二つの世界大戦の狭間で、歴史に関する二つの哲学的な理論がほぼ踵を接して構想されていた。人間存在の歴史性を論じたハイデガーの『存在と時間』 (一九二七年) が公刊されたのと同じ頃、ベンヤミンは、未完に終わった『パサージュ論』のための最初の草稿 (一九二七-二九年) を書き始めているのである。この草稿のなかには、歴史哲学についてのいくつかの覚え書きが含まれている。この歴史哲学が後に、彼の絶筆となった『歴史の概念について』に結晶することになるのである。
ベンヤミンは、自らの歴史哲学に関する理論的考察を、パリのパサージュから「十九世紀の根源史」 (Urgeschichte) を引き出すべき著作の序論をなすものと考えていたようである。
ゲルショム
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ショーレム
に宛てた書簡 (一九三〇年一月二〇日) において、彼は構想中の『パサージュ論』について、「認識論に関する序論なしですませることはできないだろう」と述べている。「今回それはとくに歴史の認識論に関するものでなくてはなるまい。」『パサージュ論』は、この「歴史の認識論」を提示する序論をもたなければならないというのである。ベンヤミンはさらに同じ書簡で、「歴史の認識論」の形成にあたって、ハイデガーとの対決が不可避であることを示唆している。「そこで私は途上にハイデガーを見いだすことだろう。そして私は、私たち二人のきわめて異なった歴史の見方の衝突から、何か火花が飛び散るのを期待している。」 -(V 1094) 二人の対決-このテクストという舞台の上で繰り広げられることのなかった対決が火花を散らすものであるのは、二人が対立しあう思考を同じ焦点に集中させているときであろう。ここで私は、まず彼らの思考が集中する一点を探り当て、そしてそこでせめぎあうベンヤミンとハイデガーの歴史についての思考のコントラストを描き出してみたい。それを通じて、ハイデガーが『存在と時間』の時期に語る歴史理解の構造としての「歴史性」とともに、ベンヤミンの歴史哲学の一端を浮き彫りにすることができればと思う。
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