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クエリ検索: "小坂秀二"
3件中 1-3の結果を表示しています
  • 同調と競争の統合
    西村 秀樹
    スポーツ社会学研究
    2001年 9 巻 37-49,132
    発行日: 2001/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    大相撲における立ち合いは、勧進相撲としてプロ相撲興行が成立した江戸時代初期には、行司という第三者によって客観的にその立つタイミングが提示されるというものであった。しかし、大相撲が多彩な「わざ」が展開されるスポーツへ発展していくにつれ、それは、両力士同士の相互主観的な「意」の一致、つまり「阿吽」の呼吸で立つ方法へ変化していった。これは、近代スポーツにおける判定の客観的合理化の流れとは逆行している。ここに、大相撲が純粋なスポーツに徹しきれない性格、すなわち大相撲の芸能性がある。
    この「阿吽」の呼吸で立つということは、互いの「合意」で立つということにほかならないが、それは、互いに呼吸を「合わせ」ながらも、なおかつ互いが自分の呼吸をぶつけあっていくことによってもたらされるものなのである。阿吽の呼吸とは、相手の呼吸であるとともに、自分の呼吸でもあるということだ。それゆえ、この立ち合いには、「同調」と「競争」という二律背反なるものが統合されている。両力士が「合わそう」とするだけの「調和」は深さをもたない。両力士が互いの呼吸のリズムをぶつけ合っていくことによって、互いの個性が出しきられたところで真の「合意」が成立する。それが究極の深さをもった「調和」である。大相撲における立ち合いは、この「同調」と「競争」という相反する二つの関係形式を一つの行動様式へと統合している文化としてとらえられるのである。
  • 力士の場合
    黄 順姫
    スポーツ社会学研究
    1996年 4 巻 23-33
    発行日: 1996/03/19
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は相撲の場合競技者の身体がおのおのの民族の有する身体文化と深く関わりながら, 特定の競技の固有性の中で創出された文化の規律化されたものであることを分析してきた。具体的には力士の身体を「受容としての身体」「表出としての身体」「メタファーとしての身体」という枠組みをもうけ考察を行った。その結果次のことが明らかになった。すなわち, 「受容としての身体」について, 第一に, 日本の力士は阿うんの呼吸を特徴とする日本の相撲競技の立ち合の仕方を規範として受容している。第二に, 力士は土俵を通じて自己完成を行う相撲道を身体化する。第三に, 力士の身体への裸身信仰は日本の民族の身体文化と深く関係づけられている。
    また,「文化の表出としての身体」について, 第一に力士の身体は彼が行った稽古の質, 量及び稽古への態度を表出する。第二に, 力士の身体における感情表出の仕方は相撲社会のなかで形成された相撲の文化を内面化していることを表す。第三に, 力士の身体の得意技, 型は彼の身体の特徴を反映し, 相撲に対する内面のあり方を表出する。
    さらに,「メタファーとしての身体」について, 第一に力士の身体は「個人の身体」と「社会的身体」との「交差点」に成立する日本文化の遊びのフォルムである。第二に, 力士の身体は「政治的身体」として国際間の象徴的地位をめぐる象徴的権力闘争の桔抗の構図を表象している。第三に力士の身体についてアメリカでは「脂肉」「巨大性」「パワー」「破壊力」の規範化されたイメージが創出, 消費されている。以上「メタファーとしての身体」から次の結論をみちびきだすことができる。すなわち, メタファーとしての力士の身体は相撲の特性に由来し, 相撲世界の固有の論理を越え, 国際政治・経済の関連のなかで象徴的権力の維持, 再生産のからくり人形として操作されているのである。
  • 中房 敏朗, 松井 良明, 鈴木 純子
    スポーツ史研究
    2002年 15 巻 101-127
    発行日: 2002/03/08
    公開日: 2017/03/18
    ジャーナル フリー
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