国際収支の不調に悩み, 輸出の振興がはかばかしくない国ほど, 国際観光事業の推進に力を入れる傾向が認められる。第二次世界大戦直後のわが国も, その例外ではあり得なかった。いささか強引とも思われる占領軍の監督行政が存在したという事情もあるが, 運輸省は, 外国人観光客の誘致に, 種種の方策を講じてきた。当時, 運輸省の外郭団体として機能し, 密接不可分の関係にあった日本交通公社 (財団法人) は, その「五十年史」において, “混乱と虚脱の中にあって公社がいち早くたち直ったのは, 一つには観光産業が” 国破れて山河あり “の譬え通り当時の日本に残された再起のための唯一の資本として, また平和的な国際親善のための大きな架け橋として何人からも斉しく理解された” からであると述べている。
第二次世界大戦後, 最初に日本を訪れた国際観光団は, 1947年12月28日に横浜に入港したAPL (American President Lines) 定期船から下船した71名の一行であった。以後, 定期船の入港することに, 通過客 (Transit Passengers) としての扱いであったが, 外人観光客の訪日が実現していった。またこれとは別に, 占領軍軍人やその家族も, 鎌倉, 箱根, 日光, 京都, 奈良など, 戦前からその名を知られた観光地に姿をあらわしていた。
こうした外国人に対して, 日本交通公社は, 各種のガイドブック, ツーリスト・ライブラリーなどの英文図書を有償で提供したが, その売行きはよく, 好評であったという。だが, これらの書物は急ごしらえに作成されたものではなく, 第二次世界大戦前に作製されたものの在庫品かリプリント版であった。
ところで, 以上の経過をふり返ってみると, わが国には, 国際観光事業の一環として, 英語版の旅行案内書を刊行してきた伝統があることが明らかになる。さすれば, それらはいっ, どのような動機で作成され, 国際的なTravel Literature (旅行文芸) の体系の中に, どう位置つくのであろうか。
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