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クエリ検索: "中山定雄"
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  • 伊藤 芳昭, 清水 浩志郎, 木村 一裕
    土木史研究
    1991年 11 巻 241-246
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1600年代前期、雄物川河口付近の秋田平野は至るところ湿地に覆われ、河道変動の激しい-大氾濫原であった。秋田藩の古穴堰は、その支流、旭川にあり、1,000M級の山々が連なる出羽丘陵の西端に位置していたとみられる。そこから、日本海岸までの広大な湿地帯の開発を目的として実行されたものが鬼越峠古穴堰掘鑿である。これまで、領主・佐竹義宜の指示に基づいて、惣山奉行でもあった梅津正景が着手したとされてきた。その根拠となったものは「梅津正景日記」(以後、「日記」という。)である。そこには見分・測量、さらに一部掘鑿の状況が明かにされている。「日記」では鉱山関連を除くと、鬼越峠古穴堰掘鑿のように五回にも渡って詳細な記載が及ぶのは希である。しかし、「爰元ノ御普請、御急候問」という理由によって、工事が途中で中断してしまい、以後は古穴堰に関する記載が見あたらない。それは公用日誌でなく、正景の私的印象を中心としているためと考えられる。このような事情に加え、古穴堰そのものが埋没していることから、今日では幻の存在となってしまった。それを解明するため、「日記」や、関連資料の再検討を行なった。その結果、中断の理由としては久保田城下一体の水害の影響が直接的原因であると判断した。本論ではさらに、現在その近くに在る穴堰を手がかりに、完成した年、位置、経済的影響についても検討を行なった。
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