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クエリ検索: "島本久恵"
8件中 1-8の結果を表示しています
  • 深谷 昌志
    教育社会学研究
    1969年 24 巻 62-76,en224
    発行日: 1969/10/10
    公開日: 2011/03/18
    ジャーナル フリー
    1. It is often argued that Japan was modernized by the spread of education. School functioned as an institution to select talented people irrespective of blood or social status. But higher education was not open to women as a general rule.
    2. The analysis that I made on the characteristics of women of high class, based on the “chronicle of women, ” shows that the ratio of housewives to working women was 94 fo 6 in 1908. This ratio changed to 82 to 18 in 1958, which indicates a marked increase in working women.
    3. That the names of the housewives in a high society are listed in the chronicle is due to the high social status of their husbands. Therefore, this status of women can be regarded as a latent one. Eighty-seven per cent of such women, however, were graduated from girls' high school. It is to be noted that high educational attainment was also considered important for women.
    4. In the Meiji Era, teachers and nurses were the two major occupational careers of women. Gradually, women became medical doctors, college professors, or Diet members. But there is still a difference in opportunities between sexes.
    5. With the advance of industrialization, it has become increasingly necessary to develop women's abilities. Conditions necessary for women to go out for work are becoming increasingly favorable. Therefore, it is expected that it will become usual for women to continue to work even after marriage. When this becomes a reality, it would be possible for women to have a real status, of their own.
  • 村上 民
    生活大学研究
    2020年 5 巻 1 号 22-35
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/06/13
    ジャーナル フリー
    本稿を含む3つの論考は、自由学園草創期(1921 年~1930年代前半)におけるキリスト教とそれに基づいた教育を、創立者羽仁もと子(旧姓松岡、1873–1957)・吉一(1880–1955)のキリスト教信仰との関係において検討することを目的とする。なかでも羽仁夫妻における「自由」と「独立」への関心に焦点をあてる。本稿では3つの論考に共通する問題意識を明らかにするとともに、最初の課題として松岡もと子、羽仁吉一の青年時代とキリスト教との出会いについて扱う。 羽仁もと子・吉一夫妻は、自身の信仰の事業として自由学園を設立した。その教育理念はキリスト教を土台としていたが、その最初期には直接的にキリスト教を標榜せず、当初は形の定まった礼拝も行われなかった。また、校名「自由」の意味をヨハネ伝との関係で定式的には語らなかった。羽仁夫妻は「自由」を自由学園の教育と宗教に深く関わるものとして、すなわち自由学園を名指すもの、決してとりさることのできないものとして堅持し、戦時下の校名変更の圧力に対してもこれに応じなかった。この「自由」は戦後もなお自由学園にとって問題(課題)でありつづけた。「自由」は自由学園の教育とキリスト教を考える上でキーワードとなるものだが、その含意は必ずしも自明ではない。 本稿を含む3つの論考では、「自由学園のキリスト教」を考えるために、まず自由学園の草創期(1921 年~1930 年代前半)を検討範囲とし、これを検討するために3 つの側面を取り上げる。 (1)松岡もと子、羽仁吉一の青年時代とキリスト教との出会い (2)羽仁もと子、吉一の出版事業とキリスト教との関わり (3)羽仁夫妻の「信仰の事業」としての自由学園創立とそのキリスト教
  • 黒岡 千佳子
    教育学研究
    1981年 48 巻 1 号 43-53
    発行日: 1981/03/30
    公開日: 2009/01/13
    ジャーナル フリー
  • 村上 民
    生活大学研究
    2020年 5 巻 1 号 36-60
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/06/13
    ジャーナル フリー
    松岡もと子(1873–1957)と羽仁吉一(1880–1955)は、それぞれの青年期にキリスト教と出会っていた。もと子は1897年頃、吉一は1900年に報知新聞に入社した。1901年に二人は結婚、退社し、1903年に内外出版協会からの家庭雑誌発行を請け負う形で雑誌『家庭之友』を刊行する。羽仁夫妻は「新しい」家庭建設の問題意識を直接に反映させた雑誌づくりを企図した。『家庭之友』には当時の羽仁夫妻の交友関係が色濃く反映しており、ユニテリアン、婦人矯風会の「母の会」などの先進的な取り組みや知見が多く取り入れられている。 羽仁夫妻は『家庭之友』編集の仕事のほかに、自分たちで『家庭女学講義』を刊行準備していたが、その最中の1906 年3月、夫妻は二女凉子を急性肺炎のために失う。夫妻は愛児の死に直面して信仰を深め、自らの人生における事業の目的を「天国を得るため」と言明するにいたる。彼らの信仰の深まりはその内面生活にとどまらず、この世界に生を受けた者が「何の為めに働く乎」を問い直し、「天国を得んとして」独立して生きる「行動」へと、夫妻をうながした。羽仁夫妻は内外出版協会やその他の仕事から退き、独立して、自宅を発行所として雑誌『婦人之友』を創刊する(1908年)。信仰と事業の拠点を自らの家庭に据えての再出発であった。 『婦人之友』編集および営業上の「大刷新」(1911年)を経て、羽仁夫妻の雑誌は徐々に発行部数を増やし、1913年に羽仁夫妻は社屋・自宅を雑司ヶ谷上り屋敷に新築する。ここを拠点に、婦人之友社は出版事業にとどまらない宗教的・文化的活動を展開した。そのひとつに、富士見町教会牧師の植村正久指導による「礼拝」があった。羽仁夫妻は出版を中心とする自らの事業について、「全事業が凡て基督の御名の尊崇められんがため」と捉え、植村正久はこの「礼拝」が将来的にキリスト教会へと発展することを願っていたという。 1919年頃、羽仁夫妻は植村に「自由学園設立の念願」を打ち明け、植村は驚きつつも二人の教育事業は彼らの伝道であると受けとめ、これを支援した。
  • 渡邊 澄子
    昭和文学研究
    1997年 34 巻 1-13
    発行日: 1997年
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー
  • 渥美 育子
    比較文学
    1972年 15 巻 63-92
    発行日: 1972/10/31
    公開日: 2017/07/31
    ジャーナル フリー
  • 与謝野晶子と平塚らいてうとの接点
    林 美帆
    生活大学研究
    2017年 3 巻 1 号 1-19
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/12/21
    ジャーナル フリー
    日本近代女性史の中で大きく取り上げられる、与謝野晶子と平塚らいてうが中心となって行われた大正期の母性保護論争は、女性が母となることで国家から金銭的援助を得ることの可否を問うものであった。羽仁もと子はこの論争に直接的には関わらず、どちらかの主張を指示する言説は発表していない。しかしながら、羽仁は家計簿をはじめとした家庭論や職業論など、独自の視点を『婦人之友』誌上で展開し、多くの女性の支持を集めていた。本稿では、与謝野と平塚の母性保護論争における主張を整理し、羽仁の家庭論および職業論と対比することで、同時代の女性がおかれている状況を明らかにする。その上、二人と羽仁との共通点および差異を考察し、羽仁が示した解決策の一つが「女性の組織化」であったことを論じる。
  • 深井 人詩, 石井 博幸, 目黒 聰子, 伊吹 啓, 秋山 恭子, 小笠原 玲子
    図書館学会年報
    1985年 31 巻 Supplement 号 S1-S56
    発行日: 1985年
    公開日: 2022/10/07
    ジャーナル フリー
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