2025 年 2025 巻 52 号 p. 286-293
1.はじめに
ハジ・イスティヤークは、彼がKと呼ぶ、「べきはできるを含意する(ought implies can)」という原理に基づき、義務とコントロールの関係を明らかにしようとしている。彼は義務や正・不正を義務的道徳性と呼び、義務的道徳性を行為者に帰属させるために2種類のコントロールを要求する(Haji 2002)。つまり行為者はその行為を実行することも、実行しないことも可能であることを要求すると主張するのである。本稿では、ある行為について行為者が実行することも実行しないことも可能であるということを、別様に行為する可能性がある、と表現する。
この別様に行為する可能性については、ハリー・G・フランクファートによって提出されたフランクファート型事例というものが有名である(Frankfurt 1969)。この事例は、ある行為者は行為を実行する事しかできず、つまり別様に行為する可能性がないにもかかわらず、私たちはその行為者に道徳的責任を帰属させるケースとして理解されている。このケースは、道徳的責任には別様に行為する可能性が必要ない、ということを示しているように思われるのだ。
ハジは義務的道徳性に別様に行為する可能性が必要であると主張するが、道徳的責任に別様に行為する可能性が必要であるとは主張しない。彼は義務的道徳性を道徳性から分離するよう提案している。そして決定論が真であれば、義務的道徳性を例化したような行為(以下、義務的アンカーと呼ぶ)は存在しないことになる。さて義務的アンカーが存在しないにもかかわらず、道徳的責任を維持し続けることは可能なのだろうか。
2節ではハジが義務的道徳性を否定するための議論を紹介する。3節ではハジがデイビッド・ワイダーカーの議論をKに対する議論として解釈したものを紹介し、それに対するハジの応答を概観する。ハジは義務的道徳概念と道徳的責任概念を切り離すことが可能であると主張する。4節では超義務的行為に注目し、義務的アンカーが存在しない世界では超義務的行為を正しく評価できない可能性を提示する。本稿の目標は、義務的道徳性と道徳的責任は密接に結びついており、分離不可能なものであると主張することである。この目標が達されれば、ハジは義務的道徳性に別様に行為する可能性が必要であるという主張か、私たちには道徳的責任があるという主張の何れかを放棄する必要があるだろう。
2.ハジの議論
ハジの目標は、義務や正・不正といった義務的な道徳概念には別様に行為する可能性が必要である、ということを示すことである。そのためにまず、ハジは「べきはできるを含意する」を次のように定式化する。
K:ある行為者Sが行為Aを実行すべきであるならば、SはAを実行することができる。かつ、ある行為者Sが行為Aを実行すべきでないならば、SはAを実行しないことができる。(Haji 2002: 27)(一部改変)
本稿では、行為者Sについて「行為Aを実行すべきである」を「OA」、「行為Aを実行可能である」ことを「CA」と置き換えることで、次のように表記する。
K:(OA→CA)∧(O¬A→C¬A)
ここで、「¬A」は「行為Aを実行しない」ことを意味している。
Kにおける「べき」は道徳的な義務であって道徳的理想や願望を表してもいない。例えば「すべての子どもが幸せになるべきだ」といった言明はほとんどの人が受け入れるものであるが、同時に私たちの誰も全ての子どもが幸せな世界を実現することはできないだろう。つまり、私たちは全ての子どもを幸せにするような義務を負っていないことになる。先の「すべての子どもが幸せになるべきだ」という言明における「べき」は道徳的義務ではなく、道徳的な理想を表現したものだと理解される(Haji 2002: 15)。
次に、「絶対的義務(absolute obligation)」と「一応の義務(prima facie duty)」をハジは区別する。ハジによれば、私たちは異なる道徳的な義務(一応の義務)が存在する状況にしばしば遭遇するが、全ての一応の義務を考慮したうえですべきことが「絶対的」にすべきこと(絶対的義務)であるという。ハジがKにおいて使用している「べき」は絶対的義務を表している。(Haji 2002: 15)
「できる」についてもハジは詳細な議論を行っているが、SがAを実行可能と言えるのは、Sが身体的にも心理的にもAをする能力がある時である。また論者によってはここに、前述した条件に加え動機づけやノウハウ、ノウザット的知識も必要であると主張している。とはいえ、いずれの立場が正しいとしても、ハジは義務的道徳性と決定論は両立しないと主張するため、ここでは両者の立場を区別しない。
また、ハジはKだけでなくOWも義務的原理として導入する。
OW:行為者SがAを実行すべきである時、かつその時に限り、SがAを実行しないことは道徳的に不正(morally wrong)である。かつ、行為者SがAを実行すべきでない時、かつその時に限り、SがAを実行することは道徳的に不正である
:(OA↔W¬A)∧(O¬A↔WA)
ここで、Sについて「Aを実行することが不正である」ことを「WA」と表記する。
KとOWより次のWAPが導かれる。
WAP:SがAを実行することが道徳的に不正であるならば、SはAを実行しないことができる。かつ、SがAを実行しないことが道徳的に不正であるならば、SはAを実行することができる。
:(WA→C¬A)∧(W¬A→CA)
上述した通り、ハジの目標は不正概念には別様に行為する可能性というある種のコントロールが必要であると示すことであるが、WAPだけではこの主張には不十分である。このことを理解するために、SはAを実行し、実行しないことは不可能である世界wを検討してみよう。WAPによれば、SがAを実行可能な時に限り、Aを実行しないことは不正である。しかしこれだけでは、wにおいてSはAを実行可能であるということで、Aを実行しないことが不正であるという可能性は依然として排除できない。
このような可能性を排除するためには、次のWCも必要となる。
WC:Aを実行することが不正であるならば、Aを実行することができる。かつ、Aを実行しないことが不正であるならば、Aを実行しないことができる。
:(WA→CA)∧(W¬A→C¬A)
このWCを確立するためには、Kを補うようなCKも必要である。
CK:Aを実行すべきならばAを実行しないことが可能であり、かつ、Aを実行すべきでないならばA実行することができる。
:(OA→C¬A)∧(O¬A→CA)
OWとCKよりWCを導くことができる 。WCが真であれば、wにおいてSがAを実行しないことは不可能であるから、(¬C¬A→¬W¬Aとなり)SがAを実行しないことも不正でないと導くことが可能となる。
WAP、WCとOWより、次のDW、DOが導出可能となる
DW:WA→(CA∧C¬A)
DO:OA→(CA∧C¬A)
DWは、行為者のある行為が不正であると言うためには、行為者がAを実行することも、Aを実行しないことも可能である必要があるということを意味しており、DOは同様に行為者にとってある行為が義務であったというためには、その行為を実行することも、実行しないことも可能である必要があることを意味している。そして決定論が真であるとすれば、いかなる行為も不正でも義務でもないことになる。
また、行為Aが不正でない時、行為Aは道徳的に許容可能か非道徳的か、の二者択一である。仮に行為Aを許容可能であると考えると、どんなに残虐な行為であっても、その行為が許容可能であるということになってしまうが、これは直観的に受け入れがたい帰結である。よって行為者に別様に行為する可能性がないのであれば、いかなる行為も道徳性はなく、その行為者の行為に義務や正・不正といった義務的道徳評価を下すことができなくなる(Haji 2002: 32)。
このため、次のDRも導かれることになる。
DR:RA→(CA∧C¬A)
ここで「行為Aを実行することは正しい」を「RA」と表記する。
以上より、義務や正・不正といった概念には別様に行為する可能性が必要であることが示された。
3.Kへの批判とハジの応答
ワイダーカーはフランクファート型事例における行為者が非難されるべきであるという見解を否定しているように見える議論を提出している(Widerker 1991)。ハジはこの議論をいくらか修正することでKに対する議論として解釈している。
ハジによればワイダーカーは、次のPAP2がKから導かれると考えたという。
PAP2:BA→C¬A
ここで行為者Sについて「行為Aを実行したことでSは非難に値する」を「BA」と表記する。まずワイダーカーは次のB2を必然的真理であると主張する。
B2:BA→O¬A
すると次のような論証が可能になる。
1. BA→O¬A (B2)
2. O¬A→C¬A (K)
3. 1,2より、BA→C¬A
KとB2はPAP2を含意するため、仮にPAP2が偽であるならば、B2が真である以上、Kを放棄するしかなくなる(Haji 2002: 37-8)。
以上がハジによるワイダーカーの批判の紹介であるが、この批判に対してハジはB2を否定することで反論を行っている。彼はB2と類比的なB1を検討する。
B1:PA→OA
ここで、Sについて「行為Aを実行したことでSは称賛に値する」を「PA」と表記する。
ハジはB1が偽であると主張する。というのも、PAであってOAでない行為が存在しうるからだという。そのような行為は超義務的な行為(supererogaory acts)と呼ばれている。超義務的な行為をハジは「道徳的に不正でも義務的でもなく道徳的に任意だが、道徳的に重要であり、「義務の要請」を超えた」行為と特徴づけている(Haji 2002: 38)。超義務的な行為の例として、ハジはアルムソンから、ある英雄的兵士が仲間を救うために手りゅう弾の上に身を投げて命を犠牲にするという例を引用している。
超義務的な行為は、称賛に値するが義務的でない行為である。これはB1に異議を唱えるのに十分なものだろう。同様に類比的に考えると、超義務的な行為と対照的な亜義務的な行為(suberogatory acts)はB2に異議を唱えるのに十分なはずである。亜義務的な行為とは道徳的に任意だが、不快であるか良識に欠ける行為のことである。亜義務の例としてハジは次のようなものを挙げている。
……ジョイは混雑したカフェで別の人が彼女の席が空くのをまっていることに気が付き、彼女は自身が長居することによって不正なことをしていると誤って信じ、自身が不正なことをしているという信念に照らして意図的に長居したが、実際に長居することで亜義務的な行為をしてしまったとする。直観的に、この例において、なぜジョイが長居したことについて非難に値しないのかわからない(Haji 2002: 39)。
ジョイに席を譲るべき義務はないが、彼女の行為は非難に値するものに思われ、そうであるならば、この例はB2に対して疑義を投げかけるものとなるはずである。B2が偽であれば、Kを否定することなくPAP2を否定することができるため、ワイダーカーの批判をかわすことが可能である。
加えて、問題となっている称賛や非難が公然の称賛や非難によって構成されていると考えてみよう。このような公然の称賛や非難は義務性や不正さをトラックすることが多いが、時には乖離が生じることもある。次のような例を考えてみよう。
……キルデアが病気のタンゴに薬Bを与えることが自身の義務を果たすことであるという信念のもとでBを与えたのを私が発見した場合、私は(単にタンゴの治療を試みたことではなく)Bを与えたことに対して十分にキルデアを公然と称賛することができる。たとえ残念ながら、当時誰にも認識されていなかったが、Bを与えることが不正な治療の 過程だとしても。類比的に、もしデッドリーがタンゴに薬Aを与えることが不正であるという信念のもとで薬Aを与えたのを発見した場合(デッドリーはタンゴが苦しむのを見たかったと想像してほしい)、完全な幸運によりAを与えることがタンゴにとって最良であったとしても、私はデッドリーをAを与えたことについて十分に公然と非難することができる(Haji 2002: 41)。
キルデアの例は称賛と義務が乖離した例であり、デッドリーの例は非難と不正さが乖離した例だろう。このように考えればB1やB2はもっともらしくなく、ワイダーカーの批判には問題があるとハジは主張する。
4.超義務的行為への称賛の特別さ
本節ではハジのワイダーカーへの反論について、超義務概念に注目することで検討を行う。もう一度、ハジの超義務的な行為の特徴を整理しておこう。ハジは道徳的に不正でも義務的でもなく道徳的に任意だが、道徳的に重要であり、「義務の要請」を超えた行為と特徴づけていた。またハジはフランクファート型事例のもたらす、道徳的な称賛や非難には別様に行為する可能性は必要でないという直観を受け容れるため、称賛に値する行為の存在は否定しない。
ハジは決定論が真である時、いかなる行為も義務的ではないと考えるため、決定論が真であれば、いかなる行為も義務の要請を超えた行為ではないことになる。これは反直観的な帰結である。というのも私たちは単に称賛に値する行為と超義務的な行為が区別できる形で存在しており、後者の方がより大きな道徳的な価値を持っているように考えているからだ。
次のような例を考えてみよう。ビルで火災が発生した時、通行人Aは119番通報し、通行人Bは消防団員でも関係者でもないにもかかわらず、また自分の身の安全が確保されていないにもかかわらず、火の中に飛び込み人を救い出した。通行人Aには通報する絶対的な義務があると言えるだろう。そして通行人Aはこの義務を果たしたと言える。しかし、通行人Aには通行人Bのような英雄的行動をすべき義務があったと私たちは考えない。そうである以上、同じ条件の通行人である通行人Bに対しても英雄的行動をとる義務があるとは私たちはみなさないだろう。このような状況において、通行人Bはもちろんのこと、通行人Aも十分に称賛に値する行為を実行したと言えるかもしれない。しかし同時に通行人Bの方がより大きな称賛に値するという直観も私たちは持っているはずだ。しかしながら、ハジの考えに則れば両者の行為を超義務的か否かによって区別することはできず、何が称賛の差を生んでいるのかを説明することができない。
しかしながら、このような反論に対して、ハジは超義務の特別な価値は、道徳的な要請に最小限の方法よりも大きい方法で応えているということによって説明されると述べている(Haji 2002: 179)。確かに通行人Aの行為は多くの人を救ったが、通行人Bは通行人Aには救えなかった人も救ったのであるから、私たちに「人を救うべし」という道徳的要求があると考え、その要求にこたえる水準に差があるのだから、称賛に差が生まれるのは自然なことと言えるかもしれない。
では、次のような例を考えてみよう。医師Cは一般的な医師が手術可能な手術には全て対応可能であり、およそ医師に求められるもの全てを満たしている。対して医師Dは医師Cに可能な手術に加えて、世界中で他の誰もできないような困難な手術も実行可能である。実際に医師Dは医師Cより多くの患者を救った。仮に両者が称賛に相応しいとしよう。しかしながら、通行人AとBにおける称賛の差と、医師CとDの称賛の差には違いがあるように思われる。これは医師のケースの善さに単に量的な差しかないのに対し、通行人のケースでは両者の行為の善さには質的な差があることに由来するように思われる。ハジの主張を受け容れれば、A、B、C、Dはだれも超義務的な行為を実行したわけではない。しかしながら、私たちはBに対しては他の三者よりも特別な称賛に相応しいと考えるのではないだろうか。そしてA、B、C、Dの行為を区別する最もシンプルな方法は義務の概念を復活させることである。
義務の概念を使用しながら先の例を振り返ってみよう。通行人Aは単に火事を発見した人物に課される義務に応じた行為を行っただけであり超義務的な行為ではないが、通行人Bは火事を発見した通行人には課されていない、自らの危険を顧みることなく人助けを行うという超義務的な行為を実行した。通行人Bは超義務的な行為を実行したために、義務を全うしただけである通行人Aよりもより大きく、また質的にも異なる称賛に相応しい。そして医師CとDでは、医師Dの方がより多くの患者を救っているという点においては、より大きな称賛に相応しいかもしれないが、両者はともに義務の要請にしたがって行為しているだけである。よって両者に対する称賛に質的な差異は生まれない。これが私たちの称賛に関する通常の考え方だろう。この超義務に関する称賛に関する考え方を受け容れるためには義務概念を受け容れる必要があることは明白である。
ハジは受け入れないだろうが、もう一つの道は行為者の道徳的責任を否定し、称賛や非難の可能性を否定することである。PAP2を放棄しなければならないのは、フランクファート型事例の行為者が非難に値する行為者であるように思われるからである。いかなる行為者も非難も称賛も相応しくないと考えるならば、PAP2を否定する必要性がなくなり、ひいてはB2否定する必要もなくなり、無傷のままKを維持することが可能となるだろう。しかしながらこの立場は、義務的概念が決定論と両立しないために、称賛や非難可能性といった道徳的責任も決定論と両立しないと主張していることを含意しない。そのように主張することは、称賛には義務が、非難には不正であることが必要であると前提する必要があるが、そのような前提は多くの問題を抱えている。道徳的責任を否定する道は義務的道徳性の否定以外にも存在しており、そのような方法で道徳的責任を否定すれば、PAP2を否定する動機も無くなるはずである。
5.おわりに
再度、議論の流れをざっくりと振り返りたい。2章ではハジの義務的道徳性を否定する議論を見た。彼の結論としては、義務的道徳性には別行為可能性が必要であるため、決定論が正しければいかなる義務的アンカーも存在しないことになる。3章ではワイダーカーのKに対する議論を紹介した。彼は別用に行為する可能性がない行為者にも非難が相応しい場合があるということ(PAP2の否定)と義務違反が非難に相応しいことの必要条件である(B2)から、Kを否定しようとしていた。これに対しハジは義務を超えた行為をした行為者に称賛が相応しい超義務的な行為という例と、これに対照的な義務違反をしていないが非難に相応しい行為である亜義務的な行為という例を示すことでワイダーカーの議論を退けた。換言すれば、ワイダーカーは道徳的義務と道徳的責任は結びついていると主張したのに対して、ハジは両者を分離させることが可能であるという反論を行ったと言える。4章では、この超義務的行為に注目することでハジの義務的道徳性と道徳的責任を分離することはできない、と主張した。というのも英雄的超義務的行為に送る称賛と一般的な称賛の差は、単により高いレベルで道徳的要求を満たしたという量的な差ではなく、質的な差異があるように思われるからだ。義務的道徳性と道徳的責任が分離不可能なのであれば、そして、決定論が真であるのであれば、ハジに残された道は両者をともに維持するか、ともに放棄するかの二者択一である。そして彼の義務的道徳性に関する論証が間違っていないのであれば、道徳的責任もろとも義務的道徳性を放棄することになるだろう。
参考文献
浦野敬介・石田柊 (2024). 「しないに越したことはない : 超義務と亜義務の倫理学」.『応用倫理』. 15, pp.15-32
Frankfurt, H. G. (1969). Moral Responsibility and Unavoidable Action. Philosophical Studies 97, pp.195-227
Haji, I. (2002). Deontic Morality and Control. Cambridge University Press.
Widerker, D. (1991). Frankfurt on 'Ought Implies Can' and Alternative Possibilities. Analysis 51: pp.222-224.