I はしがき
日本における観光政策の焦点は、戦前から戦後期の国立公園の指定、高度経済成長期以降のリゾート開発、そして近年の世界遺産の登録へと変化している。本発表では、このような史的な観光政策の変容を、観光地の表象に注目して考察することで、その内容の変化と連続性について検討する。具体的な事例としては、国立公園指定、リゾート地化、世界遺産登録の3つの観光政策が関係した熊野をとりあげる。
II 吉野熊野国立公園の指定と熊野の表象
熊野の観光振興に関連した観光政策としては、まず1936年の吉野熊野国立公園の指定が挙げられる。この公園は、「水成岩系に属する大風景地」で「山岳、河川及海岸美を兼ね具へたる大公園」であることと、「我国建国以来の貴重なる霊地、史蹟の豊富なること」、が特色とされていた。
このような特徴が掲げられた国立公園のうち、熊野の自然風景としてとりあげられたのは、海岸風景と熊野川流域の渓谷であった。山岳風景は、大台ヶ原を中心とした吉野郡山が紹介され、熊野の山岳は吉野との対比もあり注目されていないことが確認される。
また「霊地、史蹟」については、「熊野は神武天皇御東征の際御親征の第一歩を記されたる地」であることが第一に指摘され、加えて「熊野には所謂熊野三山」があり「上古より霊験あらたかなる大社として、歴代天皇の厚く御尊崇遊ばされた」ことが記されている。皇室との関係が強調されていることや、熊野の山岳は霊地であることで意義が見いだされていたことが特徴として認められる。
III 和歌山県のリゾート政策と熊野の表象
和歌山県は1986年の長期総合計画において、「テクノ&リゾート計画」を県の基本方針に掲げている。そこでは、内陸山間地域と県南部を紀の国リゾートゾーンと位置づけ、国立公園で海岸風景とされていた熊野の臨海部は「黒潮リゾートエリア」に、熊野三山は「人びとの精神と肉体のリフレッシュをめざす地域」の「高野熊野リゾートエリア」に組み込まれていた。
このリゾート政策は、1990年に「"燦”黒潮リゾート構想」を発表して以降臨海部を中心に推進され、1994年のウェルネスをテーマにした
世界リゾート博
覧会を経て、1999年には南紀熊野体験博の開催を実現している。ここでは、シンボルパークとして「田辺新庄」と「那智勝浦」が選定される一方で、山岳部にシンボル空間として「熊野古道」が選ばれ、熊野が一つの焦点として取り上げられていることが認められる。
この南紀熊野体験博では、和歌山県を「人々が自らを蘇らせるためのすぐれたリゾート環境がある」地域として位置づけていた。そしてこれを体現する空間として、熊野古道を取り上げ、「現代に生きる人々の『癒し』の場として象徴的に取り上げ」ている。すなわち熊野は、人々の癒しの場であるリゾート空間として表象されるようになったのである。
IV 世界遺産の登録と熊野の表象
1997年、和歌山大学名誉教授の小池洋一は、南紀熊野体験博を成功させるために、国際的な宣伝を企図して、熊野三山の世界遺産登録を地元誌上で提起している。またこの小池の提言をうけて、同年に民間組織の「『熊野古道』を世界遺産に登録するプロジェクト準備会」が組織されている。この組織も、現代人に「こころの病気」が増えていることを挙げ、熊野古道を心の癒の場所として表象している。このように、世界遺産としての熊野への注目には、そのリゾート地化へ向けた県の政策が影響を与えていることが認められる。
一方で、先の民間組織は、熊野の寛容性や交流の場としての機能に注目することで、国際的な交流の空間として、世界遺産への登録を訴えていたことも確認される。2004年の「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録の理由についても、「神道と仏教のたぐいまれな融合」であることや、「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する」場であることが注目されている。熊野は、融合や交流などの新たな価値を付与され表象されるようにもなったのである。
世界遺産としての熊野はその後の県の観光政策の重点の一つとなっている。癒しの空間としての意義は世界遺産登録後も観光政策で強調されており、熊野は癒しの空間として表象され続けている。また交流の側面も、地元住民のホスピタリティの問題とも関連づけられて、強調されるようになっていることが確認される。
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