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クエリ検索: "アルダナーリーシュヴァラ"
4件中 1-4の結果を表示しています
  • ――プラーナ聖典に見る両性具有的創造者の神話――
    澤田 容子
    印度學佛教學研究
    2012年 60 巻 3 号 1143-1147
    発行日: 2012/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    ブラフマーによる創造神話の中に男女に分裂する創造者が登場する.それはシヴァの化身である
    アルダナーリーシュヴァラ
    の前身とされる.本稿は,プラーナ聖典に記述されている神話を取り上げ内容を精査することによって,男女に分裂する創造者の神話の発展過程を明らかにすることを目的とする.12のプラーナ聖典の中には,ブラフマーとルドラそれぞれが男女に分裂して創造を行なう神話が収められている.この2者の神話には,(1)創造者の登場する原因,(2)創造者が男女に分裂する描写,(3)マヌとシャタルーパーの系譜,という3つの一致した記述があり,同型の神話と考えることができる.さらに,マヌとシャタルーパーの系譜に関してルドラが男女に分裂する神話の内容に矛盾があること,及びブラフマーが男女に分裂する神話の中に女性半身が女神になる記述が見られないという点から,ブラフマーが男女に分裂する神話はルドラが男女に分裂する神話に先行して作られた可能性が高いということができる.このように,元来ブラフマーによってなされていた男女に分裂して創造を行なうという役割をルドラが引き受けたのち,分裂した女性半身が女神であるとする形態が登場したため,
    アルダナーリーシュヴァラ
    はシヴァとその配偶神から成り立つ神という姿を持つことになったと考えられる.
  • 小山 典勇
    智山学報
    2007年 56 巻 B215-B227
    発行日: 2007/03/31
    公開日: 2017/08/31
    ジャーナル フリー
  • 現代南インドにおけるヒンドゥー寺院を事例に
    飯塚 真弓
    文化人類学
    2021年 85 巻 4 号 711-729
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/07/06
    ジャーナル フリー

    本論文は社会を想像/創造する宗教的贈与すなわち寄付を、その実践の現場となる寺院と受け手のバラモン寺院司祭の視点から描く。対象とするのは、司祭が聖職者と同時に自ら寺院管財人も務める南インドの私設ヒンドゥー寺院である。そこでは、信者と特定の司祭はある種のパトロン-クライアント関係を結んでいるが、その要となっているのは寄付である。信者からの寄付は寺院の宗教活動と経営のみならず、司祭やその家族の生活を支える経済的基盤でもある。しかし、神への「信愛」やその「恩恵」という宗教的規範を媒介することで、両者の関係は依存に陥ることなく、司祭の尊厳が保持されるものになる。

    神への「信愛」や「恩恵」は、聖なる存在を相互行為の対象とし、社会関係に位置づけるユートピア的社会の想像力にかかわる。先行研究では、こうした宗教的規範は聖俗を分かち、その非対称性を再生産するものとして捉えられてきた。しかし、近代以降寺院を取り巻く政治・経済・社会的環境は大きく変容した。それは司祭や寺院が体現する宗教的理念や理想、伝統から想像/創造される社会とは対照的でさえある。本論文は事例を通して両者の間のせめぎ合いとともに、いわば変化のなかの不変として価値づけられる寺院司祭の生の形式と社会関係を描く。そして、それらを可能にしているのは寺院という具体的な場における対面的贈与をめぐる相互行為と、そのなかで生み出され、再定義されてゆく宗教規範の潜在力であることを明らかにする。

  • デュルケム、プラトン、ユングの思想をもとに
    巻口 勇一郎
    トランスパーソナル心理学/精神医学
    2020年 19 巻 1 号 50-75
    発行日: 2020年
    公開日: 2022/10/29
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿では、ユング、デュルケムやプラトンらの思想をもとに、クンダリニー症候群と統合失調症の異同について思想的、臨床的な理解をすすめ、理想的な対応についても検討した。霊的覚醒は平たんな道ではなく、クンダリニー覚醒のもつ険しい側面が伴いうる。ユングによれば、自我が健全でありぜい弱でなくても、あまりに強い無意識的原型であるクンダリニーが覚醒すれば病的と評価される状態が生じうる。クンダリニー覚醒は、洗礼の泉をくぐるような苦痛を伴う霊的経験であり、しばしば統合失調症と誤診される。しかし、プラトンによれば知恵によって肉体的な楽から離れる こと、すなわち苦はよい魂の道であり、デュルケムによれば苦痛こそ我々が依存する俗物との紐帯を断たれ、秘儀へ参入する段階にある証である。目覚めたクンダリニーが苦痛を生み出すことから単純に症候群や病気と評価され薬物のみによって抑圧されれば、その経験が熟さないだけでなく身体の発熱や硬直などの悪性症候群等を招く可能性がある。発熱などの身体症状を伴う統合失調症は本来、気づきや悟り、解脱へ向けて開かれた宿命的苦行であるという立場から、その対応には薬物療法のみならず仏法的アプローチ、ユング心理学的アプローチが重要であると主張する精神科医もいる。また筆者の経験などを参照すると、ヒンドゥーにおけるナーガパンチャミープジャやラーフ・ケートゥ(カール・サルプ)シャンティー星供養、ルドラ・アビ シェーカム儀式、プラーナ経典(ヴァラハ・サハスラナーマ等)読誦やヨーガ、ヒマラヤのディクシャなどが滞ったクンダリニーエネルギーを効果的に開放し、シヴァとシャクティー(=ラーフとケートゥ)というように二分された、本来一如のエネルギーを再統合に導くことができうるので、誤診された統合失調症例に今後それらを用いることを検討する価値があると考えられる。
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