名古屋を起点とし中山道に至る木曽街道(楽田追分・土田宿間)の給水施設について調査した。宿場では井戸が利用されていたものの,峠越えでは,流量が乏しく,水質も良好とはいえない滲出水に頼っていた。滲出水を集めた細流は,石材で護岸され,石段沿いに水に接近する構造となっていた。流量や石段の規模からは,荷馬に給水する余裕はなく,人の利用のみを目的とした施設であったと思われる。木曽街道は善光寺街道との競合の結果,すでに江戸末期には衰退していたが,これには名古屋に至る両街道の距離や勾配だけの問題ではなく,往来する人馬への水の供給能力の差が関係している可能性がある。街道の衰退にもかかわらず,水場が保存されてきたのは,尾張藩管理時代の掃除丁場村々の制度だけではなく,地域の水場としても重要であり,藩管理が終了した以降も清掃や補修が継続されていたためと考えられる。
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