本稿の目的は、水野康孝の生涯を声楽家ならびに音楽教員としての実績から検討することにより、岡山大学でのオペラ公演の立ち上げの背景を明らかにすることである。具体的には第一に岡山大学でのオペラ公演の実態を概観する。 第二に水野の生涯に関して声楽家と音楽教員の側面から考察し、日本語のオペラ公演に至った背景を追求する。岡山大学教育学部では、新制大学最初の卒業生を輩出した 1953(昭和 28)年、演奏会形式で歌劇「ファウスト」の発表を行い、 1955(昭和 30)年には歌劇「魔弾の射手」を本格的なオペラで発表した。水野のオペラに対する情熱を高揚させた要因としては、1949(昭和 24)年、柴田睦陸らの尽力により、東京芸術大学に「オペラ研究部」が創設されたり、朝比奈隆と野口幸助らが中心となり、「関西オペラグループ」(1954 年、関西歌劇団と改称)が結成されたりといった動向があった。 また、彼らと戦前からのつながりがあったため、水野は楽譜やオペラに関する情報ををはじめとして、岡山大学のオペラ公演に向けての支援を得ることができた。
抄録全体を表示