本稿では、オスカー・ピストリウスやマルクス・レームのパラリンピック/オリンピック秩序への挑戦を事例として、それがどのように問題化されていったかを朝日新聞の記事を追った。記事の変化からは、それまで肯定的な評価をされていた義足が、ピストリウスの越境以降、明確に問題含みのものとされていったことや、それが義足の性能とその公平性への問題と矮小化されていったことが判明した。
このような義足のアスリートを理解するモデルとして、福島真人による身体のモデル1・2を確認した。義足のアスリートの「問題」は近代スポーツの想定する自然な身体=身体0からの「過剰」として捉えることができた。さらにこの問題を乗り越えるモデルとして福島のいうモデル2的な身体、あるいはサイボーグの身体のメタファーを概観した。また、こうしたメタファーが失敗する事例として義手ラケットによるテニス選手を検討した。この事例は、私達が義足に関しては、それを過剰に身体化して議論していることを明らかにしてくれた。
そこで本稿では障害学/社会学における議論を参照し、スポーツにおける障害者アスリート、あるいは義足のアスリートの排除の位相にいくつかの区別があることを確認した。
スポーツにまつわる多くの議論は「義足は身体か」という問いをめぐるが、その前提には、義足が身体として捉えられないという想定があった。義足の問題は、「人工物の装置」が「身体」化することで浮かび上がる、身体の内部にある外部=異質性なのではないか。外部と内部のカテゴリーミステイクが、スポーツにおける議論を不明瞭にしている。身体と外部環境との相互作用システムとしてのアスリートという理解は、陸上のような個人競技ではいまだ想像力の埒外にあるものの、チームスポーツにおいては問題なく成立している現実でもある。
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