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クエリ検索: "上原げんと"
6件中 1-6の結果を表示しています
  • *井口 慎也, 金 明哲
    日本計算機統計学会大会論文集
    2016年 30 巻
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/10
    会議録・要旨集 フリー
  • 秋田県鹿角市花輪と青森県黒石市にみる
    奈良 洋
    雪氷
    2006年 68 巻 2 号 141-147
    発行日: 2006/03/15
    公開日: 2010/02/05
    ジャーナル フリー
    雪国の知恵は数多くあるがこみせもその一つである.こみせ(小店)はこもへとも呼ばれ,主に東北地方での呼称である.新潟など北陸地方ではがんぎ(雁木)と呼ばれている.ともに江戸時代から日本海側の豪雪地帯の都市部で発達した.冬季に風雪から歩行者を守る屋根付きの歩道である.いわばアーケードのルーツといわれている.主に商店街で発展し,商家の主屋から道路に向かって一間(1.8m)ほど庇を延ばした構造である.
    こみせ部分の敷地は商家の私有地であり,その建設費も個人の負担である.「私」が「公」のために費用負担するという雪国ならではの生活の知恵が生み出したものである.最盛期(明治末期から戦前まで)には全国74都市にみられたといわれている.戦後,防災上や道路の拡幅工事に伴って,こみせは次第に姿を消していった.
    わずかに残る秋田県鹿角市花輪地区と青森県黒石地区での事例を取り上げ,こみせが中心市街地のまちづくりの上で果たしている新たな機能を掘り下げ,雪国の知恵の復活ぶりを明らかにする.
  • *田村 将人
    北方民族文化シンポジウム網走報告書
    2017年 31 巻
    発行日: 2017/03/24
    公開日: 2024/08/23
    会議録・要旨集 フリー
    From the latter half of 19th century, Sakhalin indigenous peoples were involved in the border conflict between Russia/USSR and Japan. In 1905-45, Karafuto government made several fisheries for indigenous peoples around 8 Ainu villages that were concentrated, and spent the profit from the fishery on indigenous policy, for example elementary schools. Around 1927, the village Otasu for Uilta and Nivkh were made. After the WWII, the 90% of 1,200 Sakhalin Ainu and the 10% of 400 Uilta and Nivkh moved to Japan by the ships for Japanese repatriates and most of them came to stay in Hokkaido. Above all Mr. YONEMURA Kioe (director of Municipal Museum of Abashiri) had interaction with Sakhalin indigenous peoples who lived around Abashiri. Souvenir Nipopo was got hint from doll (wooden idol) of Sakhalin Ainu, and Orochon Fire Festival that some Uilta and Nivkh people participated in the beginning is the key to the tourism in Abashiri. In this paper, I will review the connection between these indigenous cultures and tourism in Abashiri and how the majority are committed to minority's culture.
  • 松田 稔, 秋山 好一, 森 和義
    日本音響学会誌
    1994年 50 巻 11 号 897-905
    発行日: 1994/11/01
    公開日: 2017/06/02
    ジャーナル フリー
    譜面情報はその楽曲に含まれる音楽情報を能率よく写像したものである。本論文は、日本の楽曲2,777曲(音符数274,737)を対象とし、その譜面情報の中の音高に着目して、その基本的な性質(音高の使用頻度、エントロピー、開始音、終止音、音域、音高の推移など)について検討した。その結果、連続する音符の音高差の使用度数はZipfの法則によく合っていること、また、曲当たりの大きさは音域が1オクターブ半で、音種は10個、音符は99個程度であること、など多く性質を明らかにすることができた。
  • カラオケの時代と二世楽団への懐古
    中原 ゆかり
    ポピュラー音楽研究
    2006年 10 巻 143-152
    発行日: 2006年
    公開日: 2009/10/29
    ジャーナル フリー
  • 韓 瑩
    映像学
    2024年 112 巻 41-60
    発行日: 2024/08/25
    公開日: 2024/09/25
    ジャーナル フリー

    「涙の小花」というタイトルで1969年に台湾で公開された3本の映画は、興行的に大きな成功を収め、「涙の小花ブーム」を巻き起こした。そのうちの一本は、韓国映画の『憎くてももう一度』(1968年)であり、残りの2本は台湾で製作された台湾語映画『涙の小花』(1969年)と北京語映画『涙の小花』(1969年)であった。特筆すべきは、この三作品は文芸映画として宣伝され、台湾の観客に受け入れられたという点である。本稿は「涙の小花ブーム」を事例に、台湾と韓国の映画交流の実態と作品間の相互関係を分析することで、冷戦期東アジアにおける文芸映画のトランスナショナルな流通と展開を明らかにすることを目的とする。第1節では、韓国映画、台湾映画、台湾語映画および香港映画の文脈から3本の『涙の小花』が文芸映画として受容された経緯について考察する。第2節では、流行歌の国境を超えた交流と児童映画の製作ブームが「涙の小花ブーム」の形成に与えた影響を検証する。第3節では、フィルムが現存しない台湾語映画『涙の小花』を除き、ほかの二作品を対象に作品分析を行う。その際、「涙」と「小花」という二つのキーワードを糸口とし、悲劇の構造と孤児の表象を考察することで、文芸映画という枠組について検討する。

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