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クエリ検索: "田川亮三"
7件中 1-7の結果を表示しています
  • 1967年 5月25日国会「自閉症」初出議事録より
    植木 是
    遡航
    2023年 2023 巻 6 号 147-178
    発行日: 2023/02/28
    公開日: 2023/06/10
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿の目的は 1960 年代にどのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのかその発端を明らかにすることである。ウェブサイト「国会議事録検索システム」から得られた「保存発掘資料一覧」の一部を参照する。日本で初めて国会で「自閉症」ということばが登場したのは「1967年 5 月 25 日 55 回衆議院会議録文教委員会 36 号」である。〈重症児施設の分類処遇〉をめぐる質疑応答のなかであった。発言者の属性をみていくと、当時自閉症に対応し得る日本唯一の専門施設とされた、あすなろ学園のある三重県へ出向していた中央官僚や地方行政官幹部と、中央官 庁・国政(厚生省官僚、国会・与党自民党衆議院議員)を媒介する役割を担った田川一族の存在が浮き彫りになってくる。つぎに国会に「自閉症」が登場するのは 13 日後「1967 年 6 月 7 日55 回衆議院会議録社会労働委員会 17 号」のことである。6 月 7 日の国会では、野党社会党議員(三重県と国政では労組の連続性があった)が厚生大臣及び厚生官僚に対して、三重県あすなろ学園と日本の自閉症問題とその対処をめぐる質疑応答を、親の会設立の紹介なども交えて具体的に展開する。いずれにせよ、1967 年 5 月 25 日のそれは国政の場で初めて具体的に自閉症問 題を論じるきっかけをつくった発言として大きな意義があったといえる。
  • 農業機械学会誌
    1949年 11 巻 4 号 152-153
    発行日: 1950/12/28
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 農業機械学会誌
    1952年 13 巻 1-2 号 63-66
    発行日: 1952年
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 西川 俊幸
    水利科学
    1970年 14 巻 3 号 44-59
    発行日: 1970/08/01
    公開日: 2020/09/24
    ジャーナル フリー
  • 吉井 美知子
    平和研究
    2021年 57 巻 81-107
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/01/31
    ジャーナル フリー

    フランスと日本はともに世界屈指の原発推進国であるが、すべての建設計画が実現したわけではない。本研究では市民の大規模な反対運動によって計画が撤回された仏プロゴフと三重県芦浜を事例に、運動のなかで女性の果たした役割について考察する。

    プロゴフは仏西部ブルターニュ半島の先端近くに位置する。ここで1970年代後半に持ち上がった大規模な原発計画を、地元の村落女性を中心に始まった運動で封じ込めた。男性は遠洋航海の仕事で長期に不在、留守番の女性たちは夜ごとに道路をバリケード封鎖したり、終日村の広場に座り込んだりと、粘り強く運動に取り組んだ。

    芦浜は三重県南部の海岸で、1980年代から二度目の原発計画が持ち上がる。1994年、計画容認決議を取らせまいと、漁家の女性たちが夜を徹して古和浦漁協前の最前列に座り込み、計画阻止に大きく貢献した。地域の分断にも長期に耐えた。

    プロゴフ女性は、女性だからできた、毎日毎夜の活動は男性には忍耐力がなくて無理だと証言する。古和浦女性は、男性は世間体や面子を優先するが、女性は子孫に海を引き継ぐことを考えたと述べる。

    両事例は1970年代のフランスや1990年代の日本で、社会的地位の低かった女性が、しがらみのなさを逆手に取って、家族に海を残そうと闘った成果である。女性の地位が向上した現在、今後は女性が権力を持つ側に回り、原発をなくす方向に社会を動かしていくことに期待したい。

  • -現状維持点(Status Quo)からの変化に注目して
    砂原 庸介
    年報行政研究
    2006年 2006 巻 41 号 154-172
    発行日: 2006/05/15
    公開日: 2012/09/24
    ジャーナル フリー
  • 1967 年 6 月 7 日国会「『自閉症』に関する 2 回目の質疑」と当時日本唯一とされた自閉症施設「あすなろ学園」
    植木 是
    遡航
    2023年 2023 巻 7 号 63-87
    発行日: 2023/04/30
    公開日: 2023/06/10
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿では本誌前号掲載の拙稿に引き続き 1960 年代にどのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのか、その発端について、とりわけ 2 回目の国会議論を明らかにしていくことを目的とする。自閉症が 2 回目に国会に登場したのは、1 回目の「1967 年 5 月 25 日 55 回衆議院会議録文教委員会 36 号」から 13 日後、「1967 年 6 月 7 日 55 回衆議院会議録社会労働委員会 17 号」のことである。6 月 7 日の国会では、当時野党だった社会党議員島本虎三が、厚生大臣及び厚生官僚に対して、日本の自閉症問題とその対処を巡る質疑応答を、三重県立高茶屋病院内の三重県あすなろ学園や親の会設立の紹介なども交えて具体的に展開する。島本の地元・北海道と三重県には、親の会、施設要職、政治家などのつながりがあったことから、島本があすなろ学園の職員や入所児童の親たちからの陳情を受けた可能性はあり、国会答弁に先立って、国に自閉症への対処を急ぐよう働きかけていたという推測もできる。国政の場で自閉症児とその家族の問題が具体的に取り上げられたこと――全国から自閉症児とその家族が集まって来たあすなろ学園の親の会と職員、支援者たちが抱える問題を知らせた――をきっかけとして、その後、自閉症問題は地方の一公立病院が抱える患者の院内処遇問題ではなく全国規模の社会問題として捉えられはじめる。つまりこの質疑応答は、それまで制度の狭間にあった自閉症とその周辺の障害を支援対象とする制度の具体化、施策実現に向けてのきっかけをつくったものとして大きな意義があるといえる。
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