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クエリ検索: "クンストゲヴェルベ"
4件中 1-4の結果を表示しています
  • クンストゲヴェルベ・ムゼウムとクンストゲヴェルベシューレ(1)
    *天貝 義教
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2003年 50 巻 B-05
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/08/01
    会議録・要旨集 フリー
    ウィーン万国博覧会の閉会後の明治7年、博覧会事務官として現地に派遣されていた平山英三は、ウィーンの美術工業博物館付属応用美術学校に日本人として初めて入学し、明治10年まで、当時の学長であった建築家のヨーゼフ・シュトルクのもとで応用美術を学んだ。美術工業博物館は1864年に、ロンドンのサウス・ケンジントン博物館をモデルとして設立され、応用美術学校は、博物館の教育機関として1868年に開校された。その教育目的は、美術工業(ガラス、テキスタイル、金工、陶磁器、木工家具、革工など)の要求に適う能力をもった人材の養成であり、その教育は、美術アカデミーと同じく絵画、彫刻、建築を基本とするものであった。こうした教育理念は、美術工業博物館の初代館長であったルドルフ・フォン・アイテルベルガーの考えに基づいていた。ウィーン大学の美術史教授でもあったアイテルベルガーは、当時の代表的な歴史主義者であり、平山の留学当時のウィーンの美術工業と建築は、その強い影響下にあった。美術工業博物館の建築様式や、応用美術学校における絵画、彫刻、建築教育は、アイテルベガーの歴史主義を反映していたのである
  • 文字を含むグラフィック作品にみる国際的アヴァンギャルドへの接近と世紀転換期モデルネの継承
    角山 朋子
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2017年 64 巻 D4-01
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/06/29
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、1920年代前半の「ウィーン・キネティシズム」派(1920-1924頃)の活動実態、造形的特徴を明らかにし、両大戦間期のオーストリア・デザイン史の一端を解明する。キネティシズム派の担い手は、ウィーンの
    クンストゲヴェルベ
    シューレの美術教育家フランツ・チゼックの生徒たちであり、多くが字体学者ルドルフ・フォン・ラリッシュにも師事した。リズミカルな動きや構成的表現を特徴とする絵画、立体、グラフィック作品は、同時代のアヴァンギャルド運動と通じたチゼックの装飾教育を基盤とした。さらに、文字を含む作品群には1900年頃に興隆したウィーン・モデルネの系譜をもつ独自の表現性が認められ、ここではラリッシュの字体教育の影響が色濃い。キネティシズム派の造形活動は国際性とローカルな伝統を内包し、1920年代前半の国家転換期のウィーンの多元的な文化状況を具現している。
  • -ウィーンの芸術思潮からの影響と独自性
    角山 朋子
    デザイン学研究
    2016年 62 巻 6 号 6_1-6_10
    発行日: 2016/03/31
    公開日: 2016/05/30
    ジャーナル フリー
     本研究は、1918年以前の「クラクフ工房」(1913-1926年)を取り上げ、国家独立以前のポーランド地域で、ウィーンの芸術思潮を通じてヨーロッパ近代デザイン思想を受容したグループの活動を国際デザイン史上に位置づけることを目的とする。
     世紀転換期クラクフの応用芸術運動は、ヨーロッパの近代様式と固有の民族様式の融合を特徴とする独自の分離派様式を生んだ。しかし、1910年代には芸術家たちの社会参加意識が高まり、1912年の〈庭園の建築とインテリア〉展の翌年、クラクフ工房が設立された。工房は合目的性と適切な素材・技術に基づく日用品生産を目指す芸術家、職人、美術関係者の団体であり、市立産業博物館と連携した生産・教育活動を通じて当地の工芸向上に着手した。「ポーランドらしさ」は強いて追求されず、また、ウィーンの「ウィーン工房」(1903-1932年)からの影響が色濃いが、規約やデザインの相違点から、クラクフ工房は自律的にヨーロッパ近代デザイン思想の実践に向かった製作集団としてデザイン史上に位置づけられる。
  • 藪 亨
    デザイン学研究
    1989年 1989 巻 72 号 19-24
    発行日: 1989/03/31
    公開日: 2017/07/25
    ジャーナル フリー
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