本稿は、1892(明治25)年から刊行された『大日本窯業協会雑誌』第1号から336号に掲載された344葉の意匠標本と図案考案者の推移を検証することを通じて、明治中期から大正期にかけての陶磁器デザインの変遷を概観することを目的としている。その結果、意匠標本の傾向は、パリ万博前後で明かな違いがみられた。創刊期からパリ万博開催までは、古典からの引用や模倣、紋様が中心となり、日本古来の美術を誇示しようとした明治前期の美術行政の流れを汲んでいた。パリ万博以降は、当初アール・ヌーヴォーの模倣が集中するが、懸賞図案公募展が盛んになり入賞作が多数掲載されるに従い、農展式(マルホフ式)に移行していく。また、意匠標本終了まで定期的に掲載されたマジョリ力考案図は、世界市場を視野に入れた製品開発の試みであり、東京工業学校における窯業技術者と図案考案者が連携して取り組んだ、日本独自の陶磁器素材とデザイン開発の足跡であった。また、第25集以降には、深川製磁株式会社図案部から寄稿がみられ、民営会社にデザイン部の原形が組織され、デザイン改善が取り組まれはじめていたことがわかった。
抄録全体を表示