する高次の情報の一部を含む)を、正確でより最小限の記述長から生成できる表象/プロセスのペアを持っている程度に応じて測定される(Wilkenfeld 2019, p. 2810)
つまり、ウィルケンフェルドは、理解が情報の本質的な部分を保持しつつ、不要な詳細を省くという、情報の圧縮を通じて行われることを示している4。そして、理解とは、複雑なデータをより単純な形で表現し、必要に応じて新たな情報を再構築できることだと論じている5。例えば、料理を理解している人は、さまざまな調理法(炒める、焼く、煮るなど)の違いや、それぞれが食材に与える影響を理解している。そして、レシピがなくても基本的な調理法や味の組み合わせを理解しているため、冷蔵庫にある食材を使って即興で料理を作ることができる。一方、料理を理解していない人は、レシピに書かれた通りにしか料理ができない。材料が揃っていなかったり、手順に記載されていない状況に直面したりした場合、対処することが難しい。
ここで、ウィルケンフェルドの理解の概念を用いて、ホームズ型の人生モデルを拡張した理解型の人生モデルを提案する。このモデルでは、人生の意義深さは世界の理解度によって決まる6。つまり、個人が人生の経験から情報を圧縮し、その圧縮された情報から対象となる現象に関して必要な情報を生み出す量や質によって、人生の意義深さが決まる。2節で紹介した《Woman in a Chemise》に感動したサビナの経験を理解の概念で説明してみよう。サビナは絵画をみて、視覚的な情報(「強い色彩」と「人物が絵の中から出てくるような感覚」)や個人的な文脈(ノルウェーでの冬の生活による「色に対する渇望」)を圧縮する。その過程で、作品の細部の多くは背景に退き、彼女が最も強く感じた要素だけが残される。そして、情報が圧縮された結果、サビナは絵画の単なる視覚的な特性を把握するだけでなく、自分の価値観や経験、文化的背景などについての自己理解を深めた。つまり、サビナの感動経験は理解によって可解性を高めた。本稿では、人生の意味を構成する主要な要素を可解性とする立場に賛成しているため、サビナの感動経験では理解が人生を意義深くしたと言える。
4.理解型のモデルと感動の関係
4.1.感動が理解型モデルで解釈された人生を意義深くする方法
感動はどのようなプロセスで新たな物事の見方や解釈のフレームを増やし、理解型モデル解釈された人生を意義深くするのだろうか。ここで、芸術作品を鑑賞することで、人の思考や感情、行動がどのように変化するのか示すPelowski & Akiba(2001)の研究を紹介しよう。この研究では、美的経験は5段階のプロセスを経るとされ、1.先行期待と自己イメージ、2.認知的統御と不一致、3.二次的コントロールと逃避、4.メタ認知的再評価、5.自己の変化と美的成果、という一連のステップで説明される。この中で、最終段階である「美的フェーズ」は、鑑賞者が事前の期待や認知的なスキーマを変容させ、強い情動を得たり認知的変容に達する重要な瞬間とされる。例えば、ある人が美術館でコンスタンティン・ブランクーシの彫刻《眠れるミューズⅡ》を目にする。その人は彫刻に詳しくなく、彫刻といえばミケランジェロの作品のような写実的なものだと思っていたので、シンプルな形状の《眠れるミューズⅡ》から「顔を抽象化しただけのオブジェ」という印象を受け、戸惑いを感じる。しかし、作品の前に立ち、じっくりと観察を続けるうちに、抽象的な形に込められた感覚的なニュアンスに気づき始める。滑らかな曲線と余計な装飾がないシンプルな形状、ミューズの表情の静けさや内省的な雰囲気から、「眠り」というテーマが自身の日常にある静けさや内省的な瞬間を象徴していることに気づき、感動する。そして、その人は、彫刻は対象の写実的な再現手段だけではなく、感覚や内面的な状態を形にする手段でもあるという新たな視点を得て、彫刻に対する理解を増す。このように、その人は《眠れるミューズⅡ》を通じて、新たな彫刻の概念を受け入れ、認知的および感情的な変容を経験する。
つまり、感動では個別の知識の増大にとどまらず、新たな解釈のフレームの獲得もなされることによって、物事に対する新たな理解を得られるのである。感動することで、自分の期待や認知的スキーマを変容させ、今まで気づかなったことに気づいたり、新しい見方で物事を見られたりするようになる。それによって、対象への理解が深まる。結果として、理解型モデルでとらえられた人生はより意義深いものになる。
4.2.理解型モデルにおける意義深い感動とトリビアルな感動
理解型モデルでとらえられた人生において理解を伴う感動以外の感動は、意義深さに関してトリビアルな感動になりうる7。例えば、高校球児が努力の末に甲子園に出場する姿に喜びを伴う感動をおぼえたとする。その喜びの感動は、高校球児が怪我に挫折せずに練習を続ける姿や、強豪校との手に汗握る試合に感情移入することで期待や不安が膨らみ、最終的な勝利によって緊張が緩和することで生じたとする。この種の感動では、理解が伴わないので理解型モデルのもとでとらえられた人生が意義深くなることはない。
一方、美術館でエリアソンの《Your atmospheric color atlas》やムンクの《月光》のような素晴らしいインスタレーションや絵画に出会ったとき、次のような経験をするかもしれない。
私の頭や体の中で物理的にいくつかのレンガが動かされるように感じる〔……〕。そして、それを言うのは奇妙に感じるけれど、まるでクリーニングが行われるか、あるいはいくつかの問題がよりしっかりと配置されるかのようだ〔……〕時折、異なる考え方の流れもあり、そしてやさしく、それは、必ずしも結びつくわけではないけれども、全てがそれにもかかわらず、より大きな全体としてまとまってくる〔……〕、私が、どう言うべきか、それらが以前とは異なる方法で一緒に突然意味をなす場所に到着する。以前は別々の方向だった何かの大きな絵ができあがる〔……〕。それは私に集中的な明快さや一体感を与えてくれる(Høffding et al., 2022, p. 90)
このような理解を伴う感動は、以前とは異なる方法で物事を見られるようになり、それまで結び付かなかったものの関係の意味を知覚できるようにする。結果的に、理解型モデルのもとでとらえられた人生を意義深くする。このように、理解型モデルでとらえられた人生において意義深い感動とは、認知的変容を伴い、理解を増大させるものである。一方、理解型モデルでとらえられた人生の意義深さにおいてトリビアルな感動とは、感情の高揚を伴うものの、理解を増大させないものである。理解を伴わない感動は、理解型モデルでとらえられた人生において意義深いものとはならない。
4.3.感動の種類とその影響は人生の解釈モデルによって異なる
理解型モデルでとらえられた人生においては理解を伴わない感動は人生を意義深くするとは限らないように、すべての感動がすべてのタイプの人生を意義深くするわけではないように思われる。物語に組み込むことができない感動は物語型の人生を有意義にするとは限らず、知覚できる記号の意味を増やさない感動はホームズ型の人生を有意義にするとは限らないだろう。それぞれのタイプの人生において、人生を意義深くするタイプの感動と、意義深くしないトリビアルな感動がある。結論として、感動の種類とその影響は、人生のタイプによって異なる。この点を考慮することは、各個人がどのような感動を通じて人生の意義を見出すかを理解しやすくなるので重要である。
5.結論
以上のことから、理解型モデルでとらえられた人生においては、理解を伴う感動が人生の意義深さにおいて特に重要であることがわかった。主に、芸術作品や自然の美しさに触れることで生じるこれらの感動は、認知的スキーマを変容させ、新たな視点や理解をもたらす。これによって理解が増大し、理解型モデルでとらえられた人生の意義深さを増す。一方で、それ以外の感動は、理解型モデルでとらえられた人生においては人生を意義深くしないトリビアルな感動になりうる。
人生の意味の哲学においては、複数種類の人生のタイプや感動があることが見逃されがちである。これまで検討してきたように、あらゆる種類の感動はあらゆる種類の人生を意義深くするわけではない。今後、感動と人生の関係の議論において、感動と人生の多様性に注目し、異なる感動が異なる人生のタイプに与える影響を体系的に研究することが重要になるだろうと私は考える。これにより、各個人がどのような感動を通じて人生の意義を見出すかを理解しやすくなるのだ。
参考文献
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Wilkenfeld, D. A. (2019). “Understanding as Compression.” Philosophical Studies, 176, 2807–2831.
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伊集院利明(2021)『生の有意味性の哲学―第三の価値を追求する―』晃洋書房.
戸梶亜紀彦(2001)『感動』喚起のメカニズムについて. 『認知科学』, 8(4), 360–68.
長門裕介(2024)「シュヴァルの情熱と『芝生を数える人』――それは無意味な人生なのか?」『現代思想2024年3月号 特集=人生の意味の哲学』, 青土社, 64–73.
森岡正博・蔵田伸雄編(2023)『人生の意味の哲学入門』春秋社
森村進(2018)『幸福とは何か──思考実験で学ぶ倫理学入門』ちくまプリマー新書.
「人生の意味とは何か?」という問いは重要だが、この問いかけだけでは何を問うているのかは曖昧である。宇宙全体や人生そのものの究極的な目的や価値を問う場合もあれば、個々の人生がどのように意味深いものになるかを問う場合もある(Wolf 2010; Metz 2013; 森岡・蔵田 2023; 伊集院 2021)。本稿における人生の意味とは、個人の人生における意義深さのことである。とりわけ、人生の意味の哲学における英米系のスーザン・ウルフやサディアス・メッツらの議論のうち「Meaning in life」というトピックに関連する議論を行う。
意義深さとは何かについてはさまざまな解釈がある。例えば、ウルフは価値ある活動に主観的な魅力を感じながら取り組むことで人生が意義深くなる(Wolf 2010)と考えており、メッツは真・善・美への貢献によって人生が意義深くなるとしている(Metz 2013)。長門は、人生の有意義さは成果物の価値や「なにかに打ち込むこと」そのものではなく、その活動に重要さを見出し、それを気にかけていることに存する(長門 2024, p. 69)としている。また、幸福な人生と意義深い人生は重なりうるが、概念としては両者は区別されることが多い(Metz 2013)。実際、ウルフ(Wolf 2010)やメッツ(Metz 2013)が言うように、多くの人々は単に幸福なだけでなく、意義深い人生を送りたいと望んでいる。意義深いとみなされる人生はしばしば幸福な人生とも見なされているが、本稿では、ウルフやメッツにならって意義深さは幸福の概念とは異なるものとする。幸福については森村(2018)を参照。
ウィルケンフェルドの理解の概念は科学的な内容だけではなく、人、絵画、映画などの日常的な内容も射程範囲とする。
クヴァンヴィグやエルギンもウィルケンフェルドと同様に、理解は単なる知識ではないとしており、知識や信念のパターンや関係性を把握することで成り立つとしている。一方で、クヴァンヴィグの理解の概念は情報を効率よく圧縮したり再生成することを理解の要件には含んでおらず、知識と信念の関連性を深く把握することに重点が置かれている点でウィルケンフェルドとは異なる。また、エルギンは、虚構や理想化を積極的に受け入れ、それらが理解にとって欠かせないものであると主張している点でウィルケンフェルドとは異なる。
ウィルケンフェルドの理解の概念では、理解した情報をもとに正しい予測ができるようになることが必要だとしている。陰謀論の理解のように誤った前提や証拠に基づく理解は、正しい予測を生成できないので、誤った理解となり理解を深めたとは言えない。
Seachris(2009)やThomas(2019)も人生の意味を可解性(intelligibility)の観点から論じている。両者は、人生の目的、重要性、起源などの特定の側面での人生の理解可能性が人生の有意義さに関係すると論じている。つまり、理解する内容は人生に関連するものとなる。一方、本稿の理解型のモデルでは、人生に関連しない内容の理解でも人生が有意義になりうる。
理解の程度が低く、情報の圧縮度合いが小さい感動でも、何らかの理解が発生しているなら人生の意義深さに貢献する。