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クエリ検索: "日本映画・テレビ録音協会"
1件中 1-1の結果を表示しています
  • 長谷 憲一郎
    映像学
    2024年 112 巻 81-102
    発行日: 2024/08/25
    公開日: 2024/09/25
    ジャーナル フリー

    1930年代前後の日本映画のトーキー移行期に、映画製作だけでなく、技術や産業、文化、芸術などあらゆる分野で、相当な混乱がもたらされた。そんななかで松竹製作の五所平之助監督『マダムと女房』(1931年)が、日本映画において初めて〈本格的トーキー〉として高い評価を受けたことは広く知られている。一方、日活は松竹に先んじてトーキーに着手したのにも拘らず、イーストフォン、ミナトーキー、P・C・L式のトーキーシステムを経て、ウェスタンエレクトリック式で3作目、実にトーキー19作目となる伊藤大輔監督『丹下左膳 第一篇』(1933年)まで、トーキーとして高い評価を得ることができず、松竹の後塵を拝す形となった。

    日活は、トーキーを製作し始めた1929年から、P・C・L式でトーキーを製作した1932年まで、16作品中15作品をアフレコ(後時録音)したが、そのほとんどは「未熟なトーキー」と烙印を押される結果となった。日活は、なぜトーキーの基本である同時録音ではなく、アフレコを採用し、結果的にうまくいかなかったのか。これにはアフレコを選択せざるを得ないトーキー移行期特有の事情があった。本稿は、トーキー初期に日活が主にアフレコでトーキーを製作した点に光を当て、技術的な見地から検証し、日本映画史における意義を明らかにする。

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