目的:ドラマや
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の中で、
家族
の「食卓」はしばしば、円満な人間関係における幸せの象徴である。しかし最近における
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の変容やきしみに伴って、現代を舞台としたドラマや
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では、食事場面は単純な幸福を意味しないこともある。そのような背景の中で、あえて「食卓」という単語を関した
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が、近年製作上映された。「食卓」というものへのかつてのノスタルジックなイメ-ジを背景として、現代を描き出そうとしたものと思われる。それは人々の中にある
家族
への幻想と現実に、対応したものとなるのであろうと考えられる。そのように描かれた食卓には何が託され、そこでの子どもはどのような意味を持つのかを考察することが、本研究の目的である。
方法:「食卓」を題名に関した現代
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、『紀子の食卓』(2005年製作)と『幸福な食卓』(2007年)を比較し、食卓の意味とそこでの子どもの位相を考察する。
結果と考察:1)『紀子の食卓』における食卓は、「虚構」の象徴であったが、それをそれらしくする(演じる)ことに、
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の今後を示唆するものであった。本
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における子どもは、大人(父)とは異なる感性を持ち、大人とは異なる「演じ方」を選択する者であった。ただしそこに到達する道筋は、近代青年における「危機」を経るものであった。
2)『幸福な食卓』における食卓は、旧来型の「良い
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」の象徴であったが、そこで
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の「危機」が始まるという場ともなっており、両義性を示す徴であった。本
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においても「役割を演じる」ことが一つのテ-マになっており、その演じ方の模索において、大人と子どもの間に決定的な違いは見られず、両者の境界が見えにくくなった現代を反映したものであった。3)両
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に共通しているのは、
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の中における子ども役割遂行の困難さであった。
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