詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "月はどっちに出ている"
8件中 1-8の結果を表示しています
  • 高いハードルは低くして
    木下 礼子
    地図
    2007年 45 巻 Supplement 号 30-31
    発行日: 2007/07/31
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
  • 鄭 惠先
    社会言語科学
    2001年 4 巻 1 号 58-67
    発行日: 2001/09/30
    公開日: 2017/04/27
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は,複数を表す接尾辞「たち」と「ら」の選択の条件を明らかにすることにある.方法としては,映画シナリオを資料とし,その中から「人称代名詞+たち」と「人称代名詞+ら」の形式を取りだして,使用実態を考察した.選択条件としては,話し手の属性による観点から「地域差」と「性差」,発話内容による観点から「聞き手包含・非包含」という項目を立てた.すなわち,地域が関東か関西か,話し手が男性か女性か,また,自称複数に聞き手を含むか含まないかを調べ,「たち」と「ら」の使用率を比較した.分析の結果,「たち」と「ら」の使用上の選択条件として,以下のことが検証された.(1)関西では関東に比べ,「ら」の使用率が高い.(2)関東では,男性が女性に比べ,「ら」の使用率が高い.(3)関東では,自称複数に聞き手を含まない文が聞き手を含む文に比べ,「ら」の使用率が高い.
  • 梁井 久江
    日本語の研究
    2009年 5 巻 1 号 15-30
    発行日: 2009/01/01
    公開日: 2017/07/28
    ジャーナル フリー
    動詞テ形+シマウに由来する「テシマウ相当形式」(〜テシマウ、〜チマウ、〜チャウ等)は、現代共通語において、広義の「完了」というアスペクト的な意味を表すと同時に、話者の感情・評価的な意味を表す。本稿では、前者の意味機能から後者の意味機能へ拡張してきたことを明らかにした。その主な結果は次の3点である。(1)辞書の記述によれば、本動詞としての「シマウ」の初出は鎌倉期と推定され、江戸期には<終了><収納>等を意味していた。(2)当該形式は、典型的な運動動詞(限界動詞/非限界動詞)に後接し、事態の終了限界の達成を表していたが、内的情態動詞、静態動詞の順に使用領域を拡大しながら意味的に抽象化し、事態の限界達成を表す標識へと変化した。(3)マイナスの感情・評価的意味は、話者が動作主と一致しない場合に依存する形で生じていたが、テシマウ相当形式の語彙的意味に焼き付けられて、それ以外の場合にも生じるようになっていった。こうした方向での拡張は、文法化の過程でよく見られる主観化(subjectification)の方向に沿うものであると考えられる。
  • 小張 順弘
    アジア英語研究
    2021年 23 巻 4-
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/10/10
    ジャーナル オープンアクセス
  • 具 珉婀
    映像学
    2025年 113 巻 46-67
    発行日: 2025/02/25
    公開日: 2025/03/25
    ジャーナル フリー

    韓国において在日朝鮮人は同じ民族でありながらも本国の人々とは一線を画す存在として認識されてきた。新聞、漫画、映画などのメディアに表れた在日朝鮮人のステレオタイプはこのことをよく示している。ところがそもそも在日朝鮮人がこのように宙ぶらりんの状態を強いられ、「表象の重荷」を負わされてきたのはなぜだろうか。その答えを探るべく、本稿では在日朝鮮人が映画に登場するまでの空白の期間中に量産された朝鮮戦争映画に見られる変化を調査し、その上で在日朝鮮人が登場する最初期の作品『望郷』(金洙容、1966年)を分析する。

    1960年代の戦争映画は「国連軍の不可視化」、「死の国民化」を通して朝鮮戦争の記憶を国民国家の起源に関する神話に変換することで、休戦ラインを国境とする限られたものとしての国民を想像させた。在日朝鮮人は朝鮮半島が排他的な国境線によって区切られ、分断体制が固着化するなかで韓国映画に登場した。北朝鮮帰国事業を題材として取り上げた『望郷』には在日朝鮮人が国境を越える越境的な存在として登場する。ところが反共のフィルターがかかり、コロニアルからポストコロニアルへの歴史性が捨象されることで、在日朝鮮人は敵としての北朝鮮を前景化する過剰冷戦の論理に取り込まれる。以上の分析を通して、韓国映画における在日朝鮮人の表象に植民地期から朝鮮戦争後に至る韓国の近現代史の桎梏が集約されていることを明らかにする。

  • 沈 念
    映像学
    2020年 103 巻 113-133
    発行日: 2020/01/25
    公開日: 2020/02/25
    ジャーナル フリー

    本論はポストコロニアル理論を踏まえ、小栗康平の『伽倻子のために』翻案をめぐる従来の言説を分析し、これまで酷評されてきたこの作品における「美化」の問題が、実は欠点ではなく、あえて新しい表現を試みている証しであることを主張する。

    第1節では、従来の日本映画における在日朝鮮人に対する美化は、日本人/在日朝鮮人という二項対立を強調し、在日朝鮮人の受ける差別を批判しながら、在日朝鮮人のイメージを一般化している現象を考察する。さらに、このような傾向を風刺する大島渚の3作を例として、二項の概念を抹消しようとしても、自らの優位に立つ日本人としての立場を認識しなければ、本質的に二項対立を打破できないと指摘する。

    それに対して、『伽倻子のために』の美化はそれほど単純なものではないと主張する。映画は原作におけるハイブリディティの人物設定を敷衍し、男女主人公の人物像と人物関係を美化することによって、「不純な」二人の恋が持つ象徴的な意味を増幅し、従来の二項対立に対抗していると、第2節では論証する。

    そして第3節で、李恢成の文学世界を翻案する手法は、本作の主人公相俊を李恢成の他作における人物たちと緩やかな結びでつなげていることを考察する。この緩やかな結びは在日朝鮮人全体を少数の在日朝鮮人で代表するような表象を回避していると主張する。

    最後に、『伽倻子のために』における子供時代の挿入シーンを分析し、これは在日朝鮮人を代弁するのではなく、彼らに語らせる手法であると、第4節で論証する。さらに、この手法は内部と外部の異質を受け入れ、その共存をはかる試みともいえると結論づける。

  • ―映像記録にみる連帯のかたちと労働者福祉・共済活動への示唆―
    佐藤 洋, 河西 宏祐
    全労済協会公募委託調査研究報告書
    2017年 69 巻 1-49
    発行日: 2017年
    公開日: 2025/06/11
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 篠田 徹
    全労済協会公募委託調査研究報告書
    2016年 46 巻 1-168
    発行日: 2016年
    公開日: 2025/05/31
    研究報告書・技術報告書 フリー
feedback
Top