鎌倉市佐助ケ谷遺跡で出土した『指図』資料は既報のものだが,報告書での検討が充分でないので,報告者の諒解を得て再検討を加える。『指図』は折敷板に墨書されたもので,13世紀第4四半期~14世紀初めの層から3片出土していて,そのうち同一個体の2片を主にとりあげる。墨書は両面にあり各部分ごとに検討してみると,A面とした側には道路と楼門,建物2棟以上,棚(塀)らしきものが描かれている。B面には垣根と冠木門,道路,網代塀のほか,多くの建物が描かれたと判断できる。図法として建物の柱位置には墨点が打たれ,壁面(?)には線が引かれ,描線の一部は定規を使い,またある程度縮尺をも考慮している。また門と網代塀は側面観を描き,垣根は波線を使うなど,指図としての表現技法に従っている。これを鎌倉に遺る著名な指図資料である『建長寺指図』(元弘元年,1331),『八幡宮天正指図』(天正十九年,1590)と比較してみると,図法の正しさが裏付けられるばかりでなく,建長寺の建物と類似のものを見出すこともできる。中世の絵画史料である絵巻物との比較は想像の積み上げでしかないが,それでも『法然上人絵伝』,『一遍上人絵伝』などに,『指図』と類似の建物などを見出すこともできる。さらにこれまでの鎌倉の発掘遺構との比較からは,門や塀,建物の種類の特定なども可能かと考えられる。以上のような検討をふまえてみると,佐助ケ谷『指図』は寺院の郭内などの広い地域内の一画ごとを描いたものらしく,佐助ケ谷遺跡を含めた鎌倉の「都市」の一局面があらわれたものとみられる。『指図』描者は番匠の頭領「大工」級の者で,寺内の作事の設計・施工・管理に携わる者であったと思われる。その『指図』が他職種の加工具などと共に廃棄される佐助ケ谷遺跡とは,B面に描かれるように,寺によって組織・集住させられた技術者(職人)たちが寺の郭内の一画に在ったものと推測できる。これら技術者が都市鎌倉の経済活動を技術面から支えると共に,その技術系譜は後世へ伝えられて日本各地に出現しうることも考えられる。
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