本研究では、地名を固有名と見なすわれわれの感性が何に由来するのかを哲学的に考察する。大平(2002)によれば、地名は一般名同様あくまで現実世界のカテゴリー化に関わるものであり、「地名が単一の場所を指示するという意味で固有名である」(命題1)、という認識は否定される。本研究はこの主張を基本的に承認した上で、「地名が固有名である」ということの根拠を、命題1とは別の考えに求める。大平がカテゴリー化という概念を用いて地名の持つ一般名的な性格を明らかにした以上、本稿で求められるべきはカテゴリー化されえないものと関わる概念であろう。そこで、「私/世界の
独在性
」から地名の固有名的な性格を説明する議論の提示を試みることにしたい。
私はこの世界にただ一人しかいない。これはごく当前の言明に見えて、実は「そのように主張できる主体が、この世界には無数にいる」という相反する事実に常につきまとわれている。だが、たとえ「私」を名乗ることができる者が複数いることが事実だとしても、そうした複数の「私」は所詮、「この私」の世界に現れる登場人物にすぎず、そうした登場人物と「この私」の存在のありさまは、まるっきり異なっている。この水準においては、「この私」がそのまま「世界」を開く視点や原点そのものである。つまり、「『この私』が世界内の一存在者であるにとどまらず『世界』を開くただ一つの視点でもあるという点にこそ、『この私』の特異性がある」(命題2)。
独在性
とは、「私/世界」のこうした特異な存在の仕方を表現したものである。
ここでの「この私」は、世界内で特定の動作の主体となるような存在者ではない。たとえば、今私は山下達郎の歌声を耳にしながら、ドーナツを頬張り、この文章を書いている。だがこれは、「山下達郎の…」、「ドーナツを…」、「この文章を…」などの事態が偶然「今」「ここ」という同じ位置で生じている、ということにすぎない。「この私」というのは、あえて言えばその「同じ位置」に与えられた名前であり、西田幾多郎の言葉を借りるならば、それは「(絶対無としての)場所」とも一致する(永井2006: 18-19)。さらに「ここ」は世界を開く原点であると同時に「世界」そのものでもあり、世界を開く原点と世界の区別もこの水準では生じていない。つまり、「
独在性
を帯びた存在としての『この私』は、世界を開く原点としての『ここ』、あるいは開かれた『世界』そのものとも未分化であり、一致している」(命題3)。
さて、大平(2002: 133)は、「地名が固有名として、つまりあたかも固有の対象に直接対応する名辞であるかのように理解されることも、それぞれの地名が認知地図上に特定の位置を占めることが理由であるように思われる」と述べている。しかし、「都島」と「北緯34度42分31秒、東経135度31分32秒」はともに認知地図上の同じ位置を占めるにもかかわらず、われわれはおそらく前者のみを地名であり固有名と見なすだろう。この違いはなぜ生じるのだろうか。
今都島にいる人物が「都島に行こう」と言ったならば、われわれは「その人は都島がどこなのか分かっていない」と考えるだろう。「都島」という語を適切に使うには、使用者自身にとっての「この私」が存在する「ここ」(つまり「この私」と区別しえないような「ここ」)がその「都島」にあたるかどうかが理解できている必要がある。これに対して、経緯度を用いた表現は、そのような意味での「ここ」がその場所か否かの判断が語の使用上問題となる状況が日常的にほとんど存在しないし、そのことでこうした表現の使用に大きな問題が生じることもない。このことから、「『A』が『この私』と一致するような『ここ』に対して与えられた名前であるとき、『A』は空間内の位置を示す名辞であるとともに、固有名的な性格を帯びることになる」(命題4)と結論づけることができる。この「ここ」とは、認知された空間や認知地図の中に書き込まれる点ではなく、空間の認知そのものがそこから開ける点に他ならない。こうした特異な点「ここ」との関係において特定された位置の名前が、固有名としての地名の資格を充たすと考えられる。
大平晃久 2002.カテゴリー化の能力と地名.地理学評論75: 121-138.
永井均 2006.『西田幾多郎―<絶対無>とは何か』NHK出版
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