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クエリ検索: "家族" 映画
10,689件中 1-20の結果を表示しています
  • *大林 宣彦
    日本
    映画
    学会大会報告集

    2018年 14 巻
    発行日: 2018/12/08
    公開日: 2024/03/25
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 「食卓」を題名とした2映画の場合
    *荒川 志津代
    一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集
    2008年 60 巻 2P8
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/10
    会議録・要旨集 フリー
    目的:ドラマや
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    の中で、
    家族
    の「食卓」はしばしば、円満な人間関係における幸せの象徴である。しかし最近における
    家族
    の変容やきしみに伴って、現代を舞台としたドラマや
    映画
    では、食事場面は単純な幸福を意味しないこともある。そのような背景の中で、あえて「食卓」という単語を関した
    映画
    が、近年製作上映された。「食卓」というものへのかつてのノスタルジックなイメ-ジを背景として、現代を描き出そうとしたものと思われる。それは人々の中にある
    家族
    への幻想と現実に、対応したものとなるのであろうと考えられる。そのように描かれた食卓には何が託され、そこでの子どもはどのような意味を持つのかを考察することが、本研究の目的である。 方法:「食卓」を題名に関した現代
    映画
    、『紀子の食卓』(2005年製作)と『幸福な食卓』(2007年)を比較し、食卓の意味とそこでの子どもの位相を考察する。 結果と考察:1)『紀子の食卓』における食卓は、「虚構」の象徴であったが、それをそれらしくする(演じる)ことに、
    家族
    の今後を示唆するものであった。本
    映画
    における子どもは、大人(父)とは異なる感性を持ち、大人とは異なる「演じ方」を選択する者であった。ただしそこに到達する道筋は、近代青年における「危機」を経るものであった。 2)『幸福な食卓』における食卓は、旧来型の「良い
    家族
    」の象徴であったが、そこで
    家族
    の「危機」が始まるという場ともなっており、両義性を示す徴であった。本
    映画
    においても「役割を演じる」ことが一つのテ-マになっており、その演じ方の模索において、大人と子どもの間に決定的な違いは見られず、両者の境界が見えにくくなった現代を反映したものであった。3)両
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    に共通しているのは、
    家族
    の中における子ども役割遂行の困難さであった。
  • 徐 玉
    映像学
    2023年 110 巻 38-58
    発行日: 2023/08/25
    公開日: 2023/09/25
    ジャーナル フリー

    本稿では、木下惠介の大作『香華』をとりあげ、木下研究においてこれまであまり目を向けられてこなかった母娘の関係を考察した。『香華』は有吉佐和子の同名小説の

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    化作品であり、欲望のままに生きる母の郁代と、母に翻弄される娘の朋子との愛憎が全編を貫いている。

    まず、郁代という人物に注目し、木下の撮影スタイルの特徴である移動撮影とズームアップの連用が、郁代の「家」からの離脱と結びつけて使用されていることを明らかにした。また、「母性」に関する議論を援用しつつ、郁代が「母もの」

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    の「規範的」で「脱性化」された母親像とは異なり、「母性」に束縛されない、特異な母親であることを確認した。続いて、木下の他の作品に見られる母子関係と照らし合わせながら、『香華』における母娘関係の特異性を検討した。回想形式やフラッシュバックを得意とする木下が、有吉佐和子の原作では朋子によって想起される対象である郁代に対して、そうした技法をあえて用いずに、確固とした身体と声を備えた母親として描いていることを指摘した。さらに、朋子の初潮の場面や、防空壕でほのめかされる母娘一体化、特に母娘で同じ墓に入ろうという朋子の意志といった、
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    で新たに付け加えられた要素によって、母への愛の忘却を経た娘が母とふたたびつながるという母娘関係が出現し、そこに反家父長的で脱再生産的な側面が潜んでいることを論じた。

  • 栗原 伸治
    日本建築学会計画系論文集
    2007年 72 巻 614 号 137-143
    発行日: 2007/04/30
    公開日: 2017/02/25
    ジャーナル フリー
    Chinese movies came to attract attention all over the world after middle of 1980's. Many of those works draw the living environment of modern China. Therefore, the living environment drawn there is impressed with as reality as well as an image for the people who watched these Chinese movies. This paper aims to interpret the family relations as such living environment in the Chinese movie "Postmen in the mountains" by Huo Jianqi who is the sixth generation director, from the viewpoint of constitution analysis based on cinematography, As a result, 12 chapters, 28 scenes, 637 cuts can be extracted from this movie. And based on these functions and relations, the following relations of a family can be interpreted: I. There exists gender in a family. II. Second son is placed in merge null of a family, and he has the role to connect a family to the outside. III. However, he also has family's center position that ties a family dynamically. IV. Second son is a metaphor of "a thing" succeeded to in a family. In other words, it was able to interpret second son's ambiguity in a family, and his position as mediation of the family succession.
  • 稲塚 秀孝
    日本小児放射線学会雑誌
    2020年 36 巻 1 号 12-17
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/03/25
    ジャーナル フリー HTML
  • 『クロユリ団地』の境界を越える音
    今井 瞳良
    映画
    研究

    2017年 12 巻 26-43
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/12/25
    ジャーナル フリー
    本稿は
    映画
    音響と団地という空間に着目して、『クロユリ団地』(中田 秀夫監督、2013 年)の人間と幽霊の境界を論じていく。日本
    映画
    史に おいて、団地のコンクリートの壁は物理的な境界として、視覚的に遮る ことはできるが、聴覚的には透過性が高いという特徴を持ってきた。こ れは、音響と物語空間の問題であるとともに、フレームの問題でもある。 この特徴を活用して『クロユリ団地』では、人間と幽霊の会話は常に「フ レーム外」を通してなされ、画面において両者は断絶している。団地の 境界とフレームの境界という二つの境界を通して、人間と幽霊の境界は 「イン」の会話の不可能性として示されているのだ。その中で、人間の明 日香と「イン」の会話をする幽霊のミノルの関係を分析し、明日香が人 間と幽霊の境界を無効化する不気味な存在と化していくことを明らかにし た。そして、その不気味な明日香が「幼さ」を肯定的に捉える女性表象 に対して批評性を持つことを指摘した。
  • ――マレーシアとインドネシアを中心に――
    山本 博之
    ジェンダー史学
    2019年 15 巻 49-58
    発行日: 2019/10/20
    公開日: 2020/11/21
    ジャーナル フリー

    Feature films are fictional. Even if the film is realistic, we cannot accept it uncritically as the film reflects reality. However, it is inevitable that the temporality and regionality where the film is produced and released are reflected on the feature film (especially commercial films). For this reason, we explore the stories that society has entrusted to local films by deciphering them. This article discusses family styles through films in Malaysia and Indonesia. Both countries are multiethnic, multi-religious and multi-lingual, and the majority religion, Islam, has a major impact on society, while Islam is positioned in society as one of several religions. In Malaysia, characterized by ethnic ranks and Islamic authority, love and companionship across ethnic and religious differences becomes an issue. However, Yasmin Ahmad’s films appeal that the problem to be solved is not the difference in ethnicity or religion but the power relationship between parent and child or between married couple. There have been more Indonesian films featuring polygamy with women playing a leading role in foreign countries, which can be understood as an attempt to create a family based on the value of Islam. We interpret it as showing that women who are trying to live away from the interference of their parents and the community are finding it difficult to balance their career with a good mother.

  • 占領期における原節子のスターペルソナ
    北村 匡平
    映像学
    2016年 96 巻 68-88
    発行日: 2016/07/25
    公開日: 2016/08/19
    ジャーナル フリー

    【要旨】

     本稿の目的は、占領期のスターダムのなかでなぜ原節子の価値が最も高まり、どのような大衆の欲望によって彼女のペルソナが構築されたのかを、敗戦後の社会・文化的条件に即して実証的に明らかにすることにある。これまでスターを対象とする研究は

    映画
    の表象に傾斜した分析が多かったが、スター研究の視座から、スターを取り巻く言説、とりわけファン雑誌におけるイメージやテクストと
    映画
    との関係を重視し、複数のメディア・テクストにおける原節子の個性的アイデンティティ構築が、占領期のジェンダー・セクシュアリティ規範のなかでいかなる価値を形成していたのかを探究する。

     原節子は、敗戦後に求められる理想的な女性像としての「理知的」で「意志」の強い主体的なイメージを戦中から準備し、戦前と戦後の連続性を引き受けることで、占領期に最も人気の高いスターとなった。彼女の

    映画
    のパフォーマンスと、雑誌のパーソナリティに通底する他者の身体から「離れている」ペルソナは、日本女性の身体をめぐるアメリカと日本の占領の言説において、文化的価値を高めることになった。彼女は戦後に現れた敗戦の歴史的トラウマを喚起するパンパンなどの「敗者の身体」とは決して重なることない〈離接的身体〉としての理想的ペルソナを言説によって構築していたのである。本稿では、占領期という歴史的コンテクストのなかで原節子がいかに価値づけされ、欲望されているのかを分析し、アメリカへの抵抗を可能にする原節子のスターペルソナを通して大衆の戦後意識を解明する。

  • 浜野 保樹, 平井出 けい子
    視聴覚教育研究
    1979年 10 巻 65-81
    発行日: 1979/03/31
    公開日: 2017/07/18
    ジャーナル オープンアクセス
  • チャンバラ映画分析からのアプローチ
    雑賀 広海
    映画
    研究

    2017年 12 巻 4-25
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/12/25
    ジャーナル オープンアクセス
    本論文が着目するのは、玩具
    映画
    と呼ばれるメディアである。玩具映 画とは、戦前の日本でこどもの玩具として販売された簡単な映写機と短 い 35mm フィルムのことを指す。これを用いてこどもたちは家庭で
    映画
    を 上映していた。本論文は、玩具
    映画
    で遊ぶこどもの視覚性に、
    映画
    館 の観客のそれとは異なり、触覚性が介入してくることを明らかにした。 戦前期において家庭の
    映画
    鑑賞に使われたメディアは、玩具
    映画
    のほ かに小型
    映画
    もあった。しかし、こどもとの関係から見ると、小型
    映画
    は教育目的で使われることが多く、したがって、こどもは受動的な姿勢 が要求された。玩具
    映画
    の場合、それが玩具であるということによって、 こどもは能動的なアクションをとる。つまり、こどもの視覚性のなかに、 玩具に触れるという触覚性が介入してくるのである。こどもと玩具
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    が結ぶこうした遊戯的な関係性は、現代のメディア環境を考察するうえで も重要な概念となるという結論に至った。
  • 『日本ニュース』が描く「働く女性」と皇后を中心に
    堀 ひかり
    日本ジェンダー研究
    2002年 2002 巻 5 号 29-46
    発行日: 2002/09/07
    公開日: 2010/08/04
    ジャーナル フリー
  • 乳房と足のショット分析から
    片岡 佑介
    映画
    研究

    2016年 11 巻 4-21
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/24
    ジャーナル オープンアクセス
  • 中里 英樹
    家族
    社会学研究

    1999年 11 巻 11 号 130-132
    発行日: 1999/07/31
    公開日: 2009/08/04
    ジャーナル フリー
  • アリ・アスターの『ミッドサマー』における女性性と偽装ケア
    石田 由希
    映画
    研究

    2022年 17 巻 46-64
    発行日: 2022/12/10
    公開日: 2023/05/08
    ジャーナル オープンアクセス
    アリ・アスター監督の長編フォーク・ホラー
    映画
    『ミッドサマー』では、人身御供を行うスウェーデン人の集団が、刺繍入りの華やかな民族衣装を着る。刺繍が加害性と隣り合わせる光景は、アスターが本作以前に監督した短編
    映画
    『ミュンヒハウゼン』や長編ホラー
    映画
    『ヘレディタリー/継承』にも見受けられる。本論の目的は、上記ふたつの先行作品で刺繍が権威的な女性性の隠喩であり、こうした含みを持つ手芸モチーフが『ミッドサマー』に引き継がれている点を明らかにすることだ。まず、 『ミュンヒハウゼン』と『ヘレディタリー』では、草花と隣接する植物模様の刺繍が登場し、その刺繍の作者である女性や刺繍と象徴的に結びつく高齢の女性が、他者を支配するためにケアを偽装する。『ミッドサマー』で刺繍入り民族衣装をまとう女性たちも、ケアラーを演じつつ他者を手中に収めるが、その中心にいる家母長的な人物の造形は、前二作の保守的な「母親」像を骨子とする。
  • 中臺 希実
    比較
    家族
    史研究

    2015年 29 巻 148-171
    発行日: 2015/03/31
    公開日: 2016/03/31
    ジャーナル フリー
  • 共同映画と映画センター
    藤田 修平
    映画
    研究

    2016年 11 巻 22-38
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/24
    ジャーナル オープンアクセス
  • 山際 永三
    マス・コミュニケーション研究
    2018年 92 巻 225-226
    発行日: 2018/01/31
    公開日: 2018/05/10
    ジャーナル フリー
  • 西下 彰俊
    家族
    社会学研究

    2022年 34 巻 2 号 91-92
    発行日: 2022/10/31
    公開日: 2022/11/15
    ジャーナル フリー
  • ギャスパー・ノエ『カルネ』の屠場描写をめぐって
    岡田 尚文
    映画
    研究

    2008年 3 巻 26-41
    発行日: 2008年
    公開日: 2019/12/02
    ジャーナル オープンアクセス
  • 伊藤 徹
    社藝堂
    2023年 10 巻 45-60
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/11/10
    ジャーナル オープンアクセス
    是枝裕和の監督作品《そして⽗になる》が映像化した「
    家族
    」のイメージを、ポスト⾼度経済成⻑期の
    家族
    イメージのひとつとして位置づけたうえで、他の作品とも共通してもたれている撮影⼿法に着⽬することによって、このイメージに含まれている⽣の感覚、統⼀的なストーリーに回収されない⽣の肌触りを賦活させようと試みた。このことが筆者にとっての歴史理解を巡る哲学的問題構成、すなわち意味化されない事実性の問題とつながることを、本論は冒頭で確認している。
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