従来高砂族と称されていた台湾原住民族は、その生活基盤として、狩猟、採集的性格が強調されていた。しかし近年日本統治期資料の発掘により、その主たる生活手段は移動耕作によることが明らかになってきた。
原住民族の土地利用について1895年以前の統治者である清朝は「化外の民」としてその実態について感心を持たなかった。日本の台湾総督府は全島を統治する必要から「旧慣」を幅広く調査することとした。ここで官僚や大学構成員でない「冒険科学者」と呼ばれる一群が出現した。森丑之助や鹿野忠雄などの存在である。かれらは総督府の嘱託などとして原住民の居住する深山に長期踏査をおこなった。総督府直営の調査が出先の資料や通訳を介するものであるのに対し、彼らの調査は直接の聞き取りによるものであり、その価値は非常に高く、近年国際的にもその価値が認められるようになった。
彼らの耕作法は比較的回帰年の短い叢林休閑に属するものである。また日本やネパールの移動耕作とも共通する、ハンノキを耕作終了後に植栽し回帰年を短縮する技法も有している。原住民族は豊富なlocal knowledge により再生可能な森林の循環利用を行っていたのである。
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