本研究では,大阪中之島公園の起源ともいえる山崎ノ鼻「公園地」に着目する.「この『公園地』は,豊國神社境内地造営と一体的に,大阪府によって計画・整備された門前の盛り場であった」という仮説を設定し,この仮説に関する3つの傍証,すなわち(1) 境内の隣接地に「公園地」が必要とされた理由,(2)両事業の主体・時期の重なり,(3) 開設直後の「公園地」施設とその利用実態,を示した.さらにこの「公園地」の制度上の位置づけや公園制度との関係についても考察した.「公園地」は公共の管理する盛り場であるという意味で最初期の公園と同じ場所であったが,近代土地制度上は道路施設の一部として位置づけられていたこと,西洋的公園観の広まりとともに「仮公園」との併存を経て,正式な公園に編入されたことを示した.
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