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クエリ検索: "ソリドゥス金貨"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 7世紀後半のル・マンの事例から
    杉浦 武仁
    西洋史学
    2003年 209 巻 23-
    発行日: 2003年
    公開日: 2022/04/01
    ジャーナル フリー
  • 佐々木 克巳
    社会経済史学
    1962年 27 巻 5 号 501-512
    発行日: 1962/05/20
    公開日: 2017/08/10
    ジャーナル オープンアクセス
  • 大貫 俊夫
    法制史研究
    2013年 62 巻 85-115,en7
    発行日: 2013/03/30
    公開日: 2018/04/04
    ジャーナル フリー

    シトー会修道院の保護形態は、かねてより中世史研究の中で最も重要な研究対象であり、とりわけドイツ語圏の歴史研究において頻繁に議論された。その礎を築いたのは法制史家のハンス・ヒルシュとテオドール・マイヤーである。彼らの研究成果は三つの観点から整理することができ、それらは後世の研究者に強い影響を与えた。しかし、これまでの領邦国家形成と結びついた議論には一定の論理の飛躍が見出される。シトー会士の庇護者は、自分のdefensio(庇護)の下にある修道院を、初めから自らのランデスヘルシャフトに引き入れるために保護したわけではない。というのも、領域的・制度的に安定した支配権は一四世紀になって初めて把握されるからである。そこで本稿は、これまで詳しく考察されてこなかった一二~一三世紀のシトー会修道院の保護形態を分析する。
    この問題に取り組むにあたり、題材としてトリーア大司教区内にある二つのシトー会修道院オルヴァル(Orval)及びヒメロート(Himmerod)を採り上げる。第一章ではオルヴァルとシニ伯、ヒメロートとトリーア大司教の法的関係を分析した。そこでは、トリーア大司教の司教裁治権を除き、法的関係について明確な規定は見出されなかった。それゆえ、シニ伯とトリーア大司教の庇護者としての排他的な地位は確認されない。それとは対照的に、そうした排他的な地位は第二章で分析した霊的関係から導かれる。シニ伯とトリーア大司教のみが、修道院から継続的に修道院内における埋葬と修道士による周年記念を享受していたのであった。
    第三章では、両シトー会修道院のフォークタイ問題が考察される。修道院創建から半世紀後、フォークタイは修道院と地元中小貴族の間に勃発する係争の主要因となった。シニ伯は一二二六年の家門断絶ゆえに、そしてトリーア大司教は一一八三~一一八九年のシスマゆえに効果的な保護が果たせなかったため、両修道院は庇護者の代替を求める必要があった。このことから、庇護という保護関係には脆弱性が備わっていたことが分かる。
    以上の分析に基づき強調されねばならないのは、シトー会士は自らの霊的な役割を実に的確に果たしていたということである。これによって彼らは、庇護を代行する諸権力の支援を獲得できた。シトー会修道院はこの霊的営為を駆使し、領邦君主のみならず、旧来のフォークタイ的支配の慣習から決別しきれていない中小領主層までもを庇護という画一的な法観念に巻き込んでいった。ここに、新しい修道運動が引き起こした国制的ダイナミズムが看取されよう。

  • ―16世紀の都市バーゼルを中心に―
    村松 綾
    比較都市史研究
    2022年 41 巻 14-36
    発行日: 2022/12/20
    公開日: 2023/03/03
    ジャーナル フリー

     近世初期以降、金細工師は都市の手工業者の中でも特別な地位にあったとされるが、彼らが具体的にどのような社会的地位にあり、いかなる役割を果たしていたのかについて言及している研究は少ない。また、中世都市ケルンを研究していたK. ミリッツァーは市政における手工業者の役割を低く見積もっており、この言説は現在も都市社会史研究において影響力を残している。
     本稿では16世紀の都市バーゼルを舞台に、ツンフトや市参事会で役職に就いていた金細工師たちが、果たして名目上ツンフトに所属していただけの政治的エリートだったのか、それとも実際に手工業者としての修練を積み、その技能をツンフトや都市に貢献する中で生かしていたのかを確認すべく、都市バーゼルの有力門閥フェッシュ家のハンス・ルドルフ1世を中心に幾人かの有力金細工師を取り上げ、職業訓練歴や社会的地位の変遷、彼らが果たした職業的役割をプロソポグラフィカルに分析した。

  • 日置 雅子
    社会経済史学
    1994年 60 巻 2 号 236-267,319
    発行日: 1994/07/25
    公開日: 2017/09/28
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    Das Ubergangsproblem von der romischen zur mittelalterlichen Stadt in der europaischen Geschichte wirft auch heute noch eine Reihe von Fragen auf. Nach der alten Theorie war die Stadtentwicklung zwischen Altertum und Mittelalter durch einen tiefen Bruch gekennzeichnet. Durch umfassende historisch-archaologische Forschungen ins Wanken gebracht wurde diese Lehrmeinung in Europa in den 60 er Jahren unseres Jahrhunderts uberwunden. Zwar kann man der modifizierten Kontinuitatstheorie folgen, es ware aber vereinfacht zu sagen, daβ das Altertum nur in Etappen ins Mittelalter ubergegangen sei. Man wird auch bei einer kontinuierlichen Entwicklung von bruchigen Phasen ausgehen konnen. Dieses Problem wird im Beitrag aufgegriffen am Beispiel der Stadt Trier, die eine typische Entwicklung von der romischen Kaiser-zur mittelalterlichen Bischofsstadt durchlief. In den vorhandenen Darstellugen uber die Trierer Stadtgeschichte sind jedoch die ersten Jahrhunderte der Ubergangszeit, die sich allein in der merowingischen Epoche uber einen Zeitraum von 250 Jahren erstreckte, ziemlich knapp gehalten und nur summarisch beschrieben. Das historische, insbesondere archaologische Quellengut sollte also soweit moglich nach Entwicklungsphasen untergliedert behandelt werden, wodurch der Prozeβ des Trierer urbanen wiederaufbaus deutlicher sichtbar wird. Unter Zugrundelegung dieser Pramisse sind die folgenden Punkte zu beachten: (1) die historisch und archaologisch bezeugten kirchlichen und profanen Bauten in Trier; (2) die Analyse des archaologischen Fundmaterials unter dem Gesichtspunkt der konkreten damaligen wirtschaftlichen Situation; und (3) das Siedlungsproblem, vor dem die Romer und die Germanen gestanden haben. Anhand von Uutersuchungen, die solchen Fragestellungen verpflichtet sind, kann zusammengefaβt folgende These aufgestellt werden: Gerade das 7. Jahrhundert ist als ausgesprochene Wendezeit zu betrachten, als Wende von der romischen zur germanisch-frankischen Periode, die durch die Integration der beiden Bevolkerungsteile gekennzeichnet war und in der sich die wirtshaftliche Wiederbelebung sowie der stadtische Wiederaufbau unter frankischem Vorzeichen vollzog.
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