大正8 (1919) 年8月, 朝鮮における3.1運動を契機として, 朝鮮及び台湾総督府の官制改正では, 武官総督から文官総督の就任が認められた。この斉藤実朝鮮総督及び田健治郎台湾総督による文治政策の実施は, 本格的な植民地経営を始める前にして現地語の新聞, 雑誌が発行を許可されたのである。しかし, 本国の大正デモクラシーを反映しつつ, 急速に高まった民族的な言論は, 京城及び台北における公園の存在にも批判的な論説を登場させて来た。この言論に対する京城府及び台北州の公園行政は, 現実的な転換を余儀なくされ, 朝鮮人及び台湾人を無視した状況の中で植民地における公園が都市の一面を特徴づけて行ったのである。
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