哲学の探求
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ワークショップ発表
悪はいかなる仕方で存在しているのか
アウグスティヌス、ライプニッツ、ホワイトヘッドにおける悪と秩序の問題
石川 知輝上田 有輝三浦 隼暉
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2025 年 2025 巻 52 号 p. 33-67

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はじめに

本論文は、悪と秩序の問題について、アウグスティヌス(354–430)、ライプニッツ(1646–1716)、ホワイトヘッド(1861–1947)という三人の哲学者を取り上げる。時代や場所を異にするこの哲学者たちは、「神義論」という問題を共有し、固有のアプローチで悪と秩序の問題を考察した1。すなわち、神に由来する善なる秩序や調和の存在への信と、決して理想的ではない世界に存する悪の現実との間でいかにして折り合いをつけるかをそれぞれに探求していたのである。じっさい、この世界のうちには避けることのできない悪、すなわち天災や戦争、罪、病など、善なる秩序と相容れないと思われる出来事が常にすでに存在してしまっている。だからこそ、善なる秩序の実在性を措定する哲学は必ず、そうした秩序と悪の存在との関係という問題に直面することになる。本論文が目指すのは、アウグスティヌス、ライプニッツ、ホワイトヘッドの哲学において、悪がいかにして善の秩序と共存すると考えられていたのかを明らかにし、悪の問題をめぐる見解の多様さと、悪という主題に一貫して見出されうる特徴を曳き出すことである。さらに、こうした解明は、三人の哲学者たちが悪をいかなる意味で問題として扱ったのかという「悪の問い方」の諸相をも明らかにすることになるだろう。

神義論はキリスト教神学の伝統と密接に結びついた問題ではあるが、本論文ではむしろ、「悪はいかにして秩序と相容れる仕方で存在しているのか」という存在論的観点を中心として議論を進める。本論で詳しくみるように、悪と秩序の問いに対して、アウグスティヌス、ライプニッツ、ホワイトヘッドという三者は異なる考えを示しているが、その一因は、そもそも各哲学者が把握する悪そのものの存在様式が異なることにある。したがって、本論文は、それぞれの哲学者において、悪そのものがどのように存在し、どのように働くかという観点から、悪と秩序の調和の問題へと接近する。

本論文の問いを悪の存在論や悪の問い方という観点に限定することと並行して、「神」の概念もまた、神学的というよりは、むしろ哲学的な仕方で扱うことになる。つまり、悪について、その起源や存在、機能の観点から論じるのと同様に、神についても、世界との関係における存在や機能の観点から考察する。じっさい、第3章で扱うホワイトヘッドは、神の概念は宗教的なものに還元することができないとさえ述べている。

世界における神の諸機能という概念を世俗化することは、少なくとも経験の他の諸要素の世俗化と同じくらい、思考にとって切実に必要である。神という概念はたしかに宗教感情における一つの本質的要素である。しかし、その逆は真ではない。宗教感情という概念は、宇宙における神の機能という概念における本質的要素ではない。(PR, 207)

もちろん、アウグスティヌスとライプニッツは、ホワイトヘッドほどには神の機能を世俗化していたわけではない。だが、本論で詳述するように、これらの哲学者にとって、神と悪をめぐる問いは、超越的な問題ではなく、むしろ我々が生きている現象世界に属する機能の次元においてこそ差し迫ったものとして立ち現れる。したがって、本論文は、神そのものへの注目よりも、悪を含む世界に対する神の働き、すなわち「宇宙における神の機能」の考察を中心的な課題とする。

本論文は、以下のような流れで展開する。

第1章では、アウグスティヌスにおける悪の問題を、「道徳的存在論(moral ontology)」として取り出す。問題となるのは、悪とその起源としての人間の意志が、事物の水平的秩序と垂直的秩序との関係においてどのようにあるのかということである。水平的秩序との関係では、悪は局所的な秩序の乱れとしてあり、神の摂理と整合的である。他方、垂直的秩序との関係では、悪は何らかのモノとしてではなく、無へと向かう運動として規定することができる。以上のようにして、アウグスティヌスが悪から存在論的な身分を剥奪しつつも「悪がある」という端的な事実にどのように向き合ったのかを見てゆく。

第2章では、ライプニッツにおける悪が、全体性に結びつけられながら、同時に個別的なものとしても存在しており、その限りにおいて世界に対して機能を果たしうることを論じる。とりわけ、大西、ドゥルーズ、橋本の三者において展開される議論、すなわちライプニッツにおいては悪が積極的な身分を有するということを検討し、そうした悪の存在論的身分がいかにして可能になるのかを、ライプニッツ自身の個体論やホワイトヘッドの「瑣末さ/曖昧さ」をめぐる議論から明らかにする。

第3章では、ホワイトヘッドにおける神と悪の関係を取り上げる。ホワイトヘッドは神を、世界の創造者ではなく、諸理想の提供という機能を果たす存在として措定する。しかし、悪しき理想や歪んだイデオロギーが破壊的な結果をもたらしてきた人間の歴史を踏まえれば、理想を理想として信じるための根拠がどこに求めうるのかが問題となる。この問題への応答という観点からホワイトヘッドの神概念の通時的展開を辿ることで、彼の哲学において、理想は時間を超越したものではなく、歴史上の悪への応答を通じて世界と共に変化していく歴史性を持ったものとして理解されることを明らかにする。

第1章 二つの秩序の中での悪—アウグスティヌスと悪の存在論

1. 1. 「悪はどこから?」の問い

アウグスティヌスといえば、人間の内面性を掘り下げる哲学を開拓した人として注目されることが多い。確かに自らの前半生を振り返りつつその中に神の恩寵を読み取っていく『告白』や、神の三位一体の「似像(imago)」を人間の魂の内部に見出す『三位一体論』などは古代の哲学・神学の中で異彩を放っている。一時期の研究動向では、「自由意志」という概念そのものや「内的自己」といった哲学的次元を「発明」した人として取り上げられることもあったほどである2。このようなアウグスティヌス像を反映して、アウグスティヌスの悪に関する議論は「道徳的魂論(moral psychology)」として分析されることが多く3、現代の分析哲学における自由意志論争(いわゆるリバタリアンか両立論者かといった問題4)と絡めて論じられることもしばしばである。

しかし、アウグスティヌスは人間の内面だけから悪の問題を論じたわけではない。アウグスティヌスにとって「悪はあるのか」、そして「どのようにあるのか」という問い、いわば、「道徳的存在論(moral ontology)」の問いは劣らず重要なものである。『自由意志論』第1巻冒頭で、アウグスティヌスは悪に関する問いについて次のように述べる。

E5. それでは、あなたは我々が悪をなすことを学ぶことはないと私が認めるように十分強いてくださったのですから、我々がどこから悪をなすのか教えてください。

A. 君の投げかけたその問いは、若い頃の私を非常に激しく悩まし、疲れ果てた私を異端6へと追いやって投げ捨てた、そのような問いなのだよ。(『自由意志論』1. 2. 4)

「我々がどこから悪をなすのか(unde male faciamus)」——この問いは、『自由意志論』の写本がそのタイトルをしばしば「悪はどこから(unde malum)」と報告していることからわかるように7、意志概念を見出すにあたってアウグスティヌスを導いた問いである。教科書的な理解に沿えば、アウグスティヌスは善悪二元論に基づくマニ教的世界観から脱し、新プラトン主義的一元論の影響の中で悪を善の欠如と見做すようになり、『自由意志論』において悪の起源として人間の意志を打ち出すに至る。しかし、大⻄が指摘するように、意志の概念は「悪はどこから」という問題を解決するどころか、より多くの困難すら生み出す代物である8。アウグスティヌスにおいて神は最高善であり善の根拠であるというのは決して譲れない前提であり、それゆえに悪の存在は常に説明の困難なものとしてアウグスティヌスの思考の中に現れるのである。アウグスティヌスが展開する議論は一部においてライプニッツと重なるところもあるが、「善に従う神9」というライプニッツ的前提とアウグスティヌス的前提はわずかな、しかし重大な差異を孕んでいる。ましてや、神は現実的存在に「初発的目的(initial aim)」を与えるだけであって善は個別具体的に生成する、というホワイトヘッド的世界観と見比べると、両者を同じ俎上に載せて比較することすら困難であるような印象さえ受ける。

そこで本章では、アウグスティヌスが悪の存在論的身分について紡いだ思索に、事物の水平的秩序と垂直的秩序という二つの視点から接近する。ここでいう水平的秩序とは、事物同士(この中には人間も含まれる)の相互作用が全体として作り出す秩序のことをいい、垂直的秩序とは、ある特定の事物の存在論的身分を定める階層的秩序のことである。生物の世界で喩えて言うならば、水平的秩序は生態系の全体のネットワークに対応し、垂直的秩序はその中での捕食者・被捕食者の関係に基づく食物連鎖のヒエラルキーに対応する。

以下で見ていくように、アウグスティヌスは水平的秩序という観点からは悪の機能的側面に着目して、垂直的秩序という観点からは意志の運動という側面に着目して悪の問題を取り扱っている。それによって、アウグスティヌスは悪を実体化することも、悪がなんらかの意味で存在するという現実から目を背けることもしない、という絶妙な思索のバランスを保っているのである。

1. 2. 世界と魂の水平的秩序における悪

アウグスティヌスは悪の起源としての意志という発想に至る前から、神の作った世界の秩序と悪の存在という問題に取り組んでいた。ここでは最初期の著作を中心に事物の水平的秩序の中の悪の位置付けについて考察する。

すでに述べたように、マニ教のもとを離れ新プラトン主義の多大な影響を受けたアウグスティヌスにとって、悪は善の欠如(priuatio)であり、悪の積極的な働きを見出すホワイトヘッドとは異なり、善なるものを生み出す(efficere)ことがないという意味で欠損(defectus)である(cf. 大西, 2015, 2f)。その意味で悪は存在しない。しかし、それは神の視点から世界の秩序全体を見渡した時に言えることであり、局所的に見れば「秩序の崩れ=悪」は確かに存在する。『ソリロクィア』冒頭の祈りに見える以下の表現に注目しよう。

神よ、あなたは悪を作らず、最悪が生じないように悪をあらしめられる。〔…〕神よ、あなたによって宇宙は、邪悪な部分をもちながらも完全です。(『ソリロクィア』1. 1. 2)

中略箇所を挟む前半の原文はDeus, qui malum non facis et facis esse, ne pessimum fiatである。facis esseの文法的理解がこの祈りの解釈の一番の難点となるが、山田が示しているように、このfacereは「する」ではなく「なす」の意味で、esseは「存在」の意味ではなく不定詞として、そして最後に「悪(malum)」を補って理解するべきである(山田, 1993, 5)10。その場合、悪は最悪(pessimum)を防ぐという目的に限って、神によって存在を許されているということになる。したがって、世界の中には「邪悪な部分(sinistra pars)」は確かにあり、それを我々は通常「悪」と呼んでいるのだが、神の作る世界全体の秩序は完全なものとして保たれている。このような理解はアウグスティヌスの後期著作においても保持されている。

しかし、悪は以下の限りで善に打ち負かされる。すなわち、いかにして創造者のこの上なく摂理的な正義が悪さえも善用するかということを証し立てるために悪は存在することを許されているのだが、〔…〕善は悪なしに存在しうるという限りで。(『神の国』14. 11)

ここでは悪は「存在することを許される(sinantur esse)」という表現が用いられており、『ソリロクィア』の「存在させる(facere esse)」よりも緩やかな表現にはなっているものの、基本的な枠組みは同じである。すなわち、悪は世界の中に存在するが、それは特定の目的に奉仕する限りで存在を許されている。

それでは悪は何のために存在するのか。アウグスティヌスは『自由意志論』冒頭で悪を「なす悪」と「被る悪」に分類するが(『自由意志論』1. 1. 1)、このうち「被る悪」が「罰(poena)」として、「何のため」という問いへの答えになる。初期著作『秩序』においてアウグスティヌスは次のような比喩を用いている。

死刑執行人よりも恐ろしいものがあるだろうか。〔…〕しかし彼は法の中で必要な場所を占めており、善く整えられた国家の秩序の中へ加えられている。そして彼は自分の精神という点では罪人であるが、他方で別の秩序においては、罪人達への罰である。(『秩序』2. 4. 12)

この比喩では、国家の秩序が世界の秩序に、死刑執行人がこの世界の中の個別具体の悪に対応している。それゆえ、この記述に従えば、国家の中の死刑執行人が罪人への罰として秩序の維持に貢献するのと同じく、世界の中の悪は秩序を乱すものに対しての罰として秩序の維持に貢献するという、「必要な場所(locus necessarius)」を与えられている。このような秩序の維持と回復の働きは、善と悪の「それぞれにふさわしいものを割り当てる(sua cuique tribuit)」(『秩序』2. 7. 22)こと、すなわち古典的な定義における正義(iustitia)に他ならない11

以上のように「何のために悪は存在するのか」という問いには一応の答えを与えることができた。しかしこの説明では、どうしてそもそも秩序が乱されるのか、すなわち「被る悪」が罰するべき「なす悪」がどうして存在するのか、という問いには答えられない。実際に上の引用文でも、「自分の精神という点では(suo animo)」という観点での悪ないし罪は展開されないままであり、「別の秩序において(ordine alieno)」の罰という働きだけが注目されている。そこでアウグスティヌスは、事物の水平的秩序という観点をそのまま魂の中に持ち込むことで、魂の「なす悪」を説明していく。初期著作『音楽論』の記述を見てみよう。

したがって、〔…〕より劣った美への愛が魂を汚すのである。〔魂が〕それ〔=より劣った美〕において、等しさ〔…〕のみならず秩序をも愛するとき、魂は自らの秩序を失うが、事物の秩序を超え出ることはない。(『音楽論』6. 14. 46)

ここでは『音楽論』の主題である数的秩序という観点から議論が進められているが、注目すべきは劣った美への愛によって魂自体の秩序が失われるという考えである(しかしこれまで見てきたように、そのような悪によって世界全体の「事物の秩序」は損なわれることはない)。魂が持つ「愛」と、魂の内部で実現される「秩序」の両方を説明する鍵概念が、『自由意志論』において主題化される「意志(uoluntas)」である。意志が悪の起源として見出される箇所を以下に引用する。

したがって残されたのは、何であれ徳をそなえて統治し、支配している精神と同等かそれよりもすぐれているようなものは、正義のゆえに精神を欲情の奴隷とすることはないのだし、それに対して何であれ〔そのような精神より〕劣ったものはその弱さのゆえにそうすることはできないのだから、我々の間で確定したことが教えるように、精神を欲望の仲間にしてしまうものは〔精神の〕自らの意志(propria uoluntas)と自由な決定(liberum arbitrium)に他ならないということだね。(『自由意志論』1. 11. 21)

長い一文であるが、ここでポイントとなるのは意志を導く議論の文脈が、精神(mens)による欲情(libido)や欲望(cupiditas)の支配の破れという、秩序の崩れに関する問題であったことである。精神は欲望や欲情より優れたものであるのだから、精神の支配を崩せるものは当の精神自身に他ならない、という推論によって意志概念が要請される。この意志こそが「なす悪」の最も基本的な説明原理であり、アウグスティヌスの後期思想まで用いられ続けることになる。初期著作において「秩序」と呼ばれていたものは後期著作においては神の「摂理(prouidentia)」と呼ばれるようになるが、人間の意志と神の摂理は両立するものとして一貫して捉えられている。後期著作『神の国』から、意志と摂理の両立を示す箇所を二つ引用しよう。

神は予知することで両方ともをあらかじめ予見していた。すなわち、神が良いものとして造られた人間がどれほど悪いものとなるかということ、そして、そのような人間からでさえどんな良いものを人間がなすかということである。(『神の国』14. 11)

それゆえ、私が「運命」という名を何かの事物に用いる気になるとすれば、通常とは異なる独自の用法でストア派が「運命」と呼んでいる原因の秩序によって我々の意志の決定を取り除くよりもむしろ、運命はより弱い者に属し、意志はその人〔=より弱い者〕を権能のうちに12持つより強い者に属すと言おう。(『神の国』5. 9)

すなわち、人間の意志が自由であることも神の摂理と予知の一環であり、神の摂理や予知は意志と両立しないストア派的な運命(fatum)とは異なっている。

以上見てきたような、事物の水平的秩序において秩序の維持に貢献するという悪の位置付けは、ライプニッツが悪を通してこそより善い世界が成立すると考えることに近しい。また、「存在させる」あるいは「存在することを許す」といったアウグスティヌスの表現はライプニッツが「悪を容認する」と述べることを想起させる13。これらの点で両者の間には悪の機能的側面への注目と、それゆえに悪を許し容認するという共通点を見出すことができるだろう。しかし、ライプニッツについての詳しい議論は次の章に譲るとして、本章の以下の箇所で見てゆくのはもう一つの秩序、すなわち事物の垂直的秩序における悪の位置付けである。

1. 3. 存在の垂直的秩序における「無への運動」としての悪

アウグスティヌスは存在に階層的な秩序があるという発想を新プラトン主義から受け継ぎ、生涯それを保持した14。この点は、存在者の間に質的・本性的な差異を認めず、「現実的存在」という単一の範疇のうちに神も含めた全ての存在者を包摂するホワイトヘッドとは対照的である。キリスト教の譲ることのできない世界観は「無からの創造(creatio ex nihilo)」であり、被造物である限り人間は完全に「ある」ことはできず、本性的に存在の有限性を抱えているのである。そして、人間が悪をなしてしまう遠因は、まさにこの被造物としての有限性にある。

悪い意志というものは悪徳〔欠陥(uitium)〕であるからには本性に即したものではなく本性に反するものであるとはいえ、本性においてでなければ存在しえない悪徳と同じ本性を持っているのである。ただしこの〔「本性において」というときの〕本性というのは、神が無から造られたもののことであり、神が言葉を生みそれによって万物が作られたというような、神がご自身から生んだ本性ではない。(『神の国』14. 11)

人間が神から直接発出するような存在であれば——例えばここで「言葉」と言われている子のペルソナたるキリストなどはそうであるのだが——その存在の由来に悪の入り込む余地は一切ない。しかし、人間は無から作られているのだから、そのせいで抱える存在の有限性にこそ悪の由来がある。このように、アウグスティヌスの思考のうちには水平的秩序からのみならず垂直的秩序という視点からも悪の問題にアプローチする道がある。

しかし、以上のように見た時、悪の起源は人間の意志ではなく人間の被造物としての存在論的身分にあることになってしまうのではないだろうか。このような思考の筋道もアウグスティヌスは拒否する。なぜなら、人間は善なる神に作られたものである限り、善なるものとして作られているからである。「神よ、あなたは悪を作らない」というすでに見た『ソリロクィア』の一節を思い起こされたい。悪の起源はやはり人間の意志であり、どうして悪い意志が生じる余地があるのかを問い尋ねれば「無から作られた」ということが出てくるのである。

それでは、階層的な存在論的秩序の中に、人間の意志はどのような位置を占めるのだろうか。ここで、神、人間、無という三つの存在のカテゴリーを考えてみよう。細分化すれば神と人間の間に天使を、人間と無の間に動物や無生物を入れることもできるだろうが、差し当たって単純化のためにこの三つに話を絞る。このうち、神については、それが最高善であることには疑いの余地がない。問題は残る二つ、人間と無を善悪との関係でどう位置付けるかである。

しばしばなされる第一の解釈は、最高度の存在である神と最低度の存在である無は対立するのだから、無が悪に対応し、人間は両者の中間、すなわち善でも悪でもない無差別(indifferens)な存在である。このような解釈に従えば、人間の意志は善悪の手前で、善い選択肢と悪い選択肢を比較考量して選択をするというモデルになり、アウグスティヌスが自由意志(liberum arbitrium)と言うときの「自由」とはこのような意味での「無差別という自由(libertas indifferentiae)」になる15。あるいは現代風の言い方をすれば、「そうしないこともありえた」という他行為可能性(alternative possibility)によって基礎付けられる、リバタリアンの多くが採用する古典説的な自由観念になる(cf. キャンベル, 2019, 5f; 87–91)。

しかしながら、この解釈はアウグスティヌス解釈としては誤っていると言わざるをえない。第一に、神によって与えられた人間の自由意志が、善でも悪でもないことはない。再度繰り返すと、善なる神による被造物は、善なのである。アウグスティヌスは『自由意志論』第二巻で人間の自由意志を「なんらか中間的な善(medium quoddam bonum)」(『自由意志論』2. 19. 53)と注意深く規定しており、「善と悪の中間」と述べているわけではない。また第二に、神との対極に悪があるという図式自体が、アウグスティヌスが苦労して退けようとしたマニ教的善悪二元論と紙一重である。第三に、事柄として考えてみても、無差別という自由や他行為可能性といった観念は机上の空論であるように思われる。Murdochがプラトニズムの立場から現代の道徳哲学を批判していうように、道徳は道徳的な選択肢の「ショッピング(visit to a shop)」(Murdoch, 2013, 8)ではない。我々は自らの有限性ゆえに常に限られた選択肢しか視野に入れることができないし(cf. ibid. 35f)、しかも善と悪を等価な選択肢として比較考慮するような視点に立つこともできないのだから——アウグスティヌスであればそれを原罪ゆえの「無知と困難(ignorantia et difficultas)」(『自由意志論』3. 18. 52)と呼ぶであろう。

したがって、取るべき第二の解釈図式は、「最高善(神)→中間善(人間)→最低善(無)」という善自体の階層構造の中で人間の意志の位置付けを探るというものである。一見すればこの図式の中には悪の余地がないように見えるが、解釈の糸口はアウグスティヌス自身の悪い意志の規定を見ることで得られる。アウグスティヌスは「正しい意志が良い愛なのであり、倒錯した意志が悪い愛なのである」(『神の国』14. 7)と述べている。ここでいう「正しい(rectus)」とは文字通りには「まっすぐであること」、「倒錯した(peruersus)」は「ひっくり返っていること」をさす。「まっすぐであること」「ひっくり返っていること」の内実は、意志が「精神の運動(motus animi)」として捉えられていることに目を向けるとよりわかりやすくなる。

問題となるのは人間の意志がどのようなものであるかということである。というのは、もし意志が倒錯したものであれば、この〔精神の〕運動も倒錯したものとなるだろうし、もし意志が正しければ、これらの運動は非難されるべきではないどころか、賞賛されるべきものであるだろう。意志はあらゆる〔精神の〕運動のうちにある。いやそれどころか、あらゆる〔精神の〕運動は意志に他ならないのである。(『神の国』14. 6)

この「意志=精神の運動」という定式化からわかるのは、アウグスティヌスにおいて意志というのは魂の一部分、あるいは精神の特定の機能や能力のことを指すのではないということである。実際、『三位一体論』では以下のように言われている。

これら三つのもの、すなわち記憶・知解・意志は、三つの命ではなく一つの命であり、三つの精神ではなく一つの精神であるのだから、三つの実体ではなく一つの実体であるということが帰結する。(『三位一体論』10. 11. 18)

したがって、「正しい意志」「倒錯した意志」とは、「魂全体がまっすぐ動くこと」「魂全体がひっくり返って動くこと」をそれぞれ意味する。それは、存在論的な階層の中での上下運動としてマッピングすることができる。

それゆえ自分のものが愛されなくなるほど、〔人間は〕いっそう神にすがりつくのである。しかし自らの権能を試すという欲望によって、何らか自らの重みのようなものによって、自分自身へと、いわば中間へと、落ちてゆく。人間は神が何ものの下でもないようにしてあることを意志するので、罰として自らの中間地点そのものからさえも落ちてゆき、最低のところへ、すなわち畜生の喜ぶところへと投げ捨てられるのである。かくして、人間の栄誉は神に似ることであるが、他方で人間の不名誉は畜生に似ることなのである。(『三位一体論』12. 11. 16)

すなわち、「正しい意志」は神に向かい、神のもとにとどまろうとする上昇運動として、「倒錯した意志」は自らを神のごとき存在とみなそうとする傲慢(superbia)の結果として自らのあるべき位置(中間 medium)すら失ってさらに下へと落ちてゆく下降運動として位置付けられる。Madecの表現を借りれば、罪(=悪)とは「存在論的失墜(une déchéance ontologique)」(Madec, 1994, 141)なのである。存在論的に落ちていった先には無があるが、人間は無になりきって消滅するわけではない。それは「すでに無である(iam nihil esse)ということではなく、無に近づく(nihilo propinquare)ということなのである」(『神の国』14. 13)。

以上、本章では存在の水平的秩序と垂直的秩序という二つの観点からアウグスティヌスにおける悪の存在論を考察してきた。水平的秩序という観点からは、秩序と正義の維持と回復のために悪は「存在させられる/存在を許される」というあり方をしていた。他方、垂直的秩序の方に目を向けると、悪の正体は「無に向かう精神の運動」としての「悪い意志」あるいは「倒錯した意志」であることがわかる。アウグスティヌスは悪をなんらかのモノとして実体化することを避けつつも、悪がなんらかの意味で存在するということを否定して世界の中の悪の現実に目を背けることもしない。アウグスティヌスは悪を機能と動きによって規定することによって、両者の間の隘路をバランスをとりながら歩みつつ思索し続けたのである。

第2章 悪と秩序の差異と同一性——ライプニッツにおける悪の存在論

2. 1. ライプニッツの最善世界説について

前章では、アウグスティヌスにとっての悪が、水平的秩序においては善への貢献によって世界のうちに位置づけられること、また垂直的秩序においては無へと向かう運動であることを確認した。いずれにせよ、アウグスティヌスが論じる悪は、秩序や無へと向かう運動自体であるといえよう。このことは、あくまでそれが「最低善」への精神の運動だということからもわかる通り、悪を本性とするような事物の不在を意味している。こうした非事物的な悪に対して、ライプニッツの考える悪は、自体的に秩序へと回復したり、自体的に無へと向かったりする運動とは言い難い。むしろ、個々の事物的な悪が世界の調和的秩序に結びつけられ、そうした秩序によってこそ、善へと引き上げられていく。つまり、現実化された最善世界の秩序のなかに、他の諸現象と共存する事物として置かれることでこそ、悪は悪として存在しながら、同時に悪としての機能を果たすことができるのである。以下では、こうした悪の存在と秩序の関係がライプニッツ哲学のうちでいかにして考えられていたのかを明らかにしよう。

ライプニッツは、悪16が現実世界に存在することを認めている。とりわけ、悪の存在に関連する理論としてライプニッツが重視するのは「最善世界説」であった。この説について、ホワイトヘッドは『過程と実在』のなかで「創造主の体面を救うために生み出された大胆な作り話」であるとしている。

しかし内的決定の全事例は、〈その〉流れを〈その〉時点まで引き受けている。内的決定の原理を示す別様の流れがなぜ存しないのかということの理由は何もない。現実の流れはただ「所与である」という性格を伴って現前する。それは「完全性」という特殊な性格を何も示していない。反対に、世界の不完全性は解脱の道を提供する全ての宗教の、そして普及している迷信を嘆く全ての懐疑主義者のテーマである。最善世界(best of possible worlds)のライプニッツの理論は、当時の、あるいはそれ以前の神学者達によって打ち立てられた創造主の体面を救うために生み出された大胆な作り話である。(PR, 46–47)

ホワイトヘッドにとって、現実世界の事実の流れは、存在論的原理と第9のカテゴリー的制約から生じるものである。前者は、現実的存在なしには何もない、というこの世界を支える存在に関する原理であり、後者は「各個体的な現実的存在の合生は、内的に決定されてあり、外的には自由である」(PR, 46)という事実の流れが生じてくるさいの制約である。したがって、その流れは、あくまでも内的な系列におけるものとして与えられており、外的で超越的な仕方で与えられる理想としての「完全性」へと、それ自体として結びついていない。だからこそ、現実的諸存在において「別様の流れがなぜ存しないのかということの理由は何もない」のであり、ただあるようにある、という生成消滅の流れが与えられるのみなのである。

上記の引用で、ライプニッツの有名なテーゼ「なぜ他のものではなく、むしろこのものが現実存在するのかの理由もなければならない」(ライプニッツ『24の命題』GP, VII, 289)を、ホワイトヘッドが意識していることは明らかである17。ライプニッツからみれば、現実的存在がどのような流れを辿るかということは、先立つ事物によって内的に決定されているのみならず、外的にも決定されている。超越的な神による最善世界の決定という事態が、世界の外部に用意されているのである。したがって、究極理由としての神の決定は、諸事物の調和という理由と合わせて、他でもなく「この」世界が現実のものであることの理由になっているといえよう。

先の引用においてホワイトヘッドは、完全であるはずの神による決定と、我々の目の前に生じてくるさまざまな「不完全性」との間にある一見相反する事態において、「創造主の体面を救うために生み出された大胆な作り話」こそが「最善世界」の理論すなわち最善説であるとする。じっさい、ライプニッツは、さまざまな可能世界同士の比較という契機を神による創造プロセスに導入することで、「不完全性」の存在理由の所在を、神自身から、選択対象である世界の完全性の程度の問題へと移行させる。つまり、形而上学的な不完全性や現象のうちの様々な悪を含み込む世界の創造は、あくまでも諸事物の系列が備えている調和に由来するのである。このとき、神自身の選択の責任は、諸事物の系列の完全性の最大量18という数学的で非人格的な基準、すなわち人格的責任を問うことができないような事物の調和の次元へとずらされている 19。かくして、神の体面は救われるのである。

ところで、このような最善世界説において悪の存在論的身分をどのように考えるべきなのか。悪の問題について、アウグスティヌスやホワイトヘッドを通覧的に論じているPetersonの整理によれば、ライプニッツの最善世界について「世界はいかなる無意味な悪(gratuitous evil)も含まない」(Peterson, 1998, 94)とされる。つまり、最善世界においては、どのような悪であれ最善に寄与する意味や理由をもつものだということである。この見方に従うならば、ライプニッツの説は、悪を最善世界という全体的調和へと還元する理論だといえる。じっさい、ヴォルテールは「「すべては善である」と唱える歪んだ哲学者」(ヴォルテール, 2015, 232)として、ライプニッツを評してもいるのである。

こうした議論から「悪は影のごときものであることになる。そして、無知のみならず誤謬や悪意もが、形相的には一種の欠如に存するのである」(T § 32)とライプニッツ自身が述べたことが帰結する。悪自体は何か積極的な性格をもつものというより、全体の調和を認識できないこと(すなわち無知)や、「大きな喜びの一つへ向かう傾向性の欠如」(T § 33. すなわち悪意)に存しているのである。

2. 2. 悪の積極的な身分に関する先行研究の整理

ライプニッツにおける悪の身分は、何よりもまず光のための影であり、善のために容認された「欠如」だというのが、前節で確認するべきことであった。ただし、ライプニッツによる悪の扱いは「欠如」にとどまらない積極性を有しているということも、しばしば解釈者たちによって指摘されている。

例えば、大西は、ライプニッツ的な欠如の積極性について次のように指摘している。「ライプニッツ的容認論の特異性は、悪の形相である「欠損=欠如」の「無」へ向かおうとするベクトルを現象の方に向け直し、そのような「欠損=欠如」である「悪」を容認するという点にある」(大西, 2015, 9)のであり、したがって「ライプニッツ的容認論が積極的という形容に真実値する」(ibid., 10)。神による創造において、被造物がすべての完全性を受け取ることができないのは、被造物自体が本性的に抱えている有限性ゆえである。ライプニッツはこれを「形而上学的悪」と呼んでいる。こうした有限性は、ある意味では欠如と呼ぶべきものであるが、そうした欠如を現象の方へと向け直すことで、欠如は現象する諸事物の間でのひとつの出来事としての地位を得る。言い換えれば、現象の次元では、善も悪も等しく存在する出来事として位置づけられることになるのだ。したがって、これも大西が指摘しているように、『弁神論』第33節や第392節において「諸々の欠如(privations)」という仕方で複数形を用いていることも、欠如を現象へ向け直す観点から理解することができる。「ライプニッツが「欠如」を個別の現象として眺めていること」(ibid., 9–10)は、悪が最善世界の影として背後に隠れているものではなく、表面に顕れ、善と並び立つものであるということを意味するのである。

現象世界に向け直された悪について、ドゥルーズが『襞』のなかで次のように述べていることも重要である。ここでは、ユダのような「呪われたもの」(すなわち道徳的悪に見舞われたもの)がじっさいの歴史のなかで持ちうる効力について述べられている。

ある魂の進歩は必然的に他のものの犠牲によって成されるとよく言われてきた。だが、それは真実ではなく、他のものたちもまた進歩してきたのだ。ただし呪われたものを除いて。こうしたことは、ただ呪われたものの犠牲によって成されるのであり、そうした人々は自ら自由にはじき出される。そうした人々にとって最悪の罰は、ネガティヴな実例を与えることによってではなく、むしろ自身らに固有の明晰さを放棄することで世界に対して意図しないままに一定量のポジティヴな進歩を残し置くことによって、おそらく他のものの進歩に仕えるということである。この意味で、呪われたものたちは自身たちの意に反して、可能的世界の最善のものにもっともよく帰属していた。ライプニッツの最善説は、最善世界の基盤として無数の呪われたものたちに基礎づけられている。つまり、呪われたものたちは可能的進歩の無限量を放出するのであり、このことがそうした人々の怒りを倍増させ、世界を進歩のうちにおくことを可能にするのである。(Deleuze 1988, 101)

例えば、キリストを裏切ったユダは、その悪によって自らを「呪われたもの」とする。ドゥルーズが述べるユダが受ける罰は、自身の後悔のようなことだけではない。「世界に対して意図しないままに一定量のポジティヴな進歩を残し置くこと」、つまり、最善世界において、ユダの悪が本人の意図とは関係なく、世界の調和を実現するための一部として寄与してしまうことも罰なのである。これこそ、呪われたものにとっての「最悪の罰」であるといえる。かくして、この世界において個々のものとして現象してくる悪は、「最善世界の基盤」として、世界の進歩にとって欠くことのできないものとして積極的な身分をもつことになる20

しかし、以上のように歴史の進歩にとっての悪の積極性を論じることは、結局のところ、全体的調和に対する効果という点でしか、悪の存在を認めないことになりはしないだろうか。たしかに現象世界において、善と並び立つ出来事として悪が一定の身分をもつとすれば、「欠如」とまでは言えないかもしれない。とはいえ、悪の全存在性を諸事物の調和や歴史との関係に委ねるならば、やはり結果的にはライプニッツが「欠如」と述べている事態、すなわち大きな善への寄与という観点からのみ悪を考える事態へと我々を導くことになると思われるのである。

こうした憂慮にもかかわらず、橋本は、最善世界の基盤となっている悪について「この悪は手段ではない」と断言している。ドゥルーズによるライプニッツ解釈から派生するかたちで、橋本が『弁神論』終盤に登場してくる王政ローマの崩壊を導いた罪人セクストゥス(・タルクィヌス)を例にして語る場面を引用しよう。

この世界を可能的世界よりも優位に導くのは何だろうか。それは、この世界には悪が不可欠な条件として深く食い込んでいることなのだ。この世界、創造された世界では、悪は単独であいまいに浮遊しているのではなく、隙なく一貫したしかたでいっさいの個体に刻み込まれている。〔…〕この悪は手段ではない。世界の出来事連鎖と個体に深いつながりがあるから、悪がこのようにおおきな善きことへと転化しうるというだけなのだ。(橋本, 2013, 141)

罪を犯すセクストゥスのような人物に生じる悪が、最善という全体的調和のための手段ではないとはいかなる事態なのだろうか。あらゆる悪が「容認」されるのは、それが他でもなく最善のための手段であるからではなかったのだろうか。ここで我々は橋本があえて用いている「転化」という言い方に注目するべきであろう。それは「寄与」ではないのだ。創造された世界においては、悪はこの世界に深くむすびつけられており、必然的に善へと転化するという構造が最善世界そのものに備わってしまっている。最善世界からひとつでも悪を引き抜けば、その世界はもはや最善ではなくなってしまうような関係が、創造された世界と個々の悪の間にはある。個々の人間が見舞われる悪とは、最善という目的のために偶然に選ばれた道具的手段なのではない。このことは、アウグスティヌスが悪を秩序に寄与する手段としてみなしていたことと対照的だといえる。まさに最善という目的そのものから切り離すことのできない最善の一部なのである。

以上で見てきたような悪に関する諸解釈からも分かる通り、ライプニッツにとって、この世界に生じてくる悪は、単なる「欠如」というより、むしろ積極的な存在論的身分を有しているように思われる。悪は全体的調和のための手段ではなく、その調和に必然的に結びついている部分であるということは重要であろう。というのも、調和的秩序とそれを構成する悪以外の要素が存在するのと同じだけの積極性で、悪もまた存在すると言わねばならないからである。

2. 3. 各個体に属する悪

全体的調和のうちで個々の悪が「欠如」ではない仕方で存在することを認めたうえで、そうした悪は現実にはどのように存在しうるのかを問う必要がある。言い換えれば、悪の積極的な存在論的身分をじっさいに支えている現実的基盤を明らかにしなければならないのである。本節では、個体的悪を成立させる個別の意志が成立しうる場所として「生き物」がいるということをライプニッツのテクストから示すことになる。

現象的世界は全てが十分な理由のうちにあるがゆえに、全体的な秩序ないし調和を形成している。こうした全体のうちで、生き物の存在は特異なものであると言えよう。ライプニッツは生き物をこの現象世界における存在の結節点のように捉えている。生き物は、全体的秩序のうちにありながら、同時にひとつの個別的秩序を構成するものであり、普遍的合目的性に沿う最善世界のうちにありながら、同時にひとつの個別的合目的性を備えた部分的単位として存在しているのである。じっさい、ライプニッツ自身も、生き物の完結性や個別的合目的性について、次のように述べている。

つまり、神の作品の中からひとつにまとまったもの、それ自身で完結していていわば他から孤立しているものについてわれわれは見知っている。神の手によるものとしてこのような全体をなすものとは、例えば植物とか動物とか人間がそうである。(T, § 134)

したがって、事物の製作者は知性を通してすべてを知解するので、すべては秩序ある仕方で、つまり、ある目的に向かって働く。さらに、同様に二重の目的因、すなわち個別的および普遍的な目的因が生じてくる。個別的目的因は、特に自然の諸機械(Machina naturae)すなわち生き物の有機的な諸身体に出現する。このような自然の機械は、神の発明による機械なのである。それらは、一定の種類の働きのために設えられており、我々〔人間〕においては、理性という機能を展開できなくてはならないのである。そして、それらの神の機械は、我々が製作できるものを凌駕しており、自分自身を保存し、自分に似たものを生み出すことができるという傑出したものを持っている。このことによって、それら機械に対して定められた働きが、より確かに達成されるのである。(YLS, 20)

二つ目の引用において「我々〔人間〕においては、理性という機能を展開できなくてはならない」と述べられているように、有機的身体の物体的な在り方は、そこに結びついているモナドの心的な在り方(理性機能)に対応していると考えるべきだろう。

こうした対応は、その個体性についても言えるものである。別の書簡においても、「人間の身体は、観想の永続に適合した機械である」とも述べられているように、有機的身体がひとつの完結した「自然の機械」として個体性を有するということは、そこに対応する精神の個体性をも帰結するのである21。したがって、生き物という場において、固有の知性や意志というものが他から「孤立」するかたちで用意されているということを考えることができる。悪の問題に関していえば、我々は、固有の意志との関係のなかで個別の悪という事態が生じるうることを想定することができるだろう22

このことを考えるために、ライプニッツがしばしば持ち出す「先行的(antécédente)意志」と「帰結的(conséquente)意志」に関する議論を参照する必要がある。神は、最善世界を創造するにあたり、全体の調和を考慮した結果としての「帰結的意志」に従って世界を創造することになる。だが、その最終的な決断に先立ち、神は個々の個体すべてが善を実現することを「先行的意志」によって望んでいたとされる。他方で、被造物としての人間は、全体を見通して下された神の帰結的意志を十全に知ることはできず、むしろ、一定の有限性によって固定された観点からのみ熟慮し判断するしかない。こうした世界内在的な観点に立脚する人間の意志は、それが十全な形で働くならば、神が先行的意志として望んでいたであろうことに一致するものとなる。

ところが、神の先行的意志に一致していることを、我々が自らの意志として採用し行動に移すとしても、それが必ずしも成就するとは限らない。ここにこそ個々の存在者にとっての悪が存している。ライプニッツによれば、人間は善なるものを意志するという本性を有している。その状況において、そのパースペクティヴから、もっとも最善だと思われることを意志するのである。したがって、端から見れば犯罪であるようなことでさえ、当人にとっては最善の選択だといえる。あらゆる行為は善を目ざす意志から行為へと移され、最終的には神の秘められた帰結的意志によって、その結果を与えられることになる。

〔…〕欲求のはたらきが、その目ざす表象の全体に完全に到達できるとは限らない。しかし、いつもその表象から何かを得て、新しい表象に到達するのである。(M, § 15, Robinet 77)

〔…〕賢明で有徳な人々は、神の推定的意志、つまり神の先行的意志にかなうと思われることをすべて実行するとともに、他方では神の秘められた帰結的意志、つまり決定的意志によって実際に起こることに満足する23。(M, § 90, Robinet 127)

どのようなことを意志するにせよ、神の帰結的意志に適わず、それぞれに固有の意志が成就しなかったときこそ、個体において悪が生じる。そのような悪が生じたとしても、「賢明で有徳な人々」であれば満足することもできるだろう。そして満足できない場合には、永遠の劫罰に処されるユダのように、より深い悪へと陥ることになるのである24

2. 4. 悪は瑣末でも曖昧でもない仕方で存在している

前節では、ライプニッツが述べる悪が、生き物、とりわけ個々の人間という現象的で個別的な場に、いわば事物的に存在しうることが明らかになった。そのような個別の存在論的身分を有する悪は、全体的調和とどのような関係に置かれているのだろうか。本章の最後に、悪が個別的に差異づけられつつも全体的調和と一定の同一性を保つことでこそ、現象的世界において悪が悪でありながら善との関係のなかで機能できるということを明らかにする。

個体的な悪と全体的調和との関係を考えるにあたり、ホワイトヘッドが悪の問題について言及するさいに登場する「瑣末さ(triviality)」および「曖昧さ(vagueness)」に関する議論を参照することができる。前者は、全体的調和から完全に切り離されてしまうような性質であり、後者は逆に全体的調和と同一化されて区別がなくなってしまうような状態を指している。まず瑣末さについては次のように述べられている。

純粋に自己本位的な破壊的悪による叛逆は、単なる個別的事実にすぎないものという瑣末さにおしやられる。しかし、そうした事実が個別の喜びや悲しみ、必要なコントラストの導入において達成した善は、完成された全体との関係によって救済される。(PR, 346)

「瑣末さ」は「両立不可能な差異化の過剰から生じる」(PR, 111)とも説明されている。つまり、諸事物の生成消滅の継起的全体のうちで、後に続く存在へと結びつき得ない要素、両立不可能な要素がもつ性格が「瑣末さ」だといえる。そのような瑣末さに対して、ホワイトヘッドによれば、悪であったとしても全体へと結びつけられるならば「救済される」。

とはいえ、瑣末さを逃れるために全体性へと悪を回収し尽くせば、それで善へと転化するわけでもない。ホワイトヘッドは「曖昧さ」というもうひとつの極を持ち出すことで、このことを説明している。「曖昧さは同一化の過剰から生じる」(ibid.)と言われるように、全体のうちでコントラストを持たないこと、他との差異の不足が曖昧さと呼ばれる性格である。

したがって、ホワイトヘッドにとって、過剰な差異化と過剰な同一化の中間地帯でこそ、悪や不調和といったものの役割が果たされうることになる。

世界の善性に属しているのは、その世界の定着された秩序が別の時代の微かで不調和な曙光を柔らかに受け止めるべきだということである。〔…〕これは「中庸」についてのアリストテレスの説の応用にすぎない。(PR, 339)

先立つ時代の悪ないし不調和が善なる仕方で続く時代と関係を結ぶためには、適度な差異によってコントラスト化されており、同時に適度な同一性によって続く時代に結びつきうるということが必要となる。ここで改めてライプニッツの議論を振り返り、個体にとっての意志とそこに生じる悪の領域が用意されているということの意味を、ホワイトヘッドの言う、「瑣末さ」と「曖昧さ」の「中庸」から記述し直してみよう。

ライプニッツのいう最善世界説において、本章第2節で見たように、悪は全体的調和を基礎づけるものとして積極的な存在身分を有して全体へと結びついている。それと同時に、本章第3節でも見たように、その同じ悪は、各人の個別的な意志の働きに依拠する仕方で存在してもいる。ホワイトヘッドの「瑣末さ」と「曖昧さ」に関する議論を援用するならば、ライプニッツの悪は、全体的調和に結びつけられている限りで瑣末なものではあり得ないし、各人に固有の仕方で存在している限りにおいて全体的調和と同一化されるような曖昧なものでもあり得ない。まさに「中庸」に置かれた悪こそが、この世界に根を張り最善を可能にしているのである25

本章の冒頭で引用したホワイトヘッドのテクストが示していたのは、自らの立場をライプニッツとは異なるものとして示そうとする姿勢であった。両者は「なぜ他のものではなく、むしろこのものが現実存在するのか」という観点から考えれば、たしかに異なる理論を提示している。だが、現実存在するものの価値の次元、いわば「なぜこのものは価値をもつのか」という問いのもとに照らして両者を比較するならば、共通性を見出すことができる。すなわち、両者ともに、ある事物が価値をもつのは、単に全体性に回収されるのでもなく、他から完全に独立しているのでもない、瑣末さと曖昧さとの間の中庸という事態においてであると考えているのである。したがって、ホワイトヘッドとライプニッツの哲学の間にある存在論的な結構の差異は、現象的世界の価値の次元で再び合一することになる。両者の考える宇宙においては、そこに深く根付く悪の価値が——アウグスティヌスにおいては比較的強調されることのなかった——悪そのものの個別的な性格によって可能になっているのである。

第3章 悪と理想の歴史性——ホワイトヘッドにおける神と悪の問題

3. 1. 理想の源泉としての神

ホワイトヘッドの展開した有機体の哲学には、独特の「神」が登場する。それは、世界のうちに実現しうる様々な価値や理想を構想し現実的諸存在に提示することで、諸存在をそれらの可能性の実現へと駆り立てるとともに、生成しては消滅していくあらゆる存在とそれらが実現した価値を自身のうちに包摂し、恒久的に保存する、それ自体一つの現実的存在である。こうした神に由来する理想的諸可能性のヴィジョンに活気づけられながら、「新たなるものへの創造的前進」(creative advance into novelty)を遂げていく世界をホワイトヘッドは描く。その一方で、この世界が様々な悪の生じる場所であることを所与として認める彼は、前章でも見たように、ライプニッツの最善世界説を「創造主の体面を守るための大胆な作り話」と難じる(PR, 47)。そもそも、ホワイトヘッドのいう神は、世界の創造主でもなければ、善の実現を強制しうる全能者でもない。むしろ理想的諸可能性の方へと諸存在を絶えずいざないながら、それでも生じてしまう現実の悪に耐え、世界と共に苦しむ者(fellow-sufferer)である(PR, 346; 351)。しかし、もしこの世界が理想や価値の実現を促す神的な活動によって絶えず活気づけられているのならば、そのような世界において生じる悪とは一体何なのか。そこで悪は、いかなる場所を持つのか。

本章では、ホワイトヘッド哲学における神と悪の関係を考察する。ライプニッツ的神義論を拒絶する一方で、ホワイトヘッドのテクストには彼の独特の神概念に対応する、別の形での神義論的な問題意識が現れる。そこで、まず神の概念が彼の体系において担う、理想の源泉としての中心的機能を分析した上で(3.1)、神と悪の関係をめぐって生じる神義論的問題へのホワイトヘッドの応答を考察する(3.2)。最後に、神の「帰結的本性」と「原初的本性」の関係に注目しながら、この哲学における悪の位置づけの解釈を試みる(3.3)。

神は、ホワイトヘッドの哲学においてもっとも解釈の分かれる概念の一つである。それは、彼の神論が錯綜しており整合的な形で提示されているとは言い難いからのみならず、そこに非宗教的、宗教的という二面性が認められるからでもある。すなわち、一方では、「はじめに」でも言及したように、彼は「世界における神の諸機能という概念を世俗化する」(PR, 207)ことの必要性を説き、「既存の諸宗教がいかなるものであるか、またあるべきかへの一切の言及を除外して」(PR, 343)あくまで形而上学的観点から神を考察することの重要性を強調する。しかし、他方では『宗教とその形成』を中心に、彼はキリスト教のみならず仏教をも視野に入れた比較宗教学的考察を背景に、自身の神概念を彫琢する26。そして、伝統的なキリスト教神学は「エジプト、ペルシャやローマの皇帝的支配者の似姿として神を作る」という「偶像崇拝」 に陥ってきたと強く批判し、「キリスト教のガリラヤ的起源」に見られる愛の要素を自身の神概念の重要な手がかりにする(PR, 342-343)など、神の概念は彼自身の宗教哲学の要にもなっているのである。解釈者たちは、以上の二側面のどちらかに傾斜しながら、ホワイトヘッドの神論の整理やさらなる展開を試みてきた。まず、アメリカを中心とする自由主義神学者の間では、キリスト教の神の新たな理解の仕方を提案するものとしてホワイトヘッド哲学を受容し、それを多様に発展させることで「プロセス神学」と呼ばれる学派が形成されている27。一方、科学哲学を背景とするホワイトヘッド哲学の自然主義的性格を重視する立場からは、神概念が担う機能は体系を修正することで他の諸概念に還元可能であり、またそうするべきであるという主張がくり返しなされてきた(Dewey, 1987; Sherburne, 1971; Allan, 2008)。さらに、ドゥルーズの哲学に引きつけつつホワイトヘッドを内在性の哲学の系譜に位置づける解釈者たちは、「神の諸機能という概念の世俗化」というプログラムの徹底の帰結として、この神概念をあくまで非神学的・非宗教的なものと解釈している(Stengers 2002; Shaviro 2009)。

以下では、あくまでホワイトヘッドのテクストの内在的読解によって神概念を扱うが、神と悪の関係の考察に踏み込むには、対極的な上記の二つの方向性のいわば中間に立つ解釈方針を採らざるを得ない。たしかに、内在的読解と、キリスト教的な人格神の存在を前提に持ち込むプロセス神学的解釈の間には飛躍がある。しかし、神概念の体系内における機能に注目することが、ホワイトヘッドの神論の一側面である宗教的関心を一律に排除することを正当化するとは決して限らない。とりわけ本論文にとって重要なのが、現実の悪に対する責任を負わない神の「必然的な善性」(PR, 345)を確保するという、ホワイトヘッドの神義論的な問題意識である。純粋に体系上の機能としてみるならば、たとえ「神」と呼ばれようと、なぜ体系内の一要素が本性的に善なるものでなければならないかは自明ではない。神概念の機能を十全に分析するためにこそ、自然主義的読解において捨象されることの多い神義論の問題に取り組む必要があるのである。

本節では、以降の議論の準備として、ホワイトヘッドの神概念の基本的な機能を整理する。神を最終的にどのように解釈するにせよ、主著『過程と実在』の体系において、この概念が担う基本的機能はさしあたり以下の三つとして整理されることが多い(cf. Sherburne, 1971)。

(1) 「永遠的対象」と呼ばれる諸可能性を価値づけ、それらと現実的諸存在との関連性を根拠づけること。

(2) 「初発的目的」と呼ばれる、現実的諸存在の生成を導く目的因を提供すること。

(3) 生成してはそれ自体としては消滅してしまう現実的諸存在を包摂し、自身の一部として恒久的に保存すること。

このうち、初めの二つは密接に結びついている。すなわち、(1)神は世界に生じうる事柄の無限の諸可能性を構想し、それらの諸可能性を、それが体現する異質な要素の間の調和、およびそこから生み出される経験の強度という観点から価値づけ、相互に関連づける。そして、(2)こうした諸可能性の神的な価値づけを所与として受け取る神以外の現実的存在は、他の諸存在を作用因として、かつ自身の具体的状況に関連する理想的諸可能性を目的因として、自己創造的に生起する出来事として理解されるのである。このように、諸存在の志向する諸可能性を先行的に用意し、提示するはたらきを、ホワイトヘッドは神の「原初的本性(primordial nature)」と呼ぶ。一方、上に挙げた第三の機能は神の「帰結的本性(consequent nature)」と呼ばれる。二つの本性をいかに統合的に理解するかは解釈上の大きな問題であり、本論文でも後に取り上げる。しかし、帰結的本性が『過程と実在』の最終部で初めて主題化されるのに対し、同書の全体にわたって神への言及の大部分は原初的本性に関するものであることから、体系における神の機能を整理する本節では、原初的本性を中心に議論を進める。

原初的本性において、神とは世界に実現しうる無限の諸可能性を先行的に構想し価値づける、非時間的な現実的存在である。ここで、「原初性」が指すのは現実的存在それぞれの生成に対する、諸可能性の関連性(relevance)の説明上の先行関係であって、時間的先行関係ではない28。すなわち、諸存在の抱く欲望は何らかの可能性の実現を追求したり回避したりするが、神の原初性が意味するのは、そうした諸可能性の望ましさとは、現実の欲望を根拠に欲望の対象に投影される性質なのではなく、反対に可能性の望ましさ(個々の現実的状況に対する関連性)の方が所与として、それを対象とした現実の欲望を喚起するということである。神の原初性が意味するのは、価値や理想についての実在論であると言えるだろう。

この実在論を、ホワイトヘッドは「新たなるものへの創造的前進」という予見不可能な動性を世界の究極的特徴と捉える彼の哲学の基本的発想の帰結として展開している。彼にとって根本的な哲学的問題の一つは、この世界において、過去が未来を因果的に完全に決定するわけではなく、むしろ過去からの断絶を伴う、「新たなるもの」(novelty)が出現する創造的プロセスが存在するのはいかにしてかを説明することであった。新たなるものの出現の最たる例が、自発性を発揮する生命現象であり、多様な制度や文化、文明的社会を生み出しながら歴史的に展開する人間社会である29。我々の生は、習慣的な欲望とその充足の反復に条件づけられている一方で、新たなより良い生の可能性や理想を発見し、それらに意識的、無意識的に触発されながら新たな生の様式を生み出していくというダイナミズムをも備えている(FR, 17–20)。このダイナミズムを説明するために、ホワイトヘッドはまず、我々が単なる物理的現実のみならず、現実に多かれ少なかれ関連する無数の可能性の潜む環境の中を生きていることを強調する。それらは、単なる論理的な可能性ではなく、我々を様々な行為や経験の主体へと生成するよういざなう「客体的誘因(objective lure)」である(PR, 86–87)。具体的状況に内在する諸可能性に選択的に触発されながら、我々は絶えず自己と環境を新たに形成していく。では、そこで習慣化した一連の諸可能性の反復を超えた新たな可能性が現れ、我々を触発するという事態はいかにして生じうるのか。すなわち、「いかなる意味で、実現していない抽象的形相は〔すでに実現しているものに〕関連するものでありうるのか?その関連性の基礎は何か?」(PR, 32)神の原初的本性は、この問いに対するホワイトヘッドの答えである。彼の依拠する「存在論的原理」によれば、「現実的諸存在のみが理由であり、何かの理由を探すことは、一つあるいは複数の現実的存在を探すことである」(PR, 24)。それゆえ、諸可能性の関連性の根拠は、諸存在の偶然的な欲望に先立ち諸可能性を用意する、何らかの現実的存在に求められなければならない。そしてホワイトヘッドはその根拠を、神という現実的存在による原初的構想という活動に求めるのである(PR, 32–34)。神とは「新たなるものの器官」(PR, 67)であり、「神がいなければ、関連する新たなるものはあり得ない」(PR, 164)。

こうして、神の原初的本性が行うのは、個別の諸存在の心的態度には還元できない、未実現の可能性の領野の確保である。神という理想の源泉に支えられて、我々は物理的な現実にも自身の心的態度にも還元できない可能性の風景の中に自らを見出し、自らの行為を通じて、世界に新たなるものを持ち込むのである。

3. 2. ホワイトヘッドの神義論と悪しき理想の問題

では、もし実在的な諸理想が神によって確保されているのならば、なぜそれらは世界において着実に実現するわけではなく、むしろ悪しき出来事としか言いようのない、凄惨な行為や事件は歴史上繰り返されるのか。理想の源泉としての神の機能という考えと、現実の悪の存在は、折り合うのか。

ホワイトヘッドは、悪を破壊的な出来事の現実性として捉える。悪は現実の善や、善の可能性を破壊する点で悪なのであって、他との関係とは独立に、本性的に悪であるものが存在するわけではない(RM, 84)。他方で、複数の調和が衝突して生じる不調和が、より高度な調和の探索と実現を促す場合もある以上、破壊的なものが必ず端的な悪であるわけでもない。それゆえ、「「経験における支配的事実としての破壊」が、悪の正確な定義である」(AI, 259)。これは、悪は善の欠如であるというアウグスティヌスの基本的発想を継承しつつ、その枠内で悪の現実性を最大限に強調する発想と言えるだろう30

神のもたらす諸可能性にいざなわれながら創造的に生きる我々の歴史は、それにもかかわらず、高次の善の実現によって埋め合わされることのない支配的事実としての破壊で満ちている。このことに向き合うならば、神によるいざないが果たして常に善を目指すものと言えるのかを問わざるを得ない。アウグスティヌスやライプニッツとは異なり、ホワイトヘッドはキリスト教神学とはさしあたり無関係の立場から神の概念を構築している。その限りでは、「新たなる関連性の根拠となる」といった体系上必要な機能を果たす限り、神のはたらきが端的な善である必要はなく、むしろホワイトヘッドはたとえば西田幾多郎のいうような「デモーニッシュ」なる性格をそこに認めることもできたはずである。だが実際には、彼は神の善性をくり返し強調し、伝統的な神義論の問題の解決に強いこだわりを見せる。初めて神概念を打ち出した『科学と近代世界』(1925年)の終章は、次のような示唆によって締めくくられる。

神の宗教的意義を躍起になって立証しようとする中世や近代の哲学者たちの間では、神に形而上学的な賛辞を贈るという不幸な習慣が流行してきた。神は、〔世界の〕形而上学的なありようとその究極的な活動性の基礎として捉えられてきたのである。もしこの捉え方を固守するならば、神のうちに全ての善と同様に全ての悪の起源をも認める以外の選択肢はあり得ない。その場合、神は〔世界という〕劇の至上の作者であり、それゆえその劇の成功のみならず数々の欠陥をも、神の手になるものと見なされなければならない。〔だが反対に、〕もし神を限定の至上の根拠と捉えるならば、〈善〉と〈悪〉を区別し、「その領土内において至上である」〈理性〉を打ち立てることは、神の本性そのものに属する。(SMW, 179)

議論は次のようなものと思われる。もし神がこの世界を作り出した全能の創造者ならば、神はこの世界における善のみならず、悪の起源ともならざるを得ない。しかし、神が善悪の区別の根拠であり、世界そのものの創造者ではないと考えるならば、この問題は解消する。観念レベルでの善悪の区別がなければ、我々は現実レベルでの悪の原因や理由を問うどころか、悪を理性的に認識することさえできないからである。神は現実のうちに悪を認める可能性の条件であり、悪を生み出す原因ではない。

だが、この神義論が成立しているかは疑わしい。神の機能は、善一般と悪一般の単に形式的な区別ではなく、むしろいかなる可能性が望ましいかをめぐる実質的な区別にあるからである。たしかに、ホワイトヘッドが強調するように、歴史の中で人間が世界や社会のあり方の新たな可能性を発見し、高邁な理想の力に触発されるということは起こるかもしれない。『観念の冒険』で語られる、人道的理念に基づく世界変革の歴史は、その一例として考えうる(AI, 10–42)。奴隷制や人種差別を悪と理解し、その克服に向かわせるのは人間の尊厳の平等な尊重といった理想の持つ力である。そうした理想は、悪の認識の根拠ではあっても、その悪の現実存在の原因とは言われないだろう。神がこうした理想の源泉だとすれば、神は奴隷制の存在に対する責任者ではなく、むしろ奴隷制を乗り越え、世界を改善しようとする人間の努力の形而上学的根拠である。

しかし、こうした説明が成り立つのは、時の試練に耐え、歴史を通じて成功裡に受け継がれてきた理想に限られるように思われる。人間は過ちを犯す存在であり、悪しき理想や歪んだイデオロギーであったと後から反省される考えに導かれて破滅的な結果に至るという事例は、歴史上枚挙にいとまがない。たとえば、軍国主義的イデオロギーの下で善とされた行為が、人道的見地からみて許容し難い悪であった場合を考えよう。軍国主義が掲げるのは国家や社会とその構成員のあり方をめぐる一つの理想であり、それに照らして良い行為や悪い行為が定められる。だがここで、軍国主義的理想は、善悪を区別するものであって、悪を引き起こすものではないと主張するのは奇妙である。理想はそれ自体、他の理想に基づく評価を免れるものではない。ある理想の下では善とされた行為もそれ自体、むしろ悪ではなかったかと批判的に問われるのは自然だろう。我々は、悪しき理想——すなわち、それ自体としては一定の秩序の可能性ではあっても、他の様々な秩序と両立不可能であるために、その実現は「支配的事実としての破壊」を生むような理想——を、注意深く避けなければならない。

人間社会に現れる悪しき理想の諸事例を考えると、神が原初的に構想するとされる可能性の秩序が、どれほど整合的なものであるのかが問われざるを得ないように思われる。むしろそれは、実に錯乱と矛盾に満ちた、欺くものと考えるべきではないか。たしかに、全能の創造性から解放された神は、いわば世界の悪に対する製造物責任を免れるかもしれない。しかし、依然として、世界の悪を教唆するものではありうるのではないか。

こうした疑念に対してさしあたり可能な応答は、人間の抱く理想が全て神に直接由来すると考えるのは誤りだ、というものだろう。『過程と実在』によれば、神に由来するのは諸存在の生成の出発点となる「初発的目的」であって、そうした目的を自身の生成過程を通じて「主体的目的」へと転換していく自由はその生成の主体自身にある31。これは、ホワイトヘッドの示唆する神義論を発展させたプロセス神学における「プロセス神義論」の中心的主張でもある32。それによれば、もしホワイトヘッドが主張するように神は専制君主のような全能の創造者ではなく、あくまでその他の現実的諸存在と創造性を分有する存在であるならば、神といえども諸存在の活動を善へと「強制」することはできず、ただ自身のもたらす理想の力によって「説得」することができるのみであり、そうした説得にもかかわらず有限の諸存在が自身の創造性によって犯す悪に対して神は免責されるのである(Griffin, 1976, 276–281)33

だが、前節で指摘したように、神の原初的本性が世界の歴史に出現する「新たなるもの」の形而上学的根拠であることを踏まえれば、この応答には疑問が残る。畢竟、新たなるものは善でも悪でもあり得るのであって、そのうち善なるものは神に由来するが、悪は人間の自由に由来するとするならば、ライプニッツの最善世界説に対するホワイトヘッドの評価と同様の「大胆な作り話」に陥るように思われるからである。実際、悪しき理想の発生を説明する道具立てはホワイトヘッドの哲学に多くはないものの、いかなる調和もその実現によって他の調和の可能性を排除する有限なものであるがゆえに「美と悪とは混ざり合う」ということをホワイトヘッドは認めている(AI, 259; cf. PR, 340)。では、少なくとも部分的には悪でもありうる理想を提供する神について、ホワイトヘッドがあくまで善性のみを認めようとするのはなぜなのか。

もちろん、英国国教会の聖職者を父に持つ彼が、この点ではあくまで神の伝統的観念にこだわったという見方もできるが、ここでは別の仮説を考えてみたい。ホワイトヘッドの神は、超自然的な仕方で世界に介入し正義をもたらすものではない。むしろ、我々が新たな生や世界の可能性を思い描き、その実現に向けて努力するとき、そうした可能性の到来を説明するために形而上学的に要請されるのが神の原初的本性である。それゆえ、神は善であるかという問いは常に、我々は価値や理想を掲げる自己自身を信じることができるかという問いと密接に関わることになる。神が善でないならば、我々は神に由来する新たな価値や理想に基づいて世界を改善しようとする自らの努力自体を信用する根拠を失ってしまう。言いかえれば、ホワイトヘッド哲学における神義論とは、信仰の問題というよりも、我々のいわば自己信頼の可能性という問題であると考えられるのである。だからこそそれは、文明社会の実現の条件や形而上学的基礎を深く追求したホワイトヘッドにとって重要だったのではないか34

そうだとすれば、悪しき理想に騙される人間の誤りやすさを、神とは独立の人間の創造性に帰すプロセス神義論の解決は不十分である。むしろ、神の善性の説明は、たしかに我々は過ちを犯しうるが、我々はまた、過ちを認め、そこから学び、乗り越えることもできるという考えを可能にするものでなければならないのではないだろうか。たとえば次のように——もし我々が、一度はコミットした理想やそれが引き起こした事態を、事後的にであれ悪であったと認識できるとすれば、それは、別の理想や価値を発見し、あるいは受容することによってである。個別の理想とその帰結の誤りを認識し、正すことはそれ自体、新たなる理想を必要とする。欠陥のありうる個別の理想を神と同一視するべきではない。むしろ、こうした理想の更新可能性や改善可能性を確保することこそが、理想の源泉としての神の機能であり、その善性である。

ホワイトヘッドは、このような議論を明示的に展開してはいない。しかし、『科学と近代世界』(1925年)の後、『宗教とその形成』(1926年)や『過程と実在』(1929年)を通じた神概念の発展は、まさに以上の発想をなぞるかのように、善と悪を区別するのみならず現実の悪に応答する神の積極的な機能を論じていく。たとえば『宗教とその形成』では次のように語られる。

天の王国とは、悪からの善の隔離ではない。善による悪の克服である。悪から善へのこの変容は、〔現実的世界が〕神の本性を含むことによって、現実的世界の内に入り込む。この神の本性は、善の恢復へと至るよう新たな結果的形相と結合された、それぞれの現実的な悪についての理想的ヴィジョンを含んでいる。

神はその本性のうちに悪や苦しみ、堕落についての認識を持っている。しかしそれらの認識は、善なるものに克服されたものとして、神の本性のうちにある。(RM, 138–139)

すなわち、神は、現実の悪を認識した上で、それを善の恢復へと導くための理想的ヴィジョンを構想し、世界へと送り返す。こうした理想と現実の間の往還運動が、神のはたらきとして強調されているのである。

現実の悪に応答するという神の側面は、『過程と実在』において、世界の全ての出来事を自身のうちに保存する、「神の帰結的本性」の概念へと発展する。帰結的本性において、神とは世界のあらゆる出来事を直接経験し保存しながら、世界と共に変化していくプロセスである。諸存在の持つそれぞれの経験は、「その数々の苦しみも、悲しみも、失敗も、成功も、喜びの直接的感覚も含めて」、神による世界の経験という一つの「普遍的感じ(universal feeling)」へと調和的に織り込まれる。そして、神のうちに作り出される「完全化された体系」としての理想的世界は、翻って現実世界の諸存在に流れ込み、新たな理想の源泉となる。すなわち、「世界においてなされたことは、天における現実へと変容し、天における現実は反転して世界へと移行する」のだという(PR, 351)。

神の帰結的本性は、生成消滅する諸存在に不死性を与える「救済」に関わるものとして、とりわけ解釈者の宗教的関心を投影して読解されることが多く、また原初的本性と一見独立した概念であることから、両者の関係については様々な議論がある。しかし、以上の文脈を踏まえれば、神の帰結的本性は理想の源泉としての神の機能を動的に捉えるために導入された概念と捉えることができるように思われる。神は、単に理想的諸可能性を原初的に構想するのみならず、現実に生じる悪に応答し、それを克服する新たな可能性をもたらす。それは、個別の経験や歴史を持った個別の諸存在に対して開示される「個別的摂理(particular providence)」である(PR, 351)。この意味で、神は単に理想の根拠であるのみならず、現実世界の個別的状況を踏まえた、理想の改善可能性の根拠となるのである。

3. 3. 神の帰結的本性と悲劇的悪

しかし、神の帰結的本性が悪にいかなる仕方で応答するのかは、慎重な検討を要する。現実の悪への応答を通じて神が理想を与えるとすれば、見方を変えれば、その悪は神の理想が到来するための道具として機能しているとも言いうるからである。その場合、現実の悪は、それを通じてもたらされた理想によって、何らかの高次の善へと回収されることになってしまう。事実、ホワイトヘッドは時に、高次の善への悪の回収に危険なほど近づいているように思われる。『宗教とその形成』において、彼はこう語る。

全ての事実は、あるがままの事実である、快楽、喜悦、苦痛、あるいは苦悩の事実というように。神との合一において、その事実は完全な喪失ではなく、その良き側面において、死すべき事物の拍動の中に、不死のものとして織り込まれる。その事実における悪そのものが、全てを包摂する神の諸理想にとっての踏み台(stepping stone)となる。(RM, 140)

現実の悪は、神の理想が世界に導入される踏み台となる、その限りで、現実の悪は神と合一するという。さらに、『過程と実在』では、ホワイトヘッドは神の帰結的本性が現実の悪を保存する際の、悪の選択的な救済を語る。帰結的本性において、

純粋に自己本意的な、破壊的悪による叛逆は、単なる個別的事実にすぎないものという瑣末さへと押しやられる。しかし、そうした事実が個別の喜びや悲しみ、必要なコントラストの導入において達成した善は、完成された全体との関係によって救済される。(PR, 346)

ここでは、現実に生じる悪は、神の経験における「完成された全体」としての世界との関係において何らかの善へと転化されるか、単なる個別的事実にすぎないものとして瑣末化されるかのいずれかであるとされている。そのどちらとしても片づけられない悪の現実性は、神の機能によって解消されてしまうのである。ここでのホワイトヘッドの議論は非常に抽象的だが、ここに、ある種の進歩主義的な世界観によって悪を正当化する道が開かれている可能性は否めない。すなわち、次のような読み方である——世界は決して完全ではない。しかし、まさに世界の悪を通じて、神は世界をより高次の善の実現へと導いている。悪は個別に見れば、世界の調和に加わらない瑣末なものだが、神的視点から理解される、世界の進歩に関係づけられる限りでは、悪は救済され、現実化しつつある善の一部となる。

悪と神の関係を、別の仕方で考える道はないのだろうか。ここで注目したいのが、『観念の冒険』(1933年)の最終章における「悲劇的悪」(tragic evil)の概念である。この章では神についての議論が直接展開されるわけではないが、後年のホワイトヘッドの証言によれば、この章は「世界に対する神の効果」を、「平安」(Peace)の経験という観点から考察したものであるという(Johnson, 1983, 7)。平安は、真理、美、冒険、芸術とならんで、ある社会が文明的であるためにその構成員が分有しなければならない性質の一つである。それは、「〈諸々の調和〉の〈調和〉」の経験(AI, 285)、「〈美〉の実効性への信」(AI, 285)などと説明されるのだが、本論文の関心にとって重要なのは、「〈平安〉とは、悲劇を理解することであり、同時にそれを保存することである」(AI, 286)とされる点である。

〈平安〉は〔…〕悲劇を、周囲の色褪せた現実の程度を超えた素晴らしさ(fineness)を目指すよう世界を説得する、生きた行為者(living agent)として捉える。悲劇の一つ一つは、何らかの理想——実現しえたが実現しなかったこと、すなわち実現しうること——の開示である。悲劇は無意味に生じたのではない。〈美〉の深みに訴えるがゆえに、動機づける力として生き残り続ける強さ(survival power in motive force)が、悲劇的な悪を粗野な悪(gross evil)から区別する。(AI, 286)

すなわち、平安の経験において、悲劇的な悪は、何らかの理想を開示し世界を説得する「生きた行為者」となり、動機づけを与える力として生き続けるという。これは、悪が神の帰結的本性によって保存されるという『過程と実在』が描いた事態を、個別の存在者の経験として描き直したものと解釈できる。重要なのは、悪が善に転換された上で神によって救済されるという『過程と実在』の記述とは異なり、ここでは悲劇的な悪が、悪というあり方はそのままに、「生きた行為者」へと転換している点である。すなわち、悪が、全体との関係においてそれが実現している何らかの善によってではなく、反対にそこで達成され得たが達成されなかった理想を開示する限りにおいて、「生き続ける」ということがありうるのである。ここでは、悪は『過程と実在』とは異なる線に沿って分割されている。すなわち、瑣末な個別的事象としての悪と、より大きな現実の善の一部としての悪が区別されるのではなく、何らかの可能的な善としての理想を開示する悲劇的悪と、そうした理想を開示しない粗野な悪が区別されるのである。

「悲劇的悪」と「粗野な悪」の具体例を、ホワイトヘッドは挙げていない。英雄的行為や勇敢さといった語彙の使用を見る限り、念頭に置かれているのは主として、何らかの高邁な理想の実現を目指し、失敗したというタイプの出来事であるように思われる。しかし、前述のように、悪とは破壊的なものであり、現実の善や善の可能性を破壊する限りにおいて悪であることを踏まえれば、原理的にはいかなる悪も、何らかの実現しなかった善の理想を開示するものでありうる。その場合、悪の救済可能性とは、いかにして一見「粗野な悪」に見えるものを、「悲劇的な悪」へと昇華できるか、すなわち、現実の悪を受け止め、引き受けることからいかにして善の可能性やヴィジョンを開くことができるかという問題となるように思われる。

悪を可能的善に結びつけ、悲劇として昇華することは、悪を現実的善へと結びつけ、それ自体一つの善へと転換することとは対照的である。たとえば、原子爆弾の使用は多くの犠牲者を生んだ悪であるが、それが戦争を終結させ、その後の核抑止力の実効性をも支えた点で、より大きな善のために必要な手段であったと考えることは、原子爆弾の犠牲になった人々の苦しみや無念を可能な限り引き受けながら、核兵器のない世界や戦争のない世界の想像へと昇華することとはあくまで異なる。核兵器や戦争のない世界の論理的可能性が、個別の戦争や兵器の使用によって生み出されるわけではない。しかし、悪の歴史的現実は、核兵器や戦争のない世界という可能性に、ある特殊な関連性、あるいは重みを与える。その重みは、単に過去の悪を繰り返すまいという人々の欲望や願望に還元できるものではなく、むしろ悪の現実によって与えられる特定の善の可能性の重みこそが、そうした善の実現を切実に希求させると考えることができるのではないだろうか。

こうして、『過程と実在』の「神」から『観念の冒険』の「平安」への概念の変化を吟味することで、前者において明示的に語られるわけではない一つの概念が浮かび上がる。それは、理想を原初的に構想するのみならず、現実に生じる悪を悲劇的悪として理想の領域に昇華するものとしての神である。この神概念が意味するのは、現実の悪を通じて関連する善の理想が更新されていくこと、すなわち悪の歴史とともに 展開する諸理想についての実在論である。社会には様々な善の構想が存在するが、それらは純粋な可能性のレベルにおいて、理論的に比較対照できるものである。ここまでは、神の原初的本性が確保する事柄である。他方で、現実の歴史における諸出来事は、理論的考察とは異なる次元において、特定の理想に様々な仕方で重みを与えることがありうる。神の帰結的本性の機能は、歴史によって重みづけられた理想の実在性を、個人の心的態度に還元できないものとして考えることを可能にすることとして考えられる。こうして悪は、善の一部として正当化されることなく、歴史を持った現実の世界に対して様々な理想が新たに現れ、改善されていくというダイナミズムの不可欠な一部として、すなわち、この世界の歴史に並走する諸理想の歴史性の中に、その位置を与えられるのである。

おわりに

本論文では、悪がどのように存在し、この世界の秩序とどのように共存しうるのか、アウグスティヌス、ライプニッツ、ホワイトヘッドの哲学を通して検討してきた。この三者はいずれも、「神」の名の下に、この世界にそなわる善なる秩序や調和の存在を思考した哲学者である。だが、そのような善の秩序への信と、決して理想的ではない現実に存する悪との折り合いのつけ方をめぐっては、それぞれの哲学は大きく異なる方向性や問い方を模索していたことが、ここまでの読解を通じて浮き彫りになった。

アウグスティヌスは、「悪はどこから来るのか」という問いから出発して、「善の欠如」として悪の実体性を否定した。しかしながら、欠如として語ることは悪の問題から目を背けることを意味せず、秩序の維持に貢献するという機能や、無へ向かう運動としての悪意志という形で悪を規定することを可能にしていた。

ライプニッツの語る悪は、形而上学的にはアウグスティヌス同様に「欠如」でありながらも、現象の世界においては積極的な身分を有するものだといえる。悪は、最善世界から抜き去ることができないものとして全体的調和と強く結びつきつつ、各人の意志との関係のなかでこそ現象してくる個別的な事物でもある。つまり、全体に対する差異と同一性の中庸においてこそ、ライプニッツ的な悪は働くのである。

ホワイトヘッドの場合、時間を超越した創造神という神の概念は退けられ、現実の悪に応答しながら展開していく様々な理想の源泉としての神と、この世界において善の実現を目指しては誤り、挫折していく、諸存在の営為との並走が描かれる。そこでは、悪は世界の歴史の中に生じる出来事であると同時に、実現しえた理想を開示する出来事として昇華されることで、諸理想の領域の歴史性をも構成するものとなる。

三つの哲学は、悪を天上的な問題としてではなく、我々の生きるこの世界において問う傾向を共有している。他方で、悪の問い方自体については、異なる仕方を提示してもいる。悪について、どこから来るのか、世界の全体性に回収されうるのか、歴史の中でいかに機能するのか、という問いが掲げられていた。それぞれの問いは、悪が現実世界において働くさいの、世界との結びつきの程度の違いを示しているように思われる。悪を各人の精神の運動でもなく、同時的で全体的な秩序でもなく、歴史的な次元にまで結びつけるホワイトヘッドにおいて、悪と現実世界との結びつきは最も強く捉えられるに至ったと言えるだろう。

ところで、ホワイトヘッドは、「平安」と呼ばれる経験のあり方において、悲劇的悪が理想へと昇華され、世界を説得する生きた行為者として現れるという事態を描いていた。本論文ではこの議論を神の機能と結びつけて読解したが、悪の昇華可能性を神の機能によって保証されるものと捉えるのは、あまりに楽観的であるかもしれない。真の問題はむしろ、我々の諸理想が現実の悲劇に応答するものであるために、悪の経験の仕方についていかなる技や方法が必要なのかであるとも言えるからである。悪を経験する仕方を考える一つの手がかりは、悪の語り方を問うことだろう。実際、本論文がここまで行ってきたことも、善なる秩序と悪の現実の間隙に身を置きながら、我々は悪について何を語ることができるかについての探索に他ならない。

しかし、当然ながら、悪を語るためには哲学的な語りが最適であるわけでは必ずしもない。むしろ、悪の哲学は、個別の悪に対処する個別的な言語実践によって補われなければならないだろう。そのような実践には様々な形がありうる。最後に、一つの示唆として、悪を被る者の声を通じて語るという方法によって、悪の「瑣末化」や「粗野な悪」化に抵抗する、石牟礼道子の言葉を引いておきたい。

独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(石牟礼, 2004, 75)

参考文献

1. 一次文献

【アウグスティヌス】

アウグスティヌスの著作はCorpus Christianorum series Latina (=CCSL) か Corpus scriptorum ecclesiasticorum Latinorum (=CSEL) かのいずれかの校訂版シリーズのうち最新のものに基づいて引用した。参照箇所は慣習に基づいて巻・章・節の番号によって指示している。

【ライプニッツ】

ライプニッツのテクストからの引用に際しては『ライプニッツ著作集』[全10巻, 下村寅太郎・山本信・中村幸四郎・原亨吾監修, 工作舎, 1988–1999]、『ライプニッツ著作集 第II期』[全3巻, 酒井潔・佐々木能章(監修), 工作舎, 2015–2018]および『形而上学叙説・ライプニッツ–アルノー往復書簡』[橋本由美子(監訳), 秋保亘・大矢宗太朗(訳), 平凡社, 2013]を参照し一部変更した。

ライプニッツ著作とその略号は以下の通り。

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GP: Leibniz, G. W (1875–1890). Die philosophischen Schriften von G. W. Leibniz, hrsg. von C. I. Gerhardt, Weidman. (Nachdr., Olms, 1978).

A: Leibniz, G. W (1923–). Sämtliche Schriften und Briefe, Akademie Verlag.[A, 系列, 巻, 頁数の順で表記する]

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YLS: Leibniz, G. W (2016). The Leibniz–Stahl controversy, eds. and transls. F. Duchesneau and J. E. H. Smith, Yale University Press.

また、ライプニッツの一部の著作に関しては次のように表記する。

T:『弁神論』(Essai de théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l'homme et l'origine du mal, 1710)

M:『モナドロジー』(Principes de la philosophie ou Monadologie, 1714)

【ホワイトヘッド】

ホワイトヘッドからの引用に際しては『ホワイトヘッド著作集:過程と実在』(第10–11巻, 山本誠作(訳), 松籟社)を一部参照した。ホワイトヘッドの著作と略号は以下の通り。

AI: Whitehead, A. N. (1967). Adventures of ideas. Free Press. (Original Work Published 1933).

FR: Whitehead, A. N. (1958). The Function of Reason. Beacon Press. (Original Work Published 1929).

PR: Whitehead, A. N. (1978). Process and reality: An essay in cosmology. Free Press. (Original Work Published 1929).

RM: Whitehead, A. N. (2011). Religion in the making. Cambridge University Press. (Original Work Published 1927).

SMW: Whitehead, A. N. (1967). Science and the modern world. Free Press. (Original Work Published 1925).

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Footnotes

たとえば、神と悪の問題を論じるPeterson, 1998は、「神義論の務め」と題された第6章において、アウグスティヌス、ライプニッツ、ヒック、ホワイトヘッドという四人の哲学者を主題的に論じている。本論文は、ヒック以外の三者について、悪の存在や機能という側面に着目しながら、より詳細な議論を展開する。

そのような見解の典型はDihleの The Theory of Will in Classical Antiquityである(とりわけDihle, 1982, 144)。しかし古典期からヘレニズム期のギリシャ哲学に存在しなかった意志概念がキリスト教哲学の登場とともに発明されるという単線的な思想史理解にはKahnやFredeから批判が寄せられ(とりわけKahn, 1988, p. 237; Frede, 2011, 173f)、見直しが迫られた。筆者が最も説得的であると思うのは、Sorabjiによる、さまざまな心的機能が「意志」という概念へとまとめ上げられていく(clustering)過程として意志概念をめぐる古代哲学の思想史を捉える見方である(とりわけSorabji, 2000, 321)。

Psychologyを「心理学」と訳すのはアナクロニズムであるため、「魂(ψυχή)についての学」という意味で加藤, 1991, 11にしたがって「魂論」と訳した。アウグスティヌスの道徳的魂論への明示的な言及としては、例えばCouenhoven, 2017が挙げられる(Couenhoven自身の依拠するmoral psychologyの意味と使用例については、Couenhoven, 2017, 24, n. 3を参照)。

このような現代的論争の枠組みに基づくアウグスティヌス解釈の試みの代表的なものとして、Brachtendorf, 2007; Stump, 2001が挙げられる。両者とも明晰な論文であるが、筆者の考えではアウグスティヌスの考えを現代の論争的枠組みの中に取り込むことの是非——哲学史的手続の正当性と併せて、その哲学的意義という側面においても——はもっと真剣に反省されるべきである。

『自由意志論』は対話篇であり、E. はエヴォディウス、A.はアウグスティヌスを指している。ただし、写本調査によってこのような人物同定には疑義も呈されているため(Madec, 1994, 126; Harrison, 2006, 42f)、ここでは単に従来の校訂版の慣習に従ったものである。

ここでいう「異端」はマニ教のことである。現代の感覚からすればマニ教はキリスト教と違う宗教であり「異教」であるが、古代末期においてマニ教はしばしば純粋なキリスト教であることを主張したため、キリスト教内の非正統的な分派、すなわち「異端」とみなされる。cf. 「では私〔=アウグスティヌス〕が、そのマニとは誰かと尋ねれば、あなた方〔=マニ教徒〕は『キリストの使徒だ』と答えるだろう」(『基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論』5)

Corpus Christianorum Series Latina 29, 211のアパラトゥス参照。

大西, 2014, 73及び118, n. 25参照。

ライプニッツによって理解される神の意志は、知性によって認識された善に従うかたちで判断をくだすとされる。「あらゆる意志は「意志する何らかの根拠」を前提としており、この根拠自体は当然ながら意志に先行すると思われる」(ライプニッツ『形而上学叙説』第2節, A, VI, 4, 1533)。

山田の参照していない近年のFoleyによる英訳では “O God, who makest no evil and preventest it from becoming most evil”(Foley, 2020b, 18)となっているが、この訳ではfacis ne pessimum fiatで十分であり、esseが反映できていない。

Foleyはキケロにおける「各⼈に相応しいものを割り当てる正義 iustitia, quae suum cuique distribuit」(『神々の本性について』3. 15. 38)といった表現がアウグスティヌスの念頭にあったと推測している(Foley, 2020a, 238, n. 76)。

in potestateという表現は、ストア派の術語であるギリシャ語の「我々次第(ἐφ᾽ ἡμῖν)」に対応するラテン語としてキケロが用いた「我々の権能において(in nostra potestate)」と関連しているだろう。ストア派においては、我々次第であるものの範囲内で表象に同意をするかしないかということが倫理的判断の鍵となる。すなわち、「我々次第」=「我々の権能のうち」であるものは、意志の自由の及ぶ範囲を示すのである。

ライプニッツは、懲罰の矯正的な働きによって悪が善へと転化することを認めている。「〔…〕もし働きがそれ自体で悪く、諸事物の連鎖、とりわけ懲罰と贖罪が働きの悪性を矯正し、お釣りつけてその悪が償われ、したがって結局、この悪が全く生じなかった場合よりも、連鎖全体においてより大きな完全性を見出すことになることで、ただ偶然に悪が善に転じる場合、神は悪を容認すると言うべきであり、悪を欲すると言うべきでない」(ライプニッツ『形而上学叙説』第7節, A, VI, 4, 1539)。ただし、アウグスティヌスとの間には微妙な違いがあることに注意しなければならない。先にみたアウグスティヌスによる死刑執行人の比喩では、悪は死刑執行人自身であり、悪が悪のまま秩序の維持に貢献すると考えられていた。他方で、ライプニッツにおいては、悪は諸事物の秩序によってこそ善へと転化するのであり、悪それ自体によっては秩序に貢献し得ない。こうした違いは、ライプニッツにおいては、悪が秩序そのものとは差異づけられ、秩序自体と悪自体がそれぞれ一定の自律的存在性格を有することに由来する。じっさい、本論文の第2章で論じるように、ライプニッツは、全体的秩序に対して一定の同一性と差異を併せ持つものとして悪を考えている。

Caryは、アウグスティヌスのマニ教批判の中核はその唯物論的世界観に対してのものであり、全ての存在を横並びに捉えるために存在の階層性(とりわけ神の超越性)を認めない世界観をアウグスティヌスは拒絶したのだ、と指摘する(Cary, 2000, 87–89)。

このような解釈として、たとえば⾦⼦, 2006, 32fが挙げられる。

ライプニッツは、悪を三種類に分類している。「悪を捉えるときに、形而上学的悪と肉体的悪(mal physiquement)と道徳的悪とに分けることができる。形而上学的悪は単なる不完全性に存し、物理的悪は苦痛に存し、道徳的悪は罪に存する」(T § 21, GP VI, 115)。

『24の命題』と呼ばれるこの著作は、アカデミー版全集(暫定版 A, VI, 5, N. 2680)によれば1698年9月から1703年ごろの著作であるとされる。この著作に先立つ時期に書かれた断片 De ratione cur haec existant potius quam alia (1689?)では、次のように述べられてもいる。「なぜ他のものよりむしろこれらが現実存在するのかということの理由は、同様に、何もないよりもむしろ何かが現実存在することの理由を成してもいる。というのも、もしこれらのものが現実存在する理由が与えられれば、或るものたち(aliqua)がなぜ現実存在するのかも示されるからである。こうした理由とは、現実存在することの理由が現実存在しないことの理由に勝っているということにある。言い換えれば、「本質が現実存在しようとしていること(Existiturientia Essentiarum)」において、現実存在するであろうものは、妨げられない限りで在るのである」(A, VI, 4, 1634)。ここで登場する existiturire という語はライプニッツによる造語であり、「現実存在する(existere)」の未来分詞と「行く(ire)」からなる。この語の訳出に際しては、酒井, 2022, 18, n.10)の訳語を参照した。

『24の命題』によれば、完全性の最大量は、喜びの最大量を引き起こす。こうした構図によって、非人格的な諸事物の調和は人格的な喜びや苦痛へと結びつけられることになる。「(23)第一原因はまた最高の善性の原因でもある。というのも、喜びとは完全性の表象のうちに成り立つので、したがって第一原因が諸事物のなかに完全性の最大量を産出するとき、諸精神は同時にまた喜びの最大量を享受するからである。(24)そうだとすれば、またまさに悪ですらより大なる善に奉仕するのであるし、苦痛が諸精神のなかに見出されているのだから、より大なる喜びに進むことは必然なのである」(GP, VII, 291)。

ただし、そのような基準に基づいて世界を選択する「義務」という観点から見れば、神自身の人格性が強調されることになる。

ドゥルーズからの引用における「可能な進歩の無限量を放出する」という部分については、佐原が自由との関連で詳しく論じている。「確かに、バロックの館としてのライプニッツ的な最良の世界は限定されている。しかし、劫罰に処されるもの〔=呪われたもの〕たちがそのいたるところに亀裂を入れ、この亀裂から館の内部へと外気が入り込んでくる」(cf. 佐原, 2021, 150–151)。

「植物や動物、要するに、自然が生み出す有機的身体は、特定の務めを永続させるための機械である。種を繁殖することによって、個体に栄養を与えることによって、そして最終的には、それぞれに固有の働きを遂行するための行為を実行することによって、この努めを達成するのである。実際、人間の身体は、観想(contemplatio)の永続に適合した機械であることは明らかである」(Gackenholtzius宛書簡, 1701/4/23, Dutens, II, 2, 171)。

身体と精神の間に対応関係が成立しているがゆえに、モナドの側から出発して身体の個体性を説明することも可能である。つまり、モナドが固有の世界を有しているがゆえに、そのモナドが生き物の魂として働く場合には、その生き物の有機的身体を個体的なものたらしめることができるのである。「モナドは魂として、いわば一種の固有の世界であり、神〔への依存〕以外には〔他の存在との〕依存関係を一切有していません」(デ・ボス宛書簡, GP II, 436)。

「神の推定的意志(volonté divine présomptive)」とは、「先行的意志」同様、帰結的意志に先立って、個々の存在者にとっての可能な善を望むという仕方での意志である。ここでの「推定」は、我々が神の意志を推定するという意味ではなく、むしろ、次のような法学的意味で理解するべきであろう。「推定とは、反対のことが証明されるまで、あることが真とみなされることである」( Definitionum juris specimen, 1676年, A, VI, 3, 631)。したがって、他との関係による不共可能性を考えない限りでの各存在者にとっての可能的な善を神が意志する、という意味で「神の推定的意志」を理解するべきだといえる。ライプニッツにおける「推定」の用法については、神学との関係ではAntognazza, 2018, 726–729、法学との関係ではArmgardt, 2015で詳しく論じられている。より後期のテクストでも同様の意味で用いられていることは『人間知性新論』第4巻第14章第4節(A VI, 6, 457)および『弁神論』緒論 § 33(GP, VI, 69)で確認することができる。

ライプニッツは、初期著作において、ユダの断罪の理由について登場人物のひとりである哲学者に次のように語らせている。「それはこの死にゆく者の状態、つまり神への憎しみである、と私は思います。ユダはこの憎しみに燃えながら死にました。この憎しみに、絶望の本性が存します。しかるに、この憎しみだけで、断罪には十分です。じっさい、魂は、死の瞬間から、身体が再び与えられるときまで、新しい外的諸感覚を受容しないのですから、最後の思惟にとどまって、その状態から動かないのです。むしろ、魂は死の状態を強めるのです〔…〕」(『哲学者の告白』A, VI, 3, 119)

こうした事態は、ライプニッツが矯正的正義のみならず「処罰的正義(justice punitive)」ないし「制裁的正義(justice vindicative)」を認めていたこととも関連しているように思われる。「予め威嚇しいわば懲罰を約束していた賢明な立法者は、たとえ罰が罪人の矯正に役立たずとも間違いなく悪事には懲罰を与えるはずである」(T, § 73, GP VI, 141)。Rateauが述べているように、ライプニッツは、人間の自由で理性的なあり方こそ、自然的で普遍的な秩序に対する「適合(convenance)」に由来する制裁的正義に相応しいものであると考えている。自由な人間は、矯正的であるかどうかに関わらず、自らの行為に対する秩序からの応答としての制裁的罰をそれ自体として受け入れうるのである(cf. Rateau, 2019, 300–322)。全体的秩序への寄与という理由で罰を与える矯正的正義だけでなく、悪を悪として扱うことで罰を与える処罰的正義を認めることは、本章で述べてきたような全体的調和と個別的悪の間に同一性だけではなく差異性を認めることに対応している。

ジョンソンとの個人的会話において、ホワイトヘッドは自身の神の概念が「キリスト教と仏教の中間を狙った」ものであり、仏教の涅槃概念を改善する努力と呼べるかもしれないと述べていたという(Johnson 1983, 4; 8)。

プロセス神学の概要については、Cobb and Griffin, 1976およびEpperly, 2011を参照。また、プロセス神学の論点に応答する日本語で書かれた理論的著作としては延原, 2001などがある。

時間的に言えば、神はむしろ諸存在の生成とその都度「ともに」ある(PR, 343)。

新たなるものの出現はとりわけ人間社会に顕著であるとしつつ、ホワイトヘッドは新たなるものを人間本性によってではなく、世界の形而上学的性格によって説明する。「自然と人間という区別は誤った二分法である。人類は自然の可塑性をもっとも強い形で示す、自然の中の構成要素である」(AI, 78)。以下の説明では主として人間を念頭に「我々」という代名詞を用いるが、この「我々」はそれゆえ、人間以外の生物のみならず、原理的にはあらゆる現実的存在を包摂するものである。

もっとも、悪は「無へと向かう」というアウグスティヌス的表現については、ホワイトヘッドは留保を示している。諸要素が互いを打ち消し、調和を生み出すことのない「混沌とした非秩序」あるいは「瑣末な現実性」へと陥ることを「無へと向かう」と呼ぶのは自然な比喩ではあるが、厳密には「無へと向かうことは不可能である、向かう対象が無いのであるから」(PR, 93)。この留保は、アウグスティヌスとは異なり世界を無から創造されたものとしてではなく、混沌から実現した一定の秩序として捉えるホワイトヘッドの形而上学的立場を反映している点で重要である。

ホワイトヘッドは、この距離の設定が、道徳的責任という日常的観念を説明するために必要だとする(PR, 47)。責任の観念は、無からの創造に比される自由意志の観念としばしば結びつけられるが、ホワイトヘッドの場合、責任の基礎にあるのは、諸可能性による受動的な触発を自身の能動的な目的へと変形する、諸存在の発揮する条件づけられた創造性である。

代表的なプロセス神義論として、Griffin, 1976; 1991がある。

強制と説得はホワイトヘッド自身の強調する二項対立だが、この二項の明確な区別の可否が、プロセス神義論における古典的論点の一つである(Frankenberry, 1981; Griffin, 1991, 96–108)。

ホワイトヘッドによれば、文明とは専ら物理的強制力によるのではなく、「より高貴なる可能性を体現するものとして自身に内在する説得力(persuasiveness)による、社会的秩序の維持」である(AI, 83)。文明の概念は、理想の持つ説得的な力という概念と内的に連関している。

 
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