弥生時代中期,わが国に漢式鏡が舶載されはじめる。舶載鏡の大半は異体字銘帯鏡と呼ばれる前漢後期の鏡である。この鏡は北部九州の限られた甕棺墓から大量に発見されることもある。卓越した副葬鏡をもつ甕棺墓の被葬者は地域を統率した王と考えられている。しかし,その根拠となる副葬鏡の製作・流通時期や価値観については詳細に評価が定まっていない。また,大陸の前漢式鏡中に位置づけた研究も深化していない。
著者は,これまでに中国・日本で発見された700面以上の異体字銘帯鏡を再検討し,外縁形態と書体をそれぞれ3区分し,その組み合わせで都合7型式を設定,編年を試みた。あわせて,各型式における鏡の価値観の違いを格付けし,もっとも上位に位置づけられる大型鏡は前漢帝国の王侯・太守階級の墳墓から発見される特別なものであることを確認した。
大陸での異体字銘帯鏡の様相にもとづき,わが国発見の異体字銘帯鏡を概観した結果,今から約2000年前にあたる紀元前後(弥生時代中期末~後期初頭)に,型式と分布の画期をもとめることができた。その意義について,中期に発展した玄界灘沿岸の勢力が後期になって斜陽となり,西日本各地に新勢力が萌芽する様相がうつしだされたものと考えた。
抄録全体を表示