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クエリ検索: "井筒和幸"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 杉浦 真理
    経済教育
    2011年 30 巻 18-22
    発行日: 2011/10/25
    公開日: 2017/12/28
    ジャーナル フリー
  • 物語研究
    2020年 20 巻 208-220
    発行日: 2020年
    公開日: 2022/06/18
    ジャーナル オープンアクセス
  • 鄭 惠先
    社会言語科学
    2001年 4 巻 1 号 58-67
    発行日: 2001/09/30
    公開日: 2017/04/27
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は,複数を表す接尾辞「たち」と「ら」の選択の条件を明らかにすることにある.方法としては,映画シナリオを資料とし,その中から「人称代名詞+たち」と「人称代名詞+ら」の形式を取りだして,使用実態を考察した.選択条件としては,話し手の属性による観点から「地域差」と「性差」,発話内容による観点から「聞き手包含・非包含」という項目を立てた.すなわち,地域が関東か関西か,話し手が男性か女性か,また,自称複数に聞き手を含むか含まないかを調べ,「たち」と「ら」の使用率を比較した.分析の結果,「たち」と「ら」の使用上の選択条件として,以下のことが検証された.(1)関西では関東に比べ,「ら」の使用率が高い.(2)関東では,男性が女性に比べ,「ら」の使用率が高い.(3)関東では,自称複数に聞き手を含まない文が聞き手を含む文に比べ,「ら」の使用率が高い.
  • 中山 穂孝, 尾崎 瑞穂
    地理学論集
    2019年 94 巻 1 号 1-10
    発行日: 2019/01/29
    公開日: 2019/04/30
    ジャーナル フリー

     本稿の目的は,和歌山県新宮市を事例に,地域の歴史文化にまつわる観光資源の特徴とその活用方法,及び課題などを,観光に関わる人々への聞き取り調査と,観光施設・観光客へのアンケート調査等によって明らかにし,新しい観光の可能性について考察することにある。

     日本のマスツーリズムは高度経済成長期に拡大したが,その後,マスツーリズムへの反省からニューツーリズムが生まれ,1990 年代以降徐々に拡大している。このニューツーリズムの中に,本稿で取り上げる文化観光がある。文化観光とは,日本の歴史,伝統といった文化的な要素に対する知的欲求を満たすことを目的とする観光形態をさし,本稿の事例地である和歌山県新宮市はこの文化観光を官民により実践している都市である。新宮市には,文化観光の振興に資する歴史文化的な観光資源が豊富である。しかし,これらの観光資源の中には,大逆事件など地域の暗い歴史に関するものもあり,他の観光地では必ずしも観光資源として捉えられていないものも多い。本稿では,こうした観光資源の活用方法に注目する。

     具体的には,西村記念館や佐藤春夫記念館,中上健次資料収集室といった施設の管理担当者への聞き取り調査と,これら施設を訪問した観光客へのアンケート調査を実施し,新宮市に縁のある文化人の作品などを通じて新宮市や熊野地域の歴史文化を学ぼうとする観光客が一定数訪れていることがわかった。また,大逆事件などの暗い過去についても,その歴史を検証することにより,観光資源として活用していこうとする地域の実践があることも明らかになった。これらの観光資源との関係で,講演会や学習ツアー,あるいは観光者自身によるフィールドワークなども企画されており,新しい文化観光の形態を創出している。

     一方,いくつかの問題点も指摘できる。新宮市の観光に関わる多くの人は,新宮市民が地域の歴史文化により興味を持つことが重要であり,学校や家庭,地域における若い世代への教育を充実させる必要性を指摘している。市民が新宮市の持つ歴史文化的な魅力に気付かないことには,観光客にもその魅力を広めることは難しいという認識は共通している。文化観光という新しい観光形態と地域の歴史文化の教育・伝承をいかにリンクさせるかが,今後の課題となるであろう。

  • 沈 念
    映像学
    2020年 103 巻 113-133
    発行日: 2020/01/25
    公開日: 2020/02/25
    ジャーナル フリー

    本論はポストコロニアル理論を踏まえ、小栗康平の『伽倻子のために』翻案をめぐる従来の言説を分析し、これまで酷評されてきたこの作品における「美化」の問題が、実は欠点ではなく、あえて新しい表現を試みている証しであることを主張する。

    第1節では、従来の日本映画における在日朝鮮人に対する美化は、日本人/在日朝鮮人という二項対立を強調し、在日朝鮮人の受ける差別を批判しながら、在日朝鮮人のイメージを一般化している現象を考察する。さらに、このような傾向を風刺する大島渚の3作を例として、二項の概念を抹消しようとしても、自らの優位に立つ日本人としての立場を認識しなければ、本質的に二項対立を打破できないと指摘する。

    それに対して、『伽倻子のために』の美化はそれほど単純なものではないと主張する。映画は原作におけるハイブリディティの人物設定を敷衍し、男女主人公の人物像と人物関係を美化することによって、「不純な」二人の恋が持つ象徴的な意味を増幅し、従来の二項対立に対抗していると、第2節では論証する。

    そして第3節で、李恢成の文学世界を翻案する手法は、本作の主人公相俊を李恢成の他作における人物たちと緩やかな結びでつなげていることを考察する。この緩やかな結びは在日朝鮮人全体を少数の在日朝鮮人で代表するような表象を回避していると主張する。

    最後に、『伽倻子のために』における子供時代の挿入シーンを分析し、これは在日朝鮮人を代弁するのではなく、彼らに語らせる手法であると、第4節で論証する。さらに、この手法は内部と外部の異質を受け入れ、その共存をはかる試みともいえると結論づける。

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