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クエリ検索: "偕楽公園"
12件中 1-12の結果を表示しています
  • 津市 環境部 環境政策課
    風力エネルギー
    2017年 41 巻 2 号 222-225
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/16
    ジャーナル フリー
  • 1967年 5月25日国会「自閉症」初出議事録より
    植木 是
    遡航
    2023年 2023 巻 6 号 147-178
    発行日: 2023/02/28
    公開日: 2023/06/10
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿の目的は 1960 年代にどのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのかその発端を明らかにすることである。ウェブサイト「国会議事録検索システム」から得られた「保存発掘資料一覧」の一部を参照する。日本で初めて国会で「自閉症」ということばが登場したのは「1967年 5 月 25 日 55 回衆議院会議録文教委員会 36 号」である。〈重症児施設の分類処遇〉をめぐる質疑応答のなかであった。発言者の属性をみていくと、当時自閉症に対応し得る日本唯一の専門施設とされた、あすなろ学園のある三重県へ出向していた中央官僚や地方行政官幹部と、中央官 庁・国政(厚生省官僚、国会・与党自民党衆議院議員)を媒介する役割を担った田川一族の存在が浮き彫りになってくる。つぎに国会に「自閉症」が登場するのは 13 日後「1967 年 6 月 7 日55 回衆議院会議録社会労働委員会 17 号」のことである。6 月 7 日の国会では、野党社会党議員(三重県と国政では労組の連続性があった)が厚生大臣及び厚生官僚に対して、三重県あすなろ学園と日本の自閉症問題とその対処をめぐる質疑応答を、親の会設立の紹介なども交えて具体的に展開する。いずれにせよ、1967 年 5 月 25 日のそれは国政の場で初めて具体的に自閉症問 題を論じるきっかけをつくった発言として大きな意義があったといえる。
  • 石川日出鶴丸が描いた理想の医療と鍼灸
    山本 哲朗
    全日本鍼灸学会雑誌
    2012年 62 巻 3 号 194-204
    発行日: 2012年
    公開日: 2012/12/10
    ジャーナル フリー
     本稿では、 鍼灸医学の危機を救った石川日出鶴丸の足跡を辿り、 彼の目指した科学的基盤に基づいた鍼灸医学についての考察を行います。
     石川先生は、 富山県の出身で、 東京帝国大学を卒業後、 京都帝国大学の天谷教授の下で研究生活に入り、 1908年から4年間、 最先端科学が花開くヨーロッパに留学されます。 主にゲッチンゲン大学のフェルボルン教授の下で研究しますが、 短期間ながら、 ぺテルスブルグ大学のパブロフ教授や英国のスターリング教授、 シェリントン教授なども訪れています。 このヨーロッパでの経験が、 後年の研究発展へとつながるのです。 帰国後は、 京都帝国大学の教授として、 日本の生理学研究を大きく発展させ、 同時に、 鍼灸医学や心理生理学にも生理科学的手法による解析を試みられました。
    石川先生は、 神経生理学領域では、 加藤元一教授との論争で有名です。 この論争は、 神経の活動電流が、 麻酔部位で、 減衰して伝導するか(減衰論)、 減衰せずに伝導するか(不減衰論)というもので、 加藤教授が石川先生の愛弟子の一人であったことにより非常な注目を集めました。
    京都帝国大学を退官後、 1944年に三重大学医学部の前身である三重県立医学専門学校長として津市に来られ、 翌年には、 大学病院に鍼灸療法科を開設されます。 終戦後、 GHQは、 当時の鍼灸などの伝統医学が、 西洋医学の水準からすると、 科学的根拠に乏しいことから、 「鍼灸禁止令」を考えていました。 先生は、 御自身の研究結果をもとに、 GHQ関係者に鍼灸医学の科学性を説明され、 実際に鍼灸を施術してその効果も体験させ、 鍼灸の存続に貢献されます。 しかし、 この間の過労のためか、 1949年に教授会の席で脳卒中を発症し亡くなられます。
    石川先生の遺志は、 弟子の笹川久吾京都大学教授に引き継がれ、 日本鍼灸学会が結成されます。 第1回日本鍼灸学会が1954年に京都大学で開催され、 現在の隆盛へと繋がるわけです。
  • 柳 五郎
    造園雑誌
    1982年 46 巻 5 号 60-65
    発行日: 1982/03/31
    公開日: 2011/07/19
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    明治6年太政官布告「公園設置一件」以来, 明治24年内務省地理局廃止に至るまで土地法に関する法令は整備されていたものでなく, 公園行政の基礎となった内務省地理局の役割も決して少なくない。府県伺と内務省指令によって多くの疑問点が解決されていた。しかしこの府県に対する行政指導の内容はほとんど一般の目に触れることなく, この特異なる公園設置の形態を解明する唯一の手段は当時の行政文書に依存することである。
  • 高橋 真弓
    蝶と蛾
    1970年 21 巻 1-2 号 17-37
    発行日: 1970/04/30
    公開日: 2017/08/10
    ジャーナル フリー
    1.キマダラヒカゲNeope goschkevitschii (MENETRIES,1855)の中には,"平地型"と"山地型"とが知られているが,両者は,たがいに別種としてあつかわれるべきであり,前者をサトキマダラヒカゲ,後者をヤマキマダラヒカゲとよぶことにしたい.学名については,さらに慎重な検討が必要である.2.両種とも,日本列島に広く分布し,サトキマダラヒカゲは北海道中部から九州南部にいたる地域の平地および山地に,ヤマキマダラヒカゲはサハリンから九州南方の屋久島にいたる地域の,おもに山岳地帯に分布している.3.両種の成虫の差異は,翅形,縁毛の分岐数,および斑紋などにあらわれるが,たがいにきわめて近似であるために,同定のさいには,多くの特徴から総合的に判断する必要がある.これらの特徴は,山地種指数I(♀♂に共通)および山地種指数II(♂のみ)によって,かなりよくあらわすことができる.裏面の黒化の状態を黒化指数で示すと,一般にヤマキマダラヒカゲでは黒化がすすみ,また両種とも春型では夏型よりも黒化する傾向がみられる.黒化指数は,山地種指数にくらべて環境の影響をうけやすい.4.幼虫はおもに5令,一部は6令に達してから蛹化するが,各令期において両種の差がみとめられ,ことに2令幼虫においていちじるしい.両種の差は,形態のみでなく,習性にもみとめられる.5.両種とも落葉中で蛹化し,懸垂器によって尾端を枯葉に付着させる.蛹の形態には,両種間に大きな差はみられない.6.両種とも低地では年2回,高地では年1回の発生となるが,ヤマキマダラヒカゲでは,年2回発生の上限(標高)が高くなる傾向がある.サトキマダラヒカゲは,各種のタケ・ササ類の群落に発生するが,ヤマキマダラヒカゲの発生地はササ属Sasaの群落に限られる.成虫の習性にも,両種のちがいがみとめられる.
  • 安藤 堯雄
    教育学研究
    1934年 3 巻 3 号 364-380
    発行日: 1934年
    公開日: 2009/01/13
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  • 花崗岩風化物なる敲土に就て (愛知縣, 三重縣)
    福島 彌六, 松本 榮
    大日本窯業協會雑誌
    1942年 50 巻 597 号 450-461
    発行日: 1942/09/01
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
    愛知及び三重縣下の敲土に就て, 上記の調査試驗事項を要約すれば次の通りである.
    1. 敲土はその成因より〓雲砂と沈積砂とに分類し得る.
    〓爛砂は花崗岩の分布する地域に限つて賦存し, 沈積砂は第四紀更新層又は第三紀層の砂層及び礫層中に賦存する.
    2. 鑛物成分は石英, 長石, 雲母等であり之に長石, 雲母, 角閃石等の分解成生物を含み更に他系岩石の砂, 粒土を夾雜する場合がある.
    化學成分は珪酸70-80%, 礬土13-35%を主とし, 之に少量の酸化第二鐵, 石灰, 苦土, 加里及曹達等を含む.
    3. 色は淡色にして粘氣少く, 粘土分の甚しく多からざるものが良品と云はれてゐる.
    4. 愛知縣に於ては, 北部の山岳地帶及渥美灣沿岸の一部に雲爛砂を産し, 矢作川, 豐川流域に更新層に屬する沈積砂の産あり, 又知多郡, 名古屋市の東部及東北部に第三紀層の沈積砂があり無盡藏と推定されてゐる.
    三重縣に於ては, 主に第三紀層又は更新層の沈積砂を産し又雲爛砂は宇治山田市及び松阪市附近並に西部山岳地帶に賦存する.
    5. 敲きとは敲土に石灰を混合し少量の水を加へ混捏し之を充分に敲込みて緻密なる工作物となしたものを云ひ, 古來より井戸側, 流し, 水瓶, 土間床, 建築物の壁塗, 目地等に盛に使用された. 人造石とは敲土を結合材 (Cementing Material) とする割石の煉積工作物である. 人造石は河海の護岸, 擁壁, 橋臺用水の樋門等の土木工事に應用せられ又現在も地方的に用ひられてゐる.
    6. 敲きの配合は, 一般的用途のものには重量比にて石灰1: 敲土4-6程度のもので石灰量が多く, 人造石用のものは石灰1: 敲土8-15程度で石灰量が比較的小である.
    7. 敲きの硬化時間は石灰及敲土の性質, 其他の條件により異るが, 1週-3ヶ月程度であり頗る廣範圍に亙つてゐるが, 然し普通に1週間位で使用差支ひなき程度に硬化するものが最も多い.
    強度特に引張強さは材料の種類, 養生により種々であるが, 空氣中養生のものは1週間に7-16kg/cm2. 平均約13kg/cm2であり, 1年以上では強さが低下するものが多い.
    清水中養生のものは空氣中のものに較べて2-2.5倍程であり此場合は長期間に及ぶも強さの低下を來すことが殆んどない.
    海水中にては一旦強さが増加するが次第に侵蝕され長期間の存置に耐へぬものが多い.
    8. 敲きの石灰の代りにポルトランドセメントを用ひて比較すると空氣中及海水中ではセメントが勝り, 清水中では兩者同等或は石灰の方が勝つた結果を示すものもある.
    9. 敲きの缺點としては空氣中にて強さが低下すること, 耐鹹性の弱きこと, 風化による侵蝕を受け易く安定度の弱きこと等が擧げられる.
    更に施工法が煩雜なること, 其性質が産地により著しく相違すること等も併せて指摘される.
    10. 現在敲きの利用は未だ或る地方的範圍を出でない状態であるが, 其産地は殆んど全國的に亙り花崗岩の分布地帶及び其附近には必ず賦存し未だこれが充分なる調査は行はれず, 中には極めて良質な敲土が世上に知られざる状態にある.
    此意味より敲土は, 古來より我國獨特の重要なるセメント材料 (Cementing Material) であつたのみならず, 重要なる全國的資材であり, その施工法を改良しその利用を再興することは我國固有の施工法を再起活用することゝなり, 特にセメント不足に當面せる現下に於てセメント混合材又は雜用セメント類として研究利用の意味があらう.
  • 水戸における鉄道を利用した観光事業の成立と展開
    三宅 拓也
    観光研究
    2016年 28 巻 1 号 83-96
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/04/01
    ジャーナル オープンアクセス
    観梅の時期、名所として知られる水戸・偕楽園の麓にはJR 常磐線の臨時駅が開設され、臨時快速列車「水戸梅まつり号」が運行されるなど、鉄道と関連した観光事業が展開されている。本稿では当時の新聞各紙の記事や広告を検証して、現在まで続く観梅列車の展開過程を具体的に明らかにし、その特性と意義を示した。加えて観梅列車の展開によって、大名が私有する庭園だった偕楽園が、観梅によって鉄道利用の目的地となり、これが定着していくなかで水戸の観光産業の中枢に位置づけられていったことを指摘した。
  • 藥學雜誌
    1913年 1913 巻 379 号 895-922
    発行日: 1913/09/26
    公開日: 2011/02/09
    ジャーナル フリー
  • 萠芽期における保全論
    白井 彦衛
    造園雑誌
    1976年 39 巻 3 号 34-45
    発行日: 1976/01/24
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
    Three streams of idears on“green space conservation” were appeared during the period 1915-1919. The first one is a series of tendancy originated by construction of Nleiji shrine. That is, T. Hongo completed planting method based on ecological aspects, and applied it for planting inside the forest of the Shrine. Then landscape architecture were lectured in Faculty of Agriculture of University of Tokyo.
    The second one was represented by Histric Spot, Beauty Spot and Natural Monument Conservation Law for which M. Miyoshi made a great effort in its establishment. Around that time Musashino Sociaty was estabtiished contributing to preservation of Metropolitan surburbs.
    The third one was seen in City Planning Law. That is, parks were not only regarded as one of the facilities in a city, but also regulated as scenic zones backed up by the idea on green space conservation. It was City Research Committee chaired by S. Goto that made an effort to establish the above Laws and promote the green space theory. During the period H. Ikeda's “Free Space Theory” was appeared in the technical magagin Toshi koron and its theory by T. Tamura, R. Ohya and K. Takei was also appeared in it. Moreover, K. Ohta and T. Kitamura were the first persons to use the term.“Green Space.”
    In Sept. of 1923, terriblily big earthquake destroyed the Kanto area resulting in burned out of 380, 000 houses and 80, 000 dead victims of it. For restoration of the Tokyo City, Research Committee submitted the large scaled reconstruction plan, however the plan was reduced in scale because of financial difficulty. Therefore, the chance to improve city circumstance by the introduction of green space was lost in spite of the social recognition concerning the effect of green space in term of prevention of disnster
  • 光井 渉
    建築史学
    2019年 73 巻 123-141
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/10/20
    ジャーナル フリー
  • 全日本鍼灸学会雑誌
    2012年 62 巻 S1 号 S45-S118
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/09/17
    ジャーナル フリー
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