民族研究所は, 戦時中の短い期間に存続した。そこの研究員は, 戦後に活躍する民族学者が数多く在籍していた。しかし, 「戦争協力をした研究所」との批判があり, その実態は明らかにされていない。民族研究所は, 終戦とともに廃庁となったため, 残された資料は完全でない。そこで, 公文書と関係者の聞き取りから, 民族研究所の設立経緯と活動内容を調べ, ウィーンに留学していた岡正雄の民族研究所設立の構想, その人脈に加え, 日本の民族学者を組織していた古野清人の協力で, 民族研究所が設立された経緯を明らかにできた。民族研究所の設立目的は, 日本軍の占領地を現地調査することにより, 現地の異民族工作のための基礎資料を集めることであった。しかし実際には, 直接的な民族政策への参与はなく, 現地調査や文献研究により, 学術的に水準の高い研究が生まれた。特に, 岡正雄がウィーン学派への疑問から, イギリス的社会人類学へ問題関心を転換しており, フィールドワークによる異文化研究を, 民族研究所で実現したいと考えていた。戦後の日本民族学会をリードするメンバーは, 戦後になってヨーロッパやアメリカの人類学を受容したのではなく, 戦時中に設立された民族研究所の時代には, すでに海外の研究動向に目を配りつつ, 占領地や植民地のフィールドワークにより, 戦後に連続する研究を始めている。その一方で, 国策機関としての民族研究所が運営されたため, 研究所の蔵書の一部が, 占領地の略奪図書を中心に集められていたことなども明らかになった。中国には「飲水想源」(水を飲むとき, 源を想う)という諺がある。日本民族学のルーツを直視して, 負の遺産も含めた歴史を記憶する作業は, 民族学の現在を考える上で意義があるのではないだろうか。
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