1研究の目的
田中啓
爾(1885-1975)は,第二次世界大戦前,東京高等師範学校と東京文理科大学において教授をつとめ,かつ長く文検の出題委員であったことなどから,わが国の戦前における地理教育界に大きな影響力をもった人物の一人であった。田中以前にも戦前の中学校地理教育において影響力をもった山崎直方,小川琢治,石橋五郎たちと比べても、最も長く存命し,戦前から戦後にかけて多くの地理科教科書,社会科地理教科書,地図帳等の著作に携わり影響力を持ち続けた。
ところが、これまでの先行研究では,田中がその地理教育思想を具現化したと思われる地理科教科書についての検討や,田中の地理教育観そのものを取り上げた研究はほとんどみられないのが実情であり,教科書を客観的研究資料として用いているものはほとんどない。そこで本研究では,田中の地理科教科書の分析検討を通して,田中の地理教育観の一端を叙述することが目的である。
2 田中の地理教育論文と地理教科書
(1)地理教育論文
田中の地理教育に関する論文の傾向は,第1に,1925年「汽車旅行指導の一例」,1927年「読図(Map Reading)に就いて」, 1929年「外国地誌教授の順序に就きて」1933年「地理科特別教室に就いて」のような教育指導上における具体的な論文が目につく。このことは,先述した山崎,石橋,小川たちにはみられない傾向である。
第2に,田中の地理教育についての論文における大きな柱は,グラフ・地図(分布図)をはじめとする直観教材の適切な使用,記述方針としての地人相関的記述と歴史的な説明,地理区の究明の重視にある。
(2)地理教科書
田中の教科書の例言では,1920年代,1930年代をとおして、直観教材,知識の羅列忌避,地人相関的記述,歴史的説明,個別から全体へとなされる帰納的説明,初等教育との連携をもつこと,配列に対する配慮,地理区等について重視されており,それは時代を経てもそれほどの変化はない。1930年代後半からは国民精神の涵養が加えられてくる。
こうした田中の主張は、教科書と教育論文の両方でみることができ、田中の地理教育論文での考えは,大筋において地理科教科書によく反映されているといえる。
3
田中啓
爾の地理教育観と出自
田中の場合は目標論といった大きなことを論じることはなく,より具体的な形で授業に対しての知見を提示した。田中が、教育現場にいる教師たちの視点に立っていたことが反映されたと考えられる。
田中は,1907年福岡県師範学校を卒業し,1912年東京高等師範学校本科地理歴史部を卒業,長崎県師範学校教諭となった。1915年東京高等師範学校付属中学校(後の東京教育大学付属中学・高校)講師をへて,1916年東京高等師範学校助教諭となった。1920年東京高等師範学校教諭となった後, 2年間留学後に,東京高等師範学校教授となった人物である。
本研究で取り上げた他の人物とは異なり,山崎と同じ東京高等師範学校の教授であったとしても,師範学校や中学校の教諭経験をもち,現場からの視点を失わなかったところに田中の特長があるといえる。例えば,各地の中学教員を対象として講演して回るなどの活動が多かったことも田中の特長が反映されたものといえる。大学からの系譜と現場からの系譜が収斂したところに田中は位置していたと考えられる。
抄録全体を表示