抄録
江戸時代の毛利藩における医学教育は,本藩と4つの支藩において独自の展開をみせた.また,長崎との距離や交通の要衝下関の存在は,防長二州(周防,長門)における西洋医学の受け入れを助けたと考えられる.歴史的には徳山藩における医学館および四熊家の私塾見学堂が古く,天保年間に萩本藩に開設された好生館(堂)は,漢方と蘭方の優秀な教授陣による医学教育機関であった.明治に入ってから赤間関(下関)と三田尻(防府)における医学校開設や独自の医術試験施行など,新たな機運が盛り上がったが,それらは比較的短命に終わり,本格的医学教育は第2次大戦中宇部に創設された山口県立医学専門学校により再開された.